キャラ (コミュニケーション)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 05:49 UTC 版)
この用法の「キャラ」という語の発祥は定かではないが、1999年の『現代用語の基礎知識』や新聞記事での使用が確認されているため、その頃から日本の若者の間で浸透した表現だと考えられる(漫画・ゲームなどのキャラクターの省略形としての「キャラ」はそれより以前からの使用が確認されている)[3]。
本項で説明している「キャラ」は、省略されることなく「キャラクター」といわれることもあり[4]、実質的には和製英語といえる[5]。もともと「キャラクター」という言葉には「物語の登場人物」という意味があるが、この意味での「物語」を「小さな共同体(コミュニティ)」と読み替え、「コミュニティ内での個人の位置(イメージ)」という意味で「キャラ/キャラクター」という言葉を使うような思考形式が生まれていったのだと考えられる[6]。
キャラによるコミュニケーション
現代の日本の若者の間では、「キャラ」と呼ばれる類型的役割に応じて振舞うというコミュニケーション作法が浸透しており、このような現象・状況はキャラ化・キャラ的コミュニケーション・キャラ的人間関係・キャラゲーム・キャラ戦争などと表現される[注 1]。例えば学校ではクラスが似たような傾向を持った人が集まる細かいいくつかのグループに分かれる現象がみられるが[注 2]、この細分化された各々の小集団の内部でさらに個人に対して「天然キャラ」「いじられキャラ」などの具体的な役割が割り振られていくことになる[10]。グループ内における各自のキャラは自身の本来の性格というより普段行動をともにしているグループのリーダーやほかのメンバーといった他者からあるいは自然発生的に与えられることが多く、場の空気による圧力として本人の意図とは無関係に強制されることもある[11][12][13]。酔った勢いで羽目を外して卑猥な発言をしたのがきっかけで「エロキャラ」扱いされるようになるというように、なんらかの具体的な事件をきっかけにキャラが設定されることもあれば、交遊を深めていく中でいつからともなく自然にキャラが確立されていくこともある[14]。
個人に与えられる役割分担という意味では、人類は狩猟・採集などで生活していた時代から現代に至るまでずっと分業を行っていたともいえるが、社会学者の森真一によれば「キャラ」は(生活・仕事を成り立たせるためではなく)楽しくコミュニケーションを盛り上げるために割り当てられるという点が異なるという[15]。法学者の白田秀彰の表現を借りれば、若者たちが演じるキャラ(仮想的キャラ)は、大人の世界で「上司」「教師」のように社会的な文脈によって与えられる規範(社会的キャラ)と違って社会的な要素が欠如しているといえる[13]。
キャラ的コミュニケーションのほかに若者の間の人間関係に存在する暗黙の規範としては、摩擦を回避するために仲間内では上下関係をなるべくつけないという「対等性原則」がある[16]。その意味で若者たちのキャラ化は、実際には存在している上下関係を、(例えば「いじりキャラ」と「いじられキャラ」のような形で)表面的にはフラットな関係に読み替えることによって隠蔽するという側面があるといえる[17]。
キャラと演技性
周囲から与えられるキャラに即した振る舞いをするという意味ではキャラ的なコミュニケーションは演技性を帯びたものであるといえる。もっとも、人間が日常生活をおくる上でも無意識に演技の切り替えを行っているということは以前から社会学者のアーヴィング・ゴッフマンが指摘していることである[18]。
ただし、実際に若者を対象とした調査では必ずしも意識的にキャラを演じていると答える者が多数派ということではない。2009年から2010年に神奈川県の公立中学校の生徒2874名に対して実施されたアンケート調査[19] では、「自分の気持ちと違っていても、人が求めるキャラを演じてしまう」という質問に対する肯定的な回答はほぼ1/3である。この調査を行った教育学者の本田由紀は、少数でない割合とはいえ6割以上はキャラをつくらずにコミュニケーションを行っていることになるため若者のキャラ演出という現象を過剰に重視すべきではないだろうと述べている。元お笑い芸人の研究者である瀬沼文彰による若者へのインタビュー調査でも、キャラを演じている意識があるのは58人中10人と少数であった[20]。
キャラによるコミュニケーションといっても興ざめするほど演技性が見え透いてしまうのは嫌われる傾向もある[21]。そのため、集団に対して行った瀬沼文彰のインタビュー調査では周囲の他者に配慮して演技していないと答えた者が多かったとも考えられる[22]。演技性の無いニュートラルな状態は若者言葉で素(す)といわれるが、実際には「素という演技しない状態を演技している」[23] あるいは「(キャラと素をはっきりと使い分けるというより)両者の配分のバランスを調整しながらコミュニケーションをとっている」[24] という面があるともいえる。社会学者の太田省一によると、キャラをめぐる遊戯的なコミュニケーション(キャラゲーム)においてはキャラの演技を完遂できずに素が露呈することは織り込み済みであり、演技の破綻によって結果的に当人の素の人間性が確認されるという形で共同体への帰属意識が強化されるというような効果があるのだとしている[25]。
メリット・デメリット
キャラを演じることのメリットとして、実際の本人の性格がどうあれその場で設定されている単純なコードに合わせて振舞うことによって予定調和的なコミュニケーションを円滑化させ、またそれにより親密さを感じることができるという点がある[26]。瀬沼文彰は、「ケチキャラ」「おやじキャラ」のような一見すればネガティブな属性であっても、それをキャラとして捉えてツッコミをいれて笑いに昇華することができるなど、互いが傷つかずにコミュニケーションがとれるという利点を指摘している[27]。さらに別の側面としては、それが虚構的なキャラにずきないということを織り込み済みで演技的に振舞うことにより、「本当の自分」の存在が裏付けられる感覚を得ることもできる[28]。
他方で、人間関係の流動性の低い学校空間では、特定のキャラを強制する同調圧力が暴走して(いじられキャラがいじめられキャラになるなど)いじめにつながるなどの弊害があるほか(後述)、キャラ的人間関係への適応の困難が引きこもりと関係しているといった指摘もある(後述)。また、楽しむことや衝突の回避を重視するキャラを介した人間関係は希薄で脆弱なものに過ぎないともいわれる[29]。
哲学者の鷲田清一は、ディスコミュニケーション(コミュニケーション圏同士の断絶)の進む現代社会において「キャラ同士」ではなく「人同士」がコミュニケーションをとりあう場を用意するべきであるとし、キャラ的人間関係に対して否定的な見解を示している[30]。評論家の宇野常寛も同様に現代社会における閉鎖的なトライブ間でのコミュニケーションの分断化を指摘しているが、キャラ的人間関係[注 3] については、人々はそれが顕在化した時代の是非について極端な反応をしがちであるとし、その長所と短所をふまえた上でコミュニケーションがすべてを決定する社会をうまく克服していくべきだと述べている[31]。
キャラとアイデンティティ
キャラによるコミュニケーションの特色は、その場に応じて演じられるキャラは切り替わりうるという部分にある。宇野常寛は、個人のコミュニケーションの結果に応じて漸次上書きされていくような(しばしばケータイ小説にみられる)現実世界でのアイデンティティのあり方を断片型キャラクター的実存と呼び、(ライトノベルなどでみられる)一貫した自己像を保ち続けようとする全人格型キャラクター的実存と対比している[32][33][注 4]。同様に、評論家の荻上チキは、一貫した自己像にもとづいて成長していこうというアイデンティティ型自己モデルではなく、臨機応変に適応スタイルを選択するキャラ型自己モデルが現代社会には適していると整理している[36]。荻上チキによれば、個人は趣味・所属する部活・職業・学歴など様々な要素と関係したキャラをあらかじめ複数ストックしており、その中から適当ないくつかを「仕事での打ち合わせ」「プライベートでの友人との交遊」といった文脈に応じて適宜呼び出してコミュニケーションを行うという「キャラ分けニーズ」が高まっているのだという[37]。
社会学者の土井隆義は、キャラを自分自身の中のゆるぎない自己イメージとしての内キャラと、周囲の状況(場の空気)に適応する形で演技的に振舞う外キャラの2つにわけて論じている[注 5]。それによれば、「大きな物語」「超越的な他者」といったものが消失して人生の拠り所とすべき価値観・理想像が不透明になった現代社会(ポストモダン)では、アイデンティティの不安を無効化するために決して相対化されることのない準拠点として内キャラが必要とされる一方、(全体に共有されるような「大きな空気」はすでに崩壊しているため)状況に応じて様々に異なる「場の空気」に対応する必要性があり、そのためには一貫性のあるアイデンティティは邪魔になるので外キャラを用意することになるのだという。つまり、外キャラは他者と向き合うため、内キャラは自己と向き合うためのものといえる[38]。
キャラが所属集団といった文脈によって使い分けられるということと、前述したようにキャラが「コミュニケーションを楽しむ」ために用いられていることを考えると、キャラとは(「共同社会」に対する)「利益社会化」[注 6] を表しているともいえる[15]。「共同社会」とは(古代の氏族社会のように)血縁・地縁により人々が全人格的に結合され、個人が所属する集団を自由に選択できない社会を意味し、それに対する「利益社会」は仕事の達成などによる利益の共有というような紐帯により人々が断片的に結び付けられ、個人が所属する集団を自由に選択可能で流動性の高い社会を意味する。つまり、キャラ的人間関係とは「楽しさ」「思い出作り」といったことを目的とした利益の共有による紐帯を結ぼうとする利益社会と考えることができるのである[39]。
アーヴィング・ゴッフマンはアイデンティティを「社会的アイデンティティ」(社会的な地位に関する属性など)と「個人的アイデンティティ」(親しい間柄でのみ了解されうるもの)の2つに分けて論じているが、若者が演じるキャラは社会的文脈によって与えられるものではないということを考えれば、「個人的アイデンティティ」の方に相当することになる[40]。他方で、土井隆義が内キャラと呼んだような自分らしさの信念としてのキャラには、社会的に認められる存在になりたいという願望もみられるといえる[41]。
精神科医の斎藤環は、キャラの使い分けの現象を解離性同一性障害の患者における交代人格のようなものだと述べている[42]。解離性同一性障害の発祥事例自体は、欧米と比較して日本では低いとされているが、斎藤はこれを「キャラ化することによって病理から逃れている」と解釈できると述べている[43]。その一方で日本におけるキャラ文化が別の問題を引き起こすこともあるとして、引きこもりを挙げている[43]。斎藤は、1990年代末に行った若者を対象としたインタビュー調査の際にそのメンタリティを「引きこもり系/原宿系(コミュニケーション能力は低いが自己イメージは安定している」と「自分探し系/渋谷系(コミュニケーション能力は高いが自己イメージが不安定)」に大別したが、自己イメージが不明確であるぶんキャラを自在に操るのは「自分探し系」の者が得意とするものであり、「引きこもり系」の者はキャラのコントロールをうまくできないと整理できる[44][45]。キャラの使い分けと引きこもりとの関係については、森真一もキャラ的人間関係に特有の役割を演じて周囲に合わせる(空気を読む)ということに後ろめたさを感じることが優等生的な引きこもりにつながると述べている[46]。
若者が演じるキャラは、批評家の東浩紀が提示した「データベース消費」「動物化」といったキーワードと関連付けて言及されることがある。東浩紀は、主に日本のライトノベル・美少女ゲームなどのオタク系文化でのメディアミックス・二次創作の興隆に注目しながら、その文化圏における様々な情報を集積した「データベース」から適当にいくつかの個別的な要素を組み合わせる形でキャラクターが生成され、それらの登場する作品自体を消費しているようでいて実際にはその背後にあるデータベース(の要素)が消費の対象になっていると論じ、さらにオタクがデータベースから取り出された記号的な要素に「萌え」という脊髄反射的な反応を示すように他者を媒介した欲望を失って自己完結的な欲求のみを求めるような傾向を動物化と呼んだ。東浩紀自身は、「キャラを演じる」と表現されるのが(本項で述べているような)擬似人格としてのキャラであり、「キャラを立てる」という語で表現されるのが要素の組み合わせによって生じる偽者のアイデンティティとしてのキャラだと整理しているが[47]、白田秀彰によれば若者が演じる社会的な文脈に依拠しない「仮想的キャラ」も、このデータベース消費論でいわれているように漫画・アニメなどのサブカルチャーにおいて蓄積されたキャラクター類型を参考にしそこから適当なものを呼び出すような形で生成されているという[13]。社会学者の鈴木謙介は、その場で演じるキャラを決めるために対人関係のデータベースを参照しているという意味では、キャラの使い分けも(「対人関係への嗜癖」ではなく)データベースと自己を往復するだけの「自己への嗜癖」であると述べている[48]。他方で太田省一は、他者との関係を伴わない個人的な欲求しか持たないという意味で、動物化した主体はキャラゲームからの離脱者であると述べている[49]。ただし、彼らが好むコンテンツを消費する中では、個人的な範囲でキャラの操作や構築が行われており、キャラゲームが他者との媒介を含むレベルではなく個人のレベルに変化したともいえるという。
注釈
- ^ これらの表現は順に瀬沼文彰・相原博之・森真一・太田省一・荻上チキが使用している。
- ^ 社会学者の宮台真司はこれを島宇宙化と呼んだ[7]。同じ傾向を持った友人同士は「類友」といわれ[8]、社会心理学者のエーリヒ・フロムがいう「社会的性格」に相当すると考えられる[9]。
- ^ 彼の言葉では、後述する「モバイル的実存」または「断片型キャラクター的実存」となる。
- ^ 宇野はもともとこれをモバイル的実存とキャラクター的実存と呼んでいたが[34]、後にTwitter上であまりうまくない命名であったと述べて改めた[35]。
- ^ この意味では本記事で論じられているのは基本的には外キャラで、#メリット・デメリットで述べた「本当の自分」が内キャラに相当する。
- ^ 共同体#ゲマインシャフトとゲゼルシャフトも参照。ここでいう「利益社会」「共同社会」はそれぞれ「ゲゼルシャフト」「ゲマインシャフト」に相当する。
- ^ キャラクター#キャラとキャラクターも参照。
- ^ 特定の個人に対して道化のような振る舞いを強制するようなコミュニケーション関与のこと。広義のいじめ(コミュニケーション操作型いじめ)に相当する。
- ^ 社会に共有される規範・枠組みのこと。ポストモダンの到来はこれが失われたことだと論じられる。
- ^ スクールカースト#いじめとの関係やスクールカースト#「キャラ」との関係を参照。
- ^ 「選抜総選挙(人気投票)」というシステムの導入や「会いに行けるアイドル」という直接的な交流を重視したコンセプトによって効率的に個々のメンバーのキャラ(すべりキャラの高橋みなみ、ボーイッシュキャラの宮澤佐江など)を確立させてファンに消費させていることが斎藤環[55] や宇野常寛[56] から指摘されている。詳細はAKB48#キャラクター消費を参照。
- ^ ここでいう「フリ」とは相手にボケのきっかけを与える行為のことで、それがうまく「ボケ」に連結されると笑いにつながる。さらにそのボケに対応してそのおかしさや間違いなどを常識的な観点から指摘するのが「ツッコミ」である。
- ^ デコレーション携帯電話を参照。
- ^ 斎藤環はこれを「CPM(Characterized Psychoanalytic Matrix)モデル」と呼んでいる。
- ^ 遊び#「遊び」の類型を参照。
出典
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- 1 キャラ (コミュニケーション)とは
- 2 キャラ (コミュニケーション)の概要
- 3 キャラとキャラクター
- 4 キャラによるコミュニケーションがみられる空間
- 5 類似する概念
- 6 関連用語・表現
- 7 脚注
- キャラ (コミュニケーション)のページへのリンク