エニウェトクの戦い エニウェトクの戦いの概要

エニウェトクの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/24 14:13 UTC 版)

エニウェトクの戦い

上陸するアメリカ軍部隊
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1944年2月17日-2月18日
場所エニウェトク環礁
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
西田祥実陸軍少将 ハリー・W・ヒル英語版海軍少将
トーマス・E・ワトソン英語版海兵准将
戦力
戦闘員2,785/2,812[1]
非戦闘員598[1]
10,367
損害
戦死3,335/2,677[2]
捕虜48/64[2]
戦死262/195[2]
戦傷757/521[2]
ギルバート・マーシャル諸島

ここではエニウェトクの戦いの後にウォッジェジャルートミリマロエラップの各環礁を除くマーシャル諸島各地で行われた掃討戦についても簡単に記述する。

背景

1943年末頃になると、ソロモン諸島方面はほぼ日本軍の支配権は失われた。アメリカ軍は、日本本土攻撃の基地となるマリアナ諸島攻略を目指し、次なる攻略の主目標として中部太平洋・マーシャル諸島方面を指向した。そのため、手始めに1943年11月にはギルバート諸島マキン環礁タラワ島を攻略した(ガルヴァニック作戦)。年変わって1944年1月30日には、マーシャル諸島の1月31日から2月4日にかけてクェゼリン環礁攻略が行われ、日本軍の防衛の最前線であったマーシャル諸島は無力化された。また、アメリカ軍はクェゼリンの戦いの最中にマジュロ(メジュロ環礁)を無血占領し、有力な根拠地とした。

エニウェトク環礁は、マーシャル諸島とマリアナ諸島の間にあり、拠点として適していた。アメリカ軍はエニウェトク環礁を日本本土からマーシャル諸島へ新手の航空兵力を送り込む中継点と見なしており[4]、また、トラック諸島制圧とマリアナ諸島攻略のための[5]飛行場および泊地の確保のため、侵攻することを計画した。しかし、アメリカ軍の見立てとは違って、日本軍による島の防衛体制は、1943年の時点までは手薄だった。これは、アメリカ軍の攻撃は最初はマーシャル諸島南西部であると日本軍が思っていたためであり、事実アメリカ軍はそこを攻撃していた。また、何らかの軍事施設を建設し始めたのは1942年11月の事であり、1943年3月には滑走路が完成した[6]。地上兵力は、第六十一警備隊分遣隊による監視哨が1943年1月に設けられたのが最初で[6]、その他航空要員が50名程度いた[6]。ところが、マキンとタラワの陥落の後、エニウェトクにおいても兵力増強の必要性が感じられ、1944年1月4日には満州から陸軍の海上機動第一旅団主力(兵力約2,700名)が移駐した。守備隊は環礁内のエンチャビ島、メリレン島、エニウェトク島に配備され、司令部はメリレン島に置かれた[6]。移駐に伴い、第六十一警備隊分遣隊は海上機動第一旅団の指揮下に入る事となった[7]。旅団長の西田祥実少将は移駐に先立って、在トラックの第四艦隊小林仁中将)より守備要領の策定を令され[8]、エニウェトク到着後はすぐに陣地の構築を開始。しかし、エニウェトク環礁はサンゴ礁の小島であり、そのうちエニウェトク島は砂地であったため地形的に陣地の構築は非常に困難だったが[9][10]、地下に掩体を構築して坑道で連結させる態勢にはなっていた[9]。資材は主にエンチャビ島に保管されており[9]、メリレン、エニウェトク両島にも分配して陣地構築を促すことになっていたが、その前にアメリカ軍の上陸を迎えたのである[9]

アメリカ軍は前述のようにエニウェトク環礁をトラック諸島制圧とマリアナ諸島攻略の拠点として侵攻を計画していたものの、当初の計画では5月11日に上陸作戦が行われることになっていた[11]。しかし、クェゼリンの戦いの戦況やマジュロの無血占領を受けて、早くも上陸第二日の時点で「クェゼリンの戦いに予備隊は必要ない」というムードが流れるようになった[12]。そのムードは現地で作戦を指揮していたレイモンド・スプルーアンス中将、リッチモンド・K・ターナー少将およびホーランド・M・スミス海兵少将をはじめ、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将や、しまいには合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・J・キング大将までも包むこととなり[12]、緊急に作戦計画の変更が行われ、アメリカ統合参謀本部は2月3日付でエニウェトク攻略とトラック攻撃を許可する事となった[12]

両軍の兵力

アメリカ軍の戦闘経過。日本側呼称エンチャビ島はEngebi島、メリレン島はParry島と表記されている。
航空支援を受けながら戦闘するアメリカ軍。激しい事前砲爆撃でヤシの林が丸坊主になっている。

日本軍

陸海軍の軍人ほか軍属などをあわせて総兵力3,560名である[1]

  • 陸軍
    • 海上機動第一旅団主力(指揮・西田祥実 少将) - 2,763名(メリレン:1,244名(うち司令部員939名)、エンチャビ:716名、エニウェトク:803名)
  • 海軍 - 199名
  • 非戦闘員 - 598名
    • 軍属 47名(メリレン)
    • 測量隊 50名(メリレン)
    • 建設要員 301名(メリレン:20名、エンチャビ:281名)
    • 荷役要員 200名(山九より派遣され、クェゼリンに向かう途中[6]。メリレン:35名、エンチャビ:165名)

アメリカ軍

上陸部隊の総兵力10,376名で、独立海兵第1旅団長トーマス・E・ワトソン准将が指揮を執った。海兵隊指揮官が陸軍部隊を指揮する珍しい体制だった[10]。全体の指揮は第三上陸作戦部隊指揮官のハリー・W・ヒル少将が行った[13]

  • 海兵隊 - 5,820名
  • 陸軍 - 4,556名
    • 第27歩兵師団第106歩兵連隊の二個大隊

注釈

  1. ^ クェゼリンの戦いでは約6対1(#ニミッツ、ポッターp.247)

出典

  1. ^ a b c #戦史62p.630
  2. ^ a b c d #戦史62p.637
  3. ^ #佐藤p.200
  4. ^ #ブュエルp.328
  5. ^ #佐藤p.194
  6. ^ a b c d e #戦史62p.629
  7. ^ #戦史6p.259
  8. ^ #戦史62p.630
  9. ^ a b c d #戦史6p.263
  10. ^ a b 河津、120頁。
  11. ^ #佐藤pp.194-195
  12. ^ a b c #ブュエルp.352
  13. ^ a b c d #戦史62p.631
  14. ^ a b c d e f #戦史62p.632
  15. ^ #戦史62p.589,625,631
  16. ^ a b #ニミッツ、ポッターp.247
  17. ^ a b #戦史6pp.261-262
  18. ^ a b c #戦史62p.633
  19. ^ a b c d e f g #戦史62p.634
  20. ^ a b c d e f #ニミッツ、ポッターp.248
  21. ^ #戦史62pp.634-635
  22. ^ a b #戦史62p.635
  23. ^ 河津、125頁。
  24. ^ #戦史62p.637
  25. ^ Pvt Theodore J MillerFind a Grave
  26. ^ #ブュエルpp.372-374
  27. ^ #ブュエルpp.375-380
  28. ^ #戦史62pp.612-614
  29. ^ #ニミッツ、ポッターpp.248-249


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