エニウェトクの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/24 14:13 UTC 版)
戦いの後
総括
日本軍は少数の捕虜以外は全滅。アメリカ軍の損害は戦死および行方不明195名、負傷521名というものであった。兵力の比率はおおよそ3未満対1と圧倒的な兵力差ではなく[16][注釈 1]、エニウェトク島での陸軍部隊の緩慢な戦いという問題点もあったが、海兵隊がそれをよく補ったため戦いを優勢に進めることが出来た[20]。クェゼリンの戦いの予想外の進展によるエニウェトク攻略の繰上げは、結果的にアメリカ軍に全面吉と出て、日本軍が十分な防備体制を構築する前にこれを叩き潰す事に成功した。ヒル少将は以下のような報告を、スプルーアンス中将に行っている。
私は当地における戦闘の細部について閣下が関心をおもちであると思います。われわれはまったく熊ん蜂の巣に行きあたったような有様でした。何度も何度も攻撃隊を発進させて、やっとこれを制圧することができました。しかし、もう二か月も後であったならば、これを占領することは非常に困難だったでありましょう。閣下があの時期に攻撃するように決定されたことがきわめてよかったことに、疑問の余地はありません。閣下がトラック島、およびサイパン、ならびにテニアン島に攻撃を加えられたことは、非常によかったと思います。われわれは一七日間にわたるエニウェトク環礁に対する攻撃の間に、日本軍の飛行機を一機も見かけませんでした。 — ハリー・W・ヒル、トーマス・B・ブュエル『提督スプルーアンス』371,372ページ
アメリカ軍はギルバートでの苦しい出血から多くのことを学び、その教訓を一連のマーシャルの戦いで遺憾なく発揮した。その効果は実にてきめんで、タラワ戦で幾分か損なわれたアメリカ軍将兵はおろか、アメリカ国民の士気をも一気に回復するほどのものであり、また、空母任務部隊の威力やスプルーアンス中将の作戦計画の遂行能力の高さなども確認されることとなった[26]。マーシャルの戦いの後、太平洋の主戦場は中部太平洋方面からはしばし離れ、ニューギニアからフィリピンへの進撃を渇望していたダグラス・マッカーサー大将の兵力が主力となるニューギニアの戦いに移る事となる(アドミラルティ諸島の戦いなど)[27]。
残された環礁
エニウェトクの戦いの後、アメリカ軍はマーシャル諸島各地で掃討戦を行った。一連の掃討戦で大きな戦いはなく、4月下旬までには終わった。経緯は以下のとおりである[20][28]。
- アルノ環礁:2月12日。無血占領
- オトー環礁:3月9日から13日。不時着した日本機の搭乗員12名自決
- ウジャエ環礁:3月9日から13日。気象観測員6名捕虜
- ラエー環礁:3月9日から13日。無血占領
- アイリングラップ環礁:3月22日から27日。ジャルートへ移動中の陸軍第122連隊第二大隊46名中37名戦死、9名捕虜
- ナムー環礁:3月22日から27日。警察官と教員各1名、その妻子4名捕虜
- ナモリック環礁:3月22日から27日
- エボン環礁:3月22日から27日。日本兵5名と民間人20名、上記のセオドア・J・ミラー二等兵など海兵隊員2名戦死
- キリ島:3月22日から27日
- ビキニ環礁:3月29日
- ビカール環礁:4月1日から5日
- ウチリック環礁:4月1日から5日
- タカ環礁:4月1日から5日
- アイルック環礁:4月1日から5日
- メジット島:4月1日から5日
- ジェモ島:4月1日から5日
- リキエップ環礁:4月1日から5日
- ウジェラング環礁:4月22日。日本兵18名捕虜
一連の戦いの後、放置されたウォッジェ、ジャルート、ミリ、マロエラップの四環礁は、増強される航空兵力のための格好の「訓練地」として爆撃を受け続ける事となった[29]。
注釈
- ^ クェゼリンの戦いでは約6対1(#ニミッツ、ポッターp.247)
出典
- ^ a b c #戦史62p.630
- ^ a b c d #戦史62p.637
- ^ #佐藤p.200
- ^ #ブュエルp.328
- ^ #佐藤p.194
- ^ a b c d e #戦史62p.629
- ^ #戦史6p.259
- ^ #戦史62p.630
- ^ a b c d #戦史6p.263
- ^ a b 河津、120頁。
- ^ #佐藤pp.194-195
- ^ a b c #ブュエルp.352
- ^ a b c d #戦史62p.631
- ^ a b c d e f #戦史62p.632
- ^ #戦史62p.589,625,631
- ^ a b #ニミッツ、ポッターp.247
- ^ a b #戦史6pp.261-262
- ^ a b c #戦史62p.633
- ^ a b c d e f g #戦史62p.634
- ^ a b c d e f #ニミッツ、ポッターp.248
- ^ #戦史62pp.634-635
- ^ a b #戦史62p.635
- ^ 河津、125頁。
- ^ #戦史62p.637
- ^ Pvt Theodore J Miller、Find a Grave
- ^ #ブュエルpp.372-374
- ^ #ブュエルpp.375-380
- ^ #戦史62pp.612-614
- ^ #ニミッツ、ポッターpp.248-249
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