ジョセフ・グルー 年表

ジョセフ・グルー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/19 14:12 UTC 版)

ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日 - 1965年5月25日)は、アメリカ合衆国外交官日米開戦時の駐日アメリカ合衆国特命全権大使(第13代)。


  1. ^ 吉田茂『回想十年』第1巻、57頁。太田尚樹は「日本人の美点と欠点をこれほど見事に見抜いていた米国大使はいなかったのではないか。(中略)日本人のアイデンティティに温かい視線でみつめてくれたグルーには感謝あるのみ」と記している(「あとがき」)。
  2. ^ 麻田貞雄は、「グルーは日本の政治状況を「穏健派」対「軍部過激派」という二元的な枠組みのなかでとらえ、日本の政策を “時計の振り子”のように両派の間を定期的に揺れ動くものとしたため、しばしば判断をあやまることになった」と記している。(「解題」、12頁)。
  3. ^ ハインリックスは、「誠意にもとづく折衝によって対立を和解に導くこと―これがグルーの外交観であった。ただひとつ例外は、共産主義諸国と外国を結ぶことに彼はなんら価値を認めなかった。共産主義は外交を不可能にしたというのがロシア革命のときから引退の日まで、グルーが堅持した見解であった」と書いている(351-2頁)。
  4. ^ バックベイはチャールズ川の小湾であったところを、19世紀初頭から干拓・造成され、ヴィクトリア朝様式のブラウンストーン(褐色砂岩)を使った個人住宅や由緒ある公共建築の並ぶ高級住宅地区となった。
  5. ^ 1884年開校、グルー入校当時は男子校であったが、現在は男女共学。
  6. ^ 大学非公認の社交クラブ。
  7. ^ 廣部、2頁。
  8. ^ グルー等の尽力にもかかわらず、アメリカ議会上院は同条約の批准を認めなかった。
  9. ^ 廣部、31頁。
  10. ^ ジョン・ジェイコブ・ロジャーズ合衆国連邦下院議員(マサチューセッツ州選出)の提案により、1924年7月成立。外交職(派遣国の意思を表明し、接受国と交渉にあたる、接受国についての情報を収集し報告する機能を持つ)と領事職(自国民・自国企業等への行政事務・手続き、相手国国民へのサービス[ビザの発給・文化交流など]に関わる)の統合、新規採用における競争的試験の実施、能力による昇進、65歳定年の実施などを定めた。 http://www.afsa.org/beginning-rogers-act-1924 (アクセス2017/2/11)
  11. ^ 廣部、52頁。
  12. ^ 同上。
  13. ^ 1928年8月27日パリで採択・署名された。条約を提唱したフランス外相およびアメリカ合衆国国務長官にちなんでケロッグ=ブリアン条約とも呼ばれる。いかなる国際紛争も平和的手段のみで解決をはかることが規定された。戦争の違法化を推進した点で重要な意味を持つ。
  14. ^ 日本国内からはこの報告書に対し大いなる不満が噴出した。そのことについてグルーは次のように記した―「リットン報告書に対する反応は、かねて期待されていた通りで、観察に対する一般的非難と独善的義憤の爆裂とですが、観察を否定しようとする真剣な試みはなされず、単に真正面からそれが正確でないというだけです。かかる公衆的空騒ぎは、正気な、そして穏健な考え方をする人たちには見受けられません」(1932年10月8日付スティムソン宛書簡)。グルーの「日記」・公的書簡・覚書等からの引用は『滞日十年』によった。同書に含まれていないものは、参考文献からの孫引きによる。
  15. ^ 廣部、74頁。
  16. ^ 外務省情報部長天羽英二の「日本は東亜地域の秩序維持に責任を持つ国家であり、列強による中国援助は、日中の特殊関係を考慮すれば『主義としてこれに反対せざるを得ない』とする談話。満州事変以来日本の大陸政策を警戒していた欧米諸国からは、日本が「東亜モンロー主義」を宣言したと解釈され、強い反発と警戒を生むこととなった。
  17. ^ 廣部、85頁。
  18. ^ 日本はこれ以後いわゆる「無条約時代」に入る。日本は、1934年、ワシントン海軍軍縮条約(1921〜22年開催、建艦制限[保有比率])を破棄、1936年のロンドン海軍軍縮条約(1930年補助艦保有量の制限を定めた)の失効に伴い、日本は「巨大」戦艦の建造に向かった。
  19. ^ 共産主義の脅威からの共同防衛を約したもの。1937年、イタリア王国が参加し三国防共協定となった。
  20. ^ 1937年7月7日夜、中国・北京郊外の盧溝橋付近で、演習中の日本軍一中隊に対して射撃がなされたことを契機に、日本軍と中国国民革命軍との衝突に発展した事件。日中戦争の発端となった。
  21. ^ ハインリックス、131、134頁。
  22. ^ グルーは日記に次のように記した。「我が国は分岐点に差し掛かっている。平和愛好国には逆説的見えるかもしれないが、平和でなく戦争の可能性のある道を選んでいるように思える。我々の基本的かつ根本的考えは、極東の混乱に巻き込まれるのを避けることである。[それなのに]我々は直接巻き込まれるかもしれない道を選んでしまった。(廣部、105頁に引用。)
  23. ^ 日本政府の正式回答文書は、アメリカ政府の要求を全面的に受け入れ、完全で十分なる賠償の支払いを実行すること、今後日本軍が中国におけるアメリカ国民の生命財産を攻撃しないこと、日本の軍または官憲が不法な干渉を加えないと保障すること、パナイ号撃沈関係者にたいし必要なる処分を実施したことが述べられていた。アメリカ当局のいう故意爆撃に対しては、あくまでも誤認爆撃であると主張した。翌1938年4月22日に、日本政府は221万4007ドル36セントを支払った。
  24. ^ 廣部、112頁。
  25. ^ 日米儀仗兵も参加、盛大に外務省葬(昭和14年4月19日 東京日日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p224 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  26. ^ ハインリックス、213-18頁。
  27. ^ 同上、236頁。
  28. ^ 同上、248頁。
  29. ^ 同上、305頁。
  30. ^ 廣部、191頁。
  31. ^ 同上、224頁。グルーの演説活動が、国務省戦時情報局の対日心理・宣伝戦の政策の枠内にあったことは十分にうかがわれる。中村政則は、『東京報告』に収められている演説は全てグルーが書いたものではなく、約6割は代筆されたものであると、指摘している(21-24頁)。
  32. ^ 同上、229頁。
  33. ^ 議長はジョージ・H・ブレイクスリー(George H. Blakeslee)、メンバーとしてヒュー・ボートン(Hugh Borton)、ユージーン・H・ドゥーマン(Eugene H. Dooman)、アール・R・ディックオーバー(Erle R. Dickover)等が連なっていた。 いずれも外交官として豊富な滞日経験を有するか、日本の歴史・文化について精通する研究者であった。
  34. ^ ボートンは1926−28年日本においてアメリカ・フレンズ奉仕団の作業に従事、1935-36年「徳川時代農民一揆」の研究のため東京帝国大学に在籍、オランダ・ライデン大学博士号取得。国務省に招かれる前はコロンビア大学日本史助教授であった。戦後、コロンビア大学東アジア研究所長を経て、ハバフォード大学学長を務めた(1957-1967年)。
  35. ^ 廣部、244-5頁。
  36. ^ その第12項において、「われわれの諸目的が達成せられ、かつ日本国民を代表する平和的傾向を有し、責任ある政府が確実に樹立されたときは、連合国の占領軍は、ただちに日本国より撤収されるものとする。このような政府は・・・現皇室の下における立憲君主制を含みうるものとする」というものだった。(中村、138頁)
  37. ^ 公式議事録によれば、1945年5月1日の委員会において「日本における天皇の立場から生じる問題や、軍事作戦に対する新兵器の想定される効果」が検討されたとある。この記述が真実ならば、グルーはこの日初めて原子爆弾について知ったことになる。5月8日、原爆に関する暫定委員会が組織されたが、グルーはその一員にはならなかった。(廣部、252頁)
  38. ^ 木村朗; ピーター・カズニック (2010). 広島・長崎への原爆投下再考―日米の視点. 法律文化社. p. 96. ISBN 978-4589033116 
  39. ^ 『戦争はいかに終結したか 二度の大戦からベトナム、イラクまで』千々和泰明著(2021年、中央公論新社)
  40. ^ 廣部、283頁。
  41. ^ 同上、303頁。
  42. ^ 同上、306〜7頁。
  43. ^ 同上、316頁。
  44. ^ Alice de Vermandois Perry Family Search
  45. ^ Cecil B. Lyon, 89, Who Long Served As U.S. Diplomat The New York Times, April 8, 1993
  46. ^ a b 『巨人軍を憎んだ男 V・スタルヒンと日本野球』(牛島秀彦著、福武文庫、1991年)p102-105
  47. ^ ケナン、144頁。
  48. ^ 太田、57頁。
  49. ^ 船山、35頁。
  50. ^ 中村、99頁。
  51. ^ 同上、70頁。
  52. ^ United States Department of State (1961) (英語). Foreign relations of the United States diplomatic papers, The Conferences at Cairo and Tehran, 1943. pp. p.XXXII. http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=turn&entity=FRUS.FRUS1943CairoTehran.p0036&id=FRUS.FRUS1943CairoTehran 
  53. ^ 読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 p.345 (2012年)
  54. ^ 文庫改訂版、解説保阪正康、なお下記の訳題は「動乱期」






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