シク教 歴代グル

シク教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/17 14:50 UTC 版)

歴代グル

  • 第1代 グル・ナーナク(1469年 - 1539年)
  • 第2代 グル・アンガド(1539年 - 1552年)
  • 第3代 グル・アマル・ダース(1552年 - 1574年)
  • 第4代 グル・ラーム・ダース(1574年 - 1581年)
  • 第5代 グル・アルジュン(1581年 - 1606年)
  • 第6代 グル・ハルゴービンド(1606年 - 1644年)
  • 第7代 グル・ハル・ラーイ(1644年 - 1661年)
  • 第8代 グル・ハル・クリシャン(1661年 - 1664年)
  • 第9代 グル・テーグ・バハードゥル(1664年 - 1675年)
  • 第10代 グル・ゴービンド・シング(1675年 - 1708年)

第10代教祖の4人の息子はムガル帝国との戦争で先に死んだため、遺言により、この後は教典がグルとされた。

歴史

グル・ナーナクの啓示から反ムガル帝国へ

16世紀初めに、初代グル・ナーナクが沐浴中に啓示を受け布教を開始した。ナーナクはパンジャーブにカルタールプルの町を建設して本拠地とし、やがてシク教はパンジャーブを中心に北インド一帯へ広がっていった。当時この地域はムガル帝国領であり、宗教に寛容なアクバルの統治下で繁栄していった。

第3代グル・アマル・ダースは、ナーナクとその後継者アンガドが作った聖歌と自作の聖歌、何人かのバガット(神愛者)の作品を『モーハン・ポーティ』としてまとめた[2]

1574年には第4代 グル・ラーム・ダースが、パンジャブ中心部にラームダースプル(現在のアムリトサル)を建設し、そこに黄金寺院の建設を開始した。黄金寺院は1604年に第5代グル・アルジュンによって完成され、聖典『アーディ・グラント』が置かれた。アルジュンはまた、信徒に対して生産物の10分の1税を課し、それまで喜捨に頼っていた教団の財政を大幅に強化した[31]

アクバル死後、ムガル帝国と対立するようになり、1606年にはグル・アルジュンがムガル帝国の弾圧を受け死亡した。このころから迫害と共に教団組織を整備し、反イスラム・反ヒンドゥー色を強める。アルジュンの息子である第6代グル・ハルゴービンドは、歴代グルのもつ宗教的支配権(ピーリー)に加え、全シク教徒に対する世俗的支配権(ミーリー)を持つことを宣言した[2]。その後、ハルゴービンドはジャハーンギール帝によって一時拘束された。

第9代グル・テーグ・バハードゥルは、イスラムへの改宗を拒否したカシミールのバラモングループの助命嘆願をした罪により、デリーで処刑された。これらの事件は、進んで迫害に立ち向かい、弱い者を守り、神に意識を向けるシク教徒の理想像である聖戦士(サンチ・シパーヒー)の概念を象徴したものとして影響を与えた[2]

シク教国の建国からシク戦争へ

ランジート・シング

17世紀後半には10代目のグル・ゴービンド・シングが教団を改革し、教団内の権力構造を廃止した。また、武装集団であるカールサーを組織した。このころよりシク教団は半独立の姿勢を示すようになり、ムガル帝国の衰退とともに勢力を拡大させた。ゴービンド・シングは1708年に暗殺されるが、彼の死後グルは擁立されず、かわりに聖典『グル・グラント・サーヒブ』が中心的な権威を持つようになった[32]

ゴービンド・シングの死後、バンダー・シング・バハードゥルがムガル帝国への反乱を起こしたが1716年に処刑された。しかしその後もシク教の勢力は衰えず、ムガル帝国の衰退に伴ってパンジャーブには12のシク教のミスル英語版(軍団)と呼ばれる小国家群が成立し、シク連合体と呼ばれる緩やかな政治連合を形成していた[33]

18世紀末にはミスルのひとつであるスケルチャキア・ミスル(Sukerchakia Misl)からランジート・シングが現れ、1801年には首都をラホールに定めてシクを建国した。ランジート・シングはサトレジ川以西のシク教圏を統一し、パンジャーブのみならずムルターンカシミールまで勢力を拡大し、全盛期を迎えた。しかし1839年にランジート・シングが死亡すると間もなく後継者争いが勃発して内部は混乱し、また南に勢力を伸ばしてきたイギリスがこの混乱を見て介入を開始した。

1845-46年の第一次シク戦争でシク教国は敗北し、ラホール条約によってカシミールやパンジャブの東半分をイギリスに奪われた。さらにイギリスの支配に反発した民衆は反乱を起こし、1848年には第二次シク戦争が勃発した。この戦争も翌1849年にはシク側の敗北に終わり、全パンジャーブが英領になってシク教国は滅んだ。シク教国の滅亡によってインド亜大陸にイギリス統治に服していない勢力は存在しなくなり、インドは完全にイギリスの植民地となった[34]

英領時代

英領となった後、セポイの乱においてシク教団はインドを植民地支配するイギリス政府に協力。以後、シク教徒は植民地政府からは事実上の中間支配層として扱われ、イギリスとの協調路線をとって繁栄していく事となった。1919年にはそれまでイスラム教徒のみに認められていた分離選挙がシク教徒にも認められ[35]、シク教からの宗派代表選出に道が開かれた。1920年にはシク教の政治団体としてアカリ・ダルが結成された[36]第一次世界大戦後にヒンドゥー・イスラーム両教の対立が激しくなるとシク教も独立国「カーリスターン」の建国を望み、1940年及び1944年には正式にその要求がなされたものの、当時のパンジャーブ州の人口のうちシク教徒は10%未満にとどまっており、50%以上のムスリムや40%弱を占めるヒンドゥー教徒を無視して建国を行うことは不可能だった[37]。結局1947年インド・パキスタン分離独立に際し、シク教団はインド帰属を選択したが、これはパンジャーブ州のパキスタン領部分のからのシク教徒の追放を招き、ヒンドゥー教徒とともに多数のシク教徒が難民となってインドへと流入することとなった[38]。また、開祖ナーナクの生まれたナンカーナー・サーヒブや、シク教国の都であったラホールはパキスタンに属することとなった[39]

インド独立からパンジャブ州分割

独立したインドはジャワハルラール・ネルーのもと政教分離を国是として掲げた。これはインドが多数の宗教をともかくも共存させる姿勢を取ったことを意味し、少数派たるシク教が迫害されるようなことはなかったが、一方でこれは宗教上の理由での分離運動を認めないことを意味した[40]ため、独立国や自治権の拡大を望んだシク教徒の一部とは対立することとなった。また、英領インド時代には認められていたシク教徒への分離選挙も、1950年に施行されたインド憲法において撤廃された[41]

パキスタンから流入した大量のシク教徒難民は、主にこの地方から流出したムスリムが放棄した農地へと再定住が行われた[39]。この結果、特にパンジャーブ州西部においてシク教徒の割合を急増させることとなり、同州におけるシク教徒の割合は35%にまで上昇した[42]。これを受けて宗教政党のアカリ・ダルはインド全土に広がっていた言語州要求運動に加わり、パンジャブ語話者が多数を占める新州の設立運動を1951年に開始したが、インド政府はこれをシク教新州の設立運動とみなして警戒し[43]、1956年に言語州への再編が行われたときもパンジャブの州再編は行われなかった[44]。この言語州運動は1966年にようやく結実し、旧パンジャーブ州はヒンディー語話者・ヒンドゥー教徒が多数を占める東部のハリヤーナー州と、パンジャブ語話者・シク教徒が過半を占める西部の新パンジャブ州へと分割された[44]

黄金寺院事件

パンジャブ州分割後、アカリ・ダルはヒンドゥー至上主義インド大衆連盟英語版(ジャナ・サンガ)と連立して1967年に州政権を奪取したが、1971年には国民会議派に敗れ下野した[45]。1977年には再びこの連立が州の与党となり、彼らはハリヤーナー州と共用していた州都チャンディーガルのパンジャブ州編入や水利権などの要求を中央政府に行った[46]。しかしこの交渉が難航するなか、1970年代後半には急進派宗教指導者であるジャルネイル・シン・ビンドランワレが台頭して、シクの分離主義が急速に強まった。1980年代に入るとシク急進派は反対派に対するテロを頻発させるようになり、パンジャブの治安が悪化。これに対しインド政府は1983年10月にパンジャブ州を州政府から大統領直接統治下に移した[47]が情勢は好転しなかったため、1984年にはシク教徒の聖地・黄金寺院にたてこもるビンドランワレと過激派を排除するためインド政府軍を投入してブルースター作戦(黄金寺院事件)を起こし、6月6日にビンドランワレを殺害した[48]

この事件はシク教徒の強い反発を招き、1984年10月31日にはシク教徒の警護警官により、インディラ・ガンディー首相が暗殺された。さらにこの暗殺はヒンドゥー教徒側を激怒させ、インド各地でシク教徒への迫害が行われた[49]。その後もテロの連鎖は続き、1985年6月23日にはシク教徒によるインド航空182便爆破事件が起こった。ラジーヴ・ガンディー首相は同年7月にアカリ・ダルと合意を行って直接統治を解除し、9月には再びアカリ・ダルの州政府が誕生した[50]がテロの連鎖は続き、1987年には再度州の自治権が取り上げられて大統領直接統治下に戻った。1992年に直接統治は解除されたものの、選出された州首相は暗殺された[51]。しかしこのころを最後に急進派のテロは沈静化し、パンジャブ州の治安は回復に向かった[51]パンジャーブ警察の署長の指示により過激派は全員射殺された[要出典]

平和の回復

インド空軍栄誉礼。シク教徒はターバンを着用している。

1997年にはアカリ・ダルがパンジャーブ州の政権を獲得したが、2002年には国民会議派に敗れ下野した[30]

2018年11月28日、パキスタン政府はシク教徒の巡礼用に、同国中部のパンジャブ州ナロワルとインド国境を結ぶ約4キロメートルの「カルタールプル回廊」の建設工事を開始した [52]。ナーナクが没した地とされる寺院へインドから行けるようにするためであるが、着工式典でパキスタン陸軍参謀長がインドからの独立を目指すシク教活動家と握手する映像がテレビ中継されたことから、インド陸軍やインドのメディアがパキスタンを批判した[1]

今まではインド国境から約4㎞の寺に行くのにインドのシク教徒はビザを取り寺から約70㎞離れた国境の検問所を通るか空路で近郊都市から入るしかなかったが、回廊が出来ビザ無しで巡礼できるようになった[53]

インド軍では通常の制帽の他、シク教徒の兵士用として「制式ターバン」が設定されている。

著名人


  1. ^ a b (世界発2019)シーク教の巡礼道、印パに新たな火種: パキスタン側へ4キロ、ビザ不要」国際面、『朝日新聞』(朝日新聞デジタル)、2019年1月10日、朝刊。2019年1月16日閲覧。「■着工式に独立派リーダー、インドは「策謀だ」」
  2. ^ a b c d e f g ネズビット 2006, pp. 66–71.
  3. ^ Sikhism - Sects and other groups - Encyclopædia Britannica
  4. ^ Religion demographics: 2011 Census, Office of the Registrar General & Census Commissioner, Ministry of Home Affairs, Government of India
  5. ^ Census 2016, Community Profile (Australia). Australian Bureau of Statistics. Accessed 08 July 2017.
  6. ^ UN census data”. 2019年4月20日閲覧。
  7. ^ Largest Sikh Populations Retrieved March 23, 2018
  8. ^ Canada, Government of Canada, Statistics. “The Daily — 2011 National Household Survey: Immigration, place of birth, citizenship, ethnic origin, visible minorities, language and religion”. www.statcan.gc.ca. 2019年4月20日閲覧。
  9. ^ Sikher fejrer guru - i Vanløse” (2004年9月6日). 2019年4月20日閲覧。
  10. ^ Religion - Fiji Bureau of Statistics”. www.statsfiji.gov.fj. 2019年4月20日閲覧。
  11. ^ "Mitgliederzahlen: Sonstige", in: Religionswissenschaftlicher Medien- und Informationsdienst|Religionswissenschaftliche Medien- und Informationsdienst e. V. (Abbreviation: REMID), Retrieved 17 May 2017
  12. ^ A gurdwara in Kranidi by Athens News Archived 2007-05-15 at the Wayback Machine. and 6 others including in Tavros, Athens, Oropos, Inofita, Thiva, Kriti, etc.
  13. ^ Census of India Website : Office of the Registrar General & Census Commissioner, India”. 2015年2月14日閲覧。
  14. ^ UNHCR 2009 Report on International Religious Freedom- Indonesia”. 2015年2月11日閲覧。
  15. ^ Gurdwara in Tehran that thrives on local support” (2012年8月26日). 2014年11月26日閲覧。
  16. ^ Login”. 2015年2月14日閲覧。
  17. ^ NRI Sikhs in Italy”. 2015年2月14日閲覧。
  18. ^ Johnson, Todd M.; Barrett, David B. (2004). “Quantifying alternate futures of religion and religions”. Futures 36 (9): 947–960. doi:10.1016/j.futures.2004.02.009. 
  19. ^ Kuwait”. U.S. Department of State. 2015年2月14日閲覧。
  20. ^ overseasindian.in”. 2016年2月1日閲覧。
  21. ^ Sikh Population of Nepal”. 2019年4月20日閲覧。
  22. ^ 2013 Census QuickStats about culture and identity”. 2016年2月1日閲覧。
  23. ^ Pak NGO to resolve issues of Sikh community - Times of India”. 2019年4月20日閲覧。
  24. ^ Punjabi community involved in money lending in Philippines braces for 'crackdown' by new President” (2016年5月18日). 2019年4月20日閲覧。
  25. ^ 2011 Gurdwara Philippines: Sikh Population of the Philippines”. 2011年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年6月11日閲覧。
  26. ^ International Religious Freedom Report for 2006: Thailand”. Bureau of Democracy, Human Rights and Labor. 2015年9月12日閲覧。
  27. ^ United Nations Table 9: Population by religion, sex and urban/rural residence”. Office for National Statistics (2015年1月21日). 2017年5月25日閲覧。
  28. ^ Learn About Sikhs”. SALDEF. SALDEF. 2017年8月28日閲覧。
  29. ^ 「世界地誌シリーズ5 インド」p89 友澤和夫編 2013年10月10日初版第1刷 朝倉書店
  30. ^ a b 『シク教』 p107-108 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷
  31. ^ 『シク教』p40 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷
  32. ^ 『シク教』p62 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷
  33. ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)p250 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行
  34. ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)p288 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行
  35. ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)p347 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行
  36. ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)付録p44 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行
  37. ^ 『シク教』 p81-84 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷
  38. ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)p423 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行
  39. ^ a b 「インド現代史1947-2007 上巻」p153 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1冊
  40. ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)p430-431 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行
  41. ^ 板倉和裕、「インドの制憲政治とB・R・アンベードカル -指定カースト留保議席導入をめぐる政治過程を中心に-」 『南アジア研究』 2014年 2014巻 26号 p.46-72, doi:10.11384/jjasas.2014.46
  42. ^ 「インド現代史1947-2007 上巻」p287 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1冊
  43. ^ 『シク教』 p101 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社
  44. ^ a b 「世界地誌シリーズ5 インド」p5 友澤和夫編 2013年10月10日初版第1刷 朝倉書店
  45. ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p241 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷
  46. ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p242 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷
  47. ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p247 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷
  48. ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p255 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷
  49. ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p259-261 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷
  50. ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p267-268 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷
  51. ^ a b 「インド現代史1947-2007 下巻」p337 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷
  52. ^ 印パ、「回廊」建設工事開始”. 共同通信社 (2018年11月29日). 2019年1月16日閲覧。
  53. ^ 京都新聞2020年1月26日朝刊


「シク教」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シク教」の関連用語

シク教のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シク教のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのシク教 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS