カメルーンの歴史 帝国の影響

カメルーンの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/17 09:22 UTC 版)

帝国の影響

サハラ西南部には帝国が次々と興った。現在のモーリタニア南部を中心として4世紀(ないし7世紀)に成立したガーナ王国12世紀15世紀には現在のマリ共和国を中心としたマリ帝国1464年に現在のマリ、モーリタニア南部、ナイジェリア北部、ニジェールを版図として成立したソンガイ帝国1848年に成立したトゥクロール帝国などである。いずれもニジェール川流域に位置する。

一方、カメルーン北部が属するアフリカ中央部は帝国の成立に適しておらず、唯一、カネム・ボルヌ帝国が成立しただけであった。カネム・ボルヌ領域の版図はチャド湖の南西岸を中心とした半径200~300kmの領域であった。9世紀に成立し、19世紀(1840年代)に騎馬民族であるフルベ人に滅ぼされるまで約1000年間、カメルーンに影響を与え続けた。

カメルーン南部の国家成立は遅れており、15世紀にコンゴ地方から移住してきたドゥアラ人やバミレケ人がようやく村の集団を形成した。

ポルトガル人との接触

カメルーンの諸民族が西欧と最初に接触したのは1470年である。

ポルトガル1385年に独立後、イスラーム勢力を抑え、領土拡張期に入った。1415年にはポルトガル王ジョアン1世が現在のモロッコ北部に位置する戦略港であるセウタ攻略を決定、息子であるエンリケ航海王子とともに、奪取に成功した。その後、エンリケ航海王子は海洋貿易に活路を求めた。イスラーム商人の仲介を経ることなく、東方(インド)の金や香料を入手するためである。これが大航海時代の始まりである。最初の探検隊は1418年に出発した。数次にわたる探検の結果、アフリカ大陸の海岸を飛び石のように南下する。1460年エンリケの死によって、一時、探検航海が遅延したが、1470年12月下旬、ついにカメルーンに到達した。このときは交易所などを開くことはせず、探検を継続した。その後、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込み、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達、エンリケ航海王子の目標を達成した。サハラ以南のアフリカ探検はポルトガルが先行したため、アフリカ大陸西岸諸国の国名にはポルトガル語由来のものが残されている。カメルーン(エビ)、ガボン(フードの付いたマント)、シエラレオネライオンのほえ声)、サントメ・プリンシペ聖トマスとアフォンソ王子)などが残る。

当時のポルトガルはいわゆる植民地獲得ではなく、交易所や商館の建設、貿易拠点を守り、船舶に補給を施す要塞の建設を進めた。これは内陸部に到達するための手段がないこと、内陸部の国家、帝国に対して軍事的に優位に立てなかったことによる。マリ帝国のような内陸部の国家と独占的な貿易協約を結ぶことで、海岸までの輸送、運搬手段を確保せずに済み、最低限の軍事力で交易を進めることができた。

しかし、ポルトガルの優位は1530年代に早くも崩れ始める。フランスイギリスオランダなどの後発国がポルトガルの交易地そばに自国の交易地を開き、圧倒したからである。

奴隷貿易の始まり

奴隷貿易に用いられた奴隷船の構造。

カメルーンが面するギニア湾奴隷貿易の拠点として知られている。1530年代になると、組織的な奴隷貿易が始まっていた。奴隷貿易の中心地は現在のコートジボワール(象牙海岸)やガーナ(黄金海岸)だったが、カメルーンでも進められていた。

奴隷貿易はいわゆる大西洋三角貿易として始まった。輸出された奴隷アメリカ大陸、特に西インド諸島に運ばれ、サトウキビプランテーション農園労働者となった。農園はサトウキビから抽出した糖蜜を北アメリカ東部13州のイギリス植民地に輸出、そして、糖蜜を発酵、蒸留したラム酒ギニア湾に輸出された。

1807年大英帝国内の奴隷貿易禁止、1834年奴隷制廃止に至るまで、カメルーンは奴隷貿易に300年間、苦しんだことになる。イギリスが奴隷貿易を廃止した理由は、人道的な見地からということもあったが、既に奴隷を輸送するよりも、象牙と椰子油を取引する方が利益が上がったという理由もある。

奴隷貿易には思わぬ副産物もあった。当時、アフリカ大陸中央部の熱帯雨林やギニア湾岸、つまりカメルーンの周囲ではヤムイモが主食となっていた。ヤムイモの繊維は約5000年前の遺跡からも見つかっている。一方、ポルトガルは、奴隷船で奴隷を維持するために食物を必要としていた。ブラジルで発見したマニオクを用いた。1670年代には広く栽培されるようになった。マニオクはイモであるため栄養繁殖で増えるものの、極めて栽培に適した性質がある。種イモを使うのではなく、30cm以下の枝を耕地に指すだけで根付き、イモを収穫できるからだ。現在でも、中部アフリカの主要作物の収穫量1億トンのうち、6000万トンをマニオクが占める[註釈 2]。カメルーンは食料自給率が100%を超える豊かな国だが、マニオクの栽培によるところが大きい。







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