イタマール・フランコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/01 06:01 UTC 版)
この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はカウティエーロ、第二姓(父方の姓)はフランコです。 |
イタマール・フランコ | |
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第33代ブラジル連邦共和国大統領 | |
任期 1992年12月29日 – 1995年1月1日 1992年10月2日から大統領代行 | |
副大統領 | 置かず |
前任者 | フェルナンド・コロール・デ・メロ |
後任者 | フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ |
第23代ブラジル連邦共和国副大統領 | |
任期 1990年3月15日 – 1992年12月29日 1992年10月2日から大統領代行 | |
大統領 | フェルナンド・コロール・デ・メロ |
前任者 | ジョゼ・サルネイ |
後任者 | マルコ・マシエル |
第16代ミナスジェライス州知事 | |
任期 1999年1月1日 – 2003年1月1日 | |
大統領 | フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ |
前任者 | エドゥアルド・ブランダン・デ・アゼレード |
後任者 | アエシオ・ネベス |
ミナスジェライス州選出の連邦上院議員 | |
任期 2011年1月 – 2011年7月2日(死去) | |
個人情報 | |
生誕 | 1930年6月28日 ブラジル沖 |
死没 | 2011年7月2日 (81歳) サンパウロ州サンパウロ |
国籍 | ブラジル |
政党 | ブラジル労働党 (1955年ごろ – 1964年) ブラジル民主運動 (1964年 – 1981年ごろ) 国家再建党 (1985年 – 1992年) ブラジル民主運動党 (1992年 – 2009年) 社会人民党 (2009年 – 2011年) |
配偶者 | アナ・エリサ・ジュネルス (1968年 – 1971年、離婚) |
子供 | 娘が2人 |
幼年期
サルヴァドール-リオデジャネイロ間をむすぶ船上で生まれた[2]。父方は片方がドイツ系(ミナスジェライス州のスティーブラー家)で、母方はともにイタリア系。母の名前もずばりイタリア (Itália) であった[3]。父はフランコが生まれる前にこの世を去っている。
男の子はその船名「イタ」とポルトガル語で海を意味する「マール」とをあわせて、イタマールと命名された。ミナスジェライス州ジュイス・デ・フォーラで育ち、1955年にジュイス・デ・フォーラ技術学校を卒業、エンジニアになった。
政治家として
1950年代中ごろに政界入りし、ジュイス・デ・フォーラ市の市会議員、副市長を経て市長を2期(1967年 - 1971年、1973年 - 1974年)務めた。1974年に職を辞し、ミナスジェライス州から連邦上院議員に当選[4]。1976年とその翌年の2度、軍政期(1964年 - 1985年)に合法野党であったブラジル民主運動党の副党首を務めた。1982年に上院議員に再選され、1986年にはミナスジェライス州知事に自由党から立候補したが落選。当時は大統領直接選挙制の即時復活に尽力し、自由党の国会議員会長にもなった。
1987年2月1日に招集された憲法制定国民議会では、一議員として南アフリカ共和国などの人種差別主義国家との国交断絶を提案。また、週に40時間以上の残業に対する最低50%の手当て、妊娠中絶の合法化、連邦制の強化、国民主権、対外債務の返済を阻む金融システムの国有化、土地改革を目的とした基金の設立などを訴えた。
死刑制度の復活には反対し、大統領制には賛成した。当時のジョゼ・サルネイ大統領は政敵であったが、皮肉なことにフランコが大統領に就任すると盟友の一人となる。
副大統領職
1989年、自由党を離党し少数政党の国家再建党 (PRN) に合流したフランコは、大統領選でフェルナンド・コロール・デ・メロ陣営の副大統領候補に抜てきされた。地元が大票田であるミナスジェライス州(コロールは対照的に小さなアラゴアス州選出)であることと、汚職疑惑のささやかれたサルネイ大統領を公然と非難していたことが味方した[5]。選挙戦の末、後に大統領となるルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ候補に僅差で勝利した。
副大統領在職中は大統領と政策の折り合いがなかなかつかず、ことに民営化をめぐっては大統領と鋭く対立した[6]。辞任カードも幾度かちらつかせた。
コロールが汚職容疑で告発された1992年、国会は大統領を弾劾した。ブラジルの憲法は、大統領は弾劾後180日間その権限を失うと定めている。フランコは同年10月から大統領代行となり、コロールが辞任した12月29日に正式に大統領に就任した。3年近くも副大統領の座にあったフランコだが、大統領代行就任時の世論調査によると、国民の大多数が彼のことを知らなかった[2]。
- ^ Associated Press (2011年7月3日). “Itamar Franco, Former President of Brazil, Dies at 81”. The New York Times
- ^ a b Davison, Phil (1993年4月10日“Brazil's leader all at sea as economy sinks: Itamar Franco's course is still uncertain”. The Independent (London) ).
- ^ KOIFMAN, Fábio. Presidentes Do Brasil: De Deodoro A Fhc.
- ^ “Former Brazilian President Itamar Franco, known for dies of a stroke at age 81”. Washington Post. (2011年7月3日) 2011年7月2日閲覧。 [リンク切れ]
- ^ Brazil – Franco's Presidency
- ^ a b Brazil – Franco's Presidency, 1992 – 94
- ^ a b c Nash, Nathaniel C. (1992年12月30日“Inheritor of Tarnished Presidency: Itamar Augusto Cantiero Franco”. The New York Times ).
- ^ . http://findarticles.com/p/articles/mi_qa4000/is_200110/ai_n8962604/pg_8 [リンク切れ]
- ^ Brazilians Vote Down Kings and Keep Presidents, JAMES BROOKE, Thursday, April 22, 1993
- ^ BRAZILIAN OFFICIAL TELLS OF '93 PLOT, Friday, January 7, 1994
- ^ Franco's Presidency, 1992 – 94
- ^ Jane Ladle, Huw Hennessy, Brian Bell, Brazil, Langenscheidt Publishing Group, 1998, ISBN 0887291309, 9780887291302
- ^ Brazilian's Reputation Seen Reaching Bottom; President Again Fails to Skirt Controversy, The Washington Post, February 17, 1994, Jeb Blount
- ^ Brazil Leader's Offer to Quit Is Turned Down by Congress, Thursday, October 21, 1993
- ^ Brazil – Franco's Presidency, 1992–94
- ^ a b c Brazil's Ex-President Accomplished Much, Wednesday, May 31, 1995
- ^ a b A Squall At Carnival, JAMES BROOKE, Sunday, February 27, 1994
- ^ Brazil's leader all at sea as economy sinks: Itamar Franco's course is still uncertain, writes Phil Davison in Rio de Janeiro, Saturday, April 10, 1993
- ^ “Itamar Franco”. The Daily Telegraph (London). (2011年7月5日)
- ^ Morre o senador e ex-presidente Itamar Franco aos 81 anos, Saturday, July 2, 2011
- ^ Former Brazilian president dies, Saturday, July 2, 2011
- ^ “Former Brazilian President Itamar Franco dies”. BBC News. (2011年7月2日) 2011年7月3日閲覧。
- 1 イタマール・フランコとは
- 2 イタマール・フランコの概要
- 3 大統領職
- 4 晩年
- 5 脚注
- イタマール・フランコのページへのリンク