シベリア出兵 シベリア出兵の概要

シベリア出兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/26 02:36 UTC 版)

シベリア干渉戦争

1918年、ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍
戦争ロシア内戦対ソ干渉戦争
年月日1918年8月 – 1922年10月
場所シベリア東部
結果:連合軍の撤退
交戦勢力
ロシア国
大日本帝国
チェコスロバキア
イギリス
フランス
ポーランド
イタリア
アメリカ合衆国
カナダ
中華民国
モンゴル
ロシアSFSR
極東共和国
モンゴル人民党
指導者・指揮官
アレクサンドル・コルチャーク 
グリゴリー・セミョーノフ
ミハイル・ディテリフス
イワン・カルミコフ英語版
ロマン・ウンゲルン 
パベル・イワノフ-リノウロシア語版
ゲオルギー・ロマノフスキーロシア語版
ドミトリー・ホルワットロシア語版
大谷喜久蔵
由比光衛
四王天延孝
アルフレッド・ノックス英語版
ウィリアム・グレーヴス英語版
ロバート・アイケルバーガー
ジェームズ・H・エルムズリー英語版
宋煥章
林建章
バルディセロ・ヴィットリオ・フィリッピ
ボグド・ハーン
レフ・トロツキー
イオアキム・ヴァツェチス
セルゲイ・カーメネフ
ミハイル・トゥハチェフスキー
ミハイル・フルンゼ
ヴァシーリー・ブリュヘル
ヤーコフ・トリャピーツィン 
アレクサンドル・サモイロ
セルゲイ・ラゾ英語版 
イワン・コーネフ
アレクサンドル・クラスノシチョーコフ
ダムディン・スフバートル
戦力
白軍400,000人
日本軍73,000人
アメリカ7,950人
イタリア2,400人
イギリス1,500人
カナダ4,192人
フランス800人
中国2,000人 

計492562人

600,000人
損害
200,000人 400,000人

共産主義の封じ込めという目的のほかに帝政時代の外債と、露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いもあった。

日本は1918年8月11日のウラジオストク上陸以来、増兵を繰り返して協定兵力を大きく超える兵力7万2,000人を派兵[2]ハバロフスクや東シベリア一帯を占領したが、日本の反ボルシェヴィキ政権樹立工作は酷寒とパルチザンの抵抗にあって不成功に終った[1]1919年秋には白軍のアレクサンドル・コルチャーク政権が崩壊したことで英仏による革命政権圧殺の計画は不可能に陥り、ヨーロッパ革命情勢への危惧もあって両国はシベリア撤兵を決定した。アメリカもチェコ軍団の引揚げ完了で出兵目的は達成されたとして1920年1月にシベリア撤退を決定した。しかし日本の原敬内閣は、列国の撤兵後も出兵目的を居留民保護とロシア過激派が朝鮮満洲に影響力を伸ばすことの防止に変更することで駐兵を継続しようとした[1]。そのためアメリカなどから日本への不信感が高まり、日本国内でも批判が高まった結果、1922年10月に日本も撤兵となった。この出兵で日本は3500名の死傷者を出し、10億円に上る戦費を消費したうえ、日米関係の悪化を招き、日ソ国交回復の妨げにもなったとされる[1]

ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明(後述する1920年「四月四・五事件」だけでも5,000名以上が殺害されたとされる[3])。

また別資料では、死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされる[4]


  1. ^ a b c d 「シベリア出兵」 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
  2. ^ ロシアの極東があわや日本に併合:シベリア出兵の起こりと顛末は(写真特集)”. RUSIA BEYOND (2022年1月17日). 2023年10月13日閲覧。
  3. ^ 原暉之『シベリア出兵:革命と干渉1917–1922』1989年 筑摩書房、572頁
  4. ^ 斎田章『ロシア革命の貨幣史(シベリア異聞)』
  5. ^ Humphreys, Leonard A.:The Way of the Heavenly Sword: The Japanese Army in the 1920's. Stanford University Press. 1996. ISBN 0-8047-2375-3.
  6. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 177-178
  7. ^ 『西伯利事変 写真帖 第一篇』 町田幸左衛門 1920年
  8. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 470-471
  9. ^ a b 笠原十九司『東アジア近代史における虐殺の諸相』 (PDF) 2004年
  10. ^ 『黒竜州『イワーノフカ』『タムホーフカ』村紀行』より。
  11. ^ 『官報』号外、大正7年8月2日
  12. ^ 『シベリア出兵:革命と干渉1917–1922』 415–419頁
  13. ^ 『シベリア出兵:革命と干渉1917–1922』 420頁
  14. ^ 旧陸海軍記録、『西受大日記』、1919年3月
  15. ^ 『ハ杉貞利日記・ろしや路』(図書新聞社、1967年) 122·124頁
  16. ^ 『シベリア出兵:革命と干渉1917–1922』 422頁
  17. ^ 『マンチジューリヤ』紙(1918年12月29日付)
  18. ^ 『シベリア出兵:革命と干渉1917–1922』 426頁
  19. ^ 『八杉貞利日記・ろしや路』 146頁
  20. ^ 『東方時論 3(11)』 p.11 東方時論社 1918年11月 [1]
  21. ^ 『八杉貞利日記・ろしや路』 122頁
  22. ^ 『八杉貞利日記・ろしや路』 144頁
  23. ^ 『八杉貞利日記・ろしや路』 131–132頁
  24. ^ 日本・ポーランド関係のエピソード(在ポーランド日本国大使館ホームページ)
  25. ^ 人道の港 敦賀ムゼウム ポーランド孤児
  26. ^ 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p338 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
  27. ^ 「太平洋戦争への道」第一巻


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