アメリカ海兵隊 沿革

アメリカ海兵隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/09 14:37 UTC 版)

沿革

創設期

1826年に採用された士官向けの軍刀
ブルードレスを着用した一等兵

アメリカ海兵隊はアメリカ独立戦争中の1775年11月10日大陸会議によって設立された[注 4]大陸海兵隊 (Continental Marines) を起源としている。この組織が創設されたのは、本国のイギリス軍海兵隊という組織があったから単に同様のものを設置しただけのことであり、海兵隊という組織ならではの特別な創設理由や責任任務は無かった。ジョージ・ワシントンは、自らが率いる大陸軍から兵士を引き抜かれるのに反対したため、大陸海兵隊は部隊設立の人員を新たに募集しなければならなかった。この募集は「タン・タバーン(Tun Tavern)」という居酒屋で、その所有者のキャプテン・ロバート・ムラン(Robert Mullan)によって始められた。この居酒屋は今も海兵隊の誕生の地とされている。しかし、大陸会議で承認された公式の軍事組織であったとはいえ、得体の知れない大陸海兵隊などという組織への入隊希望者はいなかったので、酒場で若者を泥酔させたところで入隊のサインをさせてそのまま入営させるようなことも行われたという。こうして創設時に集めることができたのは、10人の将校と約200人の兵卒に過ぎなかった。彼らの大半は取り立てて技能のない移民であり、戦闘についての知識を持っている者は皆無に近かった。初代海兵隊総司令官となるサミュエル・ニコラスも居酒屋経営者だったが、フィラデルフィア社会で顔が利くという理由から抜擢された[3]

大陸海兵隊は、当時の艦船乗り組みの海兵隊員の一般的な任務であった荒々しい水兵達の海上での反乱防止など、艦内秩序の維持を目的とする警備任務などを普段は行い、戦闘時には強行接舷した敵艦に斬り込み隊として白兵戦を行ったり、接近した敵艦の乗組員を小銃で狙撃したりする任務をこなした他、コマンド部隊としてイギリス軍の物資集積所を海から上陸して襲ったりしていたが、これらは言わば大陸海軍や大陸軍の助っ人的な立ち回りをしていたに過ぎず、アメリカ独立戦争が大陸側勝利で目処がついた1783年に解散した。

その後、フランス革命の影響による擬似戦争と呼ばれるフランスとの緊張状態の発生により、1798年7月11日アメリカ海兵隊 (United States Marine Corps) として再建された。

総司令官にはウィリアム・W・バローズ少佐が任命され、その当時の構成は次の通りであった。

将校上院による任命制で、兵の任期は3年であった。

再建時に海兵軍楽隊が組織され、1801年1月1日に第2代アメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズの求めに応じて大統領府における演奏会を行って以来、大統領の面前で演奏できる唯一の軍楽隊としての栄誉を与えられた。

海兵隊の将校および下士官に帯刀が義務付けられたが、再建時点で制式化された刀剣はなく下士官は陸軍と同じ物を使用していたとされる。1826年には士官向けにマムルーク刀英語版風の新形軍刀が採用された。現在でも海兵隊士官はこれに類似した軍刀を使用している。下士官用として1859年に採用されたアメリカ海兵隊下士官刀は、アメリカ全軍の装備としては最も古くに採用され、最も配備期間が長いものである。

アメリカ海兵隊構成員は俗に“Leather Necks”(レザーネックス)と呼ばれるが、これはこの再建時に士官・兵士を問わず共通して支給された唯一の装備である、刃物から首を守る防具も兼ねた黒い皮革製のカラー(襟)に由来する。現代の軍服はスーツ型の開襟ジャケットが主流であるにも関わらず、アメリカ海兵隊の礼装であるブルードレスが立襟なのもこの伝統に由来する。現代では蔑称であるジャーヘッドよりはマイナスイメージが少ない呼び方であり、海兵隊協会の雑誌「レザーネック・マガジン」や海兵隊員の交流サイト「Leatherneck.com」など多くのメディアで使われている。

海賊退治、米墨戦争、第一次世界大戦

アメリカ海兵隊の海外派遣は、地中海の自由航行権をめぐるトラブルからオスマン帝国の独立採算州であるバーバリ諸国との間で発生した第一次バーバリ戦争1801年-05年)が初めてで、この時は、1804年アレクサンドリアに上陸したプレスリー・N・オバノン中尉の率いる部隊が、1805年4月27日トリポリの要塞を占領[注 5] したことにより、勝利を確定的なものにし、拿捕された自国艦の乗組員の身代金6万ドルを支払ったものの、今後はアメリカ合衆国船籍の船の航行を妨害しないことを約束させることに成功した。

米墨戦争では陸軍に先んじて宮殿を占領するなどの活躍を見せたほか[注 6]第一次世界大戦では兵力も増強され、士官4000人、兵7万5000人となり、アメリカ合衆国欧州派遣軍の一部としてフランスのベロー・ウッドで逃げ腰のフランス軍に代わってドイツ軍と激戦を繰り広げ、崩れかけた体勢を立て直してドイツ軍を撃退し、その他にも地上戦において戦果を挙げている。

しかし、これらの海兵隊の勇敢な戦果の数々は、結局は陸軍と区別がつけられるものではなく、同じ地上戦を所管する陸軍からは「戦果を横取りされた」として敵視されたあげくに予算の配分を巡って争う始末であり、海兵隊不要論はアメリカ軍部内に燻りつづけて、ときおり火を吹いていた。

1910年代から1930年代の戦間期の海兵隊は、独立した戦闘能力を維持するために小規模な師団的な部隊を大隊単位で恒常的に設置するようになり、人員も大体、士官1000人、兵2万人で推移して、海兵隊総司令官も少将から中将になった。

この頃になると水兵の気質も昔に比べて穏やかになり、白兵戦が生起することも無くなって、海兵隊を海軍艦内に常駐させる必要性は薄れていた。艦内での海兵隊の役割は海軍水兵のものと区別がつかなくなっており、当然、指揮系統上も海軍と対立が起きていたので、海兵隊はアメリカ国内外の海軍基地の警備、海外緊急派遣という新たな任務が与えられた。

1903年に締結されたパナマ運河条約によって、アメリカ合衆国がパナマから「パナマ運河地帯」と呼ばれるパナマ運河の中心から両側5マイルの地域を租借し、海兵隊がその警備を割り当てられると、数個大隊を集めてパナマへ派遣するための連隊が例外的に編成された。この時代の海兵隊の組織は基本的に中隊であり、総兵員も19世紀で士官は100人以下、兵が1000〜2000人、20世紀初頭で士官200人台、兵1万人弱程度であった。それでも海兵隊不要論者からは「アメリカ軍が獲得した前進基地を防衛する任務は、海兵隊では能力不足だ」として攻撃されていた。

海兵隊はこの当時、中米カリブ海諸国ハイチドミニカ共和国パナマメキシコニカラグアなどに派遣されていたが(バナナ戦争)、1927年にニカラグアで始まったサンディーノ戦争で、アウグスト・セサル・サンディーノ将軍率いるゲリラ部隊に苦戦すると1933年に撤退した。ニカラグアから撤退すると、フランクリン・ルーズベルト大統領は善隣政策を導入し、他の中米諸国からも撤退させた。

海兵隊は、設立当初から組織としてのアイデンティティや独自の存在価値を問われ続けて平時には常に規模が縮小され、議会などでも海兵隊の維持経費は「無駄な経費」と罵倒され、解体されて海軍や陸軍に吸収される危機に何度もさらされていた。このような状況にも関わらず、海兵隊が解散しなかったのは、他国の海兵隊のように陸海軍の傘下として設置したのではなく、1798年の再建時に海兵隊を陸海軍と並列の立場で別に設置することを法律で定めたことに端を発しており、議会の決議で法律を制定して設置した以上、アメリカ軍部内の独自判断では解散させることができず、解散についても議会の決議が必要であったためであり、議会に海兵隊擁護論者がいたためであった。

そのような逆境下において、アメリカ合衆国と同じ連合国として第一次世界大戦に参戦した日本が赤道以北のドイツ領ニューギニア各諸島を占領し、大戦後はヴェルサイユ条約によって正式に日本の委任統治領とされたことに伴い、米西戦争で獲得した西太平洋におけるフィリピングアム海外領土や中国での各種権益を持つアメリカにとって、わずか半世紀と少し前にマシュー・ペリー率いる自国の東インド艦隊が訪問して開国させた日本が急速に発展膨張し、中部太平洋に割り込む形で旧ドイツ領ニューギニア地域にまで進出してきたことは、脅威となり始めていた。そこで、海兵隊という組織としての存在価値を新たに明示するため、1921年アール・H・エリス英語版海兵隊少佐が日本本土侵攻作戦についての論文「ミクロネシア前進基地作戦行動 (Advanced Base Operations in Micronesia)」を7か月で書き上げた。この論文は、海軍が以前より研究し1919年に非公式に立案されたオレンジ計画を肉付けすることとなり、1924年アメリカ陸海軍合同会議 (Joint Army and Navy Board) で採用された。

第二次世界大戦

1945年2月23日に硫黄島摺鉢山で星条旗を立てる海兵隊の兵士達を撮った写真『硫黄島の星条旗』を元に作られた記念碑 当番兵が棹の後ろに控えていることから分かるように、旗は掲揚・降納できる またこの記念碑はそのまま海兵隊憲兵隊のバッジに意匠が取り入れられている

第二次世界大戦が勃発・拡大してくると、海軍の海兵隊に対する扱いがそれまでのものから180度変わるようになった。

陸軍は戦略上、ヨーロッパ戦線に主眼を置き、太平洋方面の戦いに消極的であったので、太平洋方面は大規模な地上戦兵力を持たない海軍が島嶼の制圧も含めて単独で戦わざるを得ない状況に陥ったことで海軍と連携する地上戦兵力を確保する必要に迫られ、それには海軍と同じ海軍省の所管にある陸上戦闘集団である海兵隊と連携する以外に打開策がなくなったからである。アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官は、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長による海兵隊の陸軍吸収案に強硬に反対すると共に、従来、海軍長官の指揮下にあった海兵隊を、海軍長官ではなく大統領に直属している合衆国艦隊の指揮下に置く手続きを取った。そして陸軍の反対を押し切って海兵隊の兵力を4個師団に増やし、さらに1個師団を追加しようとした。

第二次世界大戦時の海兵隊は、戦間期のオレンジ計画を元に1930年代から島嶼における、敵前強行上陸を主体とする作戦展開を研究したほか、海兵隊航空団を拡充し、海兵隊装備委員会では敵前強行上陸において効率的に作戦が進むよう LVT など海兵隊独自の戦闘車両を始めとする装備の研究が行われており、太平洋戦争開戦後は海軍と連携しての三次元作戦が行える段階にまで調整されていた。

このような経緯で第二次世界大戦時の海兵隊は太平洋を主な戦場として戦い、水陸両用軍団として参加したガダルカナル島タラワ環礁サイパン島ペリリューの戦いを始めとするマリアナ諸島硫黄島沖縄などにおける日本軍との激戦の経験は、現在のアメリカ海兵隊の基礎となり、敵前強行上陸などでの活躍は海兵隊の存続に貢献した。

ちなみに1945年2月19日硫黄島への敵前強行上陸で生じた戦死者501名は、1日の戦闘によって生じた戦死者数としては、海兵隊創設以来、2011年までの間において最大である。硫黄島擂鉢山に星条旗が掲げられた日は、後日「アメリカ海兵隊記念日」に制定されている。

同年3月には連邦議会の決議によって海兵隊の最高階級は大将となり、アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官は同年4月4日付けで海兵隊初の大将となった。この頃には海兵隊は6個師団、士官3万7000人、兵卒48万人にまで膨らんでおり、来るべき日本本土上陸作戦に備えていたが、作戦発動前に日本は降伏した。

第二次世界大戦中の統合参謀長会議には海兵隊司令官は招かれなかったが、戦後は必要に応じて招かれるようになり、やがて正規メンバーとなった。

第二次世界大戦以後

第二次世界大戦後は朝鮮戦争において韓国救援の先遣部隊として派遣され、釜山に追い詰められた国連軍の中の米軍の中核として困難な時期を支え、ダグラス・マッカーサー元帥の立案した仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に中核戦力として用いられ、上陸後のソウル奪還にも一番乗りの一翼を担った。また、中華人民共和国の参戦によって総崩れとなった国連軍の殿(しんがり。最後尾防衛)を務めたのも海兵隊であった。その後もゲリラの掃討戦に従事し、アメリカ軍やイギリス軍イギリス連邦軍)、大韓民国軍ベルギー軍などから構成された国連軍が行った攻勢には常に主力として用いられ、海兵隊は朝鮮戦争の休戦を38度線の防御陣地で迎えることになる。

その後も、ベトナム戦争グレナダ侵攻湾岸戦争イラク戦争など、米国の行った大規模軍事行動には常に最前線に投入され、海兵部隊は規模の大小はあるものの全世界に展開されており、有事の際には世界中どこにでも展開できる能力[注 7] を保有している。

創設以来、志願制による補充を原則としてきたが、第二次世界大戦中およびベトナム戦争中には徴兵による補充を行っている。

2020年代

増強する中国人民解放軍に対し、デービッド・バーガー総司令官が、Force Design 2030を発表した。人員を現在の18万9,000人から1万2,000人削減し、戦車の全廃、歩兵大隊を24個から21個へ、歩兵大隊(予備役)を8個から6個へ、砲兵中隊を21個から5個へ、水陸両用車を運用する水陸両用車大隊を6個から4個へ、3個の架橋中隊の削減する。また航空隊に関してもF-35B/Cの飛行隊の定数を16機から10機に削減へ、現役中型ティルトローター飛行隊を17個から14個へ、重輸送ヘリコプター中隊を7個から5個へ、軽攻撃ヘリコプター中隊を7個から5個へ削減する。またロケット砲兵中隊を14個から21個の増強、軽装甲偵察中隊を9個から12個へ、航空給油輸送機中隊を3個から4個へ、無人機中隊を3個から6個への増強する。

またアメリカ海軍の作戦を支援するために、小規模なチームに分散し、揚陸艇などで南シナ海東シナ海に点在する離島や沿岸部に上陸し、地対艦ミサイル攻撃や補給基地として機能する前方展開前線基地を計画している。これに伴って沖縄に沿岸連隊が創設される。

ただバーガー総司令官の改革に対して、「海兵隊には多くの任務が付与される。中東欧州朝鮮半島などで海兵隊が陸上作戦を命じられた場合に戦車なしでは対応できなくなる。行き過ぎた改革には問題がある」という批判もある。


注釈

  1. ^ 従来は全部で5軍だった。21世紀に入って第6の軍隊「宇宙軍」が創設された。
  2. ^ 「Act for establishing and organizing a Marine Corps」という法律が1798年7月11日に連邦議会で可決されている。
  3. ^ 海兵隊総司令官 (Commandant of the Marine Corps) は、陸軍参謀総長、海軍作戦部長、空軍参謀総長たちとの間で指揮命令系統の上下関係はない。米大統領の下で戦略の立案といった軍事顧問の役を務める統合参謀本部 (Joint Chiefs of Staff) の長である統合参謀本部議長も、長年、海兵隊出身者からは出なかったので四軍の中で海兵隊だけが格下である印象を持たれていたが、2005年にピーター・ペース海兵隊大将 (Gen. Peter Pace) が第16代統合参謀本部議長に就任したことで、四軍が並列の関係とみなされるようになった。
  4. ^ 自らの組織を生き物だと捉えるアメリカ海兵隊では、毎年11月10日になるとバースデーケーキで誕生日を祝う。
  5. ^ 描写は海兵隊讃歌の歌詞「To the shores of Tripoli」に反映された。
  6. ^ 星条旗を立てた部屋の名前が海兵隊讃歌の歌詞に反映された。
  7. ^ 部隊だけでなく、世界中に散らばった物資輸送船(事前集積船)を持つ。派遣地域の近くにいる物資輸送船が保管していた重装備と、素早く輸送できる軽装備の人員を合流させることで、展開速度と重装備を両立する。
  8. ^ 従来は特定の海兵遠征隊 (MEU) のみが特殊作戦能力 (Special Operations Capable) を有していたのでその海兵遠征隊だけを特に "MEU (SOC)" と呼んだが、今ではすべての海兵遠征隊が特殊作戦能力を有しているので MEU (SOC) とは呼ばれなくなった。
  9. ^ 米海兵隊の人数は、2008年夏時点で195,000名ほどである。また、米海兵隊は将校の割合が他の軍種と比べ低く、米陸軍16%、米海軍18%、米空軍20%に比べて、約10%である。
  10. ^ 警察官など。一部の地方警察では元海兵隊員に、“同志の証し”として特別なバッジを作成し斡旋している。シカゴ市警察での
  11. ^ 2002年5月に、当時の海兵隊司令官ジェームズ.L.ジョーンズ大将によって一等軍曹(E-7)に名誉昇進した。アメリカ海兵隊の歴史上退役者が昇進したのはR・リー・アーメイが初めてである。
  12. ^ 兵卒として入隊したが選抜されて士官へ昇進した(最終階級は大尉)。

出典

  1. ^ 50 USC Chapter 33 - WAR POWERS RESOLUTION コーネル大学法学大学院・法学情報院
  2. ^ a b c 北村淳・北村愛子著 『アメリカ海兵隊のドクトリン』 芙蓉書房出版 2009年2月25日第1版発行 ISBN 9784829504444
  3. ^ Samuel Nicholas - Pennsylvania Center for the Book”. 2020年7月25日閲覧。





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