サンスクリット
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文字・表記
サンスクリットは本来文字を持たない言語であり、その後も近代までは書記よりも読誦を主とする文化が続いていた。このことが逆に、時代・地域によって異なる様々な表記法をサンスクリットにもたらした[37]。サンスクリットが文字表記されるようになるのは4世紀ごろにインド系文字の祖であるブラーフミー文字がサンスクリット表記に使用されるようになってからであるが、この文字は本来より新しい言語であるプラークリットの表記のために開発された文字であり、正確な表記のために新たな表記法が開発された[38]。さらにブラーフミー文字表記のサンスクリットはインド文化とともに東南アジア諸国に伝播し、この地に多様なブラーフミー系文字を生み出すこととなった[39]。日本では伝統的に悉曇文字(シッダマートリカー文字の一種、いわゆる「梵字」)が使われてきたし、南インドではグランタ文字による筆記が、その使用者は少なくなったものの現在も伝えられている[37]。
現在では、地域をとわずインド全般にデーヴァナーガリーを使ってサンスクリットを書くことが行われているが、このようになったのは最近のことである[40]。ラテン文字による翻字方式としてはIASTが一般的である。
他言語・言語学への影響
サンスクリットは近代インド亜大陸の諸言語にも大きな影響を与えた言語であり、ドラヴィダ語族に属する南インド諸語に対しても借用語などを通じて多大な影響を与えた[41]。さらには主に宗教を通じて東南アジアや東アジアにも影響を与えた。東南アジアへの伝播は主にヒンドゥー教を通じてのものであり、クメール王国では15世紀ごろまでサンスクリットの碑文が多く作られた[42]。また東アジアへは大乗仏教を通じて中国やチベットに伝播した[43]。
また、サンスクリットはヒンディー語の成立に大きな影響を与えた。もともと北インドの広い範囲ではヒンドゥスターニー語を基盤としてペルシア語やアラビア語の語彙や文法を取り入れたウルドゥー語が使用されていたのだが、19世紀に入りイスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立が激しくなると、ヒンドゥー教徒側はウルドゥー語からペルシア語やアラビア語の借用語を取り除いてサンスクリットへと変える言語純化を行い、ヒンディー語が成立することとなった[44]。この動きは、1947年のインド・パキスタン分離独立によってさらに強まった[45]。
また、サンスクリットの研究は言語学の成立と深くかかわっている。イギリスの裁判官であったウィリアム・ジョーンズは、ベンガル最高法院に赴任していた1786年、サンスクリットとギリシア語やラテン語といった欧州系諸言語、さらに古代ペルシア語との文法の類似点に気づき、これら諸語が共通の祖語から分岐したとの説をベンガル・アジア協会において発表した。この発表は後世に大きな影響を及ぼし、これをもって言語学が誕生したと一般的に考えられている[46]。
さらにジョーンズの発見はインド学の発展を促し、1814年にはコレージュ・ド・フランスにヨーロッパ初のサンスクリット講座が開設されてアントワーヌ=レオナール・ド・シェジーが教授に就任し[47]、1818年にはドイツのボン大学にも開設され[48]、以後徐々にヨーロッパ各地の大学にサンスクリット講座が開設され研究が進むようになった。
仏教および日本への影響
仏教では最初、日常言語であるプラークリットを用いて布教を行っており、仏典もまたプラークリットでパーリ語仏典として書かれていた。しかし4世紀に入り、グプタ朝が学術振興を行うとともにサンスクリットを公用語とすると、他宗教との論争や教理の整備の関係上、仏教でもサンスクリットが使用されるようになり[49]、また仏典がサンスクリットに翻訳されるようになった。この動きは特に大乗仏教において盛んとなり、以後大乗仏教はサンスクリット仏典が主流となっていった。この過程で、一時的に言語の混淆が起き、仏教混淆サンスクリットと呼ばれるサンスクリットとプラークリットの混合体が出現して仏典に一時期用いられた[50]。
上座部仏教がプラークリット(パーリ語)の仏典を保持したまま東南アジア方面へ教線を伸ばしていったのに対し、大乗仏教は北のシルクロード回りで東アジアへと到達し、仏教の伝播とともにサンスクリットはこれら諸国に伝えられていった。ただし初期の漢訳仏典の原典はかならずしもサンスクリットではなかったと考えられており、ガンダーラ語のようなプラークリットに由来する可能性もある[51]。しかし中国で仏教が広まるに従い、巡礼や仏典を求めて仏教発祥の地であるインドへと赴く、いわゆる入竺求法僧が現われはじめた。この時期にはインドの大乗仏教の仏典はほぼサンスクリット化されており、このため彼らによって持ち帰られた仏典の大半はサンスクリットによるものだった[52]。5世紀の法顕や7世紀の義浄などが入竺求法僧として知られるが、なかでもこうした僧の中で最も著名なものは7世紀、唐の玄奘であり、持ち帰った膨大なサンスクリット仏典の漢訳を行って訳経史に画期をなした。彼以降の仏典訳は訳経史区分上新訳と呼ばれ[53]、それ以前の鳩摩羅什らによる古い、しばしばサンスクリットからではない[54]旧訳と区分されている[53]。
日本へは中国経由で、仏教、仏典とともにサンスクリットにまつわる知識や単語などを取り入れてきた。その時期は遅くとも真言宗の開祖空海まではさかのぼることができる。仏教用語の多くはサンスクリットの漢字による音訳であり、"僧"、"盂蘭盆"、"卒塔婆"、"南無・阿弥陀・仏[55]"などがある。"檀那(旦那)"など日常語化しているものもある。また、陀羅尼(だらに、ダーラニー)、真言(マントラ)は漢訳されず、サンスクリットを音写した漢字で表記され、直接読誦される。陀羅尼は現代日本のいくつかの文学作品にも登場する(泉鏡花「高野聖」など)。卒塔婆や護符などに描かれる文字については梵字を参照。日本語の五十音図の配列は、サンスクリットの伝統的な音韻表の配列に影響を受けていると考えられ、サンスクリット音韻学である悉曇学に由来するとされる。
こうした仏教とのつながりのため、明治以後、日本でのサンスクリット研究は仏教学と深く結びついてきた。1876年には真宗大谷派の南條文雄がインド学研究のためオックスフォード大学に派遣され[56]、1885年に帰国すると東京帝国大学で梵語講座を開設し、以後いくつかの大学でサンスクリットが教えられるようになった[57]。
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