オスマン帝国 歴史

オスマン帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/21 04:59 UTC 版)

歴史

歴代皇帝についてはオスマン家を参照。オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国年とするのが通例であり、帝制が廃止されてメフメト6世が廃位された1922年が滅亡年とされる。

もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定していくことは難しい[9]

トルコの歴史

この記事はシリーズの一部です。
先史時代英語版

トルコ ポータル
· ·

建国期

初期オスマン帝国の騎兵(スィパーヒー

13世紀末に、東ローマ帝国ルーム・セルジューク朝の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部ビレジクにあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、オスマンを指導者としたムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)が集団を形成したとされる説[10]が欧州では一般的であるが、遊牧民の集団であったとする説も根強く[# 1]、未だに決着はされていない[12][# 2]。彼らオスマン集団は、オスマン1世の父エルトゥグルルの時代にアナトリア西北部のソユットを中心に活動していたが[12]、オスマンの時代に周辺のキリスト教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展するオスマン君侯国トルコ語版を築き上げた[# 3][16][14]

1326年頃、オスマンの後を継いだ子のオルハンは、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在のブルサ)を占領し、さらにマルマラ海を隔ててヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大[17][11]、アナトリア最西北部を支配下とした上で東ローマ帝国首都コンスタンティノープルを対岸に臨むスクタリをも手中に収めた[12]。ブルサは15世紀初頭までオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる[17]1346年、東ローマの共治皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスは後継者争いが激化したため、娘テオドラをオルハンに嫁がせた上で同盟を結び[# 4]、オスマンらをアナトリアより呼び寄せてダーダネルス海峡を渡らせてバルカン半島トラキアに進出させた[19]。これを切っ掛けにオスマンらはヨーロッパ側での領土拡大を開始(東ローマ内戦 (1352年 - 1357年))、1354年3月2日ガリポリ一帯が地震に見舞われ、城壁が崩れたのに乗じて占領し(ガリポリ陥落)、橋頭堡とした[20][19]。後にガリポリスはオスマン帝国海軍の本拠地となった[21]。オルハンの時代、オスマン帝国はそれまでの辺境の武装集団から君侯国への組織化が行われた[22]

ヨーロッパ侵攻とイェニチェリの時代

ムラト1世と刺し違えたと伝承されるミロシュ・オビリチ
ニコポリスの戦い
19世紀のヨーロッパの画家によって描かれたバヤズィトとティムール

オルハンの子ムラト1世は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ)を占領、ここを第2首都とするとともに、デウシルメと呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍イェニチェリを創設して国制を整えた[10][23]。さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行った[18]

1371年マリツァ川の戦いでセルビア諸侯連合軍を撃破、東ローマ帝国や第二次ブルガリア帝国はオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、1387年テッサロニキも陥落[20]、ライバルであったカラマン侯国も撃退した[24]1389年コソヴォの戦いセルビア王国を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を撃破したが[25]、ムラト1世はセルビア人貴族ミロシュ・オビリッチによって暗殺された。しかし、その息子バヤズィト1世が戦場で即位したため事なきを得た上にコソヴォの戦いでの勝利は事実上、バルカン半島の命運を決することになった[26]。なお、バヤズィト1世は即位に際し兄弟を殺害している。以降、オスマン帝国では帝位争いの勝者が兄弟を殺害する慣習が確立され[27]、これを兄弟殺しという[# 5][28]。バヤズィト1世は報復としてセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチを始めとするセルビア人らの多くを処刑した[# 6][29]

1393年にはタルノヴォを占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した。しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに1394年秋にはコンスタンティノープルを一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、ペロポネソス半島までがオスマン帝国の占領下となった[30]。これらオスマン帝国の拡大により、ブルガリア、セルビアは完全に臣従、バルカン半島におけるオスマン帝国支配の基礎が固まった[29]

さらにバヤズィト1世はペロポネソス半島、ボスニアアルバニアまで侵略、ワラキアミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を一時的に認めなければいけない状況にまで陥った上、コンスタンティノープルが数回にわたって攻撃されていた。この状況はヨーロッパを震撼させることになり、ハンガリー王ジギスムントを中心にフランス、ドイツの騎士団、バルカン半島の諸民族軍らが十字軍を結成、オスマン帝国を押し戻そうとした[29][31]

しかし、1396年ブルガリア北部におけるニコポリスの戦いにおいて十字軍は撃破されたため、オスマン帝国はさらに領土を大きく広げた[32]。しかし、1402年アンカラの戦いティムールに敗れバヤズィト1世が捕虜となったため、オスマン帝国は1413年まで、空位状態となり[33]、さらにはアナトリアを含むオスマン帝国領がティムールの手中に収まることになった[34][35][31]

失地回復の時代

バヤズィト亡き後のアナトリアは、オスマン朝成立以前のような、各君侯国が並立する状態となった[36]。このため、東ローマ帝国はテッサロニキを回復、さらにアテネ公国も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた[37]

バヤズィトの子メフメト1世は、1412年に帝国の再統合に成功して失地を回復し[34][35]、その子ムラト2世は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に1422年には再びコンスタンティノープルの包囲を開始、1430年にはテッサロニキ、ヨアニナを占領、1431年にはエペイロス全土がオスマン支配下となった[# 7][38]

しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュはオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄スカンデルベグ1468年に死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディは1444年ヴァルナの戦い1448年コソヴォの戦い英語版において敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった[38]

それ以前、東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは西ヨーロッパからの支援を受けるために1438年から1439年にかけてフィレンツェ公会議に出席、東西教会の合同決議に署名したが、結局、西ヨーロッパから援軍が向かうことはなかった。1445年から1446年、後に東ローマ帝国最後の皇帝となるコンスタンティノス11世パレオロゴスがギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、コリントス地峡のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが[39]、メフメト1世と次代ムラト2世の時代は失地回復に費やされることになった[34][31]

版図拡大の時代

1453年、ムラト2世の子メフメト2世は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ついに東ローマ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落[40]。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった[41]。また、これ以後徐々にギリシャ語に由来するイスタンブールという呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。そして1460年ミストラが陥落、ギリシャ全土がオスマン帝国領となり[42]、オスマン帝国によるバルカン半島支配が確立した[43]

陥落後、シャーリアに従うことを余儀なくされたコンスタンティノープルでは略奪の嵐が吹き荒れた。略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始[44]、モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた[45]

コンスタンティノープルの征服に反対した名門チャンダルル家出身の大宰相チャンダルル・ハリル・パシャ英語版を粛清し[46][44]、メフメト2世は、スルタン権力の絶対化と国家制度の中央集権化の整備を推進したことにより、トルコ系の有力な一族らは影を潜めその代わりにセルビア人のマフムト・パシャ英語版、ギリシャ人のルム・メフムト・パシャ英語版のようにトルコ人以外の人々が重きを成すようになった[47]

コンスタンティノープルを征服した後も、メフメト2世の征服活動は継続された[46]。バルカン半島方面では、ギリシャセルビアアルバニアボスニアの征服を達成した。また、黒海沿岸に点在するジェノヴァの植民都市の占領[46]1460年にはペロポネソスのパレオゴロス系モレア専制公国を、1461年にはトレビゾンド帝国を征服[46]東ローマ帝国の残党は全て消滅することになり[44]、さらには、1475年クリミア・ハン国を宗主権下に置くことに成功[46]、ワラキア、モルダヴィアも後にオスマン帝国へ臣従することになる[48]

そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した。そして、15世紀後半には、レスボス1462年)、サモス1475年)、タソスレムノスプサラ(それぞれ1479年)といったジェノヴァの支配下にあった島々を占領[21]、このため、黒海北岸やエーゲ海の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海」とするに至った。一方、アナトリア半島方面では、白羊朝の英主ウズン・ハサンが東部アナトリア、アゼルバイジャンを基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった。1473年、東部アナトリアのオトゥルクベリの戦い英語版でウズン・ハサンを破ったオスマン朝は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した[46]

メフメト2世の後を継いだバヤズィト2世1481年 - 1512年)は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった[49]。その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。バヤズィト2世の弟であるジェムは、ロドス島フランスイタリアへ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていたからである[49]

オスマン帝国の最盛期

スレイマン1世(在位1520年-1566年)

バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していた[49]セリムが、セリム1世として、1512年に即位した[50]。セリムの積極外交は、東部アナトリアとシリア・エジプトに向けられた。東部アナトリアでは白羊朝の後をサファヴィー朝が襲っていた。1514年チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、1517年にはオスマン・マムルーク戦争エジプトマムルーク朝を滅してイスラム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した[51]。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである[52][53][54]

スレイマン1世(1520年 - 1566年)の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ北アフリカにまで広がった。

ペルシア湾・インド洋方面

ポルトガル・マムルーク海上戦争1505年 - 1517年)では、1507年ポルトガル海上帝国ホルムズ占領に成功。1509年ディーウインド洋の制海権を巡るディーウ沖海戦グジャラート・スルターン朝マムルーク朝カリカットの領主ザモリン、オスマン帝国の連合艦隊を破った。

ロバート・シャーリーに率いられたイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、1622年ホルムズ占領で、イングランド・ペルシア連合軍がホルムズ島を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。

インドネシア方面

1569年、スレイマンが既に亡くなっているのにもかかわらずインドネシアアチェ王国のスルタンであるアラウッディン・アルカハル英語版の要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊はマラッカ海峡まで行き、ジョホール王国ポルトガル領マラッカ英語版へ攻勢をかけた。[55]

エジプト・シリア・アラビア半島方面

東ではサファヴィー朝と激突、1514年にサファヴィー朝をアナトリアから駆逐すると[56]、さらにはイラクバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。

ポルトガル・マムルーク海上戦争1505年 - 1517年)ではオスマンとエジプトは対ポルトガルの同盟国だったが、オスマン・マムルーク戦争1516年 - 1517年)では、1516年マルジュ・ダービクの戦いen:Battle of Yaunis Khan1517年リダニヤの戦いセリム1世によってマムルーク朝エジプトが征服され、エジプト・シリアアラビア半島が属領となった。1522年、次代スレイマン1世の時にムスタファ・パシャトルコ語版エジプト州英語版1517年1805年)の二代目総督となったが、その配下となるカーシフ(地方総督)の大部分は依然としてマムルーク朝で軍人を務めた人物が就任していた。1523年にはそのマムルーク朝系のカーシフが反乱を起こし、さらに1524年には新たな州総督に就任していたアフメト・パシャ英語版が反乱を起こした。この反乱でアフメト・パシャはローマ教皇にまで援助を求めたが結局、アフメト・パシャはオスマン帝国の鎮圧軍が到着する以前に内部対立で殺害された[57]

この反乱を受けたスレイマン1世大宰相イブラヒム・パシャを送り込んで支配体制の強化を図り、次の州総督に就任したハドゥム・スレイマン・パシャはタフリール(徴税敢行、税目、人口などの調査)を実施して徴税面を強化した。さらにスレイマン・パシャは商業施設などを建設してワクフを設定、以後の総督らも積極的な建設活動や宗教的寄進を行い、マムルーク朝色の濃いままであった状況をオスマン帝国色に塗りなおした[58]

地中海・北アフリカ方面

プレヴェザの海戦
マルタ包囲戦 - 聖エルモ砦の陥落
レパントの海戦

1516年、オスマン帝国の皇子英語版コルクトトルコ語版英語版の公的支援を受けたバルバリア海賊バルバロス・ウルージバルバロス・ハイレッディン兄弟が、アルジェ占領 (1516年)英語版に成功。1517年にはザイヤーン朝の首都トレムセンに侵攻し、ウルージは戦死したもののトレムセン陥落 (1517年)英語版が成功、オスマン・アルジェリア英語版1517年 - 1830年)を設置。海上では、1522年ロドス包囲戦ではムスリムに対する海賊行為を行っていたロドス島聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。

1529年1月に宣戦布告し、5月にはアルジェ要塞スペイン語版英語版を落としてアルジェの占領に成功。10月にフォルメンテーラ島での戦いでスペイン船を駆逐(フォルメンテーラ島の戦い (1529年)英語版)。

1534年にはチュニス征服 (1534年)英語版に成功。1535年ハフス朝とスペイン-イタリア連合軍による奪還作戦でチュニスを失陥(チュニス征服 (1535年))。バルバロス・ハイレッディンは脱出の途上でマオー略奪カタルーニャ語版英語版を行なった。

1536年フランス・オスマン同盟英語版を密かに締結。1538年プレヴェザの海戦アルジェリアに至る地中海の制海権の掌握に成功した[59][60]1540年10月、アルボラン島の海戦英語版1541年10月、カール5世が親征してアルジェ遠征を行い、キリスト教徒への海賊行為をやめさせた。1545年にバルバロスが引退、1546年には後任にソコルル・メフメト・パシャを抜擢した。

1550年トレムセンを占領し、ザイヤーン朝を滅亡させた。1551年トリポリ包囲戦 (1551年)英語版に成功し、オスマン・トリポリタニア英語版1551年 - 1911年)を設置。

スレイマン1世は密かにヴァロワ朝フランス王フランソワ1世と同盟していたため、イタリア戦争 (1551年 - 1559年)ポンツァ島の戦い (1552年)英語版オスマン帝国のバレアレス諸島侵攻 (1558年)英語版)に派兵して干渉戦争を実施した。

1555年アルジェサリフ・レイストルコ語版英語版ベジャイア占領英語版に成功。1556年オラン包囲戦 (1556年)英語版では、オランが包囲されている間に、モロッコ人トレムセンを包囲し返し、作戦は失敗に終わった。1560年5月にピヤーレ・パシャ英語版チュニジア沖のジェルバ島で行なわれたジェルバの海戦で大勝。1565年マルタ包囲戦 (1565年)でオスマン帝国が最初の敗北を喫し、大きな被害を出した。1566年9月6日にスレイマンが死去し、その死から5年後の1571年レパントの海戦でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に大敗したものの、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった[61][62]。そして1571年に占領されたキプロスは単独でキプロス州を形成することになった[63]クルチ・アリトルコ語: Kılıç Ali Paşa)のオスマン帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、1573年にはキプロス島、翌1574年チュニスを攻略し(チュニス征服 (1574年)英語版)、ハフス朝を滅亡させた。オスマン・チュニス英語版1574年 - 1705年)を設置。17世紀にクレタ島が新たに占領されるとクレタ島も単独のクレタ州となった[63]

対ロシア戦

ロシア・ツァーリ国イヴァン4世は、1552年カザン包囲戦英語版カザン・ハン国を併合、1554年アストラハン・ハン国を従属国化した。旧ジョチ・ウルス領のうち残っていたクリミア・ハン国とロシアとの対立が深まると、1568年にセリム二世及びソコルル・メフメト・パシャはアストラハン遠征(露土戦争 (1568年-1570年))を起こした。この戦いで勝利したロシアによるアストラハン・ハン国支配が確定したものの、この戦いは長期にわたる露土戦争の初戦に過ぎなかった。この戦いでソコルル・メフメト・パシャは、ロシアだけでなくサファヴィー朝をも牽制する目的でヴォルガ・ドン運河の建設を試みたが失敗に終わった(実際に完成するのは1952年になってからである)。

ヨーロッパ方面(バルカン半島)

過去にオスマン帝国治下のバルカン半島はオスマン帝国の圧政に虐げられた暗黒時代という評価が主流であった。 しかし、これらの評価は19世紀にバルカン半島の各民族が独立を目指した際に政治的意味合いを込めて評価されたものであり、オスマン帝国支配が強まりつつあった16世紀はそれほど過酷なものではないという評価が定着しつつある。これらのことからオスマン帝国によるバルカン半島統治は16世紀末を境に前後の二つの時代に分けることができる[64]

オスマン帝国が勢力拡大を始めた時、第二次ブルガリア帝国はセルビア人の圧力により崩壊寸前であり、さらにそのセルビアもステファン・ドゥシャンが死去したことにより瓦解し始めていた。これらが表すように第4回十字軍により分裂崩壊していた東ローマ帝国亡き後、バルカン半島は互いに反目状態にあり、分裂状態であった上、オスマン帝国をバルカン半島へ初めて招いたのは内紛を続ける東ローマ帝国であった。このため、アンカラの戦いにおいて混乱を来したオスマン帝国への反撃もままならず、また、バルカン半島において大土地所有者の圧迫に悩まされていたバルカン半島の農民らはしばしばオスマン帝国の進出を歓迎してこれに呼応することもあった[65]

陸上においては、1521年ベオグラードの征服[59]1526年モハーチの戦いにおけるハンガリー王国に対しての戦勝、1529年第一次ウィーン包囲と続き[59]、クロアチア、ダルマチア、スロベニアも略奪を受けることになった[66]

15世紀以降、ギリシャはオスマン帝国に併合されるにつれてルメリ州に編入されたが、1534年、地中海州が形成されたことにより、バルカン半島を中心とする地域がルメリ州、バルカン本土とエーゲ海の大部分が地中海州に属することになった。

オスマン家とハプスブルク家の対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。その結果が、ハプスブルク家と対立していたフランスフランソワ1世に対してのカピチュレーション付与となった。なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での治外法権などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。

スレイマンは、1566年9月にハンガリー遠征のシゲトヴァール包囲戦の最中に陣没し、ピュロスの勝利で終わった(1541年オスマン帝国領ハンガリーブディン・エヤレト英語版設置)。ソコルル・メフメト・パシャは、1571年ソコルル・メフメト・パシャ橋の建設をミマール・スィナンに開始させ、1577年に完成した。

軍事構造の転換

スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相首相)が担うようになる。

オスマン帝国下の住民はアスカリとレアヤーの二つに分けられていた。アスカリはオスマン帝国の支配層であり、オスマン帝国の支配者層に属する者とその家族、従者で形成されており軍人、書記、法学者なども属していた。これに対してレアヤーは被支配層であり、農民、都市民などあらゆる正業に携わる人々が属していた。ただし、19世紀に入ると狭義的にオスマン帝国支配下のキリスト教系農民に対して用いられた例もある[67]

アスケリは免税、武装、騎乗の特権を有しており、レアヤーは納税の義務をおっていた。ただし、アスケリ層に属する人々が全てムスリムだったわけではなく、また、レアヤーも非ムスリムだけが属していたわけではない。そして、その中間的位置に属する人々も存在した[68]

オスマン帝国の全盛期を謳歌したスレイマン1世の時代ではあったが、同時期に、軍事構造の転換、すなわち、火砲での武装及び常備軍の必要性が求められる時代に変容していった。その結果、歩兵であるイェニチェリを核とする常備軍の重要性が増大した。しかし、イェニチェリという形で、常備軍が整備されることは裏を返せば、在地の騎士であるスィパーヒー層の没落とイェニチェリの政治勢力としての台頭を意味した。それに応じて、スィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制英語版は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制(イルティザーム制英語版)が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。

帝国支配の混乱

繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。1578年オスマン・サファヴィー戦争英語版が始まると、1579年にスレイマン時代から帝国を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャサファヴィー朝ペルシアの間者によって暗殺されてしまった。以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに17世紀前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、16世紀末頃から新大陸産のの流入による物価の高騰(価格革命[69]や、トランシルバニアをめぐるハプスブルク家との紛争は1593年から13年間続くこととなった[69]。また、イラク、アゼルバイジャン、ジョージアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が17世紀にはいると継続することとなった[69]。中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン帝国の財政は慢性赤字化した[69]

極端なインフレーションは流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通を改鋳するようになった[70]。帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニ・チェリたちの不満が蓄積し、1589年には、彼らの反乱が起こった[70]。経済の混乱は17世紀まで続くこととなった[70]。さらには、アナトリアでは、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の反乱が頻発することとなり、オスマン帝国は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった[70]1608年を頂点に、ジェラーリーの反乱英語版は収束を迎えるが、その後、首都イスタンブールでは、スルタン継承の抗争が頻発することとなった[70]

そのような情勢の下、1645年に起こったヴェネツィア共和国とのクレタ戦争英語版では勝利したものの、1656年ダルダネスの戦い英語版ではヴェネツィア艦隊による海上封鎖を受け、物流が滞り物価が高騰した首都は暴動と反乱の危険にさらされることになった。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメト・パシャ英語版は全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝。しかし息子キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いたキョプリュリュ家の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。

キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国はクレタ島やウクライナにまで領土を拡大、さらにはヴェネツィアが失ったクレタ島の代わりに得たギリシャにおける各地域の大部分を手中に収めたため[71]、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。

しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの婿カラ・ムスタファ・パシャは、功名心から1683年第二次ウィーン包囲を強行してしまう。一時は包囲を成功させるも、ポーランドヤン3世ソビエスキ率いる欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入ることになる(大トルコ戦争)。

オスマン文化の繁栄期

戦後、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約において、史上初めてオスマン帝国の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク家のオーストリアに奪われてしまう。さらには1700年にはロシアとスウェーデンの間で起こった大北方戦争に巻き込まれてしまい、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、ピョートル1世の治下で国力の増大著しいロシア帝国との苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、1711年プルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功するが、続く墺土戦争のために、1718年パッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失ってしまう。

アフメト3世の時代(1720年頃)の祝祭の様子。王子の割礼を祝う様子を描く。

このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、他方で西欧技術・文化の吸収を図り、後期のオスマン文化が成熟していった時代でもあった。中でもアフメト3世の大宰相ネフシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャトルコ語版(在任1718年-1730年)の執政時代においては対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼ばれている[72]。また1722年には東方のイラン・ペルシアでアフガーン人の侵入を契機にサファヴィー朝が崩壊した。オスマントルコはこの混乱に乗じて出兵する(オスマン・ペルシア戦争 (1722年-1727年)英語版)。しかし、ホラーサーンからナーディル・シャーが登場し、イラクとイラン高原における戦況は徐々にオスマン側劣勢へと動き始める(アフシャール戦役英語版)。浪費政治への不満を募らせていた人々はパトロナ・ハリル英語版とともにパトロナ・ハリルの乱トルコ語版を起こして君主と大宰相を交代させ、チューリップ時代は終焉するに至った。

やがて露土戦争 (1735年-1739年)が終結し、その講和条約である1739年ニシュ条約ベオグラード条約が締結されベオグラードを奪還。1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアーヤーンと呼ばれる地方名士が台頭し、彼らの手に支えられることで緩やかな経済発展が進んでいた。しかし、産業革命の波及により急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、スレイマン1世時に与えたカピチュレーションを逆に利用することで、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めることとなった。

帝国の衰退と近代化の試み

ギリシャ独立戦争の敗北(ナヴァリノの海戦

18世紀末に入ると、ロシア帝国の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。1768年に始まった露土戦争で敗北すると、1774年キュチュク・カイナルジャ条約によって黒海の北岸を喪失し、1787年からの露土戦争にも再び敗れたことで、1792年ヤシ条約ではロシアのクリミア半島の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感したセリム3世は翌1793年、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、逆に廃位に追い込まれてしまう。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。

この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、ギリシャ北部からアルバニアを支配したテペデレンリ・アリー・パシャのように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様であり、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な中央集権体制は無実化した。さらに1798年ナポレオン・ボナパルトエジプト遠征をきっかけに、1806年にムハンマド・アリーがエジプトの実権を掌握した。一方、フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のナショナリズムを呼び覚まし、ギリシャ独立戦争1821年 - 1829年)によってギリシャ王国が独立を果たした。ムハンマド・アリーは、第一次エジプト・トルコ戦争1831年 - 1833年)と第二次エジプト・トルコ戦争1839年 - 1841年)を経てエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。

これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を辿ることとなった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を東方問題という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭における勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけとなってしまう。オスマン帝国はこのように帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。

しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。1808年に即位したマフムト2世イェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成した。さらにはアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した[73]。また1839年アブデュルメジト1世は改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの起草したギュルハネ勅令を発布し、全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図るタンジマートを始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった[74]

1853年にはロシアとの間でクリミア戦争が起こるが、イギリスなどの加担によりきわどいながらも勝利を収めた。このときイギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は1856年改革勅令を発布し、非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した[75]。こうして第二段階に入ったタンジマートでは宗教法(シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた[76]。そして、カモンド家の支配するオスマン銀行も設立された。

改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したことで農業モノカルチャー化を招き、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産するに至った[77]

こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャのもとでオスマン帝国憲法(通称ミドハト憲法)を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた[78]

しかし憲法発布から間もない1878年、オスマン帝国はロシアとの露土戦争に完敗。帝都イスタンブール西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望むアブデュルハミト2世は、ロシアとはサン・ステファノ条約を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した[79]。これ以降、アブデュルハミト2世による専制政治の時代がはじまる。しかし一方ではオスマン債務管理局などを通じて帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。

世界大戦から滅亡への道

アブデュルハミトが専制政治をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは1889年に結成された「統一と進歩委員会」(通称「統一派」)をはじめとする青年トルコ人運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した[80]1891年には、時事新報記者の野田正太郎が日本人として初めてオスマン帝国に居住した[81]

エンヴェル・パシャ
1922年11月、ドルマバフチェ宮殿を後にする、最後の皇帝メフメト6世。この写真が撮られてから数日後、彼は英国の戦艦でサンレモに亡命。1926年に同地で没した。

1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ)の統一派を中心とするマケドニア駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(青年トルコ革命)。彼らは1909年に保守派の反革命運動を鎮圧したものの、積極的に政治の表舞台には立つことはなかった。しかしバルカン戦争中の1913年になると、ついに統一派はクーデターを起こして大宰相を暗殺し、中核指導者タラート・パシャエンヴェル・パシャらを指導者とする政権を確立した。バルカン戦争の敗北によってヨーロッパのオスマン領の大半が失われると、統一派政権は次第にムスリム・ナショナリズムに傾斜していった。またバルカン戦争より帝国では、経済におけるナショナリズム路線である「民族経済」政策が議論され始めた。第一次世界大戦の勃発後にはカピチュレーションの一方的な廃止が宣言されている[82]

この間にも、サロニカを含むマケドニアアルバニアが、1911年には伊土戦争によりリビアが帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するためドイツと同盟に関する密約を締結し、1914年第一次世界大戦には同盟国側で参戦することとなった。

この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされガリポリの戦いなどいくつかの重要な防衛戦では勝利を収めたものの劣勢は覆すことができなかった。戦時中の利敵行為を予防する際にアルメニア人虐殺が発生し、後継となるトルコ政府も事件の存在自体は認めているが犠牲者数などをめぐって紛糾を続け、未解決の外交問題となっている。1918年10月30日ムドロス休戦協定により帝国は降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領されるとともに、イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下、アナトリア半島もエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。そしてアナトリア東部においてもアルメニア人、クルド人らの独立国家構想が生まれたことにより、オスマン帝国領は事実上、アナトリアの中央部分のみとなった[83]

敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝メフメト6世は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍イズミルに上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄ムスタファ・ケマルパシャを指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、1920年4月、アンカラトルコ大国民議会を組織して抵抗政府を結成したが[84]、オスマン帝国政府はこれを反逆と断じた[85]

一方連合国は、1920年、講和条約としてセーヴル条約をメフメト6世と締結した。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に割譲する内容であり、ギリシャにはイズミルを与えるものであった。この結果はトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約(ローザンヌ条約)の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。1922年、ケマルはオスマン国家の二重政府の解消を名目としてパーディシャー(スルタン)とカリフの分離とともに、帝政の廃止を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世はマルタへ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(トルコ革命[86]

1923年大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に取って代わられた。トルコ共和国は1924年、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止英語版。オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅した[86]


注釈

  1. ^ 15世紀後半の古伝承によれば、トルコ系オグズ族のカユ部族が起源とされており、この説は1930年代に異論が出るまで主流であった[11]
  2. ^ キリスト教世界への聖戦に燃えたトルコ人騎士らがガーズィーを形成して東ローマ帝国内へ侵入を繰り返したとする説はキョプリュリュ=ヴィテック説と呼ばれる[13]
  3. ^ このオスマン率いる軍勢の中にはキリスト教系騎士も参加しており、アナトリア北西のハルマンカヤのギリシャ人領主であったキョセ・ミハルは生涯、オスマンと同盟を結んだ[14]。また、逆にトルコ系チョンバオール家はオスマンとの同盟を破って東ローマ帝国と同盟を結ぶなど、宗教、民族の枠を超えて活動していた[15]
  4. ^ この同盟はヨハネス6世カンタクゼノスが失脚することにより解消される[18]
  5. ^ 先代が死去するとスルタン位継承した王子が他の王子を殺害するという慣習。のちにこれは廃れて幽閉制へと移り代わり、年長者もしくは前スルタンの弟がスルタンを継承するようになった[28]
  6. ^ セルビア北部はセルビア侯の領有地とされ、ラザルの息子ステファン・ラザレヴィチ英語版がデスポテース(公)に任命された[29]
  7. ^ エペイロスは当初従属国とされ、イタリア人専制公カルロ2世トッコ英語版が統治した。なお、エペイロスがオスマン帝国領となるのは1449年のこと[37]
  8. ^ この中でも地方に居住して徴税権を委ねられるシステムティマール制によって軍事奉仕義務を負った騎兵をスィパーヒーと呼ぶ。
  9. ^ この任命には様々な説があり、ひとつにはララという重職(セルジューク朝でいうアタ=ベク)に任命されるほどの人物であったということから任命されたという説とムラト1世が本来は息子のバヤズィト(後のバヤズィト1世)を任命するつもりであったが、幼少であったため、その繋ぎとしてシャーヒンを任命したとする説がある[92]
  10. ^ 一部の重要な都市を含むサンジャクのベイにはチェレビイ・スルターンと呼ばれる王子達が任命された[95]
  11. ^ 歴史家アーノルド・トインビーによる[113]
  12. ^ 一方の当事者がムスリム、非正教徒の非ムスリムの場合や、両方が正教徒であったとしても片方が望んだ場合はイスラーム法廷で裁かれた[122]

出典

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