ジェリコ・ラジュナトヴィッチ
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コソヴォ紛争
コソヴォ紛争が勃発した1998年、コソヴォ解放軍 (UÇK) と戦うために、アルカンは再び民兵組織を集めた。アルカン本人はコソヴォへは向かわなかった。北大西洋条約機構 (NATO) によるコソヴォ紛争介入が行われるなか、アルカンの組織はコソヴォで軍事活動に従事した。
旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の判事リチャード・メイ (Richard May) によると、同国際法廷は、アルカンを虐殺、民族浄化、人道に対する罪などの罪で起訴した。起訴内容は1999年に国際法廷の検察官ルイーズ・アルブールによって公表された。コソヴォ紛争当時、アルカンはCNNやBBCなどのインタビューに答え、起訴事実の全てを否定した。1999年5月にベオグラードの中国大使館がNATOによって爆撃された際は、公式には誤爆であるとしてNATOは中国に謝罪したものの、中国大使館の駐在武官がアルカンと「虎」との連絡に関わっていたことに対する故意での攻撃であったとの見方もある。
暗殺
アルカンは2000年の1月15日の夕方、ベオグラードのインターコンチネンタル・ホテルのロビーで暗殺された。殺害を行ったのは23歳の警察官ドブロサヴ・ガヴリッチ (Dobrosav Gavrić) であった。アルカンが2人の友人と話しているところに背後から歩いて接近、しばらく機会をうかがった後、所持していたピストルCZ-99を発砲した。アルカンは左目を撃たれ、昏睡状態となった[3]。アルカンはすぐに病院に運び込まれたがまもなく死亡が発表された。
アルカンとともにその場にいたビジネスマネジャーのミレンコ・マンディッチ (Milenko Mandić) 、警部のドラガン・ガリッチ (Dragan Garić) も犯人によって殺害された。犯人はアルカン側のボディーガードに撃たれ意識不明となったが、障害は残ったものの後に回復し、車椅子で生活している。また、現場にたまたま居合わせた女性が流れ弾にあたって重傷を負った。2000年1月20日、アルカンは「虎」のメンバーによってセルビア正教会で葬儀が行われた。葬儀にはおよそ2万人が訪れた。
親西欧派をはじめとするアルカンの敵対者たちの中には、アルカンを国の恥とし、その死を喜ぶ者もいた一方、アルカンは国際戦犯法廷で裁きを受けるべきだったという意見も出た。反対に、民族派の人々はその「民族の英雄」の死に大きくショックを受けた。現在でもアルカンをめぐっては賛否両論が渦巻いている。
暗殺事件の裁判
アルカンを殺害した犯人、ドブロサヴ・ガヴリッチは、アルカンの殺害に関して裁判で無罪を主張したが、地方裁判所で有罪と認定され、懲役19年を言い渡された。しかしこの判決は最高裁判所で「証拠不十分」とされた。2006年の裁判では、犯人の共犯者であるミラン・ジュリシッチ (Milan Đurišić) とドラガン・ニコリッチ (Dragan Nikolić) とともにガブリッチの有罪が認定され、それぞれ懲役30年が言い渡された[4]。
事件の背景は不明確であるが、うわさによるとスロボダン・ミロシェヴィッチの息子マルコ・ミロシェヴィッチとアルカンとの間に石油密輸を巡る確執があったといわれている。その他のうわさによると、マフィア同士の抗争であったとも、またセルビア統一党の党首の座を欲したボリスラヴ・ペレヴィッチ Borislav Pelevićによる「身内の」犯行であったともいわれている。アルカンの弁護士は、英国の海兵隊の特殊部隊による犯行であると主張した。
人物
アルカンは猟色家で、5人の女性との間に9人の子どもをもうけている。長男のミハイロ (Mihajlo) は1975年にスウェーデン人女性アグネータ (Agneta) との間に生まれた。ミハイロは後にアルカンとともに戦争に参加している。その後ベルギー人女性、ベオグラードの女優との間にそれぞれ娘を一人ずつ持った。
アルカンの最初の妻となったのはスペイン語教師のナタリア・マルティノヴィッチ (Natalija Martinović) で、彼女と4人の子どもをもった。後にこの女性とは離婚した。
アルカンの2人目の妻となったのはずっと年下の人気歌手ツェツァことスヴェトラーナ・ヴェリチュコヴィッチであった。2人の結婚式はセルビアの放送局RTV Pinkで中継された。その後アルカンの死まで6年間にわたる結婚生活のなかで息子ヴェリコ (Veljko) と娘 アナスタシア(Anastasija) を持った。
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