オスマン帝国 ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策

オスマン帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/21 04:59 UTC 版)

ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策

オスマン帝国は勢力を拡大すると共にイスラム教徒以外の人々をも支配することになった。その為の制度がミッレト制であり、サーサーン朝ペルシアなどで用いられていたものを採用した。この対象になったのはユダヤ教徒、アルメニア使徒教会派、ギリシャ正教徒らであった[110]。また、成立時より東ローマ帝国と接してきたオスマン帝国は教会をモスクに転用した例こそあれども、東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させたという証拠は見られず、むしろ、15世紀初頭以来残されている資料から東ローマ帝国臣民をそのまま支配下に組み込んだことが知られている[111]

このミッレトに所属した人々は人頭税(ジズヤ)の貢納義務はあったが、各自ミッレトの長、ミッレト・バシュを中心に固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた[111]

これらミッレト制はシャーリア上のズィンミー制に基づいていたと考えられており、過去には唯一神を奉じて啓示の書をもつキリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「啓典の民」らはズィンマ(保護)を与えられたズィンミー(被保護民)としてシャーリアを破らない限りはその信仰、生活を保つことが許されていた。オスマン帝国はこれを受け継いでおり、元々東ローマ帝国と接してきた面から「正教を奉じ、ギリシャ語を母語とするローマ人にして正教徒」というアイデンティティの元、ムスリム優位という不平等を元にした共存であった[112]

このミッレト制は過去に語られた「オスマン帝国による圧政」を意味するのではなく、「オスマンの平和」いわゆる「パックス・オトマニカ[# 11]という面があったということを意味しており[114]、20世紀以降激化している中東の紛争、90年代の西バルカンにおけるような民族紛争・宗教紛争もなく、オスマン帝国支配下の時代、平穏な時代であった[115]

ユダヤ教徒

ユダヤ人の宗派共同体は東ローマ帝国時代からすでに存在した。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国領となると、そのミッレトは東ローマ帝国時代と同じ待遇で扱われることを認められ、公認のラビが監督することになった。オスマン帝国はユダヤ人ということで差別することがなかったため、オーストリアハンガリーポーランドボヘミアスペインなどからの移民も別け隔てなく受け入れた。ただし、これら新規に流入したユダヤ人たちは纏まりを欠いたため、オスマン帝国がハハム・バシュを任命してこれら小集団と化したユダヤ人らを統括した[116]

なお、バヤズィト2世の時代にはユダヤ人らを厚遇するように命じた勅令を発布している[117]

アルメニア人

アルメニア人らは合性論を教義とする非カルケドン派が多かったため、東ローマ帝国時代から異端視される傾向が強かった。そのため、東ローマ皇帝によってカフカースからカッパドキアキリキアへ移住させられ、キリキア・アルメニア王国(小アルメニア)を形成することになった。アルメニア本土はセルジューク軍、モンゴル軍、ティムール帝国などの侵略を受けたが、小アルメニアはなんとか自立を保つことができた。その後、オスマン帝国の侵略を受けたが、小アルメニア、アルメニア本土はすぐにオスマン帝国領化することもなかった。しかし、メフメト2世の時代、アルメニア人らのミッレトが形成されたが、アルメニア本土がオスマン帝国領になるのは1514年のことであった[118]

ギリシャ正教徒

ギリシャ正教徒のミッレトにはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ワラキア人らが所属した。彼らはバルカン半島の主要な民族であったために、メフメト2世がギリシャ正教総主教にゲンナデオス2世を任命してミッレト統括者にしたように重要視された。なお、ルメリ地方にミッレト制が導入されたのはメフメト2世以降であり、コンスタンティノープルが陥落するまでは導入されなかった[119]

なお、このミッレトには上記民族以外にもアラビア語を母語とするキリスト教徒、トルコ語を母語とするキリスト教徒(カラマンル)らも含まれることになり、キリスト教徒(正教徒)としての意識を持ってはいたが、それ以上に母語を元にした民族意識も二次的ながら存在していた[114]

しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあった全地総主教座を頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。これに対して過去にステファン・ドゥシャンが帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、1557年、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となったソコルル・メフメト・パシャの尽力によりセルビア総主教座を回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議により1766年に廃止された。この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた[120]

イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらにアトス山の修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた[121]

これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。18世紀になるとアルバニア系正教徒らがアルバニア語を用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ[121]、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした[94]

さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった[# 12]。そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らはローマ法が固有の法であった[122]


注釈

  1. ^ 15世紀後半の古伝承によれば、トルコ系オグズ族のカユ部族が起源とされており、この説は1930年代に異論が出るまで主流であった[11]
  2. ^ キリスト教世界への聖戦に燃えたトルコ人騎士らがガーズィーを形成して東ローマ帝国内へ侵入を繰り返したとする説はキョプリュリュ=ヴィテック説と呼ばれる[13]
  3. ^ このオスマン率いる軍勢の中にはキリスト教系騎士も参加しており、アナトリア北西のハルマンカヤのギリシャ人領主であったキョセ・ミハルは生涯、オスマンと同盟を結んだ[14]。また、逆にトルコ系チョンバオール家はオスマンとの同盟を破って東ローマ帝国と同盟を結ぶなど、宗教、民族の枠を超えて活動していた[15]
  4. ^ この同盟はヨハネス6世カンタクゼノスが失脚することにより解消される[18]
  5. ^ 先代が死去するとスルタン位継承した王子が他の王子を殺害するという慣習。のちにこれは廃れて幽閉制へと移り代わり、年長者もしくは前スルタンの弟がスルタンを継承するようになった[28]
  6. ^ セルビア北部はセルビア侯の領有地とされ、ラザルの息子ステファン・ラザレヴィチ英語版がデスポテース(公)に任命された[29]
  7. ^ エペイロスは当初従属国とされ、イタリア人専制公カルロ2世トッコ英語版が統治した。なお、エペイロスがオスマン帝国領となるのは1449年のこと[37]
  8. ^ この中でも地方に居住して徴税権を委ねられるシステムティマール制によって軍事奉仕義務を負った騎兵をスィパーヒーと呼ぶ。
  9. ^ この任命には様々な説があり、ひとつにはララという重職(セルジューク朝でいうアタ=ベク)に任命されるほどの人物であったということから任命されたという説とムラト1世が本来は息子のバヤズィト(後のバヤズィト1世)を任命するつもりであったが、幼少であったため、その繋ぎとしてシャーヒンを任命したとする説がある[92]
  10. ^ 一部の重要な都市を含むサンジャクのベイにはチェレビイ・スルターンと呼ばれる王子達が任命された[95]
  11. ^ 歴史家アーノルド・トインビーによる[113]
  12. ^ 一方の当事者がムスリム、非正教徒の非ムスリムの場合や、両方が正教徒であったとしても片方が望んだ場合はイスラーム法廷で裁かれた[122]

出典

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  126. ^ 松岡正剛による紹介






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