キリスト教の歴史 近世

キリスト教の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/27 04:41 UTC 版)

近世

ルネサンス

西欧における近世のキリスト教史は激動の時代であった。東ローマ帝国滅亡の後、亡命したギリシア人学者が携えてきたギリシア語古写本や十字軍によってもたらされたギリシア語古写本は、西方にそれまで知られていなかった古代ギリシア思想を伝えた。これによってイタリアを中心にギリシア語古典の研究が盛んになり、その研究者たちは人文主義者と呼ばれるようになった。主にフィレンツェを中心に展開された新プラトン主義はキリスト教とその他諸々の宗教や哲学との融合を図り、新しい思想が生まれる土台となった。

宗教改革

かつてコンスタンツ公会議で宣言されたカトリック教会の「頭と体の改革」は結局行われず、教会の諸問題は解決されないままであった。16世紀初頭、ドイツでマルティン・ルター贖宥状の問題を提起すると、神学的な問題から政治的な問題へと発展することになった。これが宗教改革の始まりとなる。宗教改革によってカトリック教会が唯一のキリスト教であった西欧はさまざまな教派に分かれていくことになる。ルターの訴えた教会改革はやがてドイツ諸侯の争いとからんで政治問題化、ルターは期せずして新しい教派を創始することになる。こうして「プロテスタント」と呼ばれる諸教会が生まれた。同じころフランスのジャン・カルヴァンも、二重予定説を唱え、長老制に基づく教会をたてて、ジュネーヴを拠点に宗教改革を指導した。

カトリック教会も決して手をこまねいていたわけではなかった。かつて「宗教改革に対して、カトリック教会は対抗改革を行った」と考えられていたが、カトリック教会における改革の動きはルター以前からみられることから「対抗改革」をより広い意味で「カトリック改革」と呼ぶこともある。いずれにせよ、カトリック教会内で弛緩した規律の矯正と信仰教義の再確認の動きが強まった。1545年に始まったトリエント公会議ではプロテスタントとの和解とカトリック教会の綱紀粛正を狙ったが、前者は達成されなかった。一連の改革の中で従来の修道会のスタイルにとらわれない新しい会がいくつも生まれた。特に有名なものはイグナチオ・ロヨラの率いたイエズス会であり、ヨーロッパ各地の再宣教と並行して、大航海時代に連動するようにアジア、アフリカ、アメリカへと多くの宣教師を送った。こうしてフランシスコ・ザビエル1549年に鹿児島に到着、キリスト教が日本にももたらされることになった。イエズス会は日本や中国をはじめ、世界各地でその地域の文化や伝統を尊重する政策をとったため、多くの信徒を獲得することに成功した。

やがてカトリックとプロテスタントの対立は17世紀初頭にドイツ三十年戦争に発展する。これにより西ヨーロッパは荒廃し、その反省から、人格神、キリストの神性、奇跡を否定し、聖書を合理的に解釈しようとする「理神論」が知識階級に普及した。理性的な神が機械論的宇宙を創造したとする理神論は、近代科学の発展に世界観的前提を与えた。理神論の次の段階として、理性そのものを最高原理とした啓蒙主義は、普遍言語、普遍道徳、普遍原理を追求し、歴史を理性の発展または体現と捉える進歩主義ヘーゲル哲学に結実した。

北ドイツのルター派地域では、三十年戦争後に形骸化した宗教改革に対して、ドイツ敬虔主義が教会刷新を行った。回心運動であったドイツ敬虔主義は、聖書のテキストよりも、生きた宗教体験を最重要視した。この時期聖書への批判的研究が開始され、ハレ大学が高等批評の中心地となった。また宗教体験の分析研究は、自由主義神学カント哲学の発展の前提となった。また宗派対立や、教会への権力の集中、および王権と教会権力の癒着などに伴う弊害に対する歴史的反省から、現代に続く政教分離原則が起こったのもこの時代である。

対抗改革は、東欧や東地中海地方にも影響を与えた。ローマ教皇庁は東方教会に統合を働きかけて、一部の教会からは合意を得るに至った。これらの教会では自らの伝統的な典礼を保持しながらもローマの教皇の権威を尊重する事となり、東方典礼カトリック教会と呼ばれるようになった。これらの働きかけの結果、古代5大総主教座のうちアンティオキア・エルサレム・アレクサンドリアには、あらたにカトリックの総司教座がおかれたが、これらはローマ教皇の傘下に入る形での東西教会の合同に反対する正教会・東方諸教会の総主教座と並立することになる。代表的な例としてブレスト合同があるが、このような東方典礼カトリック教会の存在と成立経緯は、正教会側からのカトリック教会への広範な不信感が醸成される要因の一つとなった。

ピューリタン

イングランドでは、ヘンリー8世が離婚問題を機に、カトリック教会から国内の教会を独立させイングランド国教会とした(1534年)。これ以降、イングランドでは、国王の交代の度に宗教政策がプロテスタントとカトリックの間を揺れ動いたが、エリザベス1世の治世において「中道政策」(via media)が採られ、エリザベス朝ルネサンスが開花した。

これに対し、カルヴァンの影響を受けた改革派があくまで徹底的なプロテスタント改革を要求した。清教徒と呼ばれた彼らは政治的弾圧を受け、その一部は宗教的政治的理想の実現のために北アメリカに移民し、残りは国内で国教会から分離し、非国教諸派(長老派教会、改革派、バプテスト派会衆派クウェーカー派)を形成した。

清教徒は次のステュアート朝において清教徒革命を起こして王権を打倒し、一時的に共和国を樹立するが、結局王政復古する。しかし王権に対する議会の優位は決定的となり、名誉革命を経て「君臨するが統治しない」国王の下での議会政治という立憲君主制が確立して、その後の議会的重商主義、自由主義産業革命帝国主義に対応し得る政治環境を用意することとなる。

近世の正教会

ロシア正教会は国家によって保護され、ロシア帝国内で特権的な立場を得たと一般に考えられているが、反面、教会に対し国家の絶えざる干渉が行われ、時に教会の停滞さらには荒廃を招いた。イヴァン4世は、初期には信仰篤い君主として知られ、モスクワに聖ワシリイ大聖堂を建立したが、治世後半は圧政を行うようになり、暴力化した政策に反対したモスクワモスクワ府主教フィリップ2世を側近が殺害することを黙認した[8]。また17世紀後半には、当時のモスクワ総主教ニーコンロシア語版の奉神礼改革を拒否し、それ以前の祈祷様式を保持する古儀式派と呼ばれる分派も発生した。

さらに、ピョートル1世以降の、国家による教会への介入と統制は、正教会史上類をみない厳しいものとなった。ピョートル1世は西欧化政策を教会にも及ぼし、北欧のプロテスタント国の国教制度にならう統制制度を導入した。1700年モスクワ総主教アドリアンが没すると、後任をおくことを禁じ、皇帝が直接任命する聖務会院をおいて、そのかわりとした。また1721年には総主教制を廃止し、聖務会院が教会と修道院を管理するとした。この体制はロシア革命が起こる1917年まで続いた。国家の介入は高位聖職者にもおよび、また修道院の閉鎖と財産の国有化が推し進められた。ドイツ出身のエカチェリーナ2世は、プロテスタントから正教に改宗したものの、教会への統制を厳しくした。この統制のもとで、ロシア教会は精神的に荒廃したとしばしばいわれる。この荒廃の時期は18世紀末まで続き、後述する『フィロカリア』の紹介を中心とした静寂主義が修道院を拠点に広まったことで、ロシア正教会の信仰生活は復興したといわれる[5]

一方、オスマン帝国はキリスト教の信仰の自由を認め、教会財産を尊重したが、教会の活動は布教を中心に制限され、信徒は庇護民としてイスラム教徒より社会的に劣った身分におかれた。また帝国領内での神学教育は禁止された。このため聖職者の養成のために、ローマなど西方に留学して神学を学ぶことが行われた。これは正教会のなかにカトリックの影響を強めることになった[9]




  1. ^ 新聖書辞典
  2. ^ 尾山令仁『聖書の概説』
  3. ^ 『現代カトリック事典』
  4. ^ 後にキリスト教では宗派ごとに外典の範囲が何度も見直されている。詳細は外典を参照。
  5. ^ a b 高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫 1980年 ISBN 978-4-06-158500-3 (4061585002)
  6. ^ a b 高橋保行『東方の光と影』春秋社 (1991-05-30出版)ISBN 978-4-393-26103-3 (4393261038)
  7. ^ a b オリヴィエ・クレマン(訳:冷牟田修二)『東方正教会』白水社 文庫クセジュ ISBN 978-4-560-05607-3 (4560056072)
  8. ^ 川又一英『イヴァン雷帝 -ロシアという謎-』新潮選書、1999年5月30日(161頁~166頁) ISBN 4106005662
  9. ^ 高橋保行『ギリシャ正教』110頁 - 117頁、講談社学術文庫 1980年 ISBN 978-4-06-158500-3 (4061585002)
  10. ^ メンデル・テイラー『伝道の歴史的探求』
  11. ^ 宇田進『福音主義キリスト教と福音派』




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