クビライ 登場作品について

クビライ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 09:28 UTC 版)

フビライ漢字:忽必烈、モンゴル語 Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、モンゴル帝国の第5代皇帝であり、元朝の初代皇帝(カアン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写ではХубилай хаан。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「フビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān など書かれる。死後は聖徳神功文武皇帝、廟号を世祖と称し、モンゴル語での尊号は「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禅皇帝)。日本語での名前表記については揺れがあるため日本語による表記の節を参照。


  1. ^ モンゴル語で「賢きカアン」を意味する。
  2. ^ フビライ』 - コトバンク
  3. ^ モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (Dai-ön Yeke Mongγol Ulus) すなわち「大元大蒙古国」と称したもの。『元史』世祖本紀巻七 至元八年十一月乙亥(1271年12月18日)条にある詔に、「可建國號曰大元、蓋取易經「乾元」之義。」とある。これは『易経』巻一 乾 に「彖曰、大哉乾元、萬物資始。」とある文言に基づいていた。
  4. ^ 吉川幸次郎「元の諸帝の文学(一) : 元史叢説の一」『東洋史研究』8-3, 1943年8月、pp.169-181
  5. ^ 宮紀子「序章」『モンゴル時代の出版文化』2006年、pp.8-9
  6. ^ コンギラト部族首長家アルチ・ノヤン家の子女。当主アルチ・ノヤンの娘で、姉妹にはジョチの正妃でバトゥの生母オキ・フジンらがいる。
  7. ^ コンギラト部族首長家アルチ・ノヤン家の子女。1281年、チャブイが逝去した後、クビライの希望によりチャブイの後任として皇后に迎えられ右大オルドを引き継いだ。『集史』コンギラト部族志によればアルチ・ノヤンの息子ナチンの娘としているが、『元史』巻百十四 后妃列伝 南必皇后条によると、ナチンの孫である仙童(オラチンの息子)の娘としている。
  8. ^ 泰定帝イェスン・テムルの妃となっていたが、泰定三年(1326年)にクビライのオルドを守るよう詔を受けた。
  9. ^ 『集史』での表記は تورجى Tūrjī ないし دورجى Dūrjī。クビライの長子で、チャブイ皇后との間に儲けた四人の息子たちの長男。『集史』によると、イルハン朝アバカの治世(1265年 - 1282年)まで存命だったらしい。
  10. ^ 『集史』での表記は قوريداى Qūrīdāy。生母はメルキト部族の首長トクトア・ベキの兄弟クトゥの娘だったトゥルキジン・ハトゥン。
  11. ^ 『集史』での表記は هوكاچى Hūkāchī。生母はドルベン部族出身のドルベジン・ハトゥン。七男アウルクチの同母兄。
  12. ^ 『集史』での表記は اوغروقچى Ūghrūqchī。生母はドルベン部族出身のドルベジン・ハトゥン。七男フゲチの同母弟。
  13. ^ 『集史』での表記は اَباچى Ābāchī または اَياچى Āyāchī。生母はチンギス・カンに仕えたフーシン部族出身の功臣ボロクルの娘、フウシジン・ハトゥン。同母弟に九男ココチュがいる。高麗国王忠烈王に降嫁したクトゥルク=ケルミシュもクビライと彼らの生母フウシジンとの娘ではないかと推測されている。
  14. ^ 『集史』での表記は كوكچو Kūkuchū。生母はフウシジン・ハトゥン。八男アバチ(アヤチ)は同母兄。1271年、異母兄ノムガンが中央アジアのカイドゥの鎮圧のため幕僚の右丞相アントンとモンケ家、アリクブケ家などの諸王族とともに派遣されアルマリクに駐営した際に、ノムガンに随行した。しかし、1276年にモンケ家のシリギを中核とする他のトルイ家の王族たちが反乱を起こし(いわゆる「シリギの乱」)、ココチュは捕縛され西方の有力王族たちの協力を欲したシリギらにより人質としてカイドゥのもとに連行された。しかし、カイドゥやジョチ・ウルスはシリギ一統の要請を拒絶し、クビライが南宋戦線からバヤンを派遣して乱を鎮圧すると、ココチュもクビライのもとへ送還された。
  15. ^ 『集史』での表記は قوتلوقتيمور Qūtlūq-Tīmūr。生母不詳。アリクブケとの皇位継承戦争中に誕生し、20歳で亡くなったという。
  16. ^ 『集史』での表記は توقان Tūqān。生母はバヤウト部族出身のバヤウチン・ハトゥン。1285年チャンパ王国遠征のために南方へ派遣される。しかし、途中通過したベトナムの大越陳朝で兵糧などを過剰に徴発したため陳朝の反乱を招き、暑熱と激しい抵抗に苦しんだ。最終的に陳朝の再度の服属は得たが、諸将の戦死など派遣軍の激しい損耗を招いたことをクビライに咎められ、蟄居を命じられたと伝えられる。
  17. ^ 生母は第二オルドのナンブイ皇后。
  18. ^ 森平雅彦 2008.
  19. ^ 斉国大長公主。『元史』巻109・諸公主表では「斉国大長公主忽都魯堅迷失」とある。後の荘穆王后。『高麗史』巻89・后妃伝巻2によると、皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。生母である阿速真可敦については、現在『集史』クビライ・カアン紀に記載されているクビライの第8皇子アヤチ(アバチ)と第9皇子ココチュの生母であったフーシン部族のボロクルムカリ国王をはじめとするいわゆる「チンギス・カンの四駿 (Dörben Külü'üd)」のひとり)の娘、フウシジン皇后 Hūshījīn Khātūn との比定が試みられているが、確定には至っていない[18]
  20. ^ 清水市次郎『通俗義経再興記』文苑閣、1886年8月。NDLJP:881620 
  21. ^ 日置季武 (鶴城散士)『朝日之旗風 : 改良小説』岡本仙助、1886年12月。NDLJP:885293 
  22. ^ 文部省『外国地名及人名取調一覧』杉山辰之助、1902年11月。NDLJP:760999 
  23. ^ 棚橋一郎, 稲葉常楠『日本歴史教科書 下』田沼書店、1902年12月。NDLJP:771391 
  24. ^ 『まるこぽろ紀行』瓜生寅訳補、博文館、1912年4月23日。NDLJP:761741 
  25. ^ ゼームス・スウィンホー 著、箕作麟祥等 訳『北支那戦争記 : 千八百六十年』1874年。NDLJP:774670 
  26. ^ 山崎笛郎『時と歩む世界歴史』ヨコモジ社、1928年。NDLJP:1055653 
  27. ^ 世界史探究 - 新刊教科書のご案内”. 山川出版社. 2023年2月25日閲覧。
  28. ^ 新詳 世界史探究|帝国書院 高等学校新課程情報サイト”. 帝国書院. 2023年2月25日閲覧。
  29. ^ 明解 歴史総合|帝国書院 高等学校新課程情報サイト”. 帝国書院. 2023年2月25日閲覧。


「クビライ」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「クビライ」の関連用語

クビライのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



クビライのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのクビライ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS