アルベルト・アインシュタイン 生涯

アルベルト・アインシュタイン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 08:08 UTC 版)

生涯

生い立ち

アルベルトと妹のマリア(通称「マーヤ」)(1885年)

アインシュタインは1879年3月14日、ヘルマン・アインシュタインを父、パウリーネ・コッホを母とし、その長男としてドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市にて生まれた[4][5][注釈 5]。父ヘルマンはその弟ヤコブから誘われ、アルベルト誕生翌年の1880年夏、一家はミュンヘンに引っ越し、兄弟は、直流電流に基づいた電気機器を製造する会社「Elektrotechnische Fabrik J. Einstein & Cie」を設立した。ヘルマンは営業を担当しヤコブは技術を担当した。1881年には一家にマリア(アルベルトの妹。通称「マーヤ」。)が誕生し、一家は1894年まで同地ミュンヘンで暮らすことになる。

アインシュタインは、5歳ごろまであまり言葉を発して他人と会話することがなかった[5][注釈 6]。しかし、5歳のときに父親からもらった方位磁針が、自然界の仕組みに対する興味をもたらすきっかけとなった[5]。また、同じ頃、ヴァイオリンを習い始めている[5]。そしてすぐにモーツァルトの曲が好きになり、ヴァイオリンは生涯の友となった。

アインシュタイン一家はその家系からしてアシュケナージ系ユダヤ人ではあったものの、敬虔なユダヤ教徒というわけではなかったため、アインシュタインは5歳から3年間、ミュンヘンにあるカトリック系の公立学校へ通った。卒業後はミュンヘンのルイトポルト・ギムナジウム英語版(現在では「アルバート・アインシュタイン・ギムナジウム」と呼ばれている学校)に入学。以後7年間、(ドイツを離れイタリアに行くまで)教育を受ける。しかし、同校の軍国主義的で重苦しい校風にはなじめなかった[6]

1893年、アルベルトが14歳の写真

幼少のころは、言葉を理解したり話したりするという面では問題がなかったが、言葉を出すのには時間を要した。一方で数学に関しては傑出した才能を示し、9歳のときにピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。12歳のときに叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独習微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれている。同じころ、医学生だったマックス・タルメイから天文学の存在を知らされ、同時に物理学に関心を示すようになったという。

1894年、父と叔父の会社が行きづまり[注釈 7]、その結果、新たな商業的な機会を求めて一家はイタリアミラノに引っ越すことになった。父ヘルマンはアインシュタインがギムナジウムをしっかり卒業する必要があると判断し、アインシュタインだけ同地に残されることになった。父ヘルマンはアルベルトが電気工学の道へと進むといいと考えていたのだった。だがアインシュタインは規則ずくめで軍国主義的な校風と対立・反発し、1894年12月末、医師に書かせた診断書を口実にして退校を申し出て、家族を追って旅をし、当時イタリアのパヴィアにいた家族のもとへとやってきた[7]。このイタリアでの滞在中、アインシュタインは「磁界中でのエーテルの状態の調査について」という題名の短い試論を書いたという。

チューリッヒ連邦工科大学へ

1895年スイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学を受験するも総合点が合格基準に足らず失敗。しかし同校の校長は、アインシュタインの数学と物理の点数が最高ランクだったため、アーラウギムナジウムドイツ語版に通うこと(大学入学に必要な中等教育の諸知識を習得すること)を条件に、翌年度の入学資格を与えた。アインシュタインは1895年と96年に同校に通学した。アーラウの学校の校風は、ある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた[注釈 8]

ある晴れた日の昼休み、アインシュタインは学校の裏にある丘に寝転んで空を眺めていた。いつの間にか眠り込んでしまい、不可思議な夢を見た。それは、自分が光の速さで光を追いかける夢であったという。[8]彼は目が覚めると、すぐに思考実験を試みた。これがのちの相対性理論を生み出すきっかけになったといわれている。

このころアインシュタインは教師のヨスト・ヴィンテラー英語版の家に身を寄せていたが、その娘のマリーに恋するようになった。1896年1月、父の許可のもと、ドイツ帝国の兵役義務から逃れるためにアインシュタインはドイツ市民権を放棄した(その後にスイス国籍を取得するまで無国籍となった)。1896年9月のマトゥーラ試験(欧米で広く見られる中等教育修了試験)をアインシュタインはおおむね好成績で、特に数学と物理は 6段階評価の最高ランク「6」で、無事通過した。10月、チューリッヒ連邦工科大学への入学を許可された。同大学の、数学・物理学の教員資格を取得する4年課程の学生となったのである。同学は自由な校風で、数人の学友を得た。恋の相手だった ヴィンテラーの娘マリーは、アインシュタインよりも1歳年上で、すでに教員資格を得て、教師として着任するためにスイスのオルスベルク英語版へと引っ越してしまった。しかし、アインシュタインは同大学でミレヴァ・マリッチという女学生と出会う。チューリッヒ連邦工科大学は当時としては女性に門戸を開いていた数少ない大学のひとつであったが、ミレヴァはアインシュタインが属した課程の6名の中で唯一の女性であった。最初は友達だった二人は、数年の年月とともにロマンス(恋愛感情)をともなう関係となり、アインシュタインがますます熱中するようになっていた物理の文献を一緒に読むようにもなった。

アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、電気技術では優秀な「6」の成績をとった。大学時代は、化学の実験中に爆発事故を起こし、学校をパニックに陥れてしまったこともあった。彼は教師には反抗的で、授業をよく休んだ[9]

卒業の年である1900年に、アインシュタインは数学・物理の教員資格試験に無事合格した[注釈 9]。アインシュタインは7月にチューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・フリードリヒ・ヴェーバーと不仲であったために、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得ながら、論文の執筆に取り組んだ。

1901年、スイス国籍を取得[10]。スイスもまた兵役義務を課していたが、アインシュタインは扁平足および静脈瘤の診断からこれを免除される[10]。一般の人々には、はるか後の1987年になって若きアインシュタインが交わした手紙が研究されて、はじめて明らかにされたことだが、このころ恋人ミレヴァはアインシュタインの子を身ごもり、彼女の両親がいるノヴィ・サドへ行き滞在し、1902年初頭に娘を産んだ。二人が交わした手紙では、その子は「リーゼル」(Lieserl) と仮の名前で呼ばれていたが、出産後にミレヴァは子供をともなわずスイスへと戻ってきた[注釈 10]

特許庁への就職

1902年、友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きで、ベルンのスイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職した。年俸は3,500スイス・フランであった。ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷりでき、特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得る。このころ、モーリス・ソロヴィーヌ英語版コンラート・ハービヒト英語版らと「アカデミー・オリンピア」を設立した。同じころ、父ヘルマンが死去。ミラノで埋葬を済ませると、ふたたびチューリッヒに戻り、間もなくしてベルンに移った。

1903年1月6日、アインシュタインとミレヴァは正式に結婚し、アーレ川の近くにあるアパートで暮らす。翌1904年には長男ハンスを授かる。このアパート暮らしでは、アインシュタインは壁が完全な平面ではなく、歪曲している・壁と天井を結ぶ線が直線ではなく、少し曲がっているのではないか、ということが気になっていた。この考えがのちに一般相対性理論を生み出す元となった。

「奇跡の年」およびそれに続く数年

1905年、26歳のときに3つの重要な論文を発表する。この1905年は「奇跡の年」とも呼ばれている。「奇跡の年」およびそれに続く数年で、アインシュタインは光量子仮説」「ブラウン運動」「特殊相対性理論に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。

1905年に博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理された。この学位論文は「ブラウン運動の理論」に発展し、アインシュタインの全ての仕事のうち最も引用件数の多い論文となった[11]。アインシュタインがバスに乗車中にベルンの時計台(ツィットグロッゲ)の針が不動に見えることから着想した「特殊相対性理論」は、当時まったく無名の特許局員が提唱したもので当初は周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった[12]

1906年、2級技術専門職へ昇進。年俸も4,500スイス・フランへと昇給された。

1907年、有名な式E=mc2を発表(1905年9月にm=L/V^2の形で既に発表している[13])。この年には、「箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができない」という、のちの一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を考案。アインシュタインはこれを「生涯最良の名案」と述べた。

アインシュタインが「奇跡の年」を過ごしたベルンのクラム通り49番地は、現在アインシュタイン・ハウスという名の記念館となっており、アインシュタイン一家が使っていた家具が当時のスタイルのまま再現されている。また、ベルン市内にあるベルン歴史博物館には、アインシュタインの業績や生涯を紹介するアインシュタイン・ミュージアムが入っている。

大学教授へと転職

1911年のソルベー会議でのアインシュタイン

1909年、特許局に辞表を提出。チューリッヒ大学の助教授となる。この年には彼の生涯で初となる名誉博士号がジュネーヴ大学より授与された。

1910年プラハ大学教授となる。次男エドゥアルト誕生。1911年ソルベー会議に招待された。この年には、プラハ大学の教授として、「光の伝播における重力の影響について」を発表し、不完全ながら一般相対性理論への挑戦が初めて試みられている。弟子のレオポルト・インフェルトはアインシュタインの思索の過程が最も現れている論文と称している[14]。同年プランクにより、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長に推薦された。

1912年、母校・チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任(その契約は妻ミレヴァが行ったとされる)。アインシュタインはわずか1年で再びチューリッヒに戻ることになるのだが、これによりプラハ大学では彼と大学との間に問題が生じたのではないかとの噂が生じてしまう。彼はプラハ大学学長宛てに礼状を書き、これを否定したという。

1913年プロイセン科学アカデミーの会員となる。アインシュタインはベルリンに移住した。

新たな恋、家族との別居、離婚、再婚

ベルリンに移住して数か月後、アインシュタインが再従姉エルザに対して恋愛感情を抱いている、ということが妻のミレヴァに知られ、その発覚から数か月後に妻ミレヴァは長男・次男とともにチューリッヒへと引っ越す事態となり、別居状態となった。親友のフリッツ・ハーバーの仲裁も空しく、別居生活が5年ほど続き、1919年2月に正式に離婚の手続きが完了[注釈 11]。アインシュタインは当時、ミレヴァに対してそれなりの額を払うような金銭的な余裕はなかったため、「ノーベル賞を取ってその賞金をミレヴァに譲る」と未来に関する、相手から見て魅力的な条件を提示することで、ともかくも離婚を成立させた。当時、アインシュタインの業績から考えるに、ノーベル賞を受賞することはほぼ確定的とみなされていたため、それを相手へのオファーとして提示することができ、相手もそれを受け入れた。離婚が成立した数ヵ月後の1919年の6月、アルベルトはエルザと再婚した。そして離婚成立の2年後、招待され日本へ渡航中にノーベル賞受賞の決定が通知された。つまり同賞受賞は、人々が理解・想像していたような学問上の名誉の観点だけでなく、ノーベル賞の賞金を受け取りそれを元妻に渡すことで、元妻との離婚一連の騒動が完全に片づけられ、落ち着かない日々がようやく終わる、という観点からもアインシュタインにとっては喜ばしいものであったのである。

第一次大戦勃発と平和運動

1914年第一次世界大戦が勃発する。この頃、知識人に向けて『ヨーロッパ人への宣言』で平和行動について書いた[15]

1915年ロマン・ロランと出会う。意気投合した二人は、命がけで平和運動をしている人々を手助けする方法について話し合ったという。

一般相対性理論の発表

1916年、一般相対性理論を発表。この理論には星の重力によりが曲げられるという予言も含まれていた(これはのちに実証される)。

1917年肝臓病黄疸といったいくつかの病がアインシュタインを襲う。病院はけがをした兵士で一杯になっており、一般人は入院できず、自宅で療養することになる。この数年間、いとこのエルザが看病にあたる。

一般相対性理論の立証のため、クリミア半島でアメリカ人ウィリアム・キャンベルに依頼し、皆既日食の観測を試みるも、曇天のため失敗する。また、第一次世界大戦開戦でドイツのスパイと誤認され捕虜となる。

1919年、皆既日食において、太陽の重力場で光が曲げられること(いわゆる重力レンズ効果)がケンブリッジ天文台アーサー・エディントンの観測により確認されたが理論の立証にはまだ不充分であった。しかし、このことにより一般相対性理論は物理学理論としての一定の地位を得る。このことは世界のマスコミにも取り上げられ、これによってアインシュタインの名は世界的に有名となった。一方、彼がユダヤ人であるとの理由から、ドイツ国内における彼と相対性理論に対する風当たりは強かった。なお、アインシュタインの親友のフリッツ・ハーバーもユダヤ人であったが、ハーバーのほうはアインシュタインとは異なった道を進み、ドイツ軍に協力して毒ガス兵器の開発に力を貸した。

キャンベルは、アメリカ・ワシントン州で再度日食を観測、曇天の隙間があり撮影には成功したが立証にはいたらなかった。しかし敵国人アインシュタインの名がアメリカで初報道された(上記エディントンの観測を取り上げた世界のマスコミの中にアメリカThe New York Times 1919年11月10日の記事がある[3])。

この間、理論の証明は日食観測によるよりも数式上の確度の立証に移り、水星軌道の変則性から、ニュートンの理論の誤りを数学者のダフィット・ヒルベルトとほぼ同時に発見したが、ヒルベルトはその功績をアインシュタインに譲った。

ケンブリッジ天文台のエディントンは戦勝国者だったため、戦後も自由に海外渡航ができ、アフリカのプリンシペのジャングルで日食を観測、理論の立証を発表したが、学会での認証は得られなかった。1922年に皆既日食が豪州で観測されるとあって、キャンベルをはじめ七つの観測隊が派遣されたが、キャンベル隊のみが撮影に成功し、重力レンズ効果の存在を観測によって実証(立証)、これによって一般相対性理論は妥当性のある理論だと学会でも認められるようになった。

世界各地への訪問

1921年、カイム・ワイズマンの提案により、イギリス委任統治領パレスチナエルサレムに創立予定のヘブライ大学建設資金を調達するためにアメリカを訪問し、その帰りにイギリスも訪問した(ここではニュートンの墓を訪ねた)。

1922年3月にフランスを訪れたほか、10月には日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船。11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在し、大正天皇に謁見している[16]#アインシュタインと日本参照)。また、日本へ向かう最中、11月9日にアインシュタインは前年度に保留されていた1921年度のノーベル物理学賞受賞の知らせを受けている。受賞理由は「光電効果の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらすような研究と言えるのかと言えば疑問」との声があり、さらには「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルトあるいは、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。ノーベル委員会は、これらの批判を避けるために、光電効果を受賞理由に挙げたと言われている。なお、受賞に際して賞金も授与されたが、これはアインシュタインが近々自身のノーベル賞授与を予測しており、賞金を渡す前提条件に離婚していたため、かつての妻ミレヴァに渡したとされる。

1923年、日本を出国した後、エルサレム、スペインを訪問しドイツへと戻る。7月11日にスウェーデンのヨーテボリでノーベル賞受賞の講演を行っている。

1925年インドの物理学者サティエンドラ・ボースからの手紙をきっかけとして、ボース=アインシュタイン凝縮の存在を予言する論文を発表。また、この時期に行っていた誘導放出の研究が、のちのレーザーの開発につながることになった。

1929年ベルギー王家を訪問。ベルギー王妃エリザベートと親交を交わす。

1930年、ベルリン郊外、カプートドイツ語版という町に別荘を建てる。 同年11月、レオ・シラードと共同でガス吸収式の家庭用冷蔵庫の特許を申請する[17]

1932年、アメリカへ3度目の訪問をすべくドイツを発つ。しかし、翌年にはドイツでヒトラー率いるナチス政権を獲得。以後ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなっていったため、アインシュタインがドイツに戻ることはなかった。

1933年、ベルギー王妃の厚意により、ベルギーの港町デ・ハーンフランス語版英語版に一時身を置く。しかしこの町はドイツとの国境に近かったため、ドイツの手が及ぶのを恐れたアインシュタインはイギリス、スイスへの旅行の後、再度イギリスへと渡る。その後アメリカへと渡り、プリンストン高等学術研究所の教授に就任。また、プロイセン科学アカデミーを辞任。なお、この年にはアインシュタインの別荘をドイツ警察が強制的に家宅捜索するなどという出来事もあった。その後ドイツはアインシュタインを国家反逆者とした。

アメリカへの移住

1935年ボリス・ポドリスキーネイサン・ローゼンとともにアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス(量子力学と相対性理論の矛盾)を発表する。また、アメリカでの永住権を申請、取得する。アメリカ国籍も申請。

1936年、ローゼンとともに位相幾何学上の仮説としての時空構造「アインシュタイン=ローゼン橋」(のちにジョン・アーチボルト・ホイーラーによってワームホール1957年)と命名された)の概念を発表する。この年に妻のエルザが死去。

1939年、当時のアメリカ合衆国大統領であったフランクリン・ルーズベルト宛ての、原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙に署名。その手紙は「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾一つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」という内容だった。

1940年、アメリカ国籍を取得。1943年アメリカ海軍省兵器局の顧問に就任。魚雷起爆装置の改善に尽力した[18]

1945年広島市への原子爆弾投下報道に衝撃を受ける。9月2日第二次世界大戦終結。連合国の一員であるアメリカは戦勝国となったが、アインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説する。

1946年、原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受ける。また、国連総会世界政府樹立を提唱する手紙を送る。

Oren J. Turnerによる写真(1947年)

1948年イスラエル建国。アインシュタインはハンナ・アーレントらユダヤ系知識人と連名で、訪米中のメナヘム・ベギンとその政党ヘルートヘブライ語版英語版をファシストと呼び、イスラエルのデイル・ヤシンの虐殺事件などのテロ行為を非難する書簡をニューヨーク・タイムズ紙上に発表する。なおこのころ、アインシュタインの腹部大動脈に大きな動脈瘤が存在することが手術の結果判明する。

1952年、イスラエル初代大統領ハイム・ヴァイツマンが死去したため、イスラエル政府はアインシュタインに対して第2代大統領への就任を要請したが、彼はこれを辞退した。しかし、自分がユダヤ人であることを決して忘れてはおらず、著作権をヘブライ大学に贈った。

1954年、「人間は肉食動物ではない」と主張してベジタリアンの生活を実践するようになった[19]。「人間の健康を高め、地球生命の存続を確かなものとする点で、菜食に勝るものはない」とも述べている(発言年不詳)[20]

死去

1955年4月11日、哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名する。4月13日、建国7周年を迎えるイスラエルと同国国民へ寄せるラジオ放送に関する打ち合わせ後、心臓付近の痛みに倒れる(腹部動脈瘤の肥大)。

4月15日にプリンストン病院に入院し、周囲から手術を勧められるもこれを拒否。入院中の間、駆けつけた長男ハンスと面会したほか、病院でも研究を続けるべく秘書に電話をかけ、必要な用具を持って来るよう伝えてもいる。そして4月18日の午前1時すぎ、入院先のプリンストン病院で死去(満76歳没)。彼は死の間際にドイツ語で最後の言葉を遺したが、その場にいた看護師がドイツ語を理解できなかったため、彼が最後に何を言っていたのか、その内容については不明である。[要出典][21]

アインシュタインの死後、同年7月9日には彼が生前に署名したラッセル=アインシュタイン宣言が発表されたほか、12月17日にはプリンストンで彼を偲ぶコンサートが開かれ、モーツァルトピアノ協奏曲第26番バッハカンカータ第106番などの曲目が演奏された。

1999年、ライフ誌の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。同年、アメリカのニュース週刊誌『タイム』は、アルベルト・アインシュタインを「パーソン・オブ・ザ・センチュリー」(20世紀の人)に選出した[22]


注釈

  1. ^ 日本語における表記には、他に「アルバート・アインシュタイン」(現代ドイツ語の発音由来)、「アルバート・アインタイン」(英語の発音由来)がある。
  2. ^ ドイツ語発音: [ˈɑlbɛrt ˈaɪnˌʃtaɪn] ルベルト・インシュタイン、ルバート・インシュタイン
  3. ^ 英語発音: [ˈælbə(r)t ˈaɪnˌstaɪn] ルバ(ー)ト・インスタイン、ルバ(ー)インスタイン
  4. ^ マックス・ボルン宛の1926年12月4日付の手紙
    原文: Die Quantenmechanik ist sehr achtunggebietend. Aber eine innere Stimme sagt mir, daß das noch nicht der wahre Jakob ist. Die Theorie liefert viel, aber dem Geheimnis des Alten bringt sie uns kaum näher. Jedenfalls bin ich überzeugt, daß der Alte nicht würfelt.
    (直訳:量子力学はとても印象的です。しかし内なる声が私に、その理論はまだ真のヤコブになっていないと言っています。量子力学はとても有益なものではありますが、かの古人の秘密にはほとんど迫っていません。いずれにせよ私には、かの古人はサイコロを振らないという確信があるのです)
  5. ^ 父ヘルマンは学生時代、大の数学好きで同分野の探究を続けることを望んでいたが、家庭の経済的事情からそれを断念し、商人となることを決意。シュトゥットガルトでその修業を開始、1876年に18歳でパウリーネと結婚しウルムに引っ越し、ヘルマンの従兄とともに羽毛寝具の店を共同経営していた。
  6. ^ そのことで、単なる記号処理的な頭脳の働きでなく、全体を把握する能力を養ったという意見もある。
  7. ^ ミュンヘン市の電流供給が直流方式からより便利な交流方式へと変更されたが、ヘルマン兄弟はその事態に対応して工場設備を変更するのに十分な資本を持っておらず、ミュンヘンの工場を手放さざるを得なかった。
  8. ^ 言語に障害があったアインシュタインに、この視覚教育はよく合っていた。そして、昔培った視覚能力をそのアーラウでさらに高めた。それがのちの研究者としての人生に大きく関わることになる。
  9. ^ 一方、恋人のミレヴァのほうは、数学部門(関数理論)の点数が足らず試験に落ちてしまった。
  10. ^ したがって、おそらくアルベルトは誕生した自分の娘を一度も目にしなかっただろう、と推定される。なお、誕生した娘の名前も、その後どうなったかも、公式の記録が残っていない。娘に起きたことが明確に手紙に書かれているわけではないが、二人の手紙の微妙な文言から推察されるのは、子供が放棄されたかあるいは猩紅熱で死去したなどといったことが起きたのだろう、ということくらいである。
  11. ^ そこに至るまでに、仲たがいし離婚に至る夫婦にありがちな、誰もがうんざりとさせられるような男女のやりとり、つまり、互いの問題点をあげつらう非難合戦や、慰謝料や養育費の請求やそれの拒否、調停の場での疑心暗鬼の駆け引きなどがあったらしい。
  12. ^ この発言については彼の有名な言葉の一つである「生きるには二つの方法しかない。何事も奇跡ではないかのように生きるか、あらゆることが奇跡であるかのように生きるかだ」が示すように、平和と戦争の両方に深く重く関わった彼だからこそ言える発言であるという声もある。
  13. ^ 核分裂反応の観測によって実証されたことから、このような誤解が流布されているが、実際はすべてのエネルギー発生の現象において成り立つ公式である。
  14. ^ 同賞が授与されたのは公式的には、光電効果の法則等についての貢献に関して。相対性理論についてではない。
  15. ^ 1922年度の同賞受賞者・ニールス・ボーアと同時発表。授賞式典には参加できず、受賞者講演は1923年7月に行った
  16. ^ 当時の六大都市人口順):東京・大阪・神戸・京都・名古屋・横浜
    当時存在していた帝国大学(設立順):東京・京都・東北・九州・北海道
    当時存在していた帝大以外の旧制大学:慶應・早稲田など24校(内地22校、外地2校)
  17. ^ 大博劇場での講演の際、福岡県立福岡中学(現在の福岡県立福岡高等学校)が黒板を提供した。5時間の講演の後、教諭が演壇に消し忘れの黒板を発見しニスを塗り保存して福岡中学の物理の講義室に飾っていた。現在、その黒板の写真は高校の玄関内に掲げられているが、黒板自体の所在は不明。

出典

  1. ^ Einstein (Dictionary.com)
  2. ^ Albert Einstein (Oxford Learner's Dictionaries)
  3. ^ Global, Albert EinsteinTopics: Marxism Socialism Places: (2009年5月1日). “Monthly Review | Why Socialism?” (英語). Monthly Review. 2024年3月28日閲覧。
  4. ^ Albert Einstein – Biography”. Nobel Foundation. 2007年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月6日閲覧。
  5. ^ a b c d 西原稔、安生健『アインシュタインとヴァイオリン』ヤマハミュージックメディア、2013年、21頁。 
  6. ^ Stachel (2002), pp. 59–61.
  7. ^ C・ロヴェッリ『すごい物理学講義』河出文庫、2019年、85頁。 
  8. ^ https://nmc-kaikei.or.jp/column/post/columnpost-182/
  9. ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』IV 世界大戦ー現代 原書房 2005年 15ページ
  10. ^ a b 西原稔、安生健『アインシュタインとヴァイオリン』ヤマハミュージックメディア、2013年、22頁。 
  11. ^ アインシュタイン論文選 ジョン・スタチェル編 青木薫訳 ちくま学芸文庫、2011、158頁
  12. ^ 『数学と理科の法則・定理集』アントレックス、2009年、148-149頁
  13. ^ Volume 2: The Swiss Years: Writings, 1900-1909 Page 314 (350 of 692)
  14. ^ レオポルト・インフェルト 著、武谷三男 篠原正瑛 訳『アインシュタインの世界』講談社、1991年、90頁。 
  15. ^ レオポルト・インフェルト著 武谷三男 篠原正瑛訳『アインシュタインの世界』講談社 1991年 90頁
  16. ^ http://english4success.ru/Upload/books/1640.pdf [リンク切れ] Walter Isaacson(2007). "[EINSTEIN HIS LIFE AND UNIVERSE]". New York City. Simon & Schuster, Inc. p.1104-1107. 2016年8月18日閲覧
  17. ^ ビー・ウィルソン『キッチンの歴史:料理道具が変えた人類の食文化』真田真由子訳 河出書房新社 2014年 ISBN 9784309022604 pp.285-288.
  18. ^ 田中祐三. “魚雷の改良とアインシュタイン”. 戦時下に喪われた日本の商船. 2012年5月1日閲覧。
  19. ^ Albert Einstein (1879-1955) International Vegetarian Union (IVU)
  20. ^ ゲイリー・L・フランシオン『動物の権利入門』緑風出版、2018年、73頁。 
  21. ^ “Dr. Albert Einstein Dies in Sleep at 76; World Mourns Loss of Great Scientist”. New York Times (New York Times). (1955年4月19日). https://www.nytimes.com/1955/04/19/archives/dr-albert-einstein-dies-in-sleep-at-76-world-mourns-loss-of-great.html 
  22. ^ TIME 100 Persons Of The Century (English). タイム (タイム・ワーナー). (1999年6月14日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,991227,00.html 2012年5月1日閲覧。 
  23. ^ ナンシー・アンドリアセン『心を探る脳科学』《NHK未来への提言》日本放送出版協会 p.91 ISBN 978-4140812228
  24. ^ レオン・レーダーマンクリストファー・ヒル対称性 レーダーマンが語る量子から宇宙まで小林茂樹訳、白揚社、2008年4月15日、[要ページ番号]頁。ISBN 978-4-8269-0144-4http://www.hakuyo-sha.co.jp/cgi-bin/search.cgi?mode=detail&mode2=search&id=364 
  25. ^ ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』林一・林大訳、草思社、2001年12月25日、[要ページ番号]頁。ISBN 4-7942-1109-0 
  26. ^ The New Grove Dictionary of Music and Musicians, ed. Stanley Sadie. 20 vol. London, Macmillan Publishers Ltd., 1980. ISBN 1-56159-174-2 における "Alfred Einstein"の記事。
  27. ^ The Concise Edition of Baker's Biographical Dictionary of Musicians, 8th ed. Revised by Nicolas Slonimsky. New York, Schirmer Books, 1993. ISBN 0-02-872416-X
  28. ^ Calaprice, Alice (2005). "The new quotable Einstein" (Document). Princeton University Press. p. 173. {{cite document}}: 不明な引数|isbn=は無視されます。 (説明)
  29. ^ The culture of Einstein”. MSNBC (2005年4月19日). 2012年10月6日閲覧。
  30. ^ Did Albert Einstein Say World War IV Will be Fought 'With Sticks and Stones'? - Snopes.com
  31. ^ [1] Brainy Quote
  32. ^ a b [2]
  33. ^ 水崎拓『図解入門よくわかる相対性理論の基本』56頁
  34. ^ a b c d ケン・ウィルバー 著、田中三彦、吉福伸逸 訳『量子の公案 現代物理学のリーダーたちの神秘観』工作舎、1987年、180-199頁。ISBN 4-87502-137-2 
  35. ^ Foster, Brian (January 2005), “Einstein and his love of music”, PhysicsWorld 18 (1): 34
  36. ^ 西原稔・安生健『アインシュタインとヴァイオリン 音楽のなかの科学』ヤマハミュージックメディア、2014年、22ページ。ISBN 978-4-636-89993-1
  37. ^ Wolff, Barbara (2005), “Einstein und die Musik”, in Renn, Jürgen, Albert Einstein - Ingenieur des Universums. 100 Autoren für Einstein, pp. 254-255, ISBN 3-527-40579-8
  38. ^ 死後に盗まれたアインシュタインの脳 その悲劇的な物語(日本経済新聞、2023年11月3日)
  39. ^ R. Douglas Fields (2004-4). “The Other Half of the Brain”. Scientific American (290): 55-61. http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=the-other-half-of-the-bra. 
  40. ^ NHKスペシャル アインシュタイン 消えた“天才脳”を追え - NHK
  41. ^ “点描・百年史 アインシュタイン博士と東北大学”. 東北大学百年史編纂室ニュース (東北大学). (1998年8月31日). http://www2.archives.tohoku.ac.jp/hensan/news/kiji2.htm#アインシュタイン博士と東北大学 2012年5月1日閲覧。 
  42. ^ a b c 西原稔、安生健『アインシュタインとヴァイオリン』ヤマハミュージックメディア、2013年、25頁。 
  43. ^ a b c 西原稔、安生健『アインシュタインとヴァイオリン』ヤマハミュージックメディア、2013年、26頁。 
  44. ^ 人力車”. 94才のホームページ. 2012年5月1日閲覧。
  45. ^ アインシュタインと慶應義塾”. 慶應義塾 (2005年10月18日). 2012年5月1日閲覧。
  46. ^ a b c d e f g h i 田賀井篤平. “田中舘愛橘とアインシュタイン”. 東京大学総合研究博物館. 2022年11月8日閲覧。
  47. ^ 倉田喜弘 編『大正の能楽』国立能楽堂、1998年、398-399頁。 
  48. ^ 坂元雪鳥『坂元雪鳥能評全集』 上、畝傍書房、1943年、464頁。 
  49. ^ アインシュタインと物理学科教授陣 / 大正11年(1922)12月(東北大学史料館)
  50. ^ The Collected Papers of Albert Einstein, Volume 13: The Berlin Years: Writings & Correspondence January 1922-March 1923, p.548.
  51. ^ “「仙台ホテル」159年の歴史に幕”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2009年12月30日). http://www.yomiuri.co.jp/tabi/news/20091230-OYT8T00271.htm 2012年5月1日閲覧。 [リンク切れ]
  52. ^ “日本滞在43日、ゆかりの品々も”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2006年4月6日). https://web.archive.org/web/20111208220730/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/einstein/20060407ei02.htm 2012年5月1日閲覧。 
  53. ^ 『仙台学』vol.3 特集◎異邦人たちの仙台、荒蝦夷、2006年7月、[要ページ番号] 
  54. ^ 九州大学物理学教室企画・主催 (2005年9月10日). “世界物理年2005記念イベント 子どももおとなも楽しめるアインシュタインの宇宙”. 九州大学物理学教室. 2012年5月1日閲覧。
  55. ^ Einstein's travel diaries reveal 'shocking' xenophobia”. The Guardian. 2018年6月14日閲覧。
  56. ^ ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史―戦時下に生きたルイス・スズキの反戦思想の展開を中心に―
  57. ^ 5章 核兵器は“絶対悪”という信念」『湯川秀樹 日本の「知性」、日本の「心」を世界に示した科学者』宝島社別冊宝島 1444号 シリーズ偉大な日本人〉、2007年6月15日。ISBN 978-4-7966-5905-5https://tkj.jp/book/?cd=20144401 
  58. ^ NHKスペシャルアインシュタインロマン」第5回「E=mc² 隠された設計図」(1991年11月24日放映)による
  59. ^ “アインシュタインの「幸福論」、約2億円で落札 帝国ホテルでチップ代わりに” (Japanese). BBCニュース・オンライン(BBC News Japan). (2017年10月25日). http://www.bbc.com/japanese/41745019 2018年5月28日閲覧。 
  60. ^ 比企寿美子(ひき・すみこ)著『アインシュタインからの墓碑銘』(出窓社、2009年)
  61. ^ アインシュタイン友情の墓碑(徳島県美馬観光ビューロー)






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アルベルト・アインシュタイン」の関連用語

アルベルト・アインシュタインのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アルベルト・アインシュタインのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアルベルト・アインシュタイン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS