カラハン朝 経済

カラハン朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 10:05 UTC 版)

経済

カラハン朝支配下のトルキスタンではテュルク系のイスラム教徒によるキャラバン交易が行われ、政府が鋳造した貨幣が流通していた[55]。発行された貨幣はイスラーム世界のディルハム銀貨を元にしたもので、イリグ・ハン(王ハン)、タブガチ・ハン(中国のハン)といった称号や、アラビア語によるイスラームの信仰告白の定型句が刻まれていた[56]。貨幣に刻まれた銘文はカラハン朝の歴史を伝える貴重な史料となっている[57]

西カラハン朝末期のサマルカンドは400,000-500,000の人口を擁する大都市で、園林が郊外に連なり、果実・穀物の栽培、養蚕が行われていた[58]。カラハン朝時代の教訓書『クタドゥグ・ビリグ』には農民、牧人、商人、職人は生活の基盤を支える社会階級と記され、彼らの活動によって生み出された富が都市部の支配者層の下に蓄積されていた[59]。農地では塩分を含んだ土地の改良、貯水池を利用した灌漑、風力による脱穀が行われ、収穫された食物はパンに加工されていた[60]。果実の中ではブドウの栽培が盛んで生食にするほかワイン、ジュース、干しブドウに加工され、ブドウのほかにはリンゴ、メロン、スイカなどの作物も栽培されていた[61]

宗教

アルトゥシュのサトゥク・ボグラ・ハン廟

サトゥク・ボグラ・ハンがイスラム教に改宗する前のカラハン朝では仏教が主流であり、ほかにマニ教ネストリウス派キリスト教シャーマニズムなどが信仰されていた[18]。サトゥク・ボグラ・ハンの改宗に関する最古の記録は14世紀初頭の文献内で引用された11世紀の史料に遡るが、この時点で既にサトゥクの改宗には伝説的な脚色が加えられていた[62]。アラブの歴史家イブン・アスィール960年に200,000戸のテュルクの集団改宗が起きたことを記録しているが、この記述はサトゥクの息子ムーサーの時代にカラハン朝が完全にイスラームを受容したことの表れだと考えられている[62]。カラハン朝の君主がイスラム教に改宗した理由について、信徒に対して団結を求めるイスラームの教義、「聖戦」や「殉教」といった概念が支配の維持、勢力の拡大に貢献できる側面が指摘されている[19]

サトゥク、ムーサーの時代にカシュガルで行われた強制的なイスラームへの改宗は国内の他の宗教の信徒の反発を引き起こし、于闐、天山ウイグル王国などの仏教国との関係を悪化させる[19]。ムーサーは王位を巡る争いの中で強制的な改宗を進め、改宗政策においてはニーシャープール出身のスーフィー(神秘主義者)・カリマティが大きな役割を果たした[20]。カラハン軍が于闐を破ってホータンを占領した後、城砦は破壊されたが、仏教寺院は破壊されずにモスクに改築された[23]

1141年のカトワーンの戦いでカラハン朝がカラ・キタイに敗れた後、ベラサグンに近いセミレチエの地にカラ・キタイの軍隊が駐屯した。東西のカラハン朝はカラ・キタイの臣従国として存続し、徴税と定住生活を送るイスラム教徒の監督を命じられた。カラ・キタイの支配者層は仏教を信仰していたが、支配地の信仰には寛容な姿勢を取っていた[63]。東カラハン朝の首都カシュガルはイスラム教の文化と権威が保たれながらも、東方におけるネストリウス派のキリスト教徒の中心都市となった。チュイ川の渓谷では、カラ・キタイへの従属時代に建てられたキリスト教徒の墓石が発見された[64]

文化

ブハラのカラーン・ミナレット
12世紀にウズゲンに建てられた廟

10世紀にテュルク諸部族に受容されたイスラム教はテュルクの文化と結合し、11世紀にアラビア文字で表記するテュルクの言語(カラハン朝トルコ語)が成立した [65]1096年ユースフ・ハーッス・ハージブによってテュルクの言語による教訓書『クタドゥグ・ビリグ』が東カラハン朝の君主に献呈された。テュルクの言語をアラビア文字で記した最初の作品である『クタドゥグ・ビリグ』は、テュルク・イスラーム文学最古の作品に位置付けられている[66]

テュルク・イスラーム文学はイスラーム世界とペルシア文学の強い影響を受けており、従前のテュルクと深い関係があった中国、仏教、キリスト教、マニ教の影響は見られない[67]。『クタドゥグ・ビリグ』にはクルアーンハディーススーフィーの著書から引用した忠言が記されており、王族のイスラームの改宗から1世紀後にはイスラーム学はトルキスタンの知識人の間に深く浸透していたことがうかがえる[68]。権力闘争の末にバグダードに逃れた東カラハン朝の王族マフムード・カーシュガリーは『トルコ語集成(ディーワン・ルガード・アッテュルク)』を1077年/78年に著し、アッバース朝のカリフ・ムクタディーに献呈した。しかし、『クタドゥグ・ビリグ』『トルコ語集成』の後に続くトルコ語による著述活動は盛んとは言い難く、これらの作品が流布した範囲も広くは無かった[69]ティムール朝の時代に入って、テュルクの言語は中央アジア世界でペルシア語に並ぶ地位を確立する[70]

カラハン朝時代に建設された大規模な建設物は多く残っており、10世紀末まで中央アジアを支配していたサーマーン朝と比べて多い[71]1121年にブハラに金曜モスクが建立され、1127年にはモスクの前にカラーン・ミナレットが建てられた[72]。ミナレットの高さは約45.6mで、戦災や地震の被害を受けながらも修復され、姿をとどめている[72]。サーマーン朝時代に比較的小さな都市だったウズガンドは一時的にマー・ワラー・アンナフル全土の支配者である西カラハン朝の君主の居所とされ、宮廷が移された後もフェルガナの統治者の本拠地とされた[31]。ウズガンドには高さ約18mのミナレットが建立され、ウズゲンの建物の中でも12世紀に建てられたものは特に評価が高い[73]1078年/79年にナスル1世によってブハラとサマルカンドの間に建設されたラバーティ・マリクは隊商宿(キャラバンサライ)以外に防衛施設としての役割も有していたと考えられている[74]


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  7. ^ a b 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、100頁
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  72. ^ a b 堀川徹「カラーン・ミナレット」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)、147-148頁
  73. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、184-185頁
  74. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、182,185頁
  75. ^ 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、63頁





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