アパルトヘイト 歴史

アパルトヘイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/28 09:05 UTC 版)

歴史

アパルトヘイト反対の広告が描かれたバスイギリスロンドン1989年
アパルトヘイトについて議論するハル大学の学生(1978年)

1948年前

ボーア戦争以来、南アフリカの白人2大民族であるイギリス人とアフリカーナーオランダ系入植者の子孫)は激しく対立していた。支配層を形成するイギリス系に対しアフリカーナーの多くは経済的な弱者となり、「プア・ホワイト」と呼ばれる貧困層を形成していた。これら白人貧困層を救済し白人を保護することを目的[15]に、1910年の南アフリカ連邦成立以来、さまざまな人種差別的立法がおこなわれてきた。1911年には「鉱山労働法英語版」が制定され、人種により職種や賃金を制限し、熟練労働を白人のみに制限した[16]1913年原住民土地法英語版」が制定され、アフリカ人の居留地を定め、居留地外のアフリカ人の土地取得や保有、貸借を禁じた。1926年には「産業調整法」が制定され、労使間の調停機構が設立され労働者の保護立法のさきがけとなるが、アフリカ人労働者は労働者の範囲からはずされた。このため、以後は白人の労働組合のみが労働者を代表することとなった[17]1927年には「背徳法」が成立し、異人種間の性交渉が禁じられた。

さらに、1924年に白人労働者の支持の元成立したジェームズ・ヘルツォーク政権は、鉱山労働以外の製造業にもカラーバー(人種割り当て)を拡大して、白人労働者とそれ以外の労働者の雇用比率を規定し、さらに白人労働者は非熟練労働者でもアフリカ人よりも高給を与えられるようにした[17]

1948年以降

しかし、第二次世界大戦中の好景気などを背景に黒人の発言力が増大し、当時の与党であるヤン・スマッツ率いる連合党がわずかに譲歩の姿勢を見せたことで、それに不満を持ち黒人封じ込めを訴えるダニエル・フランソワ・マラン率いる国民党が1948年に選挙に勝利し、アパルトヘイトが制度として確立されることとなった。

アパルトヘイトに対しては、対象人種だけでなく、イギリス系よりもアフリカーナが公職でははっきり優遇されていた[18]ため、主にイギリス系の白人の多くから反発があった。しかし、アパルトヘイトにより黒人を搾取することで白人両民族が経済成長を達成し、民族間対立が目に見えて緩和されてくるとイギリス系の多くも積極的に国民党とアパルトヘイトを支持するように変化していった。これに対し、一部のリベラル白人は、進歩連邦党を結成しヘレン・スズマンなどの議員を中心として反アパルトヘイト活動を継続した[19]

実業界は、アパルトヘイトに対しては微温的な対応に終始した。アパルトヘイトによって高価な白人労働力を使用せざるを得ず、経済制裁によって市場がかなり損なわれてはいるとはいえ、一方で黒人の単純労働力を安価に使用できるメリットは大きかった。また国民党はアフリカーナー労働者と農民を支持基盤とした政党であり、資本家はさほど党に対して力を持っているわけではなく、また経営者自身も白人であったためである。熟練労働者の確保が難しくなった工業界が改革をしばしば要求したが、アパルトヘイトの枠内からはみ出ることはなかった[20]。多国籍銀行は経済制裁が行われている最中にも融資を行なっていた[21]ほか、西ドイツBMWメルセデス・ベンツなどの自動車会社も、経済制裁を潜り抜ける形で自動車の生産を行っていた。

反対運動とシャープビル虐殺事件

代表的な反アパルトヘイト運動として、ネルソン・マンデラが所属していたアフリカ民族会議(ANC)や南アフリカ・インド人会議(SAIC)などがあげられる。1949年にはウォルター・シスルオリバー・タンボ、ネルソン・マンデラの3人がANCの執行部に選出され、以後の黒人解放運動の指導権を握った。1955年には、ANCやSAICなどによりクリップタウンで自由憲章が採択される。これは非人種的なものであり、黒人民族主義ではなく自由主義を基本においたもので、以後の反アパルトヘイト運動の旗印となった[22]。しかし、政府はそこに集まった群衆を解散させ、翌1956年には中心的な活動家を反逆罪で告訴した。また、自由憲章制定時に主導権を握れなかったアフリカ民族主義者はアフリカ民族会議から分党し、1959年にはパンアフリカニスト会議英語版(PAC)が結党された。

1960年にはパス法に反対する集会をPACが企画し、ANCも合流。そこに集まった群衆に軍が発砲し、シャープビル虐殺事件が勃発した。これにより、政府は両党を非合法化し、活動家を次々と逮捕していった。マンデラは1962年、シスルは1963年に逮捕され、ケープタウン沖のロベン島刑務所へと送られた。生き残った活動家は亡命し、テロ活動をおこなったものの、活動自体はやがて沈静化していった。

国際関係

国連総会は、1952年以降毎年非難決議を採択し続けた。1960年に南アフリカは国民投票を実施して立憲君主制から共和制へと移行し、南アフリカ共和国が誕生したが、この時継続加盟申請を出した南アフリカに対しイギリス連邦が激しい非難をしたために、1961年には南アフリカは同連邦から脱退した。このように、他国は絶えずアパルトヘイトを非難し、1973年国際連合総会で採択された国際条約において人道に対する罪と糾弾したが、1980年代まではアパルトヘイトはこれらの非難の影響を受けることはなかった[23]オリンピックの南アフリカ選手団は、アパルトヘイトへの制裁措置として1960年ローマオリンピックを最後にオリンピックから締め出された。その後も、国際オリンピック委員会(IOC)からたびたび勧告を受けるも拒否し続けたため、1970年に除名処分を受けた。結果、人種隔離政策撤廃後の1991年にIOCから再承認を受け、1992年バルセロナオリンピックで復帰するまで参加は認められなかった。また1976年モントリオールオリンピックでは、ニュージーランドラグビーチームが南アフリカ遠征を行ったにもかかわらず大会参加を認められた事に抗議して、タンザニアをはじめアフリカ諸国22ヶ国によるボイコットが起こっている。

ビコとソウェト蜂起

スティーヴ・ビコの死から一年経って集まった反アパルトヘイト活動家

反アパルトヘイト運動が再び活発化したのは、スティーヴ・ビコの登場からである。1968年、ナタール大学の学生だったビコは黒人だけの学生組織「南アフリカ学生機構」を結成し、黒人解放運動を開始した。ビコは黒人意識運動を提唱し、白人人種主義のすべての犠牲者への連帯をよびかけた。1973年にはビコの言論活動が禁止されたものの、ビコは各種プロジェクトを通じて実践をおこない、黒人意識運動は南アフリカ全土に広まっていった。この政治意識の高まりを背景に、1976年にはアフリカーンス語の教育強制に反発した黒人がソウェト蜂起を起こす。当時のバルタザール・フォルスター政権はこれを武力で弾圧したものの、この事件は国外のアパルトヘイトへの目をいよいよ厳しいものとし、また国内での抵抗運動はこれをきっかけに再び盛り上がっていった。

1980年代

1980年代に入ると、国内各地でますます反対運動が激化、また、国際的な経済制裁を受けた。1987年、国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国(ドルベースの貿易額基準)となり、翌1988年2月5日国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明した(ガルバ声明)[注 14]。こうした批判を受け、ピーター・ウィレム・ボータ政権は白人・インド人・カラードによる人種別三院制議会1984年に開設した。また、雑婚禁止法と背徳法、分離施設法を1985年に廃止、パス法を1986年に廃止するなどいくらかの改革をおこなったが、運動はまったく沈静化せず、国外からの批判はさらに厳しくなった。

マンデラ釈放から完全撤廃

これらを受け、1989年9月に大統領に就任したフレデリック・ウィレム・デクラークはこれまでの政府(国民党)の方針を転換し、撤廃に向けての改革を進展させた。その政策方針により、1990年2月、ANCやPAC、南ア共産党を合法化し、ネルソン・マンデラを釈放した。1991年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト体制を支えてきた根幹法の最後の法律が廃止された。しかし「選挙法」「教育および訓練法」など22のアパルトヘイト法と数百の人種差別的条例がまだ残っていた。その後南アフリカ社会は体制移行期の危機的な混乱を何度も経験した。この混乱は1991年から1994年4月の総選挙実施まで3年近く続き、多くの死者を出した。

アパルトヘイト廃止後の南アフリカ共和国のことを話し合うために全18政党・組織が参加した民主南アフリカ会議(CODESA(コデサ))が1991年12月と1992年5月に開催された。しかし、交渉中にANC系組織とインカタ自由党 (IFP。ズールー族系)との武力衝突がトランスヴァール州(現ハウテン州など)、ナタール州(現クワズール・ナタール州)で頻発し、多くの死傷者が出た。そのためにしばしば交渉は中断、延期された。1993年4月には白人極右[24]の指示によって一人のポーランド人移民が、当時ANCのナンバー3だったクリス・ハニ英語版を殺害した。また、一部のホームランドが独立の維持を望み統合に反対する動きを起こし、ボプタツワナ政府などはアパルトヘイト維持を掲げる白人右翼アフリカーナー抵抗運動(AWB)と連携して抵抗したものの、ボプタツワナ軍の反乱によってボプタツワナ政府は崩壊し、アフリカーナー抵抗運動の党首だったコンスタンド・フィリューン英語版は穏健派を率いて新党「自由戦線英語版」を設立し、選挙へと参加した。1993年4月に26政党・組織が参加した多党交渉フォーラムで、選挙までの政体として全政党・組織が参加した暫定政府を同年12月に発足させることに決まり、同時に暫定憲法も制定した。最後まで抵抗していたインカタ自由党も選挙実施数日前に選挙参加を決め、すべての有力勢力が全人種選挙へと参加することとなった。

1994年4月にようやく全人種が参加する選挙が行われ、5月にネルソン・マンデラが大統領となり新政権が樹立された。得票率は、アフリカ民族会議(ANC)62.6%、国民党20.4%、インカタ自由党(IFP)10.5%、その他という結果である。アフリカ民族会議は黒人票の90%を獲得したと推定され圧倒的な強さを見せたが、単独で憲法を制定できる2/3には届かなかったが、マンデラ大統領就任により、アパルトヘイトはこの1994年に完全に消滅した。

経済制裁の解除

1991年のデクラーク大統領によるアパルトヘイト法撤廃方針を受けて欧州共同体(EC、のち欧州連合・EU)、アメリカ日本は次々と経済制裁を解除していった。しかし当時、ANCなど解放組織は「経済制裁の解除は時期尚早」と訴えた。経済制裁を主導した国連が総会において経済制裁撤廃決議をしたのは1993年10月になってからである。

当時の世界経済の背景には、当時冷戦下における西側諸国は、南アフリカ共和国がレアメタルの独占的産出国であり、南アフリカ共和国からこれら資源を輸入しなくては、敵国ソ連から輸入せざるを得ない状況であった。それ故にアパルトヘイト政策を非難する経済制裁を発することが出来ず、南アフリカ政府はアパルトヘイト政策を継続できた。ところが冷戦終結により旧東側諸国からのレアメタルの資源供給が容易になり、南アフリカ共和国の国際社会での立場が弱まり、欧米などから経済制裁を受けたことがアパルトヘイト撤廃に繋がっていった。


注釈

  1. ^ ネイティヴと呼ばれた黒人を主とし、その他には印僑を主とするアジア系住民や、混血・先住民であるコイコイ人インドネシアマレー半島などから連行されたケープマレーを一括りにした『カラード』を含める。
  2. ^ 人種」は、皮膚の色、爪の甘皮、虹彩の色、染色体、髪の毛のちぢれ方などによって決められた。
  3. ^ ほぼ名目だけのもので、外交や国防などの自主権は無く、政府予算も大半が南アフリカ政府からの補助金でまかなわれていたため、実質的には南アフリカの傀儡国家であった。
  4. ^ 雇用者に、労働者は人種別に一定の割合(Colour bar)を維持するように義務付けた法律。特に鉱山における特定の職業を、白人労働者から低賃金な黒人労働者へ置き換えることを防止するのが目的。
  5. ^ 南アフリカ政府が指定した地域(全国土の8~13%程度)以外での、黒人の土地所有権を否定する法律。居住面での人種隔離を進めるのも目的であったが、南アフリカ政府が黒人の土地所有権を認めた地域は農業に不適な地域が多いため、黒人が自営農民として生活することは事実上困難となった。
  6. ^ ただしその発達は、黒人に対する搾取によるものであった。
  7. ^ 黒人の熟練建築労働者が、就業可能な地域を制限する法律。
  8. ^ 黒人労働者のストライキを禁止する法律。
  9. ^ 異人種間共同の労働組合を新規に結成することを禁止する法律。既存の異人種間共同の労働組合も人種別組合に分割させた上で、労働組合幹部は白人に限定させた。
  10. ^ 面積にして、南アフリカ全土のおよそ10%にも満たない程度。
  11. ^ 日本人などは名誉白人などとよばれ、白人居住区に居住した。
  12. ^ ただし、外交や国防、治安についての実権はない。
  13. ^ 拘留期限の更新が認められていたため、実際には60日を越えての拘留も可能だった。
  14. ^ “参議院会議録情報 第112回国会 決算委員会 第6号”. 議事録 (国立国会図書館). https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=111214103X00619880523。日本政府の対応については外務省の当該答弁を参照。 
  15. ^ 「人道に対する犯罪」とは、文民たる住民に対する攻撃であって、次のいずれかの行為をいう。(a)殺人。(b)絶滅させる行為。(c)奴隷化。(d)住民の追放又は強制移送。(e)国際法の基本的な規則に違反する拘禁その他の身体的な自由の著しいはく奪。(f)拷問。(g)強姦、性的な奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続、強制断種その他あらゆる形態の性的暴力。(h)政治的、人種的、国民的、民族的、文化的又は宗教的な理由、性に係る理由その他国際法の下で許容されないことが普遍的に認められている理由に基づく特定の集団又は共同体に対する迫害。(j)人の強制失踪。(j)アパルトヘイト犯罪。その他の同様の性質を有する非人道的な行為であって、身体又は心身の健康に対して故意に重い苦痛を与え、又は重大な傷害を加えるもの[26]

出典

  1. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 329)
  2. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 342)
  3. ^ レナード・トンプソン (1995, pp. 344–345)
  4. ^ 伊藤正孝 (1992, p. 27)
  5. ^ 伊藤正孝 (1992, pp. 27, 59)
  6. ^ 峯陽一 (1996, pp. 225–226)
  7. ^ 吉田一郎 (2010, p. 247)
  8. ^ South Africa: Honorary Whites, TIME, 19 January 1962
  9. ^ A Matter of Honour: Being Chinese in South Africa, Yoon Jung Park, Lexington Books, 2008 page 159
  10. ^ 峯陽一 (1996, p. 135)
  11. ^ a b 峯陽一 (2010, pp. 40–41)
  12. ^ 峯陽一 (1996, pp. 21–22)
  13. ^ 「南アフリカ共和国・レソト・スワジランド」『週刊朝日百科世界の地理109』、朝日新聞社、1985年11月24日、 11-231頁。
  14. ^ 勝俣誠 (1991, p. 173)
  15. ^ 勝俣誠 (1991, pp. 173–174)
  16. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 296)
  17. ^ a b レナード・トンプソン (1995, p. 299)
  18. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 331)
  19. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 330)
  20. ^ レナード・トンプソン (1995, pp. 360–361)
  21. ^ 『スティグリッツ教授の経済教室』、100頁。 
  22. ^ 平野克己 (2009, pp. 128–129)
  23. ^ レナード・トンプソン (1995, pp. 373–374)
  24. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 462)
  25. ^ 『スティグリッツ教授の経済教室』、101頁。 
  26. ^ [第2部 管轄権、受理許容性及び適用される法] 第7条 人道に対する犯罪”. 国際刑事裁判所ローマ規程. はてなダイアリー (2004年6月9日). 2007年8月20日閲覧。
  27. ^ What do the Palestinians want from the international community?”. MEMO Middle East Monitor. 2021年3月23日閲覧。
  28. ^ • Is Israel not an apartheid state?” (英語). 外務省_(イスラエル) (2010年11月10日). 2021年5月17日閲覧。
  29. ^ Raoul Wootliff (2018年7月19日). “Israel passes Jewish state law, enshrining ‘national home of the Jewish people’”. The Times of Israel. https://www.timesofisrael.com/knesset-votes-contentious-jewish-nation-state-bill-into-law/ 2021年5月17日閲覧。 
  30. ^ 渡辺丘 (2018年7月20日). “「ユダヤ人国家」法、イスラエル国会が可決 批判相次ぐ”. 朝日新聞. https://www.asahi.com/articles/ASL7N24HVL7NUHBI004.html 2021年5月17日閲覧。 
  31. ^ A regime of Jewish supremacy from the Jordan River to the Mediterranean Sea: This is apartheid” (英語). B'Tselem (2021年1月12日). 2021年5月17日閲覧。
  32. ^ イスラエル政府の人権侵害政策、アパルトヘイトと迫害の罪に該当”. ヒューマン・ライツ・ウォッチ (2021年4月27日). 2021年5月17日閲覧。





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