サティー (ヒンドゥー教)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 07:44 UTC 版)
背景
寡婦と婚姻制度
男女の寿命の差もあるが、寡夫より寡婦が圧倒的に多くなるのには、ヒンドゥーの婚姻制度に原因がある。幼児婚や持参金制度により、夫と年齢のはなれた婚姻が成立し、それが結果としてサティーに結びついている。
ヒンドゥー教徒同士の結婚は制約が多く、他のカーストや近親を避け、適当な夫を確保するため早々に娘を結婚させる慣習がある。女性はまだ幼いうちに嫁ぎ先の家に入り、生家ではなく嫁ぎ先のしきたりを覚え、男子を産んで初めて発言権を得られるようになる。結婚年齢についても、『マヌ法典』においては男性30歳の場合、女性は12歳が最もよい結婚年齢としているように、女性に絶対服従を求める男性にとって都合がいいよう、特に女性の早婚が伝統的である。この年齢差が寡婦を多く生み出す要因となっていた。19世紀半ばには10歳以下の女性との結婚は禁止され、その後も徐々に引き上げられ、1978年の幼児婚抑制法では男子21歳、女子18歳に最低婚姻年齢が引き上げられた。違反したからといって婚姻が無効にされるわけではないが、1976年の婚姻法改正で、婚姻の成立にかかわらず女子に幼児婚の否認権が与えられている。
また、ダヘーズ(もしくはダウリー dowry)と呼ばれる花嫁側に求められる多額の結婚持参金制度も問題であり、持参金の支払いができず年齢が著しく離れた男性との結婚を余儀なくされる場合もあるために、多くの女性が若くして寡婦となる一因ともなっている。ダウリの額は嫁側の社会的・経済的な地位や、婿の教育や職業によって異なる。娘を持つ父親にとっては多大な負担になり、女児の誕生が望まれない理由である。ヒンドゥーの結婚式は大概の場合派手であるが、その莫大な費用も全て花嫁側の負担となる。ガンディーも、ダヘーズを要求する者はその者自身の教育と国家を汚し、女性の名誉を傷つけるとし非難している。1961年にダヘーズを禁止する法律(Dowry Prohibition Act)が制定されたが、未だこの慣習は完全になくなっていない。
寡婦と家族制度
伝統的なヒンドゥーの合同家族制度の元では女性は結婚によって、夫の家族に属し、扶養される権利だけを持つ付属物でしかなかった。『マヌ法典』に、女子は決して独立に値せざりし、とあるように、伝統的にヒンドゥー社会で女性の地位は低かった。古くはケーシャヴ・チャンドラ・セーンによるサティの廃絶と寡婦再婚を認める動きがみられたが、近年、女性差別の撤廃、地位向上、社会進出へ向け法整備が進められている。
ヒンドゥーにおける理想的な女性とは、貞節を守り、献身的に夫に尽くす女性である。サティーが盛んになった19世紀ごろ、再婚は堕落とみなされ、寡婦は厳しい禁欲生活を余儀なくされていた。また、上位カーストでは寡婦は不吉な存在とされた。家族の中での差別に耐え切れず、誘惑に負け、不品行のみならず、犯罪や嬰児殺しを犯したりする者もいた。再婚法の制定はヒンドゥー社会改革運動の主題とされた。しかし、再婚による待遇の改善を寡婦たちには望んでおらず、また婚姻慣習にも事実上影響はなかった。再婚法の失敗以降、教育によって寡婦の自立を目指す運動が広がっていった。
- ^ 古い日本語における音写。1963年初版発行の江口清翻訳による『八十日間世界一周』などが「サッティ」表記を採用している。
- ^ 『世界歴史大系 南アジア史2 中世・近世』 p.324
- ^ 『世界の女性史15 サリーの女たち』p.245
- ^ 『中国とインドの諸情報 第一の書』 p.68
- ^ 『大旅行記 (4)』 p.309-313
- ^ 『ムガル帝国誌』 p.94-108
- ^ ベンガル地方やアッサム地方のヒンドゥー法は、改革派と呼ばれるダーヤバーガ派に属する。それ以外のインド全域は、正統派と呼ばれるミタークシャラー派に属する。
- ^ 1811年、ローイのまだ若い義姉がサティーによって死んでいる。
- ^ 『キリスト教歴史2000年史』p.572
- ^ 1782年、ニザーム藩王国の領土であった北デカンのジャールナープルでの儀式の様子である。東インド会社のイギリス人がたまたま通りかかり、儀式の様子に驚き、寡婦を駐屯地に連れて帰ってしまった。
- ^ 『インド神話入門』 p.99
- ^ 『インド神話入門』 p.39
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