オスマン帝国 制度

オスマン帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/21 04:59 UTC 版)

制度

四重冠を着用するスレイマン1世の像。この四重冠はスレイマンがイタリアの金細工職人につくらせたもので、ローマ教皇三重冠を意識したものだと言われている。

オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。

20世紀前半には、ヨーロッパにおける東ローマ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制と東ローマ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいて東ローマ帝国滅亡から間もない時代にはオスマン帝国の君主がルーム(ローマ帝国)のカイセル皇帝)と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国がコンスタンティノープル総主教の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの皇帝教皇主義の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国は東ローマ帝国の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。(カエサルを自称した皇帝はスレイマンなどほんの一握りだった)

このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。

オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている[22]。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、皇帝を頂点に君主専制・中央集権を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。

軍制

近代化された後のオスマン帝国陸軍

軍制は、当初はムスリム・トルコ系の戦士、帰順したムスリム・トルコ系の戦士、元東ローマ帝国の軍人らを合わせた自由身分の騎兵を中心に構成され[# 8]、さらにアッバース朝で発展していたマムルーク制度のオスマン帝国版の常備軍などが編成され、常備歩兵軍としてイェニチェリが組織化されたが、これらの組み合わせにより騎兵歩兵らによる複合部隊による戦術が可能となったため、オスマン軍の軍事力が著しく向上することになり、彼らはカプクル(「門の奴隷」の意)と呼ばれる常備軍団を形成した[87]。カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集するデヴシルメ制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍イェニチェリは、火器を扱うことから軍事革命英語版の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な常備軍に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。

金角湾内のオスマン艦隊

オスマン帝国の主要海軍基地はガリポリスであったが、ここに投錨する艦隊の指揮官はガリポリスのサンジャクベイが平時には務めており、戦時に入ると海洋のベイレルベイであるカプタン・パシャが総指揮を執ることになっていた[88]

オスマン帝国は当初から海軍の重要性を考慮していたらしく、オスマン帝国初期に小アジアで活躍した「海のガーズィ」から帝国領土が拡大していく中、エーゲ海、地中海、黒海などに面する地域を併合した際にその地域の保有する艦艇を吸収して拡大していった。オスマン帝国が初めて造船所を建設した場所はカラミュルセル英語版であるが、のちにガリポリスを占領するとさらに規模の大きな造船所が作られたことにより、オスマン帝国はダーダルネス海峡の制海権を確保することができた。そのため、1399年にバヤズィト1世がコンスタンティノープルを包囲した際、東ローマ帝国救援に向かったフランス海軍を撃破している。ただし、1453年、コンスタンティノープルの占領に成功すると、コンスタンティノープルにさらに規模の大きな造船所が築かれたため、ガリポリスの造船所はその価値を下げることになった[89]

15世紀に入るとジェノヴァ、ヴェネツィアとの関係が悪化、これと交戦したが、16世紀になるとオスマン艦隊はエーゲ海地中海イオニア海黒海紅海アラビア海ペルシア湾インド洋などへ進出、事実上、イスラーム世界の防衛者となり、キリスト教世界と戦った[90]

オスマン帝国の統治システム

帝国の領土は直轄州、独立採算州、従属国からなる。属国(クリミア・ハン国(クリム汗国)ワラキア(エフラク)君侯国モルダヴィア(ボーダン)君侯国トランシルヴァニア(エルデル)君侯国ドゥブロブニク(ラグーザ)共和国モンテネグロ公国(公または主教の支配)、ヒジャーズなど)は君主の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。独立採算州(エジプトなど)は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった[91]。ヨーロッパ方面の領土において、ビザンツ帝国やブルガリア帝国時代の大貴族は没落したが、小貴族は存続を許されてオスマン帝国の制度へ組み込まれていった

オスマン帝国が発展する過程として戦士集団から君侯国、帝国という道を歩んだが、戦士集団であった当初は遊牧民的移動集団であった。特に初期の首都であるソユット、ビレジク英語版イェニシェヒル(ブルサ近郊)などは冬営地的性格が強く、首都と地方との明確な行政区分も存在しなかった。そして戦闘が始まればベイ(君主)、もしくはベイレルベイ(ベイたちのベイの意味で総司令官を指す)が指揮を取ったが、ベイレルベイはムラト1世の時代に臣下のララ・シャヒーンが任ぜられるまでは王子(君主の息子)が務めていた[# 9]。ムラト1世の時代まで行政区分は不明確であったが、従来の通説では14世紀末、米林仁の説によれば15世紀初頭にアナトリア(アナドル)方面においてベイレルベイが任命されることによりベイレルベイが複数任命されることになった。その後、アナトリアを管轄するアナドル・ベイレルベイスィトルコ語版配下のアナドルのベイレルベイリク(大軍管区の意味)とルメリを管轄するルメリ・ベイレルベイスィトルコ語版配下のルメリのベイレルベイリクによって分割統治されるようになった[93]

この時点ではベイレルベイは「大軍管区長官」の性格をもち、ベイレルベイリクは「大軍管区」の性格をもっており、当初のベイレルベイは軍司令官の性格が強かった。しかし、次第に帝国化していくことにより、君主専制的、中央集権的体制への進化、さらに帝国の拡大によりベイレルベイ、ベイレルベイリクはそれぞれ地方行政官的性格をも併せ持つことにより、「大軍管区」も「州」の性格を、「大軍管区長官」も「総督」としての性格をそれぞれ併せ持つようになった[94]

ベイレルベイ(大軍管区長官)とベイレルベイリク(大軍管区)の下にはサンジャク英語版(小軍管区)、サンジャク・ベイ(小軍管区長)が置かれた。これは後に県、及び県長としての性格を持つようになるが、後にこれらベイレルベイリク(州)、サンジャク(県)はオスマン帝国の直轄地を形成することになった[# 10][93]。なお、ベイレルベイリクは後にエヤレト(エヤレットという表記もある)、ヴィラエットと呼称が変化する[96]

さらにオスマン帝国領にはイスラーム法官(カーディー)らが管轄する裁判区としてガザ(イスラーム法官区)が設置されていた。県はいくつかのガザ(郡という表記もされる)で形成されていたが、イスラーム法官は県知事、州知事らの指揮命令に属しておらず、全体として相互補完、相互監視を行うシステムとなっていた[97][98]。そしてその下にナーヒエ(郷)、さらにその下にキョイ(村)があった[99]

当初、地方行政区画としてはアナドル州とルメリ州のみであったが、ブダを中心とするブディン州、トゥムシュヴァルを中心にするトゥムシュヴァル州、サラエヴォを中心とするボスナ州が16世紀末までに設置され、それぞれその下にベイレルベイが設置された[98]

さらに16世紀に入ると統治地域が増加したことにより、専管水域も拡大した。そのため、海洋にもベイレルベイが設置され、カプタン・パシャ(大提督)が補任した[88]

中央では、皇帝を頂点とし、大宰相(サドラザム (en)以下の宰相(ヴェズィール (en)がこれを補佐し、彼らと軍人法官(カザスケル)、財務長官(デフテルダル英語版)、国璽尚書(ニシャンジュ)から構成される御前会議(ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン)が最高政策決定機関として機能した。17世紀に皇帝が政治の表舞台から退くと、大宰相が皇帝の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に政治の中枢は移る。同じ頃、宮廷内の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長(レイスルキュッターブ)、大宰相府の幹部である大宰相用人(サダーレト・ケトヒュダース)などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。

大宰相府(バーブ・アーリー)の門

中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚(ウラマー)と、書記官僚(キャーティプ)の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうちエリートは宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、メドレセ(宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授やムフティーの公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官(カザスケル)であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」(シェイヒュルイスラーム)である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、宦官を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。

これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に西欧を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた閣議の長とされて事実上の内閣を率いる首相となった。

しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、イスラム国家としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。

『オスマン帝国の行政遺産および現代中東』を執筆したカーター・ヴォーン・フィンドリー氏によると、1800年代初頭、オスマン帝国は、自由主義という新たな世界秩序に適応するために、「タンジマート」の時期を迎えた。オスマン帝国の支配者は、広大な土地に散らばる臣民との関係を断ち切っていたため、あらゆる方面から様々な独立思想の影響を受けやすかったのである。このような時期の戦略的な変化の一つが、再び権力を集中化することであった さらにフィンドリー氏は、市場を独占していた国家主導の企業に対する自由貿易と、1838年のインフィタ時代に出された保護法との争いがあったことも指摘している。『オスマン帝国の行政遺産および現代中東』を執筆したカーター・ヴォーン・フィンドリー氏によると、オスマン帝国の支配階級には、軍、宗教、奉仕という3つの重要な機能的区分があった。軍は、軍事工学学校の設立、軍内の外交術の改革、さらに服務規定の改善により、文官としてのプロ意識が育まれた、1800年代のマフムト2世とアブデュルハミト2世の時代に最も強化された。文官支配は「1908年から1950年までトルコを支配し続けた」。フィンドリー氏はこの遺産を、タンジマート時代に促進されたインフィタ(開かれた貿易市場)時代に起因するとしている。このようなタンジマートの「後継者」または遺産が、「ホーラーニの自由主義時代、アラブの社会主義の一時的な流行、そして冷戦後の時代」を通じて存続した。また、19世紀には文官の雇用率が高まり、行政の質が低下して破産および対外債務につながったが、一方で、不規則な採用および昇進方法はスルターンが利用した利権の保護手段であった。1838年から1839年にかけてのタンジマート時代は、イスラム社会に対する急激な西洋化と批判され、近代主義を通してオスマン帝国によるイスラムの古い価値観の復活を望む国民主義的なオスマン帝国の人々が結集した

オスマン帝国の人々

宗教面

オスマン帝国が最大版図となった時、その支配下は自然的地理環境や生態的環境においても多様なものを含んでおり、さらに歴史的過去と文化的伝統も多様なものが存在した[100]

オスマン帝国南部であるアラブ圏ではムスリムが大部分であり、また、その宗教はオスマン帝国の支配イデオロギーであるスンナ派が中心を成していたが、イラク南部ではシーア派が多数存在しており、また、現在のレバノンに当たる地域にはドゥルーズ派が多数存在していた。しかし、これだけにとどまらず、エジプトのコプト正教会、レバノン周辺のマロン派、シリア北部からイラク北部にはネストリウス派の流れを汲むアッシリア東方教会が少数、ギリシャ正教アルメニア使徒教会ローマ・カトリックユダヤ教徒などもこのアラブ圏で生活を営んでいた[101]

そしてアナトリアでは11世紀以降のイスラム化の結果、ムスリムが過半数を占めていたが、ビザンツ以来のギリシャ正教徒、アルメニア教会派も多数存在しており、その他、キリスト教諸教派も見られ、ユダヤ教徒らも少数存在した。しかし、15世紀にイベリア半島でユダヤ教徒排斥傾向が強まると、ユダヤ教徒らが多くアナトリアに移民した[102]

バルカン半島ではアナトリアからの流入、改宗によりムスリムとなる人々もいたが、キリスト教徒が大多数を占めており、正教徒が圧倒的多数であったがアドリア海沿岸ではカトリック教徒らが多数を占めていた。また、ムスリムとしてはトルコ系ムスリムとセルボ・クロアチア語を使用するボスニアのムスリム、そしてアルバニアのムスリムなどがムスリムとしての中心を成していた[102]

一方で1526年に占領されたハンガリー方面ではカトリックとプロテスタントの間で紛争が始まった時期であった。オスマン帝国はプロテスタント、カトリックどちらをも容認、対照的にハプスブルク帝国占領下であったフス派の本拠地、ボヘミアではプロテスタントが一掃されていた[103]

こうして西欧ではキリスト教一色となって少数のユダヤ人らが許容されていたに過ぎない状態であったのと対照的にオスマン帝国下ではイスラム教という大きな枠があるとはいえども多種の宗教が許容されていた[104]

民族

オスマン帝国が抱え込んだものは宗教だけではなかった。その勢力範囲には同じ宗教を信仰してはいたものの各種民族が生活しており、また、言語も多種にわたった。

オスマン帝国元来の支配層はトルコ人であり、イスラム教徒であった。ただし、このトルコ人という概念も「トルコ語」を母語しているということだけではなく、従来の母語からトルコ語へ母語を変更したものも含まれていた。これはオスマン帝国における民族概念が生物学的なものではなく、文化的なものであったことを示している[105]

オスマン帝国の南部を占めるイラクからアルジェリアにかけてはアラビア語を母語として自らをアラブ人認識する人々が多数を占めていた。しかし、西方のマグリブ地域に向かうとベルベル語を母語とするベルベル人、そして北イラクから北シリアへ向かうとシリア語を母語としてネストリウス派を奉じるアッシリア人が少数であるが加わった。微妙な立場としてはコプト正教会でありながらコプト語を宗教用にしか用いず、日常にはアラビア語を用いていたコプト正教徒らが存在する[106]

また、アナトリア東部から北イラク、北シリアにはスンナ派のクルド人らが存在しており、クルド語を母語としていた[107]

元東ローマ帝国領であったアナトリア及びバルカン半島では、ギリシャ語を母語としてギリシャ正教を奉じるギリシャ人らが多数を占めていた。ただし、アナトリア東部と都市部にはアルメニア語を母語としてアルメニア使徒教会派であるアルメニア人らも生活を営んでいた。バルカン半島では民族、言語の分布はかなり複雑となっていた。各地にはオスマン帝国征服後に各地に散らばったトルコ人らが存在したが、それ以前、ルーマニア方面にはトルコ語を母語とするが正教徒であるペチェネク人らも存在した[107]

バルカン半島東部になるとブルガリア語を母語として正教を奉じるブルガリア人、西北部にはセルボ・クロアチア語を母語として正教徒である南スラブ系の人々、これらの人々は正教を奉じた人々らはセルビア人、カトリックを奉じた人々らはクロアチア人という意識をそれぞれ持っていた。しかし、ボスニア北部では母語としてセルボ・クロアチア語を使用しながらもムスリムとなった人々が存在しており、これらはセルビア人、クロアチア人からは「トゥルチン(トルコ人」と呼ばれた[108]

アルバニアではアルバニア語を母語とするアルバニア人らが存在したが、15世紀にその多くがイスラム教へ改宗した。ただし、全てではなく、中には正教、カトリックをそのまま奉じた人々も存在する。そしてオスマン帝国がハンガリー方面を占領するとハンガリー語を母語としてカトリックを中心に、プロテスタントを含んだハンガリー人々もこれに加わることになる[109]

その他、ユダヤ教を信じる人々が存在したが、母語はバラバラであり、ヘブライ語はすでに典礼用、学問用の言語と化していた。オスマン帝国南部ではアラビア語、北部では東ローマ帝国時代に移住した人々はギリシャ語、15世紀末にイベリア半島から移住した人々はラディーノ語、ハンガリー征服以後はイディッシュ語をそれぞれ母語とするユダヤ教徒らがオスマン帝国に加わることになる。ただし、彼らは母語こそ違えどもユダヤ教という枠の中でアイデンティティを保持しており、ムスリム側も宗教集団としてのユダヤ教徒(ヤフディー)として捉えていた[109]


注釈

  1. ^ 15世紀後半の古伝承によれば、トルコ系オグズ族のカユ部族が起源とされており、この説は1930年代に異論が出るまで主流であった[11]
  2. ^ キリスト教世界への聖戦に燃えたトルコ人騎士らがガーズィーを形成して東ローマ帝国内へ侵入を繰り返したとする説はキョプリュリュ=ヴィテック説と呼ばれる[13]
  3. ^ このオスマン率いる軍勢の中にはキリスト教系騎士も参加しており、アナトリア北西のハルマンカヤのギリシャ人領主であったキョセ・ミハルは生涯、オスマンと同盟を結んだ[14]。また、逆にトルコ系チョンバオール家はオスマンとの同盟を破って東ローマ帝国と同盟を結ぶなど、宗教、民族の枠を超えて活動していた[15]
  4. ^ この同盟はヨハネス6世カンタクゼノスが失脚することにより解消される[18]
  5. ^ 先代が死去するとスルタン位継承した王子が他の王子を殺害するという慣習。のちにこれは廃れて幽閉制へと移り代わり、年長者もしくは前スルタンの弟がスルタンを継承するようになった[28]
  6. ^ セルビア北部はセルビア侯の領有地とされ、ラザルの息子ステファン・ラザレヴィチ英語版がデスポテース(公)に任命された[29]
  7. ^ エペイロスは当初従属国とされ、イタリア人専制公カルロ2世トッコ英語版が統治した。なお、エペイロスがオスマン帝国領となるのは1449年のこと[37]
  8. ^ この中でも地方に居住して徴税権を委ねられるシステムティマール制によって軍事奉仕義務を負った騎兵をスィパーヒーと呼ぶ。
  9. ^ この任命には様々な説があり、ひとつにはララという重職(セルジューク朝でいうアタ=ベク)に任命されるほどの人物であったということから任命されたという説とムラト1世が本来は息子のバヤズィト(後のバヤズィト1世)を任命するつもりであったが、幼少であったため、その繋ぎとしてシャーヒンを任命したとする説がある[92]
  10. ^ 一部の重要な都市を含むサンジャクのベイにはチェレビイ・スルターンと呼ばれる王子達が任命された[95]
  11. ^ 歴史家アーノルド・トインビーによる[113]
  12. ^ 一方の当事者がムスリム、非正教徒の非ムスリムの場合や、両方が正教徒であったとしても片方が望んだ場合はイスラーム法廷で裁かれた[122]

出典

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  126. ^ 松岡正剛による紹介






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