アルバニア決議 アルバニア決議の概要

アルバニア決議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/19 15:31 UTC 版)

国際連合総会
決議2758
日付: 1971年10月25日
形式: 総会決議
会合: 1976回
コード: A/RES/2758(XXVI)
文書: 英語

投票: 賛成: 76 反対: 35 棄権: 17
投票結果: 成立

これにより、中華民国台湾)は国連安保理常任理事国の座を失い、中華人民共和国が国連安保理常任理事国と見なされた。ただし、国連憲章の記載は未だに、中華民国が国連安保理常任理事国であるため、同じく記載されているソビエト連邦の地位を継承したロシア連邦(旧構成国のうちのロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)の例と同様に中華民国がもつ安保理常任理事国の権限を中華人民共和国が継承したと解釈されている。「蔣介石の代表を国連から追放する」と掲げた本決議に抗議する形で、中華民国は国際連合を脱退した。

アルバニア決議(第26回国際連合総会2758号決議 2758 XXVI)に対する1971年当時の世界各国の投票行動の図。それぞれ緑色で塗られた諸国(76カ国)が賛成、紫色で塗られた諸国(35カ国)が反対、藍色で塗られた諸国(17カ国)は棄権、黄色で塗られた諸国(3カ国)は無投票である。

決議の内容

国連総会は、国連憲章の原則を思い起こし、中華人民共和国の合法的権利を回復させることが、国連憲章を守り、かつ国連組織を憲章に従って活動させるためにも不可欠であることを考慮し、

中華人民共和国政府の代表が国連における中国の唯一の合法的な代表であり、中華人民共和国が国連安全保障理事会の5つの常任理事国の1つであることを承認する

中華人民共和国のすべての権利を樹立して、その政府の代表が国連における中国の唯一の合法的な代表であることを承認し、蔣介石代表を、彼らが国連とすべての関連組織において不法に占領する場所からただちに追放することを決定する — 国連総会決議2758(外部リンク欄参照)

経緯

中国大陸を統治していた中華民国蔣介石率いる中国国民党政権)は、第二次世界大戦後に戦勝国として国連安保理常任理事国に選ばれたが[2]、その後毛沢東率いる中国共産党との国共内戦に敗北し、中国大陸の領土を失って台湾に拠点を移した[3]

中国大陸を実効支配し、中華人民共和国の建国宣言を行った中国共産党と、台湾を中華民国として統治した中国国民党は、国共内戦後長らく対立関係のまま、それぞれ内政問題等に忙殺される形で、条約協定のない実質的停戦状態に至り、分断状態が固定化した。中国大陸(本土)を実効支配する中華人民共和国と、台湾に遷都したものの国連安保理常任理事国である中華民国は、それぞれ着目点によって一方が優勢・他方が劣勢にあったが、双方とも自政府が中国唯一の正統政府であるとの立場を崩さなかった。

中華人民共和国が国連に中華民国の追放を最初に提起したのは1949年11月18日で、以後「中国代表権問題」と呼ばれ、長らく提議されては否決され続けてきた。中ソ対立が鮮明となった1950年代後半以降も1964年第18回国連総会、1968年第5回国連緊急特別総会、1970年第25回国連総会においてもアルバニアなどから類似の提案がなされたが、いずれも否決されている。提起された中華民国の追放については、1961年の第16回国連総会以降、国連憲章18条に示される「重要事項」に指定する「重要問題決議案」が別途共同提出されており(必要な賛成票を過半数から23とすることが狙い)、これが可決され続けていたことで阻止されていた[4]

転機となったのは、アメリカ合衆国ベトナム戦争において泥沼化し、北ベトナム(ベトナム民主共和国)との停戦交渉を進める中で、中華人民共和国の協力が必要となったことである。アメリカ合衆国は中華人民共和国の協力を得るため、国連安保理常任理事国の継承は合意したが、中華民国の国連追放までは考えていなかった[5]。しかし、1970年時点でアルバニア決議案は賛成51、反対49、棄権25、欠席2と過半数を占めたのに対し、重要問題決議案は賛成66、反対52、棄権7、欠席2という状況で、逆転の形勢は明白であった[6]

アルバニア決議

1971年7月中旬、アルバニア、アルジェリアルーマニアなどの共同提案国23ヵ国が「中華人民共和国政府の代表権回復、中華民国政府追放」を趣旨とするアルバニア決議案を、国際連合事務局に提出した。その後、中華人民共和国側は、「中華民国」の国連追放ではなく、「蔣介石の代表」の国連追放と文面を改め、当時友好国であったアルバニアを経由し「国府追放・北京招請」決議案 (A/L.630) を1971年9月25日に第26回国連総会に提出した。アメリカは、中華民国側に安保理常任理事国のみ辞退し、国連議席を守るいわゆる「二重代表制決議案 (A/L.633)」を国連に提出。

総会では、議題採択等をめぐり一般委員会や本会議等で中華民国追放支持派と反対派の間で激しい論議が展開された。 表決に先立ち、中華民国代表は“これ以上総会の審議に参加しない”旨宣言し、総会議場から退場した[7]。 10月18日から73ヵ国の多数が一般討論に参加する本格審議が開始され、10月25日にアルバニア決議案 (A/L.630) が賛成76、反対35、棄権17、欠席3で通過[8]

このアルバニア決議案通過を受け、二重代表制決議案は表決に付されず。後に中華民国は、国連(及び加盟する各専門機関)からも脱退を宣言した。

日本の動き

中国代表権問題を報じる、1965年11月18日付の毎日新聞夕刊。

日本は、1964年案・1970年案それぞれに反対票を投じている。

1971年8月、佐藤内閣は「中華人民共和国の国連加盟には賛成するが、中華民国の議席追放には反対する」とした基本方針を発表。9月22日、内閣総理大臣佐藤栄作は「二重代表制決議案」および「追放反対重要問題決議案」を共同提案する方針を示した。

このため、国際連合総会では「重要問題決議案(アルバニア決議が別途提出されていたため、反重要問題決議案、追放反対重要問題決議案、逆重要問題決議案とも)」「二重代表制決議案(複合二重代表制決議案)」の共同提案国に連名した[4]

日本国政府が支持した「重要問題決議案」は、指定された決議案は3分の2の賛成が必要(国連憲章第18条2項)であるが、総会において「重要問題決議案」は、賛成55、反対59、棄権15、欠席2で否決された。また、アルバニア決議案が採決、採択されたために「二重代表制決議案」は表決にすら付されなかった。

総会の結果を受け、日本社会党を始めとした左派政党およびマスコミは、外交上の敗北と佐藤首相を厳しく非難するなど、内政に影響を与えた。一方、直後の国会答弁において、佐藤首相は「政府は、国連の決定を尊重し、中華人民共和国の国連参加を歓迎するものであります。政府のとった処置は国連で否決されましたが、結果的に見て、わが国の長期的な国益に沿うものであることを確信するものであります」、外務大臣福田赳夫も「この決議案には敗れました、しかし、敗れたりといえども、私は、わが日本国は国際社会において信義を守り通した、また、筋を通し抜いた、このことにつきましては、国民各位にぜひとも誇りを持っていただきたいのだということを申し上げまして、お答えといたします。」とそれぞれ述べている[9]

アルバニア決議案採決後の1971年11月、東京都知事美濃部亮吉を介して自由民主党幹事長(当時は保利茂)の書簡を周恩来国務院総理に渡すが、周は中華人民共和国政府として、書簡の正式な受け取りを拒否する外交折衝も発生し、佐藤政権下での中華人民共和国との外交関係構築は困難を極めた[10][11][12]

1972年1月、佐藤首相は施政方針演説において、日華平和条約締結後の中華民国政府との密接な関係を肯定しつつ、国際関係の現実に立脚し、今後中華人民共和国政府との関係正常化のため政府間の議論が急務と述べ、中国との国交正常化を目指す意向を示し[13]、周恩来への親書を託した密使を香港に派遣して北京訪問の希望も伝えた[14][15]

1972年2月アメリカがニクソン大統領の中国訪問を行うと、4月に三木武夫が中国を訪問し、周恩来と会談。佐藤の退陣決定後の7月5日におこなわれた1972年自由民主党総裁選挙に勝利して首相に就任した田中角栄は、同月の党総会で中華人民共和国との平和条約締結を目標とする「日中国交正常化」を掲げ、党内意見調整のために中国問題調査会を日中国交正常化協議会に拡大した。

田中角栄内閣は日中国交正常化を掲げる一方、中華民国を切り捨てないとする小坂案も受け入れ、同年9月8日の日中国交正常化基本方針において「中華民国との深い関係にかんがみ、従来の関係が継続されるよう十分配慮のうえ交渉すべきである」の一文を盛り込む[16]。9月17日、田中内閣は激しい抗議デモが発生する台湾へ、田中首相の親書を携えた特使を派遣している。

アルバニア決議案採決は日本外交の転換点となった。同年9月25日から田中自身が中華人民共和国を訪問し、9月29日に日中共同声明が出され、中華民国との国交を断絶することになった[17]。中華民国側も同日対日断交宣言を出して応じた[18]


  1. ^ 第4章 国際連合における活動とその他の国際協力外務省
  2. ^ 川島真「中国外交における象徴としての国際的地位――ハーグ国際会議、国際連盟、そして国際連合へ――」『天安門事件後の中国 国際政治 145号』日本国際政治学会、2006年8月、18-19ページ。
  3. ^ 程大學「台湾二二八事件の分析と再検討――二二八事件の後遺症と今後の政治展望――」『台湾史研究』第10号、台湾史研究会、1993年、1, 29ページ。
  4. ^ a b c d NHK取材班『周恩来の決断―日中国交正常化はこうして実現した』日本放送出版協会、1993年。ISBN 978-4140800881 
  5. ^ 戸川猪佐武『昭和外交五十年』學藝書林、1973年、351ページ。
  6. ^ 戸川 353ページ。
  7. ^ NHK取材班『周恩来の決断 日中国交正常化はこうして実現した』日本放送出版協会、1993年、37ページ。ISBN 4-14-080088-7
  8. ^ 戸川 352-353ページ。
  9. ^ 第67回国会 衆議院本会議 第6号 昭和46年10月26日”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2020年1月5日閲覧。
  10. ^ 日本前首相披露中日交往過程中的另一面”. 人民網 (2004年7月6日). 2017年10月10日閲覧。
  11. ^ 日中国交回復 水面下の交渉を託された一人の男の姿”. j-cast. 2017年9月26日閲覧。
  12. ^ 奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』中央公論新社、2005 年、47-48 頁。
  13. ^ (4)第68回国会における佐藤内閣総理大臣施政方針演説
  14. ^ 日本前首相披露中日交往過程中的另一面”. 人民網 (2004年7月6日). 2017年10月10日閲覧。
  15. ^ NHK BS1スペシャル「日中“密使外交”の全貌~佐藤栄作の極秘交渉~」2017年9月24日
  16. ^ 林金莖『梅と桜―戦後の日華関係』サンケイ出版、1984年、269-280ページ。ISBN 4-383-02299-5
  17. ^ 林 1984、298-304ページ。
  18. ^ 林 1984、304-306ページ。
  19. ^ ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録』小学館、1979年。 
  20. ^ Sino-West German Relations during the Mao Era | Wilson Center
  21. ^ 外務省 台湾基礎データ”. 外務省. 2023年8月24日閲覧。
  22. ^ “バチカン代表団、中国側と非公式に会談 「対話は長い道のり」”. クリスチャン・トゥデイ. (2016年6月1日). http://www.christiantoday.co.jp/articles/21035/20160601/vatican-china.htm 2017年12月24日閲覧。 
  23. ^ Shinn, David H.; Eisenman, Joshua (2012). China and Africa: A Century of Engagement. Philadelphia: University of Pennsylvania Press. p. 248. ISBN 081-220-800-5 
  24. ^ “Taiwan President to Stop in US”. ワシントン・ポスト. (2007年1月5日). http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/01/05/AR2007010502229.html 2017年12月24日閲覧。 
  25. ^ “台湾が国連加盟申請を見送り、中国との関係改善で”. ロイター. (2009年9月4日). https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-11351720090904 2018年1月11日閲覧。 
  26. ^ Szulc, Tad (1971年10月28日). “Thant Asks China to Name Delegate to Council Soon”. ニューヨーク・タイムズ. https://www.nytimes.com/1971/10/28/archives/thant-asks-china-to-name-delegate-to-council-soon-thant-urges-china.html 2020年1月2日閲覧。 
  27. ^ Kent Kille (ed.), The UN Secretary-General and Moral Authority: Ethics and Religion in International Leadership, Georgetown University Press, Washington, DC, 2007, pp.168.
  28. ^ Grose, Peterr (19 October 1976). "Echeverria Indicates Readiness To Take Waldheim's Post at U.N." The New York Times.
  29. ^ "Waldheim is Backed by Security Council for Five Years More". The New York Times. 8 December 1976.
  30. ^ 中国在UN投过的十次否决票”. 网易网军事. 2018年8月27日閲覧。
  31. ^ 【噴水台】国連事務総長”. 中央日報. 2018年8月27日閲覧。
  32. ^ Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. 2. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 166–167.
  33. ^ Hoxha, Enver (1982). Selected Works, February 1966 – July 1975. IV. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 656.
  34. ^ Hoxha, Enver (1985). Selected Works. 5. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 617–618, 697–698.
  35. ^ General Assembly, 26th session : 1976th plenary meeting, Monday, 25 October 1971, New York (A/PV.1976)”. United Nations Digital Library. p. 41 (1974年). 2020年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月15日閲覧。






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