キリスト教の歴史 概略

キリスト教の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/27 04:41 UTC 版)

概略

紀元1世紀中頃、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。キリスト教の教義はユダヤ教律法を基礎としたイエスや使徒の言行から発展した。理論的発展を基礎付けたのはパウロ書簡およびヨハネによる福音書である。

新約聖書』のほか、ユダヤ教の聖典でもある『旧約聖書』を教典とする。新約聖書の大枠は、4世紀ごろ確立されたが、旧約聖書の範囲は教派により異なる。一般に旧約聖書と新約聖書のみを聖典とする宗教をキリスト教とみなすが、まれにこの両者と同等ないしそれ以上の価値をもつとされる文書を使用し、かつキリスト教を名乗る宗教も存在する。

現在、キリスト教の教派はおもにギリシャなど東地中海沿岸諸国およびロシア米国に広まる正教会ローマ教皇を中心とするカトリック教会、カトリックに対する宗教改革から発生したプロテスタントの諸教派がある。ほかにも、エチオピアエジプトイラクシリアアルメニアインドなどにまたがって信者を有し、その地方では無視できない信徒人口をもつ東方諸教会と呼ばれる教派もある。

諸教派の系統図

キリスト教諸教派の成立の概略を表す樹形図。更に細かい分類方法と経緯があり、この図はあくまで概略である。

古代

初代教会あるいは原始キリスト教

十二使徒イエス・キリストによって使徒として任命されていたと聖書に書かれてあり、教会の信仰、立場、伝承は、自らの始点の一つをエルサレム教会での「聖霊降臨」におく。これがキリスト教の立場である[1][2][3]

一方、批評的な学者[誰?]によれば、「キリスト教」の発生時を決定するのは難しい。今日の学問は、イエス自身ユダヤ教と分離する意識はなかったと想定している。イエスはキリスト教の基盤を用意した人物であり、教会の直接の起源は、イエスの死後、その復活を目撃したとされる使徒の下に集った共同体と推定される。聖書に批評的な立場の学問では、初期の教団がどの時点でユダヤ教と独立な宗教としての「キリスト教」の自覚をもった時点について、多くの者はエルサレム神殿崩壊の後と推定する。当時はイエス自身の活動も含めて、ユダヤ教の一派とみなされていたと推定され、この見地から、当時の教会を「ユダヤ教ナザレ派」と呼ぶこともある。この最初期にすでに複数のキリスト教集団が存在していたことが、パウロ書簡などから確認できる。そこで指導的立場にあったのは、イエスの直接の弟子と親族を指導者として形成されたエルサレム教会であった。

エルサレム教会とアンティオキア教会

批評的な学者は、エルサレム教会とアンティオキア教会が「対立」していたと主張する。エルサレム教会は、禁欲主義の下に財産を共有して生活をする一種の修道的な教団で、布教活動、ましてエルサレムを離れての活動には積極的でなかったと推測される。しかし、ユダヤ教主流派による迫害を契機に各地に離散したヘレニスト(ヘレニスタイ:ギリシア語使用者)が精力的な伝道を展開し、ユダヤ人のみならず異邦人の改宗者が多数加わり、アンティオキア教会が設立されて、一定の力を持ち始めるようになると、エルサレム教会側も黙っては見過ごせず、対外的な活動を余儀なくされたと思われる。批評的な学者は、かならずしもヘレニストではないと思われる新約聖書筆者もギリシア語で著述しているのはこのためであると主張している。

当初エルサレム教会の最高指導者であったペトロは、他の使徒とともに逮捕された。代わりに指導者になったのが、イエスの兄弟または親戚と考えられている「主の兄弟」ヤコブである。

イエスの兄弟ヤコブの仲介と管区の分割

批評的な学者の主張によれば、イエスの兄弟ヤコブはキリスト教共同体の最長老格として、エルサレムで使徒会議を主宰し、異邦人への文化適合を重視するアンティオキア教会と、律法の厳格な遵守を重視するエルサレム教会の間の激しい対立を仲介し、妥協案を提示して解決を図った。その内容は、異邦人改宗者は「しめ殺した動物偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼を含む他の律法の遵守は免除されるというものである。

この妥協案成立以降、エルサレム教会とアンティオキア教会はそれぞれ別個に管区を設置し、相手の管区に対しては干渉や越権行為を行わないこととした。パウロの用語で「自分の割り当てられた範囲内で誇る」と言われる管区の独立性と自治性は、その後設置されたアレクサンドリア、コンスタンティノープル、ローマの各管区の在り方を基礎付ける原則となり、さらに、古代教会における教区裁治権の前提となった。正教会では今もこの主教区の自治と独立を互いに尊重保持している。

ユダヤ教からのキリスト教の自立

紀元60年代のヤコブの処刑、続くペトロやパウロの刑死、さらに第一次ユダヤ戦争66-70年)の結果としてエルサレム神殿が崩壊した後で、(現在のユダヤ教主流派に近い)ファリサイ派がヤムニア会議で、ヘブライ語にルーツを持つもののみを聖典とすることが決定され、ギリシア語の七十人訳聖書はキリスト教徒にとってはこれも(旧約)聖書正典の一つとされるのに対し、ユダヤ教では「外典」となり[4]、完全に袂をわかつことになった。ここにおいてユダヤ教とキリスト教の信条の相違は決定的となる。これ以降「キリスト教」としての歴史が始まったといえる。

エルサレム教会の没落と福音書の出現

ユダヤ戦争以前に、すでにキリスト教は「ヘレニスト」によってユダヤに隣接するサマリアを初めとする地中海沿岸の諸地方へも布教され、各地で教会が設置されていた。これら各地での信仰はエルサレム教会側からみれば逸脱に当たるものもあり、一部はパウロによって軌道修正されたようである。

ユダヤ戦争以後は、キリスト教内のユダヤ教徒は多くが離脱し、またエルサレム教会の権威が失墜する中で、ギリシア語圏のユダヤ人や非ユダヤ人が新たな担い手となった。それがどのような過程を経て、4世紀頃に見られる古代教会組織に至るかの詳細は史料不足のため不明である。現在の教会組織と役職および称号が固定するのは6世紀である。

新約聖書学者の多くは共観福音書ヨハネによる福音書ヨハネの黙示録、公同書簡の成立をユダヤ戦争以降に見ているが、これには異論もある。

帝国内部への信仰拡散と迫害殉教

さらにキリスト教がディアスポラを通じてローマ帝国内に広まっていくと、ローマ帝国政府当局により迫害を受け、多くの殉教者を出した。これにはローマ帝国が元々多神教国家であった事や東方の影響によって発生した皇帝崇拝にキリスト教徒が従わなかったことなどいくつかの理由がある。特にネロドミティアヌスデキウスディオクレティアヌスといった皇帝のもとで迫害が行われたとされるが、ディオクレティアヌスによる迫害を除いてあまり大規模なものではなく、そのディオクレティアヌスによる迫害でさえそれほど大規模であったかは疑問とされる。迫害事例の地理的広がりから、2世紀末には、ローマ帝国全域に教会は組織を広げていたと推測される。また3世紀にはエジプトから砂漠での隠修修道が広まり、独居あるいは集団で荒野で修道生活を行う者(修道者)が多数出た。

1世紀後半から2世紀までの教会内文献(使徒的教父文書)などからの推測によると、この頃、エルサレムのヘブライスト(ユダヤ系)教会と、シリアやエジプトのヘレニスト(ギリシア系)教会とで異なる文化圏の教会が形成されていたが、使徒たちがそれぞれの文化圏を認めていた。カトリック教会によれば、ヘブライスト教会は使徒(司教)と長老(司祭)、ヘレニスト教会は監督(司教)と執事(助祭)と、組織体型(ヒエラルキ)が異なった特徴を持っており、やがて全土の教会において司教、司祭、助祭というヒエラルキが普及するようになる。

ミラノ勅令による公認

数次にわたる迫害にもかかわらずキリスト教の広まりは衰えることなく、4世紀にはキリスト教を公認する国が現れるようになった。301年にはアルメニア王国が初めてキリスト教を国教と定め、次いで350年アクスム王国(現在のエチオピア)でも国教化された。

311年ガレリウス帝が大迫害の後に寛容令を出し、313年コンスタンティヌス1世リキニウス帝によるミラノ勅令によって、他の全ての宗教と共に公認された。その後もユリアヌス帝などの抑圧を受けたが、テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。さらに392年には帝国内でのキリスト教以外の宗教の信仰が禁止された。しかしローマ帝国の上流階層の古典信仰はその後も生き残った。例えば415年になってキリスト教司教の煽動によるキリスト教徒の暴徒がアレクサンドリアムセイオンアレクサンドリア図書館)を略奪破壊し、ヒュパティアのような優れた学者を虐殺するという非道をおかしている。

初期キリスト教徒たちはユダヤ教徒のように土曜日を安息日としていたが、ユダヤ教との対立の中で、徐々にキリストの復活した日とされる日曜日を祝日とするようになった。321年にコンスタンティヌス帝は日曜日強制休業令を強制した。このとき反対者への弾圧により死者が出たともいわれている。日曜日の安息日化は364年のラオディキア教会会議により正式に決定され、現在に至っている。

神学論争勃発と頻繁な公会議開催

古代の神学の中心は主に東方のギリシア教父によるものであった。アレクサンドリアオリゲネスアタナシウスカッパドキアの三教父バシリウスナジアンゾスのグレゴリオスニュッサのグレゴリオスなどである。やがて西方のラテン教父アウグスティヌスなども影響を与えている。

こういった神学の発展にともない教理論争が激しくなる。そのため、しばしば地方教会会議や普遍公会議が行われるようになった。

2世紀以後、マニ教の流入や、モンタノス派アリウス派が起こり、教会内での意見の統一が難しくなった。とくに4世紀以降、キリストの位置付けをめぐる一連の神学論争が教会の分裂を招くまでになった。キリストの位置付けをめぐるアリウス派とアタナシウス派の論争は、暴力を伴う争いを招くまでに過激化していった。

皇帝の介入と正統信仰の誕生

キリスト教の教派間の暴力抗争を解決するため、ローマ皇帝コンスタンティヌスニカイア公会議(325年)を開いた。なお、ローマ皇帝がキリスト教に介入したのはこのときが最初である。コンスタンティヌスは公会議の時点はキリスト教徒ではなかった(洗礼を受けたのは死の直前)。あくまでもローマ帝国の求心力低下の課題解決に図るためキリスト教の勢力を利用することがコンスタンティヌスの意図であった。

このニカイア公会議の結果、アリウス派は異端とされ追放された。さらに皇帝テオドシウス2世により開かれたエフェソス公会議(431年)では、ネストリウス派も異端とされ追放された。

また、単性論両性論の争いでは、一時は単性論が有利な様相を呈したが、最終的に皇帝マルキアヌスが開いたカルケドン公会議(451年)にて単性論が異端とされた。しかし、シリアやエジプトを中心に単性論を支持する教会が多くあったため、各教会で対立司教が立つほどの分裂が生じた。

このように異端説を切り捨てることにより、正統派のキリスト教は自らの教義を洗練させ確立していった。言い換えると排除するべき異端の対比として、この時代に「正統」信仰が誕生したといえよう。

古代異教由来の事物の取り込みと一神教の変容

使徒パウロの活動拠点のアンティオキア教会では異邦人への柔軟な文化適合を重視していた。その影響で、その後のローマ帝国と辺境各地への布教でも、現地の異教の風習や祭礼がキリスト教的再解釈されて積極的に利用された。有名な例では、ローマ教会ではじめられたミトラ教由来の冬至の祭礼クリスマスがある。

さらに多神教世界に布教する際、キリスト教は他の宗教の神殿の場所に教会を建立することを奨励した。この結果、多く女神の神殿が聖母マリアに捧げられる教会に変えられた。そのような女神の例としてミネルウァイシスなどがある。時には異教の神像をそのまま流用することもあった。その例として、イシスとオシリスの像をマリアとイエスの聖母子像へ転用したことなどが指摘される。

禁令解除以後は弾圧の際の殉教者を積極的に称揚することが行われ、諸聖人の記念日や聖像イコン)が使用されるようになった。

異教の多神教的世界観に慣れた古代人にはキリスト教の一神教的世界観を理解することが困難であるが、これらの一種多神教的な事物を内部に取り込むことは彼らへの布教を推進させる力となった。

また東ローマ帝国において、キリスト教の布教は帝国に親和的な環境を作ることにつながるため、東ローマ帝国皇帝は積極的に他民族への布教を後援した。

東方諸教会の成立

公会議による教義の確認は正統教義の確立を促したが、その一方で異端とされた教説の保持者が教会から分離することにもつながった。

異端とされた説には、消えていったものも多かったが、正統派の勢力が及んでいない地域で活路を見出したものや、自派の勢力の強いところで独自の発展を遂げたものもある。アリウス派は、最終的には消滅したものの、一時はゲルマニアを中心に布教し、それなりの期間にわたり勢力を保った。

現在残っているそのような教派に東方諸教会がある。431年エフェソス公会議で異端宣告されたネストリウス派ペルシアを経て中央アジアへと勢力を広げた。更には代の中国にも三夷教の一つ景教として伝来した。景教は大秦寺が建立されるなど、唐代では栄えており、仏教浄土信仰等に与えた影響も指摘されている。現代でも、イラクアッシリア東方教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドトマス派教会(マラバル派)に継承されている。また451年カルケドン公会議で異端宣告されたキリスト単性論は、シリア・エジプト・アルメニアでは多数派として残り、イスラム教化する以前の東方では、数において他を圧していた。現在も単性論教会はシリア・エジプト・アルメニアに相当数の信者を持っており、またカトリックや正教会とも一定の交流を保っている。単性論教会とされる教派には、エジプトのコプト正教会や、その姉妹教会エチオピア正教会、シリアのシリア正教会(ヤコブ派)や、元小アジア(現在はコーカサス地方)のアルメニア使徒教会などがある。但し、これらのいわゆる単性論教会は自らの教説を単性論と看做される事を拒否しており、特に正教会とこれらの教会の和解が急速に進展している。より中立的な呼び名としては「非カルケドン派」がある。

中世

ローマ帝国の分裂後、東ローマ帝国領域内と西ローマ帝国領域内で、キリスト教はそれぞれ違った展開をみせる。この相違は政治的なものにとどまらず、両地域がそれぞれギリシア語圏とラテン語圏に分かれ、元来異なる文化圏に属したことに由来すると考えられよう。やがてコンスタンティノポリス総主教庁ローマ教皇庁は決定的に対立することとなり、1054年正教会ローマ・カトリック教会に分裂する。一方、古代末期に成立した東方諸教会は、イスラム教勢力の拡張とともに、シリア・パレスチナ・エジプトでの勢力を失い、この地方でのキリスト教は少数派となってゆく。

教会組織の発達

東ローマ帝国において宗教上の最高決定権は皇帝の手に握られるようになったとされ、これは「皇帝教皇主義」であると解釈されてきたが、事実はそう単純ではない。確かに後代の西方教会の神聖ローマ皇帝よりも教会に対して東ローマ皇帝が強い影響力を発揮し得たのは事実であるが、法的には皇帝と教会の立場は同格であり、教義は第2ニカイア公会議までの公会議を尊重することが皇帝と教会に求められ、教義に手を触れる事は皇帝といえども許されなかった。

東西教会が教理上の問題で分裂したのちは、首都コンスタンティノポリスの総主教は「全地総主教」としての格式を持つようになり、他の東方三管区を指導することとなった。

西方ではフランク王国ピピン3世による土地の寄進以降、ローマ教皇庁が北イタリアに徐々に自前の領土と勢力圏を持つにいたった。こうして成立したのが教皇領である。また11世紀グレゴリウス7世など一連の有能な教皇たちが現れ、弛緩していた教会の規律を正し、世俗領主たちに握られていた聖職叙任権を取り戻していくことで、カトリック教会の影響力を宗教面のみならず、世俗政治の世界においても強めることになった。王権を超える権威として西欧に影響力を強めるカトリック教会と、聖職叙任権や教会財産の問題をめぐって各地の権力者たちとの対立が起こるようになった。これが叙任権闘争である。

修道院の誕生と発達

修道制度の歴史は古代にまでさかのぼる。古代には洞窟や砂漠で1人修行し、隠者の生活を送るキリスト教徒たちがいたとされ、伝承では聖アントニウスがその始祖であるという。このような人々は独居し、他人と最低限の接触しか持たなかった。しかし、完全に一人で生きていくことには多くの困難が伴ったため、このような修道士たちが集団で暮らす制度が生まれた。これが修道制度の起源である。

ローマ帝国による迫害が終わり、信仰の自由が保障されると、キリスト教徒として、より禁欲的な生活を求めた人々もこの砂漠や人里はなれたところで求道的な生活を行うという運動に加わった。このような生活スタイルはやがてアイルランドにも伝わり、同地で盛んになった。アイルランドの修道者たちはイングランドやヨーロッパ本土に渡って、キリスト教の布教につとめた。

その後、ヨーロッパの東西で修道制度は異なった展開を示す。東方では、個人での信仰を重んじる修道士は時に対立し、組織化されない民衆のいわば代弁者として機能した。聖像破壊運動に対する聖像擁護などはその一例である。修道士はだんだんに発言権を増していき、高位聖職位を独占するに至る。帝国もまた修道士を保護し、アトスメテオラなどの山岳地には大規模な修道院が発達した。

西欧的修道制度はヌルシアのベネディクトゥスが創始することになった。彼の生み出した修道制度の最大の特徴は、同じグループに属するすべての修道者たちが会憲・会則という形で同じ精神を共有することにある。こうして生まれたのがベネディクト会である。ベネディクトゥスにならい、同じ精神と生活スタイルを持った女性たちも集まり、女子修道院が生まれた。「祈り、働け」をモットーにしたベネディクト会は、信仰生活だけでなく労働を重視、荒れた土地を開墾し、農業技術やそれに伴う醸造・製造技術を発展させた。さらに修道院では写本製作によってギリシア・ローマ以来の古典がわずかながらも保存され、旅行者や病人への世話をおこない、ラテン語教育を施すことで中世を通じて文化的・社会的拠点となり、古代の優れた文化をわずかながらも保存し、後世に伝えた。ただし古代の優れた文化の保存と伝承は主としてイスラム世界によりなされた。またビザンティン世界がこれを補完したのであって、西方の修道会の活動はあってもわずかであり、むしろ西方の修道会はより多く古代文化の破壊者であったことも事実である。その後、ベネディクト会の確立したスタイルにならって多くの男女修道会が生まれていった。

イスラムの台頭と聖像破壊運動

東地中海世界のキリスト教は新約聖書の頃にその起源を有するギリシア語典礼を保持するとともに、聖像崇敬を独自の仕方で発展させていった(この反動が聖像破壊運動となる)。当初は腰ほどの高さであった聖職者と一般信徒の間の区切り、イコノスタシスは、やがて教会の床から天井までをさえぎる壮麗な聖画の集まりへと発展し、その配列についての神学また聖像の描き方についての神学および技法上の進展がみられた。

一方、7世紀イスラム教アラビア半島で生まれ、急速に拡大してイスラム帝国を築いた。これは単性論論争で分裂していた東方諸教会にとって大きな痛手となった。7世紀前半にはシリア地方、パレスチナエジプトがイスラム帝国の版図となる。これらの地域の単性論信者はコンスタンティノポリス中心とする東方教会の正統から抑圧されていたので、むしろイスラム帝国を解放者として歓迎した。イスラム帝国治下のキリスト教徒は、一定の人権を保障され、異端とされた諸派に関してはビザンティン帝国治下よりも安全な生活と信仰をも保障されたのである。

しかし同時に彼らはイスラーム世界における異教徒の隷属民(ズィンミー)としてムスリムの下位に置かれ、ハラージュ(地租)・ジズヤ(非改宗者に課せられる税)を徴収されるなど一定の差別と抑圧の元に置かれた。また、支配者によってはとりわけ厳しい迫害を行い、強制改宗を行ったこともあった。このためこの地方ではキリスト教徒が徐々にではあるがイスラム教に改宗していった。しかしこれはダマスカスウマイヤモスクの建設時期に見られるように数世紀をかけたゆっくりとした変化であって、同じ土地にかつて存在した古典古代の神殿がキリスト教徒の破壊を受けたり、アレクサンドリアのムセイオンがキリスト教徒による略奪・虐殺にあったのに比べれば、比較的平和的であったとされる。

638年にはムスリムによりエルサレムが征服された。ウマル1世は征服後エルサレムに入り、エルサレムがイスラム共同体の管理に入ったことを宣言するとともに、エルサレム総主教ソフロニオスと会談して、聖地におけるキリスト教徒がイスラームに屈服しその優越性を認める限りに於いて、ズィンミーとして一定程度の人権を保障することを約束するウマル憲章を発布した。

この段落の主要参考文献:[5]
イスラム教徒からはキリスト教の聖像使用に対して批判があり、これに影響された東ローマ帝国の知識人の間に8世紀には聖像破壊主義がおこった。これは帝国を二分する争いとなり、さらに東ローマ皇帝が聖像破壊主義を支持したことにより、東ローマ帝国とローマ教皇の間に疎遠を生ずることにつながった。この時、東ローマ帝国で皇帝による聖像破壊に対して民衆・修道士達から猛烈な反対運動が起こり、致命者も出た。聖像擁護の論陣を張ったダマスコのヨハンネス(イオアン)は正教会に於いて現代も篤い崇敬の対象となっている。最終的に、第3コンスタンティノポリス公会議において聖像崇敬が教義として確立され、聖像破壊論争は終結した。

教会の東西分裂

この項の主要参考文献:[6]

イスラム帝国は、西方にも影響を及ぼした。ウマイヤ朝カリフのもとに大征服戦争を進め、北アフリカを経てイベリア半島を占領し、ピレネー山脈を越えて西ヨーロッパに迫った。このとき、既にアリウス派からアタナシウス派へと改宗し、西ヨーロッパの覇権と中央集権化を進めていたフランク王国の宮宰カール・マルテルが、トゥール・ポワティエ間の戦いにおいてイスラム教徒軍を撃退した(732年)。

その結果、西欧キリスト教世界という地政学的・宗教的な共通認識が強化された。東ローマ帝国で皇位の簒奪があり、皇帝の血統による継承が途絶えたことを機に、ローマ教皇レオ3世は西暦800年のクリスマスに、カール・マルテルの孫のフランク王カール1世を「ローマ皇帝」として戴冠した。このことと、その後のオットー1世の戴冠による神聖ローマ帝国の成立により、ローマ教皇は、東ローマ帝国の行政上の代理人としての立場から解放され、聖俗が緊密な関係で統治を分かち合うという、西ヨーロッパ独特の政治宗教体制が出現した。

一方、東ローマ帝国では皇帝による聖俗両方の支配が完成し、教会は「キリストに忠実なる支配者」「神の代理人」として統治する皇帝の下で国家宗教として発展を続けたとされる事があるが、法律上では皇帝と総主教は並立して一致協力するものと規程されており(これを正教会ではビザンティン・ハーモニーと称する)、総主教が皇帝権力の側に逆に介入するケースもあった事に見られる通り、様相はそう単純ではない。皇帝と言えど教義を決定する事は出来ず、教義決定は公会議に全てが由来していた。但し、ドイツにおける名目上の存在に留まった神聖ローマ皇帝に比べて、実質的な権力を維持し続けた東ローマ帝国皇帝が相対的に大きな影響力を教会に対して発揮するケースが多かったのは事実である。

9世紀以降、キュリロスメトディオス兄弟などによって東ヨーロッパのスラヴ人への布教が進められ、10世紀には皇帝ニケフォロス2世フォカスの後援でアトス山の修道院共同体が成立した。なおアトス山のヒランダリウ修道院は14世紀を中心としたセルビアの後援に多くを負っており、アトス山は東ローマ帝国にとどまらない東方の正教会世界全体の修道の聖地として成長を続けた。

古代からローマ司教は自らの権威をペトロパウロに由来するものとして、全教会における首位性を主張していた(『クレメンスの書簡』など)が、ローマ帝国が東西に分裂することで帝国西方の中心地としてローマの地位も高まっていった。西方ではラテン教父と呼ばれる一群の神学者たちがあらわれ、ギリシア語で生み出された神学を継承し、ラテン語によって高度な神学を展開したが、一方で後代になるほどにギリシア語を解さない西方神学者も増えていった。

こうしてギリシア語を使う東方との相違は政治・宗教の両面で深まっていった。ローマ教皇の教皇首位権を巡る解釈にも、東西教会の見解の相違は増すばかりであった。

こうして互いに独自の発展を遂げたローマの聖座とコンスタンティノポリス総主教座は、フィリオクェ問題フォティオス問題など何度かの対立を経て、決定的に対立することとなり、1054年にはローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教は互いを破門するに至った(大シスマ)。

この相互破門によって「聖なる一つの公の使徒の教会」はカトリック教会正教会とに分裂することになったとされるが、これが本当に分裂を決定付けた事件であったかには疑問符も付く。第4回十字軍までは東西教会の分裂は確定してはいなかったというのが正教会側の解釈である。その後も西方では東方教会との再統合を求める声は根強く残り、公会議などで幾度か統合の道が模索されることになるが、第4回十字軍以降決定的に悪化した正教会側の反ローマカトリック感情により成功しなかった。

なお1054年の「相互破門」は、現代には東西両教会によって互いに解かれている。にもかかわらず東西教会の合同が未だに成立していない事実は、東西両教会の分裂が1054年の事件だけで起きたものでは無い事を証明するものである。

十字軍と東方教会

この項の主要参考文献:[6]

西ローマ帝国滅亡後、ローマ教皇は東ローマ帝国の影響下に置かれたが、神聖ローマ帝国(フランク王国)が成立したことで、教皇は東ローマ帝国から政治的に独立するようになる。しかし、世俗権力の介入の問題は解決せず、聖職者の叙任権をめぐって神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世が争ったカノッサの屈辱で有名な叙任権闘争問題で神聖ローマ帝国の皇帝や君主との対立が生じた。この対立は第1ラテラン公会議におけるヴォルムス協約の承認により、世俗介入を否定する教皇側の勝利で解決する。またこの公会議によって十字軍が承認される。

11世紀テュルクイスラム王朝セルジューク朝パレスチナを占領した。小アジアの領土回復を望む東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス1095年、ローマ教皇に援軍を要請。これに答えた教皇ウルバヌス2世は同年、イスラム教徒の手からの「聖地奪回」を訴えた。これが一連の十字軍運動の始まりである。教皇はキリスト教徒の聖地巡礼がイスラム教徒によって阻害されていると考えていた。ウルバヌス2世はクレルモンでの教会会議の終わりに、十字軍への参加によって罪の償いが行われると宣言、諸侯への従軍を呼びかけた。フランスでは多くの諸侯がこの呼びかけに応じて立ち上がった。ドイツを支配していた神聖ローマ帝国と教皇庁との関係は当時、それほど良好ではなかったが、聖地奪回という呼びかけを聞いたドイツ諸侯も奮起し、従軍者が多く現れた。

こうしてドイツ・フランスの諸侯を中心とした第1回十字軍エルサレムの占領に成功(エルサレム攻囲戦)。パレスチナとシリア地方を侵略して、エルサレム王国など十字軍国家とよばれる一群のキリスト教国家を建設した。このとき、正教会のエルサレム総主教は追放され、カトリック教会のエルサレム総大司教が立てられた。

十字軍将兵の従軍理由はしばしば領地や褒賞目当てだけであったかのように語られることが多いが、宗教的情熱も重要な動機の一つであった。ただ、一部の十字軍将兵により略奪や暴力、虐殺行為が行われたこともまた事実である。このような暴力の対象はイスラム教徒だけでなく、中東のギリシャ正教徒・シリア正教徒、ヨーロッパ在住のユダヤ人たちも含まれた。例えば十字軍の出発時、ドイツのヴォルムスで約800人が、マインツで約1000人が殺害された。エルサレム攻囲戦でもユダヤ人やアラブ人の非戦闘員を虐殺しており、エルサレム市民の犠牲者数は約7万人と伝えられる。

十字軍国家はその後イスラム教徒の巻き返しに会い、14世紀初めまでに全てが滅ぼされ、ヨーロッパ人は西アジアを追われた。最終的に十字軍の「聖地をキリスト教徒の手に」という目標は達成されなかった。一方、その過程で、聖地巡礼者を防衛する騎士修道会、イスラム教徒に伝道を行う托鉢修道会、捕虜交換と傷病者治療の救出修道会が誕生して、西欧キリスト教世界の文化的変革の触媒となった。そのひとつであるドミニコ会は、アラビア語文献の輸入と翻訳を通してアリストテレス哲学を再発見し、スコラ学を開花させた。

長きに渡った十字軍遠征への従軍によって騎士階級は疲弊没落し、西ヨーロッパにおいて封建領主の力が弱まり、農奴に対して貨幣地代の納入を認めた結果、富農、さらに独立自営農民の出現を促し、経済構造が変化した。また、封建領主の相対的地位低下によって、国王は中央集権化を有利に進め、ヨーロッパ絶対王政出現の端緒となった。

他方で東方教会にとって、十字軍ならびにそれに対抗するイスラム勢力の動きは甚大な影響を与えた。第4回十字軍により首都コンスタンティノポリスを占領(1203年 - 1261年)されてしまった東ローマ帝国は、その後もイスラム教徒の西方進出に伴って衰退し、1453年、最終的にオスマン帝国に滅ぼされた(詳細はコンスタンティノープルの陥落を参照)。

オスマン帝国はキリスト教徒の信仰の自由を認めたが、キリスト教徒は信仰の代償として貢納ならびにイェニチェリに子供を差し出すことを求められ、またオスマン帝国領内での神学教育や布教などの教会活動は著しく制約された。帝国の滅亡によりコンスタンティノポリス総主教が全正教会に及ぼしていた権威は揺らぎ、16世紀にはロシアモスクワ総主教が誕生してロシア正教会が独立した。

中世の正教会における修道の隆盛

この項の主要参考文献:[7]

アンドレイ・ルブリョフによるイコン『至聖三者

14・15世紀の東ローマ帝国は上記の通り世俗的には様々な憂き目にあっていたが、正教会には新たな修道精神の勃興が起きていた。東ローマ帝国のアトス山の修道院においては、静寂主義とも訳されるヘシュカスムが、グレゴリオス・パラマスにより14世紀に体系化が完成された(なおこの時、ヘシュカスムを巡ってグレゴリオス・パラマスと対立、論争したバルラアムは、論争に敗れ東ローマ帝国を追放されたのち、ローマカトリック教会に迎えられて司教となった)。

ルーシにもそれまで少なく無い数の修道院があったが、東ローマ帝国の静寂主義の影響と修道熱の高まりも受けて14・15世紀には特に修道運動が活発化し、荒野修道院運動が起こっていた。後にロシア正教会最大の修道院、至聖三者聖セルギイ大修道院に発展する修道院が、ラドネジの聖セルギイによって1345年に創始された。

14・15世紀の、東ローマ帝国およびルーシの修道士達の足跡は、後代、正教会全体に大きな影響を及ぼすものとなった。当時ルーシで活躍したイコン画家であり修道士でもあったアンドレイ・ルブリョフのイコン『至聖三者』は、正教会のみならずカトリック教会でも使用される事があり、この時代、キリスト教会全体に与えた正教会の精神的影響は無視出来ない。

信徒活動の展開と異端審問

10世紀以降、カトリック教会内に信徒活動という新しい形の運動が生まれた。その中には村落内の信心会のようなものから始まって、やがては周辺地域をまきこむ大規模な運動に進展したものもあった。それは一般信徒たちが初めて自発的に、真にキリスト教的な生活を目指した運動であった。その背景には、当時広く流布した終末思想や、妻帯(ニコライズム)や聖職売買(シモニア)などが横行していた聖職者たちへの批判がこめられていた。そのうち、11世紀に盛んになったカタリ派12世紀に現れたワルドー派異端のレッテルを貼られて弾圧を受けることになる。ワルドー派は「リヨンの貧者」と名乗り、創始者ワルドーがイエスのような清貧の生活を目指して始めた信徒運動であった。彼らは自分たちで福音の精神を学んで説教を行い、信徒による説教の許可をもとめて第3ラテラン公会議に代表を送ったが認められず、やがて異端とされることになった。不思議なことに同じ時期に、同じ清貧の精神で人々に説教を行っていたある青年の活動は教皇のお墨付きを得ることになった。彼こそがアッシジのフランチェスコであり、これがフランシスコ会の起源である。同じ頃、やはり説教を使命とする一群の人々が現れ、教皇の認可を受けてドミニコ会が生まれた。

12世紀以降、西欧の王室や権力者たちは中央集権化を推し進め、その一環として地域に割拠する勢力の制圧を図った。このような行動はしばしば宗教的正当性の名目を借りて行われた。その代表的なものが南仏におけるアルビジョア十字軍の活動である。カトリック教会にとっても増え続けるカタリ派やワルドー派といった異端への対策が急務となっており、ここに世俗の王権との利害が一致した。こうして教皇庁が任命した審問官が各地に赴いて裁判を行い、世俗の権力がそれをひきとって処罰するという異端審問が盛んに行われるようになった。宗教界の権威者が裁き、世俗の支配者がこれを処罰するというシステムを共同で生み出したのは教皇グレゴリウス9世と皇帝フリードリヒ2世であった。この時期の異端審問を後のスペイン異端審問やローマでの異端審問と区別して「中世異端審問」という。

カタリ派とワルドー派の殲滅を目的に始められた異端審問は、同派が活発だった北イタリアと南フランスを中心に行われた。このシステムは欧州各地へ輸出されたが、北欧、ドイツイングランドなどではほとんど行われることはなかった。このように12世紀から13世紀にかけて行われた中世異端審問は後世の人々が想像していたほど大規模なものではなかったことが研究によって明らかになっている。例えばもっとも有名な異端審問官ベルナール・ギーBernard Gui:ベルナルドゥス・グイドーニス、Bernardus Guidonis)は16年にわたってその職についていたが、在職中に扱った多くの審問のうち、死刑を宣告したのは40件にすぎなかった。

カトリック教会の混乱

叙任権闘争以降、カトリック教会の中で教皇権は世俗の王権を超越する権威であるという認識が強まった。教会法のエキスパートであり、政治家として有能だった教皇インノケンティウス3世は欧州諸王家とたくみに駆け引きし、名実ともに教皇権の優越性を示すことに成功した。

しかし、フランスイングランドなどで王権が伸張すると、この教皇権の優越という概念をめぐって教皇庁と激しい争いが行われるようになった。具体的には教会財産の所有権の問題や聖職者裁判権、司教任命権などが争われた。この状況の中で教皇の顧問団であるはずの枢機卿会は出身(もしくは結びつきの強い)国家の利益の代弁者のようになっていき、互いに国益を優先して争うことで混乱し、教皇庁の権威を低下させていった。枢機卿団内の争いで優位にたったのはフランスだった。フィリップ4世は枢機卿団によって教皇庁をコントロールすることに成功、ついにはフランス出身の教皇クレメンス5世を出すに至った。王の意を受けた教皇はフランス以外の枢機卿団の反対を無視して教皇庁をフランスのアヴィニョンに移転。古代、ユダヤ人が強制的にバビロンへ移されたバビロン捕囚にならい、これは「アヴィニョン捕囚」であると非難された。

教皇庁がアヴィニョンに居座ったことでローマに残っていた枢機卿団は独自の教皇を立て、その正統性を主張するに至った。ここに2人の「正統」教皇が現れるという事態になった。事態を収拾しようとピサで開かれた教会会議は、ローマとアヴィニョンの2人の教皇の廃位を宣言して、新しい教皇ヨハネス23世を選出したが、2人が廃位を認めず、それぞれの支持者を集めたため、3人の教皇が立つという異常な事態になった。

このような前例のない混乱の中で、教皇の権威は低下し、聖職者たちの中に公会議こそが教会の至上決定権を持つべきであるという考え方が強まった。これが公会議主義である。その中心人物であった神学者ジャン・ジェルソンは神聖ローマ皇帝ジギスムントの後ろ盾を得て、3教皇問題の解決を狙ったコンスタンツ公会議の開催にこぎつけた。この背景には、教会政治に強い影響力を持ったフランス王へのジギスムントの対抗心もあった。

この公会議においてついに3人の教皇を退位させることに成功し、マルティヌス5世教皇を選出した。また、教会の抜本的な改革の必要も叫ばれており、コンスタンツ公会議も教会改革の実施を宣言して閉会した。しかし、コンスタンツ公会議の宣言した教会改革は結局行われず、公会議によって教会を変えていくという理想も失われていくことが結果的に宗教改革の伏線となっていく。

魔女狩りの発生と終焉

しばしば異端審問の一部として語られることが多い魔女狩りであるが、実際にはその時期・地域ともに異端審問と重なる部分がほとんどないことがわかっている。というのも異端審問が盛んに行われたのは12世紀から13世紀の南フランスおよび北イタリアであったが、魔女狩りは16世紀から17世紀にかけてドイツフランスイングランドスコットランドなどで起こっているからである。魔女狩りは本来、農民や一般市民の間で私刑のかたちで行われていたが、15世紀の終わりになって魔法を用いるものは悪魔と契約していると考えが広まったことで聖俗両権力者たちも迫害に乗り出すようになった。

魔女狩りが行われた理由や急速に衰退した理由については多くの説が提示されているが、確実とされるものはまだない。19世紀には金銭目的、あるいはひそかに生き残っていた古代宗教への弾圧といった説も出されたが、現在では受け入れられていない。魔女狩りはカトリック・プロテスタントを問わず行われたが、ヨーロッパ全域で長期にわたって起こったわけではなく、実際には特定の地域で、特定の時期に集中して発生したことがわかっている。また異端審問所が魔女狩りを推し進めたという言い方も不正確で、15世紀の終わりに設立されて16世紀に盛んに活動したスペイン異端審問では魔女は審議の対象にならず、同じく16世紀にローマに教皇庁直属の異端審問所が設けられたにもかかわらず、イタリアではほとんど魔女狩りは起こらなかった。

魔女狩りは中世というよりはむしろ近世初期に突如として沸騰した社会現象であった。かつて魔女狩りでは数百万人が虐殺されたといわれた時期もあったが、現代の歴史家たちの研究によって全期間を通じての犠牲者数は多くて四万人と見積もられている。




  1. ^ 新聖書辞典
  2. ^ 尾山令仁『聖書の概説』
  3. ^ 『現代カトリック事典』
  4. ^ 後にキリスト教では宗派ごとに外典の範囲が何度も見直されている。詳細は外典を参照。
  5. ^ a b 高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫 1980年 ISBN 978-4-06-158500-3 (4061585002)
  6. ^ a b 高橋保行『東方の光と影』春秋社 (1991-05-30出版)ISBN 978-4-393-26103-3 (4393261038)
  7. ^ a b オリヴィエ・クレマン(訳:冷牟田修二)『東方正教会』白水社 文庫クセジュ ISBN 978-4-560-05607-3 (4560056072)
  8. ^ 川又一英『イヴァン雷帝 -ロシアという謎-』新潮選書、1999年5月30日(161頁~166頁) ISBN 4106005662
  9. ^ 高橋保行『ギリシャ正教』110頁 - 117頁、講談社学術文庫 1980年 ISBN 978-4-06-158500-3 (4061585002)
  10. ^ メンデル・テイラー『伝道の歴史的探求』
  11. ^ 宇田進『福音主義キリスト教と福音派』




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