ウィリアム・アダムス ウィリアム・アダムスの概要

ウィリアム・アダムス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 23:27 UTC 版)

 
ウィリアム・アダムズ
「皇帝(大御所徳川家康)の前のウィリアム・アダムズ」
時代 江戸時代
生誕 1564年9月24日
死没 1620年5月26日元和6年4月24日
別名 三浦 按針(みうら あんじん)(日本名)
墓所 崎方公園平戸市
塚山公園横須賀市
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠
メアリー・ハイン、お雪
デリヴァレンス、ジョン、ジョゼフ(按針)、スザンナ
特記
事項
菩提寺は浄土寺 (横須賀市)
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生涯

生い立ちと青年時代

1564年イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンテムズ川北岸にあるライムハウス英語版に移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海術に興味を持ったアダムズは、1588年に奉公の年限を終えると同時に海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。

1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを儲けた。しかし、軍を離れてバーバリー会社ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。

リーフデ号の航海

17世紀のエングレービング。左から右方向にブライデ・ボートスハップ号、トラウ号、ヘローフ号、リーフデ号とホーぺ号

航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。

  • ホーぺ号("希望"の意・旗艦
  • リーフデ号("愛"の意)
  • ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)
  • トラウ号("忠誠"の意)
  • ブライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意)

司令官のジャック・マフ英語版はアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。

しかし航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号はポルトガルに、ブライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。

日本漂着

1705年にオランダ・ライデンの地図出版者が作成した日本の地図、右下に将軍謁見図
日本の王(大名)とその従者

関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後国臼杵黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。一吉は長崎奉行寺沢広高に通報した。

広高はアダムズらを拘束し、船内に積まれていた大砲火縄銃弾薬といった武器を没収したのち、大坂城豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。

家康の引見

結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタインメルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。

5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムズとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招いた。

改名

アダムスが平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け(大英図書館蔵)。

江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。

やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年(慶長12年)には120tの船舶を完成させる[注釈 1]

この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、相模国逸見采地も与えた[4]。また、三浦按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。

1613年(慶長18年)にイギリス東インド会社クローブ号が交易を求めて日本に来航した際、一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、貿易を許可する朱印状を取りつけるなどの手助けをした。1614年(慶長19年)のクローブ号帰還の際には、一緒に帰国できる許可が日英両方から出たが、同船司令官のジョン・セーリスと馬が合わず、帰国を見送った。セーリスは何事も日本式を強要するアダムズが気に入らず、アダムズはセーリスを生意気で無礼な青二才として嫌っていた。一行が去ったあとは、それまで手伝っていたオランダ商館より安い賃金だったが、母国イギリス商館の仕事を手伝った[5]

家康の死後

家康に信頼された按針だったが、1616年元和2年)4月に家康が死去、跡を継いだ徳川秀忠をはじめ江戸幕府幕臣たちが海外貿易を幕府に一元化する目的で貿易を長崎平戸の二港のみに制限すると、幾度も幕府に方針の転換を説いたが相手にされず、また秀忠との目通りも叶わず、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなったが、幕府や次期将軍候補の徳川家光らに警戒された。按針は憂鬱な状態のまま、1620年5月26日元和6年4月24日)に平戸で死去した(満55歳没)。

オランダとの貿易を重視していた江戸は、1623年のアンボイナ事件により日英関係が断絶したが、1646年にはイギリスの鉄鋼一族の探検家ロバート・ダドリー英語版が著書『海事辞典』の中で江戸の地図を発表している。

夫人について

帰国を諦めつつあったアダムスは、1602年(慶長7年)頃に大伝馬町名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由平左衛門の娘・お雪(マリア)と結婚したとされてきた。しかし、馬込勘解由の娘とする説は1888年(明治21年)の「横須賀新報」、1892年(明治25年)の菅沼貞風『日本商業史』[6]が初出であり、現実的に勘解由本人の娘とは考えられず、実際の出自は不明である。また、お雪という名前も1973年(昭和48年)石一郎の小説『海のサムライ』[7]を初出とし、牧野『青い目のサムライ三浦按針』[8]の英訳書を通じて誤って広まったものであり、史料上夫人の名前は残っていない[9]

彼女との間には、息子ジョゼフと娘スザンナが生まれている。


注釈

  1. ^ この船は1610年(慶長15年)になって、上総国御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラと名付けられた。
  2. ^ 後述する1982年のジリンガム市との姉妹都市提携日。
  3. ^ 1998年、ジリンガム市と隣接するロチェスター市と合併して発足。

出典

  1. ^ ウィリアム・アダムス - Find a Grave(英語)
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 41頁。
  3. ^ Bennett, Alexander (2018). Japan the ultimate samurai guide: an insider looks at the Japanese martial arts and surviving in the land of Bushido and Zen. Tokyo: Tuttle Publishing. ISBN 978-4-8053-1375-6 
  4. ^ ウィリアム・アダムス|人物事典 - 三浦半島観光地図”. そらいろネット. 2019年5月30日閲覧。
  5. ^ Saris John; Sir Ernest Mason Satow (1900). The voyage of Captain John Saris to Japan. 1613. London : Printed for the Hakluyt Society. https://archive.org/details/captainjvoyageof00saririch [要ページ番号]
  6. ^ 菅沼貞風『大日本商業史東邦協会、1892年、389頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994052/227 
  7. ^ 石一郎『海のサムライ』河出書房新社、1973年。 NCID BA35316263全国書誌番号:75013048https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001258317-00 
  8. ^ 牧野正『青い目のサムライ三浦按針』黒船出版部、1980年。 NCID BA36577670全国書誌番号:81024173https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001499863-00 
  9. ^ 森良和「ウィリアム・アダムズの日本人妻 ―その出自と名前をめぐって―」『論叢:玉川大学教育学部紀要』第2016号、2017年3月、117-134頁、ISSN 1348-3331NAID 120006868261 [要ページ番号]
  10. ^ a b c d 横須賀市政策推進部文化振興課: “三浦按針と横須賀” (PDF). 横須賀市. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
  11. ^ 三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party)”. 横須賀市. 2013年9月21日閲覧。
  12. ^ 宮永孝. 社会労働研究 = Society and labour 43 (3・4), 87-115, 1997-03: “ウィリアム・アダムズの埋葬地は平戸か”. 法政大学社会学部学会. 2023年12月3日閲覧。
  13. ^ en:wikisource:Dictionary_of_National_Biography,_1885-1900/Adams,_William_(d.1620)
  14. ^ a b 三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party)”. 横須賀市. 2017年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
  15. ^ 姉妹(友好)提携情報”. 自治体国際化協会. 2017年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
  16. ^ “按針の功績、再考の日に あす横須賀の浄土寺で400回忌法要”. 東京新聞神奈川版. (2019年10月25日). https://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201910/CK2019102502000131.html 2020年2月24日閲覧。 
  17. ^ “横須賀市 市指定文化財、新たに3件”. タウンニュース横須賀・三浦. (2021年3月19日). https://www.townnews.co.jp/0501/2021/03/19/566489.html 
  18. ^ 姉妹(友好)提携情報”. 自治体国際化協会. 2017年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
  19. ^ A biomolecular anthropological investigation of William Adams, the first SAMURAI from England”. 2021年11月7日閲覧。
  20. ^ 三浦按針の墓”. 平戸観光協会. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
  21. ^ a b 金山正好, 金山るみ『中央区史跡散歩』2号、学生社〈東京史跡ガイド〉、1993年、17-18頁。doi:10.11501/9641598ISBN 431141952XNCID BN11886564全国書誌番号:79012121https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002267973-00 
  22. ^ 「三浦按針遺跡」東京都教育庁地域教育支援部 - 東京都文化財情報データベース(2022年5月11日閲覧)
  23. ^ 三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party)”. 横須賀市. 2017年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
  24. ^ 「神奈川新聞」横須賀版、2019年4月27日付。[要ページ番号]


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