サトウハチロー サトウハチローの概要

サトウハチロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 05:11 UTC 版)

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サトウ ハチロー
サトウハチロー
誕生 佐藤 八郎
1903年5月23日
東京府東京市牛込区
(現在の東京都新宿区
死没 (1973-11-13) 1973年11月13日(70歳没)
東京都中央区明石町
墓地 雑司ヶ谷霊園
職業 詩人童謡作詞家作家
言語 日本語
国籍 日本
最終学歴 旧制早稲田中学校
活動期間 1919年 - 1973年
代表作 作詞した楽曲
リンゴの唄
長崎の鐘
悲しくてやりきれない
「泣いて泣いて」
主な受賞歴 勲三等瑞宝章
子供 佐藤四郎(サトウ・ハチロー記念館長)
親族 佐藤紅緑(父)
大垣肇(異母弟)
佐藤愛子(異母妹)
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うれしいひなまつり」、「リンゴの唄」の作詞者として知られる。

人物

母親への想いなどをうたった叙情的な作風で知られ、2万にもおよぶ詩のうち3千が母に関する詩である。作風に反して私生活は放蕩、奇行が多く、その振る舞いに関しては佐藤愛子の長編小説『血脈』に詳しい。なお、『血脈』によると、ハチローは小学生時代から不良少年で、実母に対しても愛情らしきものを示したことはなく、作品に表現されている「母親への想い」はフィクションだという。しかし、父の故郷・青森県には生涯で一度しか訪れていない一方、母の故郷・仙台市への訪問は50回を越えている。

野球少年だった経験から、高校野球プロ野球に造詣が深く、野球少年を主人公にした少年向け小説や、野球を題材とした詩作も行った。少年時代は阪神電車沿線に住んでいた事もあったが、中日ドラゴンズの熱烈なファンであり、後援会の会長なども務めた。

木曜会」を主宰、月刊誌『木曜手帖』を出し、門下からは、吉岡治宮中雲子、名取和彦、若谷和子、安藤晃子、宮田滋子などの詩人たちを数多く輩出した。

デビュー当時の美空ひばりに対して「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いた。

来歴

父は、作家の佐藤紅緑[1]。母・佐藤はるは、現在の宮城県仙台市出身で、河北新報社の創業者(社主)の一力健治郎の義妹(一力の妻の妹)にあたる[1]。この両親の長男として、1903年(明治36年)5月23日、東京府東京市牛込区市谷薬王寺前町(現在の東京都新宿区市谷薬王寺町)に生まれる。中学に入学後、紅緑が舞台女優の三笠万里子と同棲するようになり離婚、父親への反発から中学を落第、退校、勘当、留置場入りを重ねる。

小笠原にいた頃のサトウハチロー
3少年の内の一人がサトウハチローといわれている。

感化院のあった小笠原諸島父島で父の弟子であった詩人の福士幸次郎と生活を共にし、影響を受ける。1919年大正8年)福士の紹介により西條八十に弟子入りして童謡を作り始め、数々の雑誌や読売新聞などに掲載される。その一方で今東光などが参加した同人誌『文党』や、草野心平宮沢賢治などが参加した同人誌『銅鑼』に参加する。1926年(大正15年)には処女詩集『爪色の雨』を出版。

1930年代からは童謡や詩だけにとどまらず、小説や映画の主題歌なども盛んに執筆する。1938年(昭和13年)には日本コロムビアと専属契約を交わす。第二次世界大戦が激しくなる中でも妻子を千葉県疎開させ、自身は東京に残って仕事を続けた。『勝利の日まで』など、戦時歌の作詞も手掛けた。

1945年(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下によって弟の節を失った。節は広島中央放送局へ転勤する親友を見送ったが別れがたく、そのまま大阪駅から転勤先の広島までついて行き、被爆死した。ハチローは節を捜しに行き、宿屋跡も見つけたが、遺骨・遺品は一切見つからなかった[2]

同年8月15日終戦となり、戦後初めてとなる映画『そよかぜ』の主題歌・挿入歌である「リンゴの唄[3]を作詞する。並木路子の歌により大流行し、連合国軍占領下の日本を象徴する歌となった。

1946年(昭和21年)から「東京タイムズ」でエッセイ「見たり聞いたりためしたり」の連載を始め、およそ10年の間、毎日連載された。また、同年の12月からNHKのラジオ番組『話の泉[4]のレギュラーとなり、1964年(昭和39年)まで出演した。1951年(昭和26年)から1年間は、NHKのラジオドラマ『ジロリンタン物語』の原作を執筆する。

1953年(昭和28年)童謡集『叱られ坊主』を出版し、翌年これにより第4回芸術選奨文部大臣賞を受賞。以後は童謡の詩作に専念し、1955年(昭和30年)「ちいさい秋みつけた」を作詞、1962年(昭和37年)レコード大賞童謡賞を受賞。1963年(昭和38年)NHK放送文化賞受賞。1966年(昭和41年)紫綬褒章受章。

勲三等瑞宝章を受章した1973年(昭和48年)に、心臓発作により聖路加国際病院で死去[5]。享年70。1967年(昭和42年)に就任した日本作詩家協会会長、1969年(昭和44年)に就任した日本童謡協会会長、1971年(昭和46年)に就任した日本音楽著作権協会会長の職は、死去するまで続けた。




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