キリキア・アルメニア王国 キリキア・アルメニア王国の概要

キリキア・アルメニア王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/06 15:46 UTC 版)

キリキア・アルメニア王国
Կիլիկիոյ Հայոց Թագաւորութիւն
1080年/1198年 - 1375年
(国旗) (国章)
公用語 アルメニア語
首都 シス
元首等
1080年 - 1095年 ルーベン1世
1374年 - 1396年レヴォン6世
変遷
建国 1080年/1198年
マムルークによる占領1375年

建国年については、第一王朝(ルーベン王朝)の創始年である1080年をして建国年とみなす説と、ローマ教皇らに王冠を授けられて独立国と認められた1198年からとみなす説があり、文献によってまちまちである(本項では、あくまで章の分割の容易さなどから、前説を採ることにする)。1198年に当時のキリキア侯レヴォン2世が王として認められるまでは、代々の君主は侯 (prince) であり、国も王国ではなく侯国であったことに注意を要する。

建国当時は隣にアンティオキア公国などの十字軍国家があり、それらの国々や西欧諸国と密接に関わっていた国である。


  1. ^ ここでは、現在のアルメニア共和国の領地のみならず、トルコ東部やイラン北西部、つまりヴァン湖アララト山ナヒチェヴァンのある地域も含まれる。
  2. ^ 同じキリスト教徒と言えどアルメニア語を解さず、ギリシャ語を話す彼らはカフカスのアルメニア人にとっては、忌むべき存在であり、彼らの目には侵略者としてしか映らなかった。アルメニア人は非カルケドン派正教会に分類されるアルメニア使徒教会の信徒であり、正教会(カルケドン派)を信仰していた東ローマ帝国と常に対立していた。
  3. ^ これらキリキアやシリア北部は、古代の大アルメニア王国時代にわずかな期間ではあるがアルメニアの領域としたことがある地域である。シリア北部のアルメニア人はその後、十字軍指導者の1人ボードワンを来訪させ、この地にボードワンを王とするエデッサ伯国が建国される。
  4. ^ 彼らはそれぞれ内心、東方にて自分の支配する領地を欲しがっており、それが十字軍に参加した理由の1つであった。彼らは十字軍に好意的なアルメニア移民のことを知り、領地を作るには絶好の場所だと考えていた。そのため両者は互いにライバルであると考えており、そのため別々の行動をとっていた。協力して進軍していたわけではない。逆にマミストラ郊外では互いの部隊による小さな争いまでおきている。しかし、建国の野望を抱いてキリキアで戦闘したあと、彼らはここに建国することをあきらめる。
  5. ^ のちに教会はアルメニア王国の失地回復にともなってアルメニア本土へ還座したが、それからもキリキア・アルメニア教会が残ることになる。
  6. ^ このとき、十字軍側もキリキアをあてにしていた。教皇クレメンス3世やアルメニア使徒教会総主教のグリゴール4世が彼に親書を送ったというだけで、十字軍がキリキアにどれほど依存していたかがわかる。しかもその書簡は、彼に十字軍への軍事的・経済的な援助を「求める」のではなく「願う」ものだったのである。
  7. ^ とはいえ、キリキアは以前から三日月地帯の交易路を勢力圏に取りこんでおり、元からキリキアの経済的ライバルだったイスラム王朝にとっても、この時になって糾弾するようなことではなかった。マムルーク朝の成立そのものが、この衝突を引きおこしたといえる。


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