エスペラント 歴史

エスペラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 09:29 UTC 版)

歴史

エスペラントの草案者、L.L. ザメンホフ
1887年にワルシャワで出版されたエスペラントについての最初の本 "Unua Libro"

エスペラントは1880年代ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフによって創案された。最初の文法書・単語集は1887年に発表された。

言語の開発

最初、ザメンホフはラテン語の復権が言語問題の解決策になると考えていたが、実際にラテン語を学ぶとその困難さに気づいた。一方で英語を学んだ際、名詞の文法上の性および複雑な格変化ならびに動詞の人称変化を省略できないかと考えた。言語を学習するにはたくさんの単語を覚えなければならないが、街を歩いているとき偶然、ロシア語で書かれた2つの看板を見て、解決策を思いついた。швейцарская(シュヴェイツァールスカヤ、門番所)とкондитерская(コンディテルスカヤ、菓子屋)という2つの看板には、共通して-skaja(スカーヤ、場所)という接尾辞が使われていた。彼はひとつひとつ別々に覚えなければならないと思われていた単語を、接辞を使ってひとつの単語から一連の単語群として作り出せるようにする方法を考えた。基本となる語彙は、多くの言語(ただし、ヨーロッパの言語に限られる)で使われているものを採用した。

1878年、現在のエスペラントのプロトタイプといえる Lingwe uniwersala(リングヴェ・ウニヴェルサーラ)を、ザメンホフはギムナジウムの同級生たちに教えた。その後6年間、まず各民族語の文学作品の翻訳と詩作に取りかかり、新しい言語の欠陥や運用上の扱いにくさをなくすことにした。ザメンホフは後の1895年ロシアエスペランティスト、ニコライ・ボロフコに宛てた手紙に「私は6年間を言語を完璧にするために費やした。たとえそれが1878年の段階ですでにできあがっていたとしても」と書いている。彼はすでに自らの言語を公表できる準備ができていると考えていたが、ロシア政府の検閲がそれを許さなかった。これにより公表が遅れたが、その間、彼は旧約聖書シェークスピアの作品などをエスペラントに翻訳し、言語の改良も重ねていった。1887年、ようやく出版された Unua Libro(最初の本)でエスペラントの基礎について紹介した。こうして今日話されているエスペラントが世に出された。

最初の世界大会まで

最初のうち、エスペラントの話者どうしの交流の手段としては、文通か雑誌『La Esperantisto』(1889年から1895年まで発行)程度しかなかった。1905年までに17のエスペラント関係の雑誌が発行された。活動は最初ロシアや東ヨーロッパに限られていたが、次第に西ヨーロッパアメリカアジアに広がっていった。日本では1906年二葉亭四迷が日本最初のエスペラントの教科書『世界語』を著した。

1904年小規模な国際会議が開かれ、それが1905年8月、フランスブローニュ=シュル=メールで行われる最初の世界エスペラント大会の開催につながる。このときは33の国から688人が参加した。大会でザメンホフは、エスペラント運動の指導者としての地位を公式に放棄した。ザメンホフ自身がユダヤ人であったため、反ユダヤ主義による偏見が言語の発展を妨げるのを恐れたためである。彼はエスペラント運動の原理に基づいたブローニュ宣言を提案し、大会出席者たちはこれを採択した。

言語の発展

1905年にフランスのブローニュで開催された第1回世界エスペラント大会で、『エスペラントの基礎』の変更を制限する宣言が採択された。宣言は、言語の基礎をザメンホフが出版した『エスペラントの基礎』(Fundamento de Esperanto、フンダメント・デ・エスペラント)から変更してはならないとし、いかなる者もこれを変える権利を有しないとした。この宣言は使用者が適当と思うように新しい考えを発表しても良いとしている[2]

しかしながら実際には、現代のエスペラントの使い方は『エスペラントの基礎』で示された「お手本」と完全に一緒というわけではない。たとえば「私はこれが好きです。」の一文をエスペラント文に翻訳するときを例に説明する。『エスペラントの基礎』に沿って訳せば"Mi amas ĉi tiun."(ミ アーマス チ ティーウン)となるが,これは「私はこれを愛しています。」の意味となり、少し意味が強すぎてふさわしくないと感じるエスペランティストが多く、実際には"Mi ŝatas ĉi tiun."(ミ シャータス チ ティーウン)で代用することが多いが、これは元来「私はこれを高く評価します。」という意味であり、元の意味からは少しずれている(ただし,現行の辞書では動詞"ŝati"を「好きだ」の意味で使うことを追認している)。また、"Ĉi tiu plaĉas al mi."(チ ティーウ プラーチャス アル ミ)と訳すこともある。逐語訳すれば「これは私に気に入る」であり、完全に同じ意味ではないが、こちらの訳の方が「私はこれが好きです。」の意味に近い。

ほかの慣習的な変化としては、国名を表す接尾辞-uj- から -i- が主流に変わったことがある(例:JapanujoJapanio[3]。また、厳密に言えば、エスペラント化された単語のうち -a で終わる単語はすべて形容詞であるが、ヨーロッパ諸語での Maria のように -a で終わる名前が使われることがあり、これを慣習的にエスペラント化された名詞として認められる辞書もある[4]。ただし、『エスペラントの基礎』に従うなら、エスペラント化された名詞は、すべて Mario のように -o で終わらなければならないはずであり、この立場をとる辞書もある[5]。またĥの発音がとりわけ難しいとされてkに置き換えられる[6] など、語形変化も起こっている。

加えてエスペランティストたちは、新しく登場した事物や概念外来語を表すために、さまざまな新語を取り入れた。たとえば1934年発行の "Plena Vortaro" は7,004項目(ほぼ語根)からなるが、2005年発行の "La Nova Plena Ilustrita Vortaro" は1万6,780項目からなる[7]。これらはそのまま使うのではなく、可能な限りエスペラントの造語法などに従った形で取り込まれている。たとえば、コンピュータ (computer) はkomputilo(コンプティーロ)といった具合である(道具を意味する接尾辞 -il- を使っている)。これにより、テレビやウェブやWindowsやMacなど、ザメンホフの時代には存在しなかった事物も自由に表現できるようになっている。たとえば、「CD-ROMの中のbinというフォルダにあるボールペンのアイコンをダブルクリックするとウィンドウズにワープロのプログラムやファイル、フォントなどがインストールされます。このときインターネットに自動的にアクセスするので、通信を許可するようにファイアウォールを設定してください。」といった文章も、現代のエスペラントでは表現できるのである。

新語の導入はエスペランティストなら誰でも提案することができ、最終的には一種の「競争原理」を勝ち抜いてもっとも頻繁に使われるようになったものが受け入れられる。たとえば「コンピュータ」に関しても、komputatorokomputero などさまざまな提案が行われた[8] が,最終的にエスペランティストにとってもっとも簡潔と思われる komputilo が勝ち残ったのである[9](この際,動詞 komputi「計数・計量する」に「計算機で計算(演算)する」という意味が付け加えられた)。エスペラントの言語としての統制機関としてアカデミーオ・デ・エスペラントが在るが、個々のエスペランティストに厳しい制約を設けるようなことはしていない[10]

新語はどんなものでも受け入れられるとは限らない。たとえば「安い」を意味する新語 ĉipa(チーパ・英語の cheap に由来)は、長たらしい malmultekosta(マルムルテコスタ:mal/multe/kost/a=「(反対)・多く・費用・(形容詞)」)に代わるものとして造られたが、あまり使われていない。

最初の世界大会以降

1905年以降、世界エスペラント大会は2つの世界大戦の間を除き、毎年開催されている。

1920年代国際連盟の作業言語にエスペラントを加えようという動きがあった。イギリスのロバート・セシルや日本の新渡戸稲造をはじめ10人の各国代表者が賛同したが、フランスの代表者ガブリエル・アノトーの激しい反対にあい、実現しなかった。フランス語英語国際語の地位を脅かされつつあり、エスペラントを新たな脅威とみなしていたためである。

年表


注釈

  1. ^ 人工言語として。自然言語ではケチュア語などにも不規則動詞が少ない。

出典

  1. ^ 二木紘三 著、「国際語の歴史と思想」(1981年、毎日新聞社)p.166
  2. ^ M.ボウルトン著、水野義明訳「エスペラントの創始者ザメンホフ」(1993年、新泉社)p.128-130
  3. ^ 藤巻謙一「まるごとエスペラント文法」(2001年、日本エスペラント学会)、p.51
  4. ^ "Plena Ilustrita Vortaro"(1971年、Sennacieca Asocio Tutmonda)
  5. ^ "La Nova Plena Ilustrita Vortaro"(2005年、Sennacieca Asocio Tutmonda)
  6. ^ 辞典編集委員会編「エスペラント日本語辞典」(2006年、日本エスペラント学会)p443・ĥ解説
  7. ^ "La Nova Plena Ilustrita Vortaro"(2005年、Sennacieca Asocio Tutmonda)、前書き
  8. ^ La Revuo Orienta誌2019年12月号p.22
  9. ^ 辞典編集委員会編「エスペラント日本語辞典」(2006年、日本エスペラント学会)p578・該当の語に対する「より望ましい語」の注記による
  10. ^ CED編、"Esperanto en Perspektivo"(1974年、世界エスペラント協会)、p664-669
  11. ^ 一般財団法人日本エスペラント協会2019年度事業報告書
  12. ^ https://www.e-d-e.org/Esperanto-aldonigxis-al-la-Pola "Esperanto aldoniĝis al la Pola Listo de Nemateria Kultura Heredaĵo"(エスペラント) Eŭropo Demokratio Esperanto, 2014年11月21日 (2021年2月16日閲覧)
  13. ^ https://www.esperanto.hr/nematerijalno_kult_dobro_esper_2019.pdf クロアチア共和国文化・メディア省による決定(クロアチア語),2019年2月11日(2021年2月16日閲覧)
  14. ^ 辞典編集委員会編「エスペラント日本語辞典」(2006年、日本エスペラント学会)ĥの説明
  15. ^ Hugo Röllinger "Monumente pri Esperanto - ilustrita dokumentaro pri 1044 Zamenhof/Esperanto Objektoj en 54 landoj",Universala Esperanto Asocio, Rotterdam 1997, ISBN 92 9017 051 4.
  16. ^ [1]
  17. ^ http://www.festivalo.co.jp/story/index.html
  18. ^ http://www.puk.jp/theatre/theater.html プーク人形劇場
  19. ^ http://www.felica.ac.jp/mean.html
  20. ^ http://www.mediafactory.co.jp/anime/rahxephon/onair/ab_world.html ラーゼフォン 世界観
  21. ^ 街区名称は「丸の内オアゾ(OAZO)」に決定
  22. ^ http://www.movado.com/AboutMovado.aspx
  23. ^ http://www.tokoyo.jp/wa_6.php
  24. ^ ヤクルトのマメ知識
  25. ^ 「はじまりへの旅」公式サイト





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