ジョン・レノン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/10 06:51 UTC 版)
生涯
ビートルズデビュー以前
幼年期
1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリヴァプールで誕生。出生時、アイルランド系の父のアルフレッド・フレディ・レノン(1912年 - 1976年)は労働者階級で商船の乗組員[8]として航海中で不在。イングランド人である母のジュリア・スタンリーも他の男性と同棲していたため、母親の長姉で「ミミ伯母」と呼ばれた中流階級であるメアリー(1903年 - 1991年)夫婦に育てられる。ファーストネーム(ジョン)は、父方の祖父のジョン・ジャック・レノン[9]、さらにミドルネーム(ウィンストン)は、当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルにちなむ[9]。また、スコットランド人の血も引いている[10]。

ジョン・レノンは、伯母夫妻が中流家庭であった[11]。ビートルズの他の3人のメンバーは労働者階級出身である。1946年、父が帰国し、そのまま父に引き取られて数週間一緒に暮らしたが母がジョンを連れ戻す。しかし母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫妻に育てられる。その一方、父は家出して、行方知らずとなった。
少年時代
ジョンは1952年9月、グラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。父親代わりだったミミの夫・ジョージ(1903年 - 1955年)が1955年に死去した。
ジョン・レノンのティーンエイジャー時代のイギリスでは、ロニー・ドネガンの「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットとなり、スキッフル・ブームが起きた[12]。さらにジョンは1956年、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受け、初めてのギターとなるギャロトーン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入した。このころ、ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、ジョンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。
1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール」[注釈 5]を作曲。当時からギター、ヴォーカルを担当していた。
ポール、ジョージとの出会い
3月、クオリー・バンク校で、級友たちとスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。ジョン以外のメンバーは固定されないまま活動を続けていた7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行ったクオリーメンのコンサートで共通の友人たるアイヴァン・ボーンにポール・マッカートニーを紹介される[注釈 6]。10月18日にポールはクオリーメンに加入した。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセントなどアメリカのロックンロールに夢中になった。またジョンは、自分が大きな影響を受けた一人として、ルー・クリスティをあげている[13]。1958年2月、ポールにジョージ・ハリスンを紹介される。まもなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。
母の死
1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはねて死亡させる事件が起こった[注釈 7]。母・ジュリアの死はジョンに大きく影響し、すでに(1956年、14歳のとき)母を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。
1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいで美術専門学校であるリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになった。
ハンブルク時代
このころからリヴァプールだけでなく、西ドイツのハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。このころ、ジョンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー・325を購入。1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。なお、ボブ・ディランがビートルズにドラッグを教えたという俗説は誤りであり、メンバーはハンブルク時代からドラッグ、女性、ロックンロール、アルコールを楽しんでいた[14]。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」や「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と名乗るようになり8月「ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。
1961年4月、スチュアートはハンブルクにて脱退し、画家を目指した。ジョンは、すぐにポールを説得してベーシストに転向させた。[注釈 8]またジョンはこのとき、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人とハンブルクに残るがまもなく21歳で脳出血のため死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」などの曲を録音した。
ビートルズ時代
ブライアン・エプスタインとの出会い
1961年12月、ジョンたちは「マイ・ボニー」を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び[15]、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。1962年元日に、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格。6月に、パーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月16日にピートを解雇した。以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーであるリンゴ・スターが8月18日に加入した。10月5日、「ビートルズ」としてレコード・デビューを果たした。
最初の結婚
シンシア・パウエルと1962年8月23日に結婚[15]。しかしシンシアの存在は、数年間隠されていた[16]。

長男・ジュリアン・レノンが1963年4月8日に誕生。しかし、両親と生活したことがないジョンは、ジュリアンにどう接していいかわからなかった。「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方がわからないんだ』とジョンに質問された」とポールは述べている。ジュリアンものちに「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。そのころの僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と述べている。ヒッピー文化に影響されたジョンとビートルズのメンバーは、ドノヴァン、マイク・ラヴ、ミア・ファロー、ジェーン・アッシャー、パティ・ボイド、シンシア・レノンらとインドへ行っている[17]。
キリスト発言
1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーブとのインタビューでジョンは次のような発言をした[18]。
- 「キリスト教は逝っちゃうだろうね。議論の余地はないね。僕は正しいし、僕が正しい事は証明されるさ。今やビートルズはイエスより人気がある。ロックン・ロールとキリスト教、どちらが先に逝っちゃうかはわからないけどね。イエスはまぁイケてたんじゃない?けど弟子たちはバカで凡人だった。僕に言わせれば、ヤツらがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたのさ。」
この発言はイギリスではほとんど問題にならなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、キリスト教右派が信奉されるアメリカ南部や中西部の保守的宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、ビートルズのレコードやグッズが燃やされた。スペインおよびヴァチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行いヴァチカンも彼の謝罪を受容した。
- 「もし"テレビがイエスより人気がある" と言ったなら何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔してるよ。神を否定していないし、反キリストでもなければ、反教会でもない。イエスを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。ただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。ビートルズがイエスより良くて偉大だとは言ってないし、イエスを人として僕らと比べたりもしてない。言ったことは間違ってたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今に至る、ってことさ。」
「たまたま友人と話をしていて、“ビートルズ”という言葉を自分とはかけ離れた存在として使っただけなんだ。“今のビートルズは何にもまして大きな影響を若者や状況に与えている、あのキリストよりも”って言ったんだ。そう言ったことが間違って解釈された。」
ジョンとヨーコ:ベトナム反戦運動
1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止したあと、ジョンは映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』に出演した。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリーで、彼はのちに2人目の妻となる小野洋子に出会う。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたこともあり、ジョンは日本や東洋文化に興味を持ち、禅や空の概念に強い好奇心を寄せていた。これを色濃く反映させた小野洋子のアートに強い興味を示した。洋子の個展に出かけたジョンが見た彼女の現代アート作品に、白い部屋の真ん中に天井まで届くハシゴが置いてあって、天井から虫眼鏡がぶら下がっているものがある。白い天井には裸眼では見えないほど小さな文字で何かが書いてあり、虫眼鏡を使って見ると、YESとだけ書かれている。Noとかの否定的な言葉でも、何かを罵る言葉でもなく、乱暴な言葉でもなく、肯定的で短いYESだったことに衝撃を受けた、と、ジョンがそれをいたく気に入ったという逸話は有名である。ジョンは、「Noとかの否定的な言葉だったら気に入らなかった。」と後に語っている。
2人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間に小野洋子の個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは、1968年2〜4月のインドでの修行中も、小野洋子と文通していた。5月、小野洋子への思慕を募らせたジョンは、シンシアに旅行に行くように言って、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアとは7月に離婚申請、11月8日に離婚が成立した。
1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。
結婚後まもなく、ジョンは「ミドルネームのWinstonをOnoに変更したい」と申請したが、変更は認められなかった。パスポート・グリーンカードなど公文書にはJohn Winston Ono Lennonという表記のままだった。
彼らは多くのマスコミから奇妙なカップルとして格好の餌食にされる一方、反戦運動における重要人物ともみなされるようになった。また、左翼団体の国際マルクス主義グループと関係を持っていたことからFBIの監視対象にもなっていた[19]。1969年以降は、ジョンはヨーコとともにプラスチック・オノ・バンドとしての活動やベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスのベトナム戦争支持を受け、大英帝国勲章を返上。「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」(ともに1969年)などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や 「War Is Over (If You Want it)」(1971年)の街頭広告を行った。
ジョンの本格的なソロ活動前に、2人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』『ウェディング・アルバム』の3作のアルバムを発表した。また、ジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心』(1970年)、『フライ』(1971年)、『無限の大宇宙』(1972年)、『空間の感触』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。
2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)が発表された。
ビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始。1969年から1976年までプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)の名義で作品を発売。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。初期はベースにビートルズ・デビュー以前からの知り合いであるクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイトまたはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。
1969年、シングル『平和を我等に』『コールド・ターキー』を、12月にはトロントで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、エリック・クラプトン、アラン・ホワイトが参加しており、その模様の映像はDVD『スウィート・トロント』に収録されている。
ビートルズ解散後
1970年代
ビートルズ存続中の1970年2月に、メンバーのジョージ・ハリスンも参加した『インスタント・カーマ』を発表、『レット・イット・ビー』とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し、米英でトップ5ヒットとなり、ゴールドディスクを獲得した。
1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散した後、アメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法を受けた。約半年後、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター(ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を制作し発表した(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表された。
1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始した(発表は10月)。ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、キング・カーティス(サキソフォーン)らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで暮らし始めた。ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動(公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型)に積極的に参加した。ジョンはルービン、ホフマン、シールらのイメージが、自分のイメージと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済コンサートへの出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善コンサート(ともに1971年12月)なども行った。ジョンは、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。大統領リチャード・ニクソンはロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。ニクソン時代のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーとFBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[20]。このような理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続きをとり続けた[注釈 9]。
1971年6月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。この様子は、動画サイトに残っている。1972年2月に、テレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」に出演、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共演した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。6月発表の次作「サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ」は(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックを務めた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争、アメリカ合衆国のグリーンカードについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするリチャード・ニクソンと毛沢東の合成写真が使われた。1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーとともに、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほか、ビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサートのもようは「ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ」として1986年に発表された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。

1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。また、リンゴのソロ・アルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト」を提供。ジョージ、リンゴと共演した。11月、アルバム『マインド・ゲームス』を発表した。その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、ジョンとヨーコの個人秘書で、愛人となったメイ・パンとともにロサンゼルスのマンションで同棲生活を始め[21]、いわゆる「失われた週末("Lost Weekend")」をリンゴやハリー・ニルソン、ザ・フーのキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。
1974年3月からはハリー・ニルソンの「プシー・キャッツ」をプロデュースした。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』を発表した。このアルバムは、ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、「イマジン」以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、この中で「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演した。ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作した。このアルバムからは11月に「真夜中を突っ走れ」(全米1位)、「夢の夢」(同9位)がそれぞれシングルカットされた。
同時期、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」で共演した。コンサート後、ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には「失われた週末」を終えてヨーコのもとへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。長く未発表で、2007年発表の「ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー」に収録された。また、リンゴのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした(全米6位)。
1975年2月、カヴァー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。デヴィッド・ボウイと知り合い、ボウイの『ヤング・アメリカンズ』(3月発表)でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマーと「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによると、スタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタビューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。10月にはベスト曲集「シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡」を発表した。
1976年にリンゴのソロ・アルバム『リンゴズ・ロートグラヴィア』に「クッキン」を提供したあと、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表されている。
1979年、ヴァルトハイム国連事務総長から、インドシナ難民救済コンサートにビートルズとしての出演を依頼されるが、趣旨には賛同するが4人で演奏するのは断りたいとして参加を辞退した[22]。
1980年代
約5年間の音楽活動休止を経て、1980年に活動を再開、友人のデヴィッド・ピールのアルバム『ジョン・レノン・フォー・プレジデント』に作曲で全面参加した。80年6月にはバミューダ諸島で、8月にはスタジオで新曲のレコーディングを開始した。ジョンはB-52's、リーナ・ラヴィッチ、現代音楽のメレディス・モンクらに興味を持っており、B-52sの「ロック・ロブスター」を気に入っていたという。ショーンが、偶然友達の家で観た映画『イエローサブマリン』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は同年のインタビューの中で否定している。11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・日1位)を発表した。このアルバムは全世界で500万枚以上セールスを記録、「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位)、「ウーマン」(米1位・英1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米9位)などの大ヒット曲が生まれた[注釈 10]。
1980年12月8日22時50分(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗るマーク・チャップマンに撃たれ、30分後に死亡が宣告された[23][24]。(詳細は、#死参照)
注釈
- ^ 1974年リリースのアルバム『心の壁、愛の橋』においては、収録曲の自身の演奏者クレジットを全て変名で行っている。
- ^ 出生名はジョン・ウィンストン・レノンであるが、ヨーコとの結婚に際し改名した。
- ^ 『ギネス・ワールド・レコーズ』では、もっとも成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲)」と紹介されている。
- ^ のちに英国のベトナム戦争支持への反対を理由に返上した。
- ^ この曲は、1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』で公式に発表された。
- ^ ジョンとポールは近所で生まれ育っていたが、この日まで一度も会ったことはなかったという。
- ^ 最初の妻シンシアの回顧本「ジョン・レノンに恋して」(2007年) によると、ジュリアに気づいた警官が、慌ててブレーキとアクセルを踏み違えたことで起こった事故とされている。警官に下った判決は「無罪」。
- ^ スチュアートと並んでベースを演奏している写真がある。
- ^ ジョンは再入国禁止処分に対する抗告と裁判を1975年10月まで行い、最終的にジョン側が勝訴した。
- ^ 没後、1982年のグラミー賞年間最優秀アルバム賞を2人で獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。
- ^ 『ラム』でのマッカートニーのジョンへの皮肉は『イマジン』における『ラム』のパロディー、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」におけるポールの作品が軽音楽のようだという歌詞、『ウィングス・ワイルド・ライフ』における「ディア・フレンド」がジョンを指すなど。
- ^ ニューヨークで日本語を学んでいた際に、ジョンが使用していたノートは、Ai 〜 ジョン・レノンが見た日本(ちくま文庫・2001年)として出版された。
- ^ その後、東京のホテルオークラで公式に会見を開き、プレスリーの死について言及している。
- ^ このインタヴューの一部は2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に収録されている。
出典
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固有名詞の分類
ポピュラー音楽の音楽家一覧 (個人) |
カルメン・ミランダ マイキー・ウェイ ジョン・レノン ジョン・ポール・ジョーンズ レイチェル・スウィート |
グラミー賞受賞者 |
ウィーザー スタン・ゲッツ ジョン・レノン ティム・ライス スティーヴィー・レイ・ヴォーン |
アメリカ合衆国のギタリスト |
ノーマン・ブラウン ジャスティン・キング ジョン・レノン ラリー・カールトン カール・ウィルソン |
イギリスのギタリスト |
クライヴ・ベイリー ヴィヴィアン・キャンベル ジョン・レノン ヒュー・コーンウェル ジュリアン・ブリーム |
イングランドのシンガーソングライター |
アルトン・エリス クリス・レア ジョン・レノン ブライアン・メイ アレクシス・コーナー |
イギリスのピアニスト |
エルトン・ジョン 平井元喜 ジョン・レノン マシュー・ベラミー ロナン・オーラ |
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