カタルーニャ州
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歴史
先史時代・古代・中世
カタルーニャ地方に残る最古の人類の痕跡は、トータヴェル(現フランス・ピレネー=オリアンタル県)近郊のアラゴ洞窟に残っている[24]。中期旧石器時代にはカタルーニャの大部分にネアンデルタール人が住んでおり、後期旧石器時代にはカタルーニャ全体で5,000-8,000の人口があった[24]。新石器時代には集団埋葬が行われ[24]、青銅器時代には巨石記念物の文化が発達した[24]。鉄器時代にはケルト人が火葬の文化や金属加工の技術をもたらした[24]。
紀元前8世紀から紀元前6世紀には、ギリシア人がロザスに植民市を建設し、ポカイア人がアンプリアスを建設している[24]。ローマ人はカルタゴ人と衝突して地中海沿岸で領土争いを繰り広げた[25]。紀元前216年にはローマがエブロ川以北の土地を占領してタラコ(現・タラゴナ)を建設[25]。イベリア半島の北半分にヒスパニア・キテリオル属州(共和政ローマ期)を設置してローマ化を進め[25]、バルキノ(現・バルセロナ)などの植民市を建設した[25]。タラコはヒスパニア・タラコネンシス属州(帝政ローマ期)の首都となり、ローマ支配下のイベリア半島でもっとも重要な都市だった[25]。3世紀以後には北方からフランク族などがタラコネンシス属州に侵入[26]、480年以降には西ゴート族がカタルーニャを含むイベリア半島を占領し[26]、589年にはイベリア半島が統一されて西ゴート族の中央集権国家が誕生した[26]。
711年にイベリア半島に侵入したイスラーム教徒はわずか数年間でカタルーニャを征服した[27]。リュブラガット川以北の「旧カタルーニャ」ではイスラーム教徒の支配期間は100年間にも満たなかったが、リュブラガット川以南の「新カタルーニャ」は12世紀半ばまでイスラーム教徒の支配下にあった[26]。8世紀末から9世紀初頭には旧カタルーニャがフランク王国に編入され、795年にはイスラーム勢力に対する緩衝地帯の役割を果たすスペイン辺境領が設置された[28]。878年にはギフレー1世(多毛伯)がバルセロナ伯に任ぜられ、後の歴史家はギフレー1世がカタルーニャの初代君主であると考えている[28]。ギフレー1世はその子孫がバルセロナ伯を継承する世襲制を確立させ、この王朝は1412年まで続いた[28]。987年にはカタルーニャ君主国が生まれており、カタルーニャが主権への道を歩み出したのはこの1000年頃であるとされる[28]。
カタルーニャ君主国
カタルーニャ君主国には封建制が定着していき、他のキリスト教勢力とともにレコンキスタ(国土回復運動)に関与した[29]。1153年にはカタルーニャ君主国の境界がエブロ川まで南下した[29]。1137年にはアラゴン=カタルーニャ連合王国と呼ばれる同君連合が成立したが[29]、「カタルーニャ」という名称が初めて文献に登場するのはこの時代である[29]。1147年にはアリカンテまでの地中海沿岸がカタルーニャの土地となり、ラモン・バランゲー4世はイベリア半島でもっとも強大な権力を持つ君主となった[29]。
以後のバルセロナ伯はピレネー山脈以北への進出も試みている[30]。ハイメ1世(ジャウマ1世)(征服王)はイスラーム教徒からマヨルカ島、バレンシア、ムルシアを奪還した[30]。ハイメ1世はコルツと呼ばれる身分制議会(聖職者・貴族・王領)を導入し、財政・司法・立法などに権限を及ぼした[30]。1258年にはコルベイユ条約によって[30]フランスが正式にカタルーニャ君主国の独立を承認した。1282年のシチリアの晩祷後にはアラゴン王ペラ2世がシチリア王に据えられた[31][32]。カタルーニャが「君主国」(principat)と呼ばれるようになったのはペラ3世の治世である[31]。1354年にはジャナラリタット(議会の決定の執行機関)が常設され、君主の不在時や緊急時にはジャナラリタットが国家を統治している[31]。
ハイメ1世がカタルーニャの地中海進出の基礎を築き、その後継者らが「カタルーニャ帝国」とも呼ばれる地中海帝国を形成させた[31]。カタルーニャ人商人は、北アフリカのマグレブ地方、ギリシャのロドス島、キプロス島、西アジアのダマスクスなどにも勢力を伸ばし、地中海中央部ではシチリア島が政治的な拠点となった[31]。首都バルセロナには地中海全体に権限が及ぶ商業組織ができ、15世紀初頭のバルセロナには商品取引所が存在した[31]。1410年にはアラゴン、カタルーニャ、バレンシアの3王国が投票するカスペの妥協で後継者を選出し、カスティーリャ・トラスタマラ家出身のフェルナンド・デ・アンテケーラ(フェルナンド1世)がカタルーニャ君主国の新君主に選ばれた[31]。アルフォンス5世の治世にはイベリア半島、イタリア半島(ナポリ王国)、アルバニア、スロベニア、マルタ、エーゲ海のいくつかの島が支配下にあり、アラゴン=カタルーニャ連合王国の版図は最大となった[33]。
スペイン王国時代
1479年はスペインが統一された年であり、カタルーニャにとっては政治的独自性を奪われた年であるとされる[34]。14世紀と15世紀にカタルーニャの人口は激減し、地中海の覇権はオスマン帝国に奪われた[34]。さらには大航海時代が到来したことで、ヨーロッパにおける商業活動の中心は地中海から大西洋に移っていた[34]。カタルーニャはアメリカ大陸との貿易や植民活動から排除され[34]、16世紀と17世紀はカタルーニャにとって「衰退の時代」となった[35]。地方の自由は尊重されたものの中央集権的な傾向は強まり、フェルナンド2世は副王を置いてカタルーニャを統治した[34]。1640年から収穫人戦争(カタルーニャ反乱)が10年あまり続いたが、降伏したバルセロナはスペイン王国のフェリペ4世の支配下に戻っている[35]。フランス・スペイン戦争(1635年-1659年)後の1659年に結ばれたピレネー条約では、カタルーニャの意思とは無関係に北カタルーニャがフランスへ割譲された[35]。
1700年にはスペイン継承戦争(1701年-1714年)が起こったが、第3次バルセロナ包囲戦を経て1714年9月11日にバルセロナが陥落し、カタルーニャはスペイン軍の占領下に置かれた[36]。1716年に布告された新国家基本法によって議会や政府などが廃止され、公的な場でカタルーニャ語を使用することが禁じられた[36]。18世紀前半には特に農業が発展[37][38]、18世紀後半には商業が発展した[37]。また同じく18世紀後半には綿織物工業が興り[37]、カタルーニャはスペイン随一の経済先進地域となった[37]。19世紀の1836年にはスペインでは最初に蒸気機関を導入し、600人から700人の労働者を使役するような木綿を扱う大工場も出現した[39]。このような産業革命をスペインの他地域では主に外国資本の導入によって行ったのに対し、カタルーニャは地元資本で押し進めていった[39]。産業革命に伴いカタルーニャ内では農村部から都市部へと人口の流入が発生し[40]、都市部では衛生状態の悪化などの様々な都市問題を引き起こした[39]。例えば、1836年に人口が13万人程度であったカタルーニャの中心都市であるバルセロナでは、産業勃興に伴い一気に5万人を超える人口流入が発生した結果、深刻な衛生状態の悪化に悩まされることとなった[39]。
近現代
1790年代のピレネー戦争では一時的にカタルーニャ北部がフランス軍に占領され[41]、19世紀初頭の半島戦争(スペイン独立戦争)中にはフランス軍がバルセロナに入城した[42]。1833年には第一次カルリスタ戦争(1833年-1840年)が勃発し、カルリスタ側に就いたバルセロナでは自由主義的法制に対して蜂起が起こっている[43]。19世紀前半には水力を利用するいくつもの工業団地が建設され[44]、1848年にはカタルーニャ初の鉄道がバルセロナ=マタロー間に開通した[40]。1856年時点でカタルーニャの人口はスペイン全体の10%にすぎなかったが、綿工業ではスペイン全体の94%を占めている[38]。19世紀半ばにはカタルーニャが「スペインの工場」となったものの、バスク地方と違って石炭・鉄鉱石の天然資源を欠くカタルーニャでは製鉄業は栄えなかった[40]。19世紀半ばにはカタルーニャ語とカタルーニャ文化の復興運動であるラナシェンサ(ルネサンス)運動が興り[45]、19世紀末にはムダルニズマという建築や美術中心の文芸運動が興った。1898年のスペインの米西戦争敗北とキューバの喪失はカタルーニャ経済にも打撃を与えたが、この敗北でカタルーニャ主義は勢いを強めた[46]。

20世紀前半のバルセロナは人口が100万人を超え、域外出身者の増加によって移民問題が発生した[47]。1909年7月末には「悲劇の一週間」と呼ばれる市民暴動・政府軍による弾圧が起こっている[48]。1914年にはカタルーニャの4県による連合体、マンクムニタットが発足[49]。1917年にはリュイス・クンパンチなどが主導するカタルーニャ共和党(現・カタルーニャ共和主義左翼:ERC)が設立され、1919年にはフランセスク・マシアがナショナリスト民主連合を組織した[49]。
ミゲル・プリモ・デ・リベラ軍事独裁政権はカタルーニャを弾圧し[50]、独裁政権時代にカタルーニャ・ナショナリズムは急進化した[50]。1931年にスペイン第二共和政が成立すると、ジャナラリタット(自治政府)が発足して1932年カタルーニャ自治憲章が承認され[51]、ERCのマシアが初代カタルーニャ首相に就任している[51]。1936年に勃発したスペイン内戦ではフランコによってカタルーニャ自治憲章が廃止され、バルセロナが反乱軍の手に陥落した[52]。
1939年以後のフランコ体制下のカタルーニャでは、カタルーニャ語とカタルーニャ・アイデンティティの象徴に対して厳しい弾圧がなされ[53][54]、カタルーニャの伝統的音楽・祭礼・旗、カタルーニャ語の地名や通り名が禁じられた[55][56]。自治政府や自治憲章が廃止され、クンパンチ首相を含めて多くの共和国支持者が投獄・処刑された[54]。スペイン経済は壊滅的な状況にあり[54]、1950年前後までのカタルーニャ経済は停滞を余儀なくされた[53]。1960年代から1970年代初頭のカタルーニャでは急速な経済成長が起こり、外国資本の投資や観光客が増加した[57]。第三次産業が発展し、金属・化学・建設などの工業生産指数も伸びた[57]。カタルーニャ語教育への関心も高まり[58]、文化支援団体オムニウム・クルトゥラルが設立された[55]。
カタルーニャ自治州
1975年にフランコが死去すると、アドルフォ・スアレス内閣の下でスペインの民主化が進められた。1977年6月には1936年以来初となる民主的総選挙(1977年スペイン議会総選挙)が行われ、カタルーニャでは左派政党が約5割、カタルーニャ民族主義政党が3/4の得票を得た[59]。スアレス首相はジャナラリタット(自治政府)の復活を優先し、1977年10月にはタラデーリャスが政党の枠組みを超えたジャナラリタットを組織した[59]。スアレス首相の下で地域主義を容認するスペイン1978年憲法が制定され、1979年カタルーニャ自治憲章が制定されてカタルーニャ自治州が発足した。
1973年には経済の急成長が頭打ちとなり、1979年以後の第二次石油危機ではカタルーニャ銀行が倒産した[60]、失業率はスペイン平均を上回る高い数字を示した[60]。1985年頃からはカタルーニャ経済も回復し、1986年にスペインがヨーロッパ共同体(EC)に加盟すると外国企業の1/3は経済基盤の整っているカタルーニャ州に進出した[61]。1992年にはスペイン初の夏季オリンピックとしてバルセロナオリンピックが開催され、カタルーニャのイメージを世界に広める役割を果たしている[61]。1990年代には経済面で外国籍企業への依存が進み、国内移民に代わってEU外からの移民が増加した[61]。
独立問題

2006年には自治権の拡大を謳った新たな2006年カタルーニャ自治憲章が制定されたが[62][63]、2010年にはこの自治憲章がスペイン憲法裁判所によって違憲であるとされた[62][63]。また、スペインは財政力の弱い地域を支援する税制を採用しており[64]、財政力が強いカタルーニャ州は特に再配分比率が低い地域であるため、カタルーニャ州住民はソブリン危機に端を発するスペイン経済危機の状況下で不満を募らせていた[63][65][66]。カタルーニャ・ナショナリズムの機運が高まったのは、自治憲章の違憲判決と税制の不公平感という2点が理由であり[63]、2010年半ばには独立支持派がはっきりと増加した[67]。また、これまでに非公式ながら独立の是非を問う住民投票が何度か行われている。
2010年7月の大規模デモ「2010年カタルーニャ自治抗議」には約110万人が参加[68][67]。2012年の150万人が参加した大規模なデモ、2013年の「カタルーニャ独立への道」、2014年の「カタルーニャの道2014」など、毎年のように大規模デモが開催されている。2014年にはカタルーニャ州独立を問う住民投票が実施され[69]、2015年カタルーニャ自治州議会選挙では、独立賛成派が過半数の135議席中72議席を獲得し[70]、州議会がカタルーニャ独立手続き開始宣言を採択した[71][72]。2017年10月1日に独立を問う住民投票が実施され、投票率4割ながら賛成が9割に達した。10月10日にカタルーニャ独立宣言は署名されたものの即時凍結され、中央政府に対し対話を求めた[73]ものの独立宣言そのものは撤回しなかったため、10月21日に中央政府は自治政府の権限を一時停止する方針を決定[74]。10月27日、州議会は独立宣言を賛成多数で承認した[4]。これを受け中央政府はプッチダモンら州政府幹部らを更迭し、ソラヤ・サエンス・デ・サンタマリーア副首相を州首相の職務代行に据えるなどカタルーニャ州の直接統治に乗り出した[75]。12月21日に投開票が行われたカタルーニャ自治州議会選挙では独立派政党が過半数を獲得し、議長に独立派であるトレント (Roger Torrent) 議員が就任した。選挙の結果を受け、州政府首相としてプッチダモン元首相が指名され、1月30日に信任投票が行われる予定であったが、憲法裁判所による差し止め命令を受け、信任投票は延期された。プッチダモンは亡命を余儀なくされ、2018年3月にはドイツで逮捕されたが、ドイツ司法はプッチダモンの反逆罪を否定し、スペインへの引き渡しを拒否している。[76]その後擁立された独立活動家のサンチェス氏の信任は、氏が収監中であることを理由に信任投票自体が不成立となり、続く一名の候補の不信任を経て、2018年5月14日にキム・トーラが第131代カタルーニャ州政府首相として信任が可決。6月に閣僚名簿がスペイン中央政府に承認されたことで、カタルーニャは自治権を回復した[77]。
独立派と中央政府との対立は1975年のスペイン民主化以来、最大の騒乱となっており[78][79]、独立に反対する過激派右翼や「ファランヘ党」を名乗る独立反対勢力によってカタルーニャや同じカタルーニャ語圏であるバレンシアやバレアレス諸島の民家や店舗が襲撃されるなどの事件も起きており、大きな社会問題となっている。
注釈
- ^ 単一居住地域は人口の核の数。たとえば、大都市などはひとつの市全体や自治体を超えて、居住地域が連続的に形成されているが、大都市以外の地域や過疎地域などは、一つの自治体の中にいくつかの集落があり、住民はその集落内において多数の居住人口の少ない極小な居住地区に分散していることがある。その一体となっている居住地域のことで、この数字により該当地域での居住形態などがわかる。
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