サッカー 歴史

サッカー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 23:39 UTC 版)

歴史

起源

紀元前400 ~ 375年に作られたピレウスの墓碑には、パライストラでボールの練習をする若者が彫られている。
代の画家蘇漢臣「長春百子圖」
談山神社のけまり祭

サッカーは、古代からあったとされる[22]

南米ではアマゾンの熱帯雨林から天然ゴムが採取できた為、早くからボールを蹴る競技が行われていた。パタゴニアアンデスのインディオ文明からは、様々なボール(もしくはそれに類するもの)や、ボールを蹴る競技の証拠が見つかっている。紀元前1500年チリのピリマタム、パタゴニアのチョエカ、紀元前800年メキシコマヤ文明のポク・タ・ポクまたはピッツ、アステカのウラマリツリなどがあった[23][24]

足でボールを蹴る遊戯は、考古学的には、古代エジプト古代ギリシャ古代ローマから足でボールを蹴る人物のレリーフが発見されている(紀元前200年古代ギリシャのエピスキロス、紀元前200年古代ローマのパルパツウム)[24]

FIFAミュージアムでは、日本と中国の蹴鞠メソアメリカの球技、古代ギリシャの球技エピスキロス英語版やファエニンダ(Phainínda)、アポラクシス(aporraxis)、オウラニア(ourania)、古代ローマの球技ハルパストゥム英語版トリゴン英語版、フォリス、パガニース、アレナータなどがサッカー前史として紹介されている[25]

中国・日本・東南アジア

中国では戦国時代に足で鞠を蹴りあう蹴鞠(しゅうきく)という遊戯が存在したことが、前漢末(紀元前1世紀)の「戦国策」に見える。同じく前漢の史記には、蹴鞠が、軍事訓練の基礎的な課目の一つであったと記載されている[26]

2014年には、内モンゴル自治区バヤンノール市磴口県で、早期青銅器時代から新石器時代後期の約5000年前の岩壁画に蹴鞠が描かれていたことが発見された[26]。2014年にFIFAのゼップ・ブラッター会長が中国の博物館に「中国はサッカー発祥の地」とする認定証をおくった際は物議を醸した[27][28]

蹴鞠は日本にも伝わり、644年には遊ばれており、独自の発展を遂げた[29]。FIFAミュージアムは、日本の蹴鞠は、何世紀も受け継がれてきた歴史的な記録を持っており、正確な詳細がわかっている唯一の古代の球技であると紹介している[25]

東南アジアマレー半島には、ボールを落とさないように数人で蹴り合うセパラガがあり、蹴鞠に類似している。タイには、篭の中にボールを蹴り入れることを競うジャンクイタクローがあり、これらはサッカーとバレーボールを合わせたようなセパタクロー(Sepak Takraw)として、9世紀からスポーツとして遊ばれている[30]。セパタクローは、中国の蹴鞠が伝わったものともいわれる[31][32]

イタリア

17世紀、フィレンツェで行われたカルチョ・フィオレンティノの様子

15世紀イタリアでも、イングランドのフットボールに良く似た「カルチョ」(Calcio) という遊びが存在した。この遊びがイングランドやフランスと決定的に異なる点は、農村地帯の広い空間でなく、都市の限られた空間である広場で行われていたことである。そのため自ずとフィールドが限定され、参加人数も限られたものとなり、簡単な役割や作戦も決められていたようで、これは現在のフットボールにかなり近い存在であったと言える。

サッカーの確立

フットボールやカルチョのような遊びは近世末までヨーロッパ各地で行われていた。イングランドで行われていたものについては、決められたルールなどなく、色々なやり方でプレーされており、そのため極めて乱暴で、殺人を除くあらゆる手段が使われ、時に死者を出すことすらあったため、1314年にロンドン市長エドワード2世の名で禁止令を出して以降、1847年までの533年間で、わかっているだけで42回にわたって禁止令が出されている。16世紀に宗教改革が行われると、禁欲的な生活から少し開放的になり、国王の庇護のもとに試合が行われるようになった[33]。ところが18世紀中頃から19世紀にかけて勃興した産業革命によって、大量の工場労働者を生み出すために農村の共同体が崩壊させられると次第に廃れていった。

農村の代わりにフットボールをレクリエーションとして受け入れ、近代的な「スポーツ」として成立させたのがイングランドにおけるパブリックスクールである。パブリックスクールでも当初は農村での遊びに近い形態で行われていた。18世紀の後半にパブリックスクールが上流階級の子弟のための教育機関となると、生徒は自分達よりも下の階級に属する校長や教師の指導に従わなくなった。この時期(18世紀後半から19世紀初め)にかけてのパブリックスクールには乱暴な雰囲気があり、フットボールもそのような雰囲気のなかで行なわれており、上級生が下級生に権力をふるうための手段ともなっていた[34]。産業革命により新たに台頭した企業家たちがパブリックスクールの運営にもかかわるようになると、上級生が下級生を支配するのではなく、教師の権威が確立され、学校の規律が守られるようになった。こうしたパブリックスクール自体の改革によって、フットボールもまたルールに基づき人格形成に役立つような「スポーツ」を目指すようになった[35][33]

フットボールとラグビーの分岐

当時のフットボールは学校毎にルールが異なり、他校との試合の際はその都度ルール調整のための話し合いが持たれていたが、手間もかかり、ルールに対する理解に齟齬を来たした。そのため、ルール統一を目指した協議がしばしば行われ、1846年ケンブリッジ大学で共通ルールとしてのケンブリッジルールが立案された。これが現在のサッカーのルールの基になった[24]。ケンブリッジルールの特徴としてラグビー校式のルールがほぼ取り入れられなかったことが挙げられる。上流階級の出身者が多いイートン校ハーロー校の卒業生が、中流階級の子弟が比較的多いラグビー校の卒業生を格下とみなしていた階級差別もこの一因であったことが指摘されている[36]

こうして1850年代までにはイートン校を中心とする「手を使うことを制限するルール」と、ラグビー校を中心とする「手を使うことを許可するルール」との二大勢力に収束していったが、両者の間には依然として大きな隔たりがあった。1863年には、一部のクラブはボールを手で持って運ぶこと(キャリング)、ボールを運んでいる相手の脛を蹴ること(ハッキング)を認めるラグビー校スタイルのルールを採用し、その他のクラブはどちらも禁止していた。1863年10月26日にイギリスロンドンにある居酒屋フリーメイソンズ・タバーンにて、ロンドンの12(11とする資料もある)のクラブが「統一ルールの作成と、試合における同ルールの運用に携わる協会の設立」を目指した会議を開いた。参加したクラブは、バーンズ、ブラックヒース(後に脱退)、ブラックヒース・スクール、クルセイダーズ、クリスタル・パレス、フォレスト、ケンジントン・スクール、ノー・ネイムズ、パーシバル・ハウス、サーピトンなどである。この日がフットボール協会(FA)の公式な設立日とされる。この日の会合ではハッキング派と反対派との間の激しい隔たりがあった。同年11月17日の会合ではハッキング派が優位に立ち、この問題を議論した。FAの主事エベネーザー・コッブ・モーリーによって起草されたFAの規則の初稿はこの好みを反映し、今日ではサッカーよりもラグビーに近いと見なされるであろう多くの要素を含んでいる。

11月24日の会合では、「ハッキング派」が再び辛うじて過半数を占めた。しかしながら、この会合で、モーリーはその年の10月に出版されキャリングとハッキングを禁止したケンブリッジ大学のフットボール規則に出席者の注意を向けさせた。ケンブリッジルールの議論とこの問題に関してケンブリッジと意思疎通をはかることを勧める提案によって、規則の最終的な「調停」は12月1日の会合に先延ばしとなった[37]。ラグビー式フットボールを支持する多くの代表者はこの追加会合に出席せず[38][39]、結果としてキャリングとハッキングは禁止された[39]。ブラックヒースと他のハッキング支持派クラブはFAを脱退した[注釈 7]。ハッキング派(ラグビー派)は、1871年にラグビーフットボール連合を設立した。

同1863年12月、FAの規則の最終版が正式に採用された、14条から成る統一ルールが誕生した[41]。これを現代サッカーの始まりと見なすことができる。FAのフットボールは協会式フットボール(Association Football)と呼ばれるようになった。その省略形 soc に「人」を意味する -er をつけたものが soccer の語源であり、1880年代頃から使われているといわれている。1863年の規則と現在の規則との大きな違いは以下の通りである。

  • クロスバーがなく、ゴールはどの高さでも決めることができること(今日のオーストラリアンフットボールと同じ)
  • ほとんどのハンドリングは禁止だったが、ボールのキャッチは認められていた(持ったまま走ったり、投げたりはできなかった)。フェアキャッチに対してはフリーキックが与えられた(今日のオーストラリアンフットボール、ラグビーユニオンアメリカンフットボールに残っている)。
  • 厳格なオフサイドルール。ボールより前にいる味方選手はオフサイドとなった(今日のラグビーユニオンのオフサイドと似ている)。唯一の例外はボールがゴールラインの後方から蹴られた時。
  • ボールがタッチの外に出た後に最初にボールに触った選手にスローインが与えられた。ボールはタッチラインから直角に投げ入れなければならなかった(今日のラグビーユニオンのラインアウトと同じ)。
  • コーナーキックはなかった。ボールがゴールラインの後ろに出た時は、ラグビーと幾分似た状況となった。攻撃側が最初にボールに触った時は攻撃側がボールを触った地点から15ヤード後方からゴールへのフリーキックを得て(ラグビーのコンバージョンに幾分似ている)、守備側が最初にボールに触った時は、ゴールラインの後方からのキックアウトとなった(現在のゴールキックに相当する)。
  • ゴールが決まる毎にエンドを交換した。
  • ゴールキーパー、審判、反則に対する罰、試合時間、ハーフタイム、選手の数、ピッチのマーキング(プレーエリアの境界線を印す旗のみ)については規定が設けられていなかった。

このFAルールでの初の試合、つまり世界初の「サッカー」の試合は、1863年12月19日にイングランドで行われたリッチモンド対バーンズ戦で、0-0の引き分けだった[24]

1850年代は英語圏でパブリックスクールや大学との繋りを持たない多くのクラブが設立され、様々なルールでフットボールをプレーしていた。その内の1つの北部のクラブであるシェフィールドFCは1858年にシェフィールド・ルールを策定し、このルールは北部地域ではサッカーよりも人気を博していた。シェフィールド・ルールではコーナーキックスローイン、クロスバーが考案され、またフェアキャッチを廃止したことによりヘディングの技術が発展した。サッカーはこれらの要素を取り込みつつ、最終的に1877年にはFAのルールとシェフィールド・ルールが統一された。ゴールキーパーのポジションは1871年に導入された。

サッカーの伝播

1872年、イングランドスコットランドの間で行われた世界初の公式国際試合(当時の新聞の挿絵)

イングランドのパブリックスクールで始められたサッカーは、パブリックスクールのOBを中心に早い段階からイギリス各地域(スコットランドウェールズアイルランド)に広まっていった。1870年3月5日ロンドンのケニントン・オーヴァルで「非公式」ながら、世界初の国際試合がイングランドスコットランドの間で行われ、1-1の引き分けに終わった[24]。その後、この試合も含め両者は5回に渡り非公式国際試合を行った[注釈 8]1872年11月30日に、グラスゴウのパーティック地区のハミルトン・クレッセント・グラウンドで、世界で最初の“公式”国際試合が、イングランドとスコットランドの間で実施された。スコアは0-0の引き分けだった[24]。その後1880年代までに、スコットランドウェールズアイルランドではサッカー協会が結成された。19世紀後半のイギリスは世界中のあらゆる場所に進出する大英帝国であったので、サッカーが世界中に伝播されるのに非常に都合がよかった。サッカーは最初海外に進出するイギリス人が駐在先でプレーしたことによって伝えられた。1880年代末までには、ベルギースイスフランスドイツといった西ヨーロッパ、中部ヨーロッパ、1890年代末までには東ヨーロッパや南米に、20世紀初頭にはアジア地域にも伝播した。

1863年イングランドで近代サッカー(現代のサッカー)が誕生した時からイングランドはロングボール戦法だった。イングランドに勝てなかったスコットランドは、1867年にショートパス戦法を考案。スコットランドはショートパス戦法確立後、1872年-1882年の10年間で、イングランドに対し、7勝2敗2分け得点39失点31試合平均得点3.55平均失点1.91と大きく勝ち越した。この2つの戦法が、近代サッカー(現代のサッカー)伝来と同時か時を経て各国に伝播されていき、各国のサッカー戦術の源流となった。

各国でいつ、どのようにサッカーが伝播し受容されていったかについては各国のサッカーの項目にある歴史の項を参照されたい。

サッカー大会の開始

イングランドでは、1872年に最初のサッカー大会となるFAカップが開始された。これは他の多くの国、地域でのカップ戦のモデルになっている。FAカップでは最初はアマチュアクラブや、大学チームが活躍していたが、1880年代に入ると、生活保障を受けるプロフェッショナルプレーヤーが誕生しこれを主体としたクラブが上位を占めるようになった。こうした国内強豪クラブを集めて実施されたのが1888年から始まったフットボールリーグである。これはサッカーでは最初のリーグ戦であり、多くの国、地域が自国のリーグ戦のモデルとしている。

プロフェッショナルの誕生と産業化

20世紀初頭までにイングランドでは完全にプロフェッショナルが主体となり、他の国、地域でもこれに追随した。アマチュアとプロフェッショナルの間で多少の軋轢があり、時期的な違いが見られるものの、当時強豪国と呼ばれていた国・地域のほとんどは1920年代までにプロフェッショナルへの移行を果たしている。

プロフェッショナルとなった彼等に払われるサラリーは当初ごく僅かなものであり、これはパブ仲間内で出し合ったお金で遣り繰りすることは可能であった。次第に選手へのサラリーが増大し、高額な移籍金で選手を集めるクラブが出現し始めると小額の資本でクラブを運営していくことは難しくなり、クラブの運営はより大きな資本を持つ者の手にゆだねられるようになった。最初は企業家、商人、医師といった地元の名士が名乗りを上げたが、1920年代以降になると次第にもっと大きな資本がクラブの運営に手を出すようになってきた。フィアットの資本的後援を受けたユヴェントスや、フィリップスの後援を受けたPSVアイントホーフェンなどはその一例である。

国際大会

サッカーで最初の国際大会は、オリンピックのサッカー競技であった。公開競技としては第一回のアテネオリンピックから行われており、1908年ロンドンオリンピックで公式競技として採用された。

オリンピックのシステムとサッカーのそれは互いに矛盾する点が幾つか見られた。前述の通り1920年代までに強豪国のほとんどがプロフェッショナルへの移行を果たしていたが、五輪憲章アマチュア条項が規定されたオリンピックのサッカー競技では最強のナショナルチームを結成することは不可能であった。1904年に結成された国際サッカー連盟(FIFA)は、1930年からアマチュアプロフェッショナルも出場可能な真のサッカー代表世界王者を決める大会としてFIFAワールドカップを開始した。なお、「ワールドカップ」という名称を最初に用いたのはサッカーである。以降アマチュアのオリンピックは急速に興味を失われていくことになる。なおオリンピックサッカー競技はその後、1984年のロサンゼルス五輪によるプロ参加の容認(五輪憲章アマチュア条項自体は、このロサンゼルス五輪より10年前の1974年の第75回IOC総会で削除[42])などの制度の変遷を経て、1992年バルセロナ大会以降は男子に関しては「23歳以下の選手による大会」という性格を得るに至っている(詳細はオリンピックのサッカー競技の記事を参照)。なお、女子は1996年アトランタ五輪から五輪競技に採用され、採用時から現在まで女子A代表(年齢制限なしのその国最強の代表)の大会となっている。同じく女子A代表のFIFA女子ワールドカップは1991年から開催されている。

また、スキャモンの発達曲線から区分された育成年代のサッカー選手の各発達段階[43]に国際経験を積むことで、更なる成長を促すという目的で[要出典]各年代別世界大会が男女とも開催されている。男子は1977年に開始されたFIFAワールドユース選手権(現FIFA U-20ワールドカップ)、女子は2002年に開始されたFIFA U-20女子ワールドカップが最初に開始されたFIFAの年代別世界大会である。

第二次世界大戦後には各大陸連盟が設立され、これらの下で大陸別選手権(例:アジアではAFCアジアカップ)が開催されるようになった。また同時に、各大陸連盟はクラブチームによる大陸別選手権(例:アジアではアジアクラブ選手権〔現AFCチャンピオンズリーグ〕)も実施した。ただしクラブチームによる世界選手権、FIFAクラブワールドカップが創設されるのは21世紀を待たなければならなかった。


注釈

  1. ^ 日本語ではこれを略して「ア式蹴球(あしきしゅうきゅう)」とも呼ぶ。
  2. ^ アメリカンフットボールは、アメリカではフットボール(football)、イギリスでは(American football)を使用する
  3. ^ 大陸連盟加盟国ではほかにニウエシント・マールテンも使用。近年ではオーストラリアニュージーランドも「soccer」を用いていたが、それぞれ2004年・2007年に名称を「football」に変更した。
  4. ^ 例:チャウ・シンチーの映画「少林サッカー」=原題「少林足球」
  5. ^ これは古来の遊戯「蹴鞠」(けまり)を連想して名づけられたといわれ、文献史料等を検討すると日本にサッカーが本格的に普及し始めた1905年以降の創作と考えられる。これ以前の文献には、フートボール、アッソシエーションフットボール、フットボールが散見され、「蹴球」が現れるのは大正時代になってからである
  6. ^ これは、1945年まで続いた日本統治の結果として、同一の協会(大日本蹴球協会、現在の財団法人日本サッカー協会の前身)の下にあった影響が大きい。漢字表記が用いられなくなっても呼び方はこのままで変わっていない
  7. ^ 最も顕著なハッキング派であったブラックヒースのフランシス・キャンベルは、「ハッキングに賛成する」規則が採用されるのを防ぐために11月24日の会合を不適切に運営したとしてFA会長アーサー・ペンバー英語版、モーリー、そして彼らの仲間を糾弾した[40]。ペンバーはそういった「非紳士的な行為の訴え」を否認した
  8. ^ 1870年の11月19日、ケニントン・オーヴァルでイングランドが1-0で勝利。1871年2月25日、同地区で1-1引き分け。1871年11月18日、ロンドンでイングランドが2-1で勝利、1872年2月24日、ロンドンでイングランドが1-0の勝利。一連の非公式国際試合は、それらの試合を企画したイングランドサッカー協会 (FA) 第4代事務局長チャールズ・ウィリアム・オールコックの名前にちなんで、オールコックの国際試合と呼ばれている。
  9. ^ 国だけでなく地域が加盟の理由はFIFA参照
  10. ^ 2006年時点の各国別の競技人口ランキングも、FIFA公式HPで閲覧することが出来る。但し、2006年時点でのFIFA加盟協会のみ。All Playersは各協会未登録者も合わせた競技人口、Registered playersは各協会登録競技者人口、Unregistered Playersが各協会未登録競技人口、Clubsがクラブ数、Officialsが競技役員総数である[45][46]
  11. ^ サッカーの競技規則はFIFAではなく、国際サッカー評議会 (IFAB) が定めている。2015年2月頃に改正されたサッカー競技規則2015/2016までは、IFABが制定したルール(競技規則等)をFIFAが冊子として発行していたが、2016年3月IFAB年次総会(AGM)で改正されたサッカー競技規則2016/2017以降は、IFABが直接ルール(競技規則等)の英語版(正式な原本)、フランス語版、ドイツ語版およびスペイン語版の冊子(ルールブック。競技規則本)を発行している。文章表現や解釈に疑問が生じた場合は、英語版の競技規則に基づくものとされている
  12. ^ つまり、ルール改正にはFIFAの4票、英本土4協会が各1票の計8票のうち6票以上が必要であり、FIFAだけでも英本土4協会だけでも決められないようになっている[50]

出典

  1. ^ a b c 松井良明『球技の誕生』平凡社、2015年, p.18-19.
  2. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、日本大百科全書(ニッポニカ)、コトバンク
  3. ^ W杯視聴者300億人突破 2002年を軽く超える(2006.6、オリンピックプラス、情報源ロイター共同)
  4. ^ 世界で最もファンが多いスポーツトップ10(2010.10、GIGAZINE、元情報源10 Most Watched Sports In The World(同月、Top10List))
  5. ^ ウィズダム英和辞典. 三省堂 
  6. ^ a b c 日本大百科全書. 小学館 
  7. ^ What's The Origin of the Word "Soccer"?”. Lexico Dictionaries | English. 2021年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月22日閲覧。
  8. ^ Origin and meaning of soccer”. Online Etymology Dictionary. 2018年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月29日閲覧。
  9. ^ a b c d e f Clarke, Donald (2021年7月3日). “There is no easier way to annoy a British soccer fan than referring to soccer as 'soccer'” (英語). The Irish Times. オリジナルの2022年11月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221130021358/https://www.irishtimes.com/culture/there-is-no-easier-way-to-annoy-a-british-soccer-fan-than-referring-to-soccer-as-soccer-1.4608849 2022年11月30日閲覧。 
  10. ^ JFA公式HPサッカーQ&A - サッカー全般 (3)サッカーの語源は?
  11. ^ 日本はなぜサッカーと呼ぶ? 世界はフットボールが主流 - 2018ワールドカップ - 朝日新聞
  12. ^ Sir Matt Busby 、 Soccer at the Top: My Life in Football , Sphere 1974
  13. ^ IFAB. “Procedures to determine the winner of a match or home-and-away” (PDF). Laws of the Game 2010/2011. FIFA. pp. 51–52. http://www.fifa.com/mm/document/affederation/generic/81/42/36/lawsofthegame_2010_11_e.pdf 2011年3月4日閲覧。 
  14. ^ How to head a football )”. 2010年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年1月3日閲覧。
  15. ^ Laws of the game (Law 12)”. FIFA. 2007年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年9月24日閲覧。
  16. ^ IFAB. “Law 11 – Offside” (PDF). Laws of the Game 2010/2011. FIFA. p. 31. http://www.fifa.com/mm/document/affederation/generic/81/42/36/lawsofthegame_2010_11_e.pdf 2011年3月4日閲覧。 
  17. ^ Laws of the game (Law 8)”. FIFA. 2007年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年9月24日閲覧。
  18. ^ “England Premiership (2005/2006)”. Sportpress.com. http://www.sportpress.com/stats/en/738_england_premiership_2005_2006/11_league_summary.html 2007年6月5日閲覧。  [リンク切れ]
  19. ^ Laws of the game (Law 3–Number of Players)”. FIFA. 2007年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年9月24日閲覧。
  20. ^ “Positions guide, Who is in a team?”. BBC Sport (BBC). (2005年9月1日). オリジナルの2007年10月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071021101352/http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/football/rules_and_equipment/4196830.stm 2007年9月24日閲覧。 
  21. ^ “Formations”. BBC Sport (BBC). (2005年9月1日). オリジナルの2007年10月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071017060153/http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/football/rules_and_equipment/4197420.stm 2007年9月24日閲覧。 
  22. ^ 3. サッカーの起源と伝播 - スポーツの歴史を知る スポーツとは - スポーツ 歴史の検証 - 特集”. 笹川スポーツ財団 (2017年2月10日). 2021年9月13日閲覧。
  23. ^ サッカーの起源をたどると「生けにえ」ありの危険な古代球技にナショナルジオグラフィック、2022.11.22
  24. ^ a b c d e f デイヴィッド・ゴールドブラッド著・野間けいこ訳『2002ワールドカップ32カ国・データブック』株式会社ネコパブリッシング ネコウェブ
  25. ^ a b ORIGINS: PRE-HISTORIES OF FOOTBALL”. FIFA Museum. 2023年10月14日閲覧。
  26. ^ a b 約5000年前の蹴鞠の岩壁画が発見 内モンゴル人民網日本語版 2014年07月08日14:14
  27. ^ “FIFAが「サッカーの発祥地は中国」と認定”. 人民網. (2014年6月11日). http://j.people.com.cn/n/2014/0611/c206603-8739942.html 2018年1月3日閲覧。 
  28. ^ “熱点話題:(20)サッカーの起源は中国”. 毎日新聞. (2014年6月11日). https://mainichi.jp/articles/20140611/mog/00m/030/013000c 2018年1月3日閲覧。 [リンク切れ]
  29. ^ 日本書紀24巻、皇極天皇三年(644)正月条、「打毱(まりうち・ちゃうきゅう)の侶に預りて、皮鞋の毱の隨に脱け落つる」,神社と深くつながる「蹴鞠」國學院大学2018年2月16日
  30. ^ セパタクローとは?ルールや発祥国は?分かりやすく徹底解説!
  31. ^ Aditya Widya Putri (2018年9月1日). “Sepak Takraw yang Diperebutkan Indonesia, Malaysia, dan Thailand” (インドネシア語). https://tirto.id/sepak-takraw-yang-diperebutkan-indonesia-malaysia-dan-thailand-cVLn 2021年1月26日閲覧。 
  32. ^ “Sepaktakraw Berasal Dari Negara Mana?” (インドネシア語). (2006年12月5日). https://m.antaranews.com/berita/47933/sepaktakraw-berasal-dari-negara-mana 2021年1月26日閲覧。 
  33. ^ a b JFA研修「温故知新」。サッカーとルールの起源を辿る”. 日本サッカー協会 (2013年9月19日). 2014年8月28日閲覧。
  34. ^ 山本 浩『フットボールの文化史』筑摩書房、1998年、73=74、76–77頁。ISBN 978-4480057532 
  35. ^ アルフレッド・ヴァール/著 大住良之/監修 遠藤ゆかり/訳『サッカーの歴史』創元社、2002年、20–21頁。ISBN 978-4-422-21161-9 
  36. ^ 山本 浩『フットボールの文化史』筑摩書房、1998年、133–134頁。ISBN 978-4480057532 
  37. ^ “The Football Association”. Bell's Life in London: p. 6. (1863年11月28日). https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Football_Association_(Bells_Life_in_London)_1863-11-28.png. "The President pointed out that the vote just passed to all intents and purposes annulled the business of the evening, whereupon Mr. Alcock said it was too late to proceed further, and moved that the meeting do adjourn till Tuesday next, Dec. 1, and it was so resolved." 
  38. ^ Harvey (2005), pp. 144-145
  39. ^ a b “The Football Association”. Supplement to Bell's Life in London: p. 1. (1863年12月5日). https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Football_Association_(Bell%27s_Life_in_London),_1863-12-05.png 
  40. ^ “The Football Association”. Supplement to Bell's Life in London: p. 1. (1863年12月5日). https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Football_Association_(Bell%27s_Life_in_London),_1863-12-05.png. "Mr Campbell: [...] When the last meeting was held for the express purpose [...] of settling the proposed laws, they ought to have gone on with the rules as proposed by the association, and not taken the course they did as to the Cambridge rules, but the resolution and amendments had been proposed and passed in the way they had been without being properly put to the meeting, because it was found that the "hacking" party were too strong" 
  41. ^ F・P・マグーンJr『フットボールの社会史』岩波書店、1985年。ISBN 978-4004203124 
  42. ^ オリンピック物語第五部 アマとプロ〈4〉読売新聞-2004年1月24日付[リンク切れ]
  43. ^ 発育発達から見たゴールデンエイジの概念
  44. ^ 66th FIFA Congress, Mexico City 2016-FIFA公式HP2016年5月13日
  45. ^ a b FIFA Big Count 2006: 270 million people active in football-FIFA公式HP2007年5月31日国際サッカー連盟(FIFA)
  46. ^ Big Count 2006 Statistical Summary Report by Association-FIFA公式HP2007年7月3日
  47. ^ 「なんてチャンスが少ない大会なんだ」過去に苦い経験をした本田圭佑が“4v4U10”を創設した理由「最悪、親が関与しすぎて敗戦になるルールも」 | サッカーダイジェストWeb”. www.soccerdigestweb.com. 2023年8月3日閲覧。
  48. ^ JDFA概要”. 一般社団法人日本ろう者サッカー協会. 2017年2月13日閲覧。
  49. ^ JFAサッカー競技規則
  50. ^ a b 国際サッカー評議会(IFAB)の役割・組織・会議とルール改正手続き・歴史等
  51. ^ 競技規則の解釈と審判員のためのガイドラインP132-P136 国際サッカー評議会の規約-1993年2月承認
  52. ^ a b サッカー競技規則等-日本サッカー協会公式HP
  53. ^ CLとELで来季から延長戦「4人目」交代枠導入へ、UEFAがルール改正”. フランス通信社 (2018年3月28日). 2019年6月2日閲覧。
  54. ^ 参考:Microsoft PowerPoint - 11. Law 11 Offside.ppt (PDF)FIFA公式サイト (オフサイドの解説スライド)、2010年9月11日参照






サッカーと同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「サッカー」の関連用語

サッカーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



サッカーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのサッカー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS