グレゴリオ暦
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キリスト紀元とグレゴリオ暦の新年
月日を導く暦法そのものと年数を数える紀元(紀年法)は別の概念であるが、上述のように、グレゴリオ暦はその置閏法をキリスト紀元の年数に基づいて定めるものとして制定されているので、キリスト紀元と不可分一体の関係にある。ところで、キリスト紀元の正式名称は、グレゴリオ暦改暦勅書(Inter Gravissimas)末尾の日付にもある通り、"anno incarnationis dominicae" すなわち「主(イエス・キリスト)の受肉(受胎)から数えた年数」である。この点からすれば、キリスト紀元年を1つ繰り上げるべき日すなわち新年は、イエスが受胎した日すなわち受胎告知日の3月25日が正当となるはずである。実際、改暦直前のローマ教皇庁自身が、3月25日を年初とするユリウス暦を使用していた。しかしグレゴリオ暦は、ユリウス・カエサルがユリウス暦を制定した当時の新年すなわち1月1日をその年初とする方法を採用した[注釈 8]。したがってグレゴリオ暦では常に1月1日にキリスト紀元年数が1つ増える。なお、グレゴリオ暦月日の年数として記されていても、ローマ教皇庁の公文書に記されていた教皇在位年数や、イギリスおよび英連邦王国諸国の公文書で近年まで使われていた国王在位年数(regnal year)などは、日本の元号と異なり即位日をもって年数が一つ増加する。
各国・各地域における導入
ユリウス暦と太陽年(実際の季節)とのずれは、13世紀の哲学者ロジャー・ベーコンが指摘してから300年もの間顧みられず、16世紀になって宗教上の問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し新たにグレゴリオ暦を制定した後も、それがローマ教皇による発令だったので、その導入時期は国・地域によってまちまちであった。カトリックの国は比較的早く導入したが、一方でそうでない国では宗派上の対立もあって、導入までに少なくとも100年以上かかった。正教会の大半は現在も改暦せずユリウス暦を使用し続けている。非キリスト教国においては、1873年の日本(後述)を皮切りに、徐々にグレゴリオ暦を導入する国家が増加していった。
カトリック
グレゴリオ暦の制定後、実施日である1582年10月15日に即座にこの暦を導入したのは、カトリックを奉じるイタリア諸国、スペイン、スペインに併合されていたポルトガル、ポーランドである。フランスは2か月ほど遅れたものの、1582年中に導入を果たした。1583年には神聖ローマ帝国のカトリック諸邦で、1584年にはスイスのカトリック諸州で導入され、カトリック諸国の改暦は数年を経ずして完了した。
プロテスタント
プロテスタント諸国は、グレゴリオ暦への改暦に消極的だった。その理由の一つとして、復活祭の日付の決定がある。自らの祭事の日付をカトリックが定めた暦によって決められることを嫌ったのである。しかし、ユリウス暦の日付がずれており、ずれた日付を基に祭日を決めることに問題があることは、プロテスタントの宗教家も認識はしていた。したがって、グレゴリオ暦はプロテスタントにも徐々に浸透した。
最も早くグレゴリオ暦を導入したのは、ドイツのプロテスタント諸国であった。1699年のレーゲンスブルク帝国議会において、日付の決定のみグレゴリオ暦を使用するが、復活祭の日付の計算にはプロテスタントのドイツ人天文学者ヨハネス・ケプラーが作成したルドルフ星表を使うということで妥協した。この暦は改良帝国暦と呼ばれた。しかし、ケプラーはグレゴリオ暦の方が優れていることを知っていたので、日付計算はすべてグレゴリオ暦で行っていた。このため、実質的には改良暦はグレゴリオ暦で計算するのとほぼ同じだった。この妥協はうまくいき、1700年に実施された際には隣国デンマークもこれに倣い、周辺のプロテスタント諸国も徐々にこれに追随していった。
1752年にはイギリスが帝国全域においてグレゴリオ暦を導入、1753年にはスウェーデンが独自暦だったスウェーデン暦を廃止してグレゴリオ暦に完全移行し、全てのプロテスタント諸国がグレゴリオ暦を導入することになった。
正教会
正教会が優勢な東欧では、導入までにより長い時間がかかった。16世紀に、コンスタンディヌーポリ全地総主教イェレミアス2世はグレゴリオ暦を否認し、他の正教会でもグレゴリオ暦を承認する教会はなかった。このことはブレスト合同が不完全なものに終わる結果にも影響があった。
グレゴリオ暦を使用するフィンランド正教会を除き、エルサレム総主教庁、グルジア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、日本正教会を含む正教会は、現在でもユリウス暦を使用している。
ロシアで最も強い影響力をもつロシア正教会は正教会に属しており、現在でもユリウス暦を使用している。同国で1917年グレゴリオ暦3月に起きた革命を「2月革命」、同11月に起きた革命を「10月革命」と呼称するのは、ロシア革命が起きた1918年までユリウス暦を使用していたからである。 ロシア革命後のコンスタンディヌーポリ教会が1923年に採用した暦は修正ユリウス暦(通称:ロシア暦/英語: Revised Julian calendar)と呼ばれるものであり、厳密にはグレゴリオ暦ではないが、グレゴリオ暦とユリウス暦の月日の修正が行われ、2800年までは二つの暦の間にずれが出ないようになっている。なお、2800年以降は再びずれが生じる。 現在ロシア国内では、正教会を除きグレゴリオ暦を使用している。したがって、ユリウス暦12月25日の降誕祭は、ロシアのカレンダーでは「1月7日」と表示されている。
他方、復活大祭の算出にはすべての正教会がユリウス暦を使用するので、復活祭およびそれに伴う祭日・斎日はフィンランド正教会以外の正教会が一致して祝っている。ただし、これはユダヤ教の祭日が決まった後でキリスト教の祭日を決定するという、初期のキリスト教の祭日決定法に従っているからであり、グレゴリオ暦を導入していないことによるものではない。ユダヤ教では1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するので、正教会では完全にグレゴリオ暦に移行できないだけである。
東方諸教会
アルメニア使徒教会では、1923年以来グレゴリオ暦が採用されている[要出典]。ただし、エルサレムのアルメニア総主教区に関しては例外的にユリウス暦を使用している[23]。
シリア正教会においては地域により、あるいは各信徒内での伝統の差異により、ユリウス暦とグレゴリオ暦が併用されている[要出典]。
コプト正教においてはグレゴリオ暦は採用されておらず、独自のコプト暦が用いられている。
アッシリア東方教会では1964年に当時のアッシリア総主教マル・エシャイ・シムン23世が行った宗教的改革の一環としてグレゴリオ暦が採用されている。ただしこの改革はすべての信徒に受け入れられた訳ではなく、改革に反対する信徒の一部は古代東方教会として分離独立している。
日本におけるグレゴリオ暦導入
改暦の公布
日本では、ほぼ西暦1872年に当たる明治5年、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」とする改暦ノ布告(明治5年太政官布告第337号)を布告した。
この布告では、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用すること、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を改めて明治6年1月1日とすることなどを定めた。したがって、明治5年まで使用されていた天保暦は、明治6年以降は旧暦となった。これが明治改暦である。
改暦ノ布告は年も押し迫った明治5年11月9日(グレゴリオ暦1872年12月9日)に公布され、社会的な混乱をきたした。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦によって従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害をこうむることになった。
一方、福澤諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して、改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の1873年(明治6年)1月1日付けで慶應義塾蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(1879年(明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している[24][25]。
改暦の理由
これほど急な新暦導入が行われた理由として、明治政府の財政状況が逼迫していたことが挙げられる。
当時参議であった大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため、13か月となる。すると、当時支払いが月給制に移行したばかりの官吏への報酬を、1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給で済む[注釈 9]。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11か月分で済ますことができる。
当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算であったが、新暦導入を機に週休制に改めることで、休業日を年間50日余りに減らすことができる[26]。
置閏法の不備と修正
改暦ノ布告は、施行まで1か月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、置閏法に不備があった。それはグレゴリオ暦の肝心な要素である「西暦年数が100で割り切れるが400で割り切れない年(400年間に3回ある。)を、閏年としない」旨の規定が欠落していたことである。また、厳密に言えば、4年毎に閏年を置くとしても、どの年が閏年になるのかは、布告からは読み取れない。
このままでは導入された「新しい太陽暦」はグレゴリオ暦ではなく、さりとて日付が12日ずれているためユリウス暦そのものでもなく、「ユリウス暦と同じ置閏法を採用した日本独自の暦」となってしまう。また、布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた。これは、起草者が参考にした天文書『遠西観象図説』の誤りと考えられている。
そこで、西暦1898年(皇紀2558年・明治31年)5月11日に、改めて勅令「閏年ニ關スル件」(明治31年勅令第90号)を出して、置閏法をグレゴリオ暦に合わせたものに改めた。
- 閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)
- 神武天皇即位紀元年數ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス
- 但シ紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス
この勅令では、神武天皇即位紀元(皇紀)年数を用いて閏年か平年かを判別している。ただし皇紀自体から660を引いた値、すなわち同年のキリスト紀元と全く同じ数を引数として計算するため、グレゴリオ暦と全く同じ置閏法を実現できる。この置閏法の誤りを修正する勅令が公布された時には、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年、すなわち西暦1900年(明治33年)は1年半後に迫っていた。
もっとも、以上の経過説明に対しては、布告に先立き明治5年11月5日付けで市川斎宮による建白書が政府に提出されているところ、その暦法の提案内容は、神武天皇即位紀元年数が100で割れる年を閏年とするが400で割りきれない年は平年とするものであった(この暦法では、グレゴリオ暦と異なり、西暦1900年は閏年になるのに対し、神武天皇即位紀元2600年である西暦1940年が平年となる。)ことから、政府はグレゴリオ暦の置閏法を正確に把握していなかったのではなく、特別の平年をいつにすべきかの議論を先延ばししたのではないかとの指摘がある[27]。
導入の経過
国立天文台暦計算室の暦Wikiの記事「明治以降の編暦」も参照のこと。
- 明治5年10月1日(1872年11月1日):例年どおり、弘暦者(頒暦商社)により翌年の暦(旧暦)が全国で発売される。
- 11月初旬(12月初旬):太政官権大外史塚本明毅により建議される[28]。
- 11月9日(12月9日):「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)を公布。突如として明治5年は12月2日で終了することが定められる。
- 11月23日(12月23日):太政官布告第359号で「来ル十二月朔日二日ノ両日今十一月卅日卅一日ト被定候」(12月1日および2日を11月30日および31日と定めた)とする。翌24日付け太政官達書で取り消す。
- 11月27日(12月27日):太政官布達第374号により、「当十二月ノ分ハ朔日二日別段月給ハ不賜」(この12月の分は、1日・2日の2日あるが、別段月給を支給しない。)と、12月分の月給不支給が各省に通告される[29]。
- 12月2日:天保暦を廃止。
- 1873年1月1日に当たる明治5年12月3日(旧暦)を明治6年1月1日(新暦)とする太陽暦への改暦(明治改暦)。
- 1873年(明治6年)1月12日:頒暦商社の損失補填のため、向こう3年間の暦販売権を認める。
- 1875年(明治8年)1月12日:頒暦商社の暦販売権を、1882年(明治15年)まで延長する。
- 1883年(明治16年):本暦と略本暦が伊勢神宮から頒布される。
- 1898年(明治31年)5月11日:明治5年の改暦における置閏法の問題(明治33年(西暦1900年)がグレゴリオ暦と異なり閏年となってしまう)を修正した勅令「閏年ニ關スル件」(明治31年勅令第90号)が公布される。
- 1910年(明治43年):官暦の旧暦併記が消滅。
- 2033年:旧暦2033年問題(2033年の秋から翌2034年の春にかけて、旧暦の月名および閏月の配置が、天保暦本来のルールでは決定できない問題)
ただし、国立天文台は、毎年2月に「暦要項」を官報に告示し、翌年の「二十四節気および雑節」、「朔弦望」を計算・提示しているため、旧暦の「30日の大月、29日の小月」の設定、置閏の基準である「中気」の提示に相当するものが「公的」に行われていることになる[注釈 10]。
各国のグレゴリオ暦導入年月日
詳細なリストは、en:List of adoption dates of the Gregorian calendar by countryを参照。
- 1582年10月15日 - イタリア、スペイン(ポルトガルを含む)、サヴォイ公国、ポーランド・リトアニア共和国
- 1582年12月20日 - フランス王国 後に中断(フランス共和暦)
- 1583年1月1日 - ベルギー、オランダのカトリック諸邦
- 1583〜1587年 - ドイツ、スイス、ハンガリーのカトリック諸都市
- 1700年3月1日 - ドイツのプロテスタント諸都市、デンマーク
- 1752年9月14日 - イギリス帝国(後のアメリカ合衆国など当時の植民地すべて)
- 1753年3月1日 - スウェーデン(フィンランドを含む)
- 1867年10月18日 - アラスカ
- 日付変更線がアラスカの東側から西側に移動されたため、金曜日が2回連続して繰り返された。
- 1873年(明治6年)1月1日 - 日本
- 1896年(建陽元年)1月1日 - 大韓帝国
- 1912年(民国1年)1月1日 - 中華民国(建国とともに採用、同年2月12日の清朝滅亡とともに国内全域で正式な暦となる)
- 1918年2月14日 - ソビエト・ロシア(1929年10月1日にソビエト連邦暦に移行した)
- 1923年3月1日 - ギリシャ
- 1940年6月27日 - ソビエト連邦(1929年10月1日より採用されていたソビエト連邦暦から復帰した)
- 1941年 (2485タイ太陽暦年)- タイ王国
- 2016年春 - サウジアラビア[31]
問題点と改暦運動
グレゴリオ暦は、ユリウス暦に比べはるかに精度が高くなっているが、それでも上記の通り誤差は完全に解消されたわけではない。そもそも地球の自転周期と公転周期の比は整数の比になっていない以上、この誤差は必然的に生ずるものである。
また年初の日付が、天文学的な現象とは関係がない日付であること[注釈 11]や、各月の日数が不規則であること、1年の日数が週の倍数になっていないため、暦日と曜日が一致しないことなどの問題点が指摘され[32]、しばしば改暦運動が盛り上がった。こうした改暦運動で実施されたものは、1793年にフランスで施行されたフランス革命暦のみであるが、合理性に徹するあまりそれまでの週や七曜の廃止を行うなどして大混乱を招き、1806年にはグレゴリオ暦に復帰した。しかしその後も、世界暦への改暦提案などがしばしばなされている。
注釈
- ^ この日は、ユリウス通日では「2299160.5」に、ユリウス暦では「1582年10月5日」に相当する。
- ^ 日本の公文書に和暦の記載を義務付ける法令はない[1]。
- ^ 日本は1873年(明治6年)からグレゴリオ暦に移行し、それまでの天保暦を旧暦、導入したグレゴリオ暦を新暦と呼ぶ。
- ^ ユリウス暦での1年は、平均太陽年より約675秒長い。
- ^ (旧暦)明治5年1月1日から同年12月2日まで -(グレゴリオ暦)1872年2月9日から同年12月31日までという対応になっている。
- ^ この日は後にキリスト教に取り入れられ、聖母マリアがイエスを身ごもった日「受胎告知日」として、太陽暦で祝われるイエスの誕生日12月25日すなわちクリスマスと対をなす祝祭日となり、更に中世のユリウス暦においては広く新年として扱われるようになっていく。
- ^ ただし、下記のように、将来、再びズレを生じることになる。「基本的に」が意味するのは、それまでの当面の間ということである。
- ^ この1月1日年初は、グレゴリオ改暦前にすでにヨーロッパ各地に広まりつつあった。
- ^ 太政官布告第359号では、旧暦の11月が29日までであったものを30日・31日を追加してそのまま新暦の明治6年1月1日としていたが、発表翌日に取り消された。太政官布告第372号で、2日しかない12月については月給を給付しない、とした。
- ^ 2015年(平成27年)の場合、2月2日(月)に発行された第6463号の25~26ページに「平成28年(2016)暦要項」が「告示」(掲載)されている。
- ^ この暦法の制定は3月21日を春分とするキリスト教の教義上の都合に由来し、そこから年初である1月1日が定まる。
出典
- ^ “公文書の西暦表記、義務づけ見送り 政府方針”. 日本経済新聞. (2018年8月20日) 2021年12月27日閲覧。
- ^ “Seasons calculator”. 2018年9月3日閲覧。
- ^ 例えば1550年のローマのユリウス暦では、春分点が現地時間で3月11日午前6時51分になる[2]
- ^ a b 天文年鑑2013年版、p190(このページの執筆者:井上圭典)ISBN 9784416212851
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、15頁。ISBN 4-309-22335-4。
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- ^ 青木信仰、「時と暦」、東京大学出版会、1982年9月20日、ISBN 4130020269、p.83 コペルニクスは遠慮深く、「今の天文学は不確かで、暦を改良するほど知識が揃っていない」として断っている。
- ^ De Revolutionibus (On the Revolutions)天球の回転について Nicholas Copernicus, 1543 C.E., 序文 TO HIS HOLINESS, POPE PAUL III,NICHOLAS COPERNICUS’ PREFACE TO HIS BOOKS ON THE REVOLUTIONS の最後のパラグラフの中程。「For not so long ago under Leo X the Lateran Council considered the problem of reforming the ecclesiastical calendar. The issue remained undecided then only because the lengths of the year and month and the motions of the sun and moon were regarded as not yet adequately measured.」
- ^ G Moyer (1983),"Aloisius Lilius and the 'Compendium novae rationis restituendi kalendarium'", pp.173-174, in G.V. Coyne (ed.), The Gregorian Reform of the Calendar: Proceedings of the Vatican conference to commemorate its 400th anniversary (Vatican City: Specola Vaticana), 1983. SAO/NASA Astrophysics Data System (ADS)
- ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.182
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- ^ "Aloisius Lilius and the 'Compendium novae rationis restituendi kalendarium'" p.172, "a book was brought to us by our beloved son Antonio Lilio, doctor of arts and medicine, which his brother Aloysius had formerly written...", Gordon Moyer (1983),The Gregorian Reform of the Calendar: Proceedings of the Vatican conference to commemorate its 400th anniversary (Vatican City: Specola Vaticana), 1983.
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、266, 277頁。ISBN 4-309-22335-4。
- ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 pp.182-183
- ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.183 クラヴィウスからMichael Maestlin への返書による。
- ^ Inter Gravissimas Issued by Pope Gregory XIII, February 24, 1582、グレゴリウス13世が発布した教皇勅書の全文、ラテン語・フランス語・英語の3言語版、英語版はBill Spencer( November 1999, revised March 2002)によるフランス語とラテン語からの重訳
- ^ 英語版のみ、Inter Gravissimas Home Page for Calendar Reform, Bill Spencer, November 24-28, AD 1999
- ^ 表現としての時刻――江戸期まで― 多ヶ谷 有子、p.86, 脚注29、関東学院大学文学部 紀要 第131号(2014)
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、pp.298-299頁。ISBN 4-309-22335-4。
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、p.333頁。ISBN 4-309-22335-4。 ダンカンは1年につき約25.96秒の誤差があるとし、1582年10月から1997年年初までの累積時間を計算している。
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- ^ 福澤は『福澤全集緒言』の中で、「『改暦弁』は風邪で寝込んでいるときに6時間で書き上げたもので、発売後ベストセラーになり、2・3箇月で売上額が700円に達した」、「その後の2・3箇月も同じように売れ続けたので、売上額は合計1000~1500円に達したようだ」と記している。以上の公文を見れば古来の太陰暦を廃し
大 ()陽暦に改むることにして甚 ()だ妙なり。吾々 ()の本願は唯 ()旧を棄 ()てゝ新に就 ()かんとするの一事のみなれば、何は扨 ()置き先 ()ず大賛成を表したりと雖 ()も、抑 ()も一国の暦日を変するが如 ()きは無上の大事件にして、之 ()を断行するには国民一般にその理由を知らしめて丁寧反覆、新旧両暦の相異 ()なる由縁を説き、双方得失の在る所を示して心の底より合点 ()せしむこそ大切なれ。欧羅巴 ()の耶蘇 ()教陽暦国にて、露国の暦は他に異 ()なること僅 ()かに十二日なれども、古来の慣行にて今日尚 ()お之 ()を改むるを得ず。然 ()るに日本に於 ()ては陰陽暦を一時に変化して凡 ()そ一箇月の劇変を断行しながら、政府の布告文を見れば簡単至極 ()にしてその詳 ()なるを知るに由 ()なし、畢竟 ()官辺 ()にその注意なくして且 ()つは筆執 ()る人の乏しきが為 ()めなりと推察せざるを得ず。左 ()れば民間の私に之を説明して余処 ()ながら新政府の盛事 ()を助けんものをと思付 ()き、匆々 ()書綴 ()りたるは改暦弁なり。その起草は発令の月か翌十二月か、日は忘れたり、少々風邪に犯され床 ()の上にて筆を執 ()り、朝より午後に至るまで凡 ()そ六時間にて脱稿したり。固 ()より木葉 ()同様の小冊子にて何の苦労もなかりしが、扨 ()これを木版にして発売を試みたるに何千何万の際限あることなし。三版も五版も同時に彫刻して製本を書林 ()に渡しさえすれば直 ()に売れ行くその有様 ()は之を見ても面白し。一冊何銭とて高 ()の知れたる定価なれども、塵 ()も積れば山と為 ()るの諺 ()に洩 ()れず、発売後二、三箇月にして何かの序 ()に改暦弁より生じたる純益の金高を調べたるに七百円余に上 ()りたることあり。その時、著者は独 ()り心に笑い、この書を綴りたるは僅 ()に六時間の労なり、六時間の報酬に七百円とは実に驚き入る、学者の身に斯 ()る利益を収領 ()しても宜 ()しかるべきやと、恰 ()も半信半疑に自 ()から感じたるは、旧藩士族根性の然 ()らしむる所にして今尚 ()お之 ()を記憶す。二、三箇月の後も売捌 ()は依然として止 ()まず、利益の全額は千円も千五百円も得たることならん。畢竟 ()余が今日に至るまで何に一つの商売もせず、工業もせず、家富みて余 ()あるには非 ()ざれども、大勢の家族と共に心配なく生活して静 ()に老余を楽しむは、改暦弁のみならず他の著訳書より得たる利益の多かりしが故なり。 — -、福澤諭吉 『福澤全集緒言』時事新報社、1897年、102-104頁 。 - ^ 円城寺清 『大隈伯昔日譚』立憲改進党々報局、1895年、601頁 。
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- ^ 「暦の大事典」朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷
- 1 グレゴリオ暦とは
- 2 グレゴリオ暦の概要
- 3 制定に至る背景
- 4 ユリウス暦によるずれ
- 5 暦法
- 6 精度
- 7 キリスト紀元とグレゴリオ暦の新年
- 8 脚注
グレゴリオ暦と同じ種類の言葉
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