アパルトヘイト アパルトヘイトの概要

アパルトヘイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/25 00:21 UTC 版)

ダーバンビーチ条例第37節に基づき、この海水浴場は白人種集団に属する者専用とされる」と英語アフリカーンス語ズールー語で併記された1989年撮影の標識

かねてから数々の人種差別的立法のあった南アフリカにおいて1948年に法制として確立され、以後強力に推進されたが、1994年全人種による初の総選挙が行われ、この制度は撤廃された。

内容

英語アフリカーンス語で、白人専用と書かれた海水浴場の看板。犬の標識は、犬の連れ込み禁止を意味する。
アパルトヘイトへの抗議を行う黒人たち(1980年代

アパルトヘイトという言葉は、1913年の「原住民土地法英語版」に登場する。しかし、広く使われ始めたのは、国民党が居住地区条項を制度的に確立した1948年以降である。アパルトヘイトとは、南アフリカ連邦時代から続く人種差別思考の上になりたつ様々な差別立法を背景に1948年の純正国民党政権誕生によって確立された政策方針のことである。アパルトヘイト以前に、すでに「鉱山労働法英語版」(1911年)、原住民土地法(1913年)、産業調整法(1926年)、背徳法(1927年)などの差別的立法が成立していたが、国民党が政権を握って以降「集団地域法英語版」「人口登録法[注 2]」「投票者分離代表法英語版」「バントゥー教育法」「共産主義鎮圧法英語版」「テロリズム法英語版」などが相次いで制定され、アパルトヘイト体制が成立した。

選挙権

ケープ州においては、カラードは1853年の議会開設以来選挙権を持っていたが、1951年に議会は、カラード代表議員(白人)の選出を認める代わり白人とカラードの選挙人名簿を分離する「投票者分離代表法英語版」法案を提出。最高裁が再三違憲判決を下したものの、1956年にはカラードの選挙権はカラード代表議員を選出するだけのものとなり、1970年にはカラード代表議席と黒人代表議席すら廃止(議員は白人に限定)され、選挙権は白人だけのものとなった[1]

1970年に制定された「バントゥー・ホームランド市民権法英語版」により、黒人は民族毎に指定した10のバントゥースタンの市民とされ、これらのバントゥースタンを「独立国家」とすることで、黒人を外国人に仕立て上げようとした。このため、「独立[注 3]」を宣言したトランスカイシスカイボプタツワナヴェンダの「国民」は外国人として扱われ、名実共に南アフリカ国民であることを否定された。

就業

アパルトヘイト以前から存在した上記の1911年の「鉱山労働法英語版[注 4]」、1913年の「原住民土地法英語版[注 5]」、1926年の「産業調整法」をはじめとする各種法律によって、黒人には低賃金所得のみがあてがわれ、南アフリカの資本主義は発達した[注 6]

アパルトヘイトが本格化すると、1951年の「原住民建築労働者法英語版[注 7]」や、1953年の「原住民労働者法英語版[注 8]」、1956年の「産業調停法英語版[注 9]」など、就業制限に限らず各種の待遇や制限で、白人労働者には手厚い保護を与える一方で黒人労働者には劣悪な労働条件を課した。

黒人は白人が経営する農園や工場で働き、1970年には平均して白人の工業労働者は黒人の6倍、白人鉱業労働者は黒人の21倍の給料を得るようになっていた[2]

こうした方針は「南アフリカにはたくさんの民族が住んでいて、それぞれ違う伝統や文化、言語を持っている。それぞれの民族が独自に発展すべきだ。アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」という多文化主義による合理的な政策であると主張されていた。

居住

1913年制定の「原住民土地法英語版」により、南アフリカ全土のうち南アフリカ連邦政府が指定した地域[注 10]のみに黒人の土地所有権を認めたが、それ以外の地域における黒人の土地所有権を否定し、黒人が白人から家屋や土地を買い取って所有することができなくなった。

都市部においても1950年に制定された「集団地域法英語版」に基づいて人種別に居住区の割り当てが行われ、自身が属する人種グループに割り当てられた地域以外での居住は違法とされたほか、1953年制定の「隔離施設留保法英語版」では道路を除いたあらゆる公共施設や公共車両、飲食店などにおいて人種別に専用の施設を用意することが義務付けられ、白人と黒人の居住区および生活圏を法的にくっきりと分けられた。差別される側の黒人は約2500万人、インド系住民約90万人に対して、白人は約500万人程度である(黒人の20%以下)[注 11]。さらに1959年に全面的なアパルトヘイト構想としてバントゥースタン計画が立案された。具体的には1959年制定の「バントゥー自治促進法英語版」により民族部族単位に自治区を設ける[注 12]政策が実施された。

教育分野

1953年に制定された「バントゥー教育法」により、黒人に対する教育はキリスト教会系のミッションスクールから国家の元に移管されたが、一人当たりの白人生徒の教育予算は、黒人生徒の10倍程度であったほか、黒人については義務教育ではなかった。

アパルトヘイト以前は、ウィットウォーターズラント大学やケープタウン大学、ナタール大学では白人と黒人は共学であり、黒人向けのフォートヘア大学も存在したが、1959年に可決された「大学教育拡張法英語版」によって白人と黒人の共学は禁止され、黒人は既存の大学に受け入れられなくなり、フォートヘア大学は全黒人向けからコサ人向けの大学に改組された[3]

治安・警察関連

アパルトヘイト体制の整備に伴い、一方的に搾取され不利益を押し付けられる黒人側から、アパルトヘイト政策の撤廃を求める政治運動を行う団体・個人が多数登場したが、これらを弾圧するために各種の治安関連法が制定された。

1950年に制定された「共産主義鎮圧法英語版」により南アフリカ共産党英語版が非合法化されたほか、1960年のシャープビル虐殺事件を契機に制定された「反社会的組織法英語版」によりアフリカ民族会議パンアフリカニスト会議英語版が非合法化された。

また、1956年に制定された「暴動的集会法英語版」により、法務大臣が「公共の平穏を危うくする」と認定した場合には、公共の場所での集会を禁止することができるようになり、反アパルトヘイト集会を妨害・弾圧する口実に利用された。

特に1967年に制定された「テロリズム法英語版」においては、警察が「テロリスト容疑者」や「テロリストに関する情報を持っていると警察が認めた人物」に対して、逮捕令状裁判無しで最長60日間拘留する権限が認められた[注 13]

上記の法律は、1982年に制定された「国内治安法英語版」に整理統合された。

人種分類

アパルトヘイトでは法律で人種を次の4通りに分けた。実際の人種とアパルトヘイトの指す人種とはやや違いがあり、例えば先住民であるコイコイ人や、アジア人であるマレー人のうち、その大多数を占め、古くからケープに住むケープマレーは、人種とは関係なくカラードの扱いを受けた。また、政府の人口統計においては白人は1民族として扱われ、黒人は各民族ごとに集計されたため、白人が最大民族として公表される仕組みとなっていた。

  • 白人(1980年に470万人、人口の15%。イギリス系住民と、アフリカーナーオランダ系を中心とするアフリカーンス語を話す住民)。比率はアフリカーナー60%、イギリス系40%である。白人間でも出自によって区別があった)
  • アジア人(1980年に90万人、人口の3%。大部分が印僑で、事実上の中間支配層として扱われた。ナタール州付近に集住していた)
    • アジアにおいて唯一の先進国である日本人は1961年以降、経済上の都合から名誉白人扱いとされていた[4]。ただし、白人専用のホテル・レストランなどの使用が認められたに過ぎず、基本的に一時滞在者としての扱いに限られ、永住権や不動産取得などは認められなかった。また、日本人が白人と性交渉をおこなった場合は背徳法が適用された[5]。日本は1980年代後半から最大の貿易相手国になる。また、国際的に孤立していた南アフリカと、反共主義という共通点から数少ない国交を持っていた中華民国台湾人も、名誉白人扱いであった[6]。台湾人については一時期、中華料理店を白人用に指定した際、中華料理店への入店に限って白人扱いとされたが、中華民国の経済発展を受け名誉白人扱いになったとされる[7]。また、イギリス香港からの華僑華人も名誉白人として扱われた[8][9]
  • カラード(1980年に280万人、人口の9%。白人と、サン人やコイコイ人など先住民族との混血を中心にした混成グループで、オランダやイギリスの植民地であったインドネシアマレーから奴隷として連れられてきた住民との混血も含まれる。また、混血でないコイコイ人やケープマレーも含む。主な使用言語はアフリカーンス語。ケープタウン周辺に集住しており、ケープ州の最大民族であった)
  • 黒人(1980年に2300万人、人口の73%。ズールー人ソト人コーサ人、ンデベレ人、ツワナ人など、バントゥー系民族

最大勢力である黒人に対し、印僑やカラードといった人口規模が白人に及ばない人種は黒人に比べやや優遇され、白人・黒人間の緩衝地帯となると同時に白人による分断統治の対象となった。印僑やカラードには教育予算や医療施設も白人ほどではないが整備された。カラードの集住するケープ州においては、選挙権が剥奪される一方でカラードの優遇雇用法が施行され、とくに黒人流入の多くなった70年代後半以降にはカラードに経済的利益をもたらした。このため、民主化後初の選挙である1994年の選挙においてカラードは、大部分が国民党へ投票した[10]


注釈

  1. ^ ネイティヴと呼ばれた黒人を主とし、その他には印僑を主とするアジア系住民や、混血・先住民であるコイコイ人インドネシアマレー半島などから連行されたケープマレーを一括りにした『カラード』を含める。
  2. ^ 人種」は、皮膚の色、爪の甘皮、虹彩の色、染色体、髪の毛のちぢれ方などによって決められた。
  3. ^ ほぼ名目だけのもので、外交や国防などの自主権は無く、政府予算も大半が南アフリカ政府からの補助金でまかなわれていたため、実質的には南アフリカの傀儡国家であった。
  4. ^ 雇用者に、労働者は人種別に一定の割合(Colour bar)を維持するように義務付けた法律。特に鉱山における特定の職業を、白人労働者から低賃金な黒人労働者へ置き換えることを防止するのが目的。
  5. ^ 南アフリカ政府が指定した地域(全国土の8~13%程度)以外での、黒人の土地所有権を否定する法律。居住面での人種隔離を進めるのも目的であったが、南アフリカ政府が黒人の土地所有権を認めた地域は農業に不適な地域が多いため、黒人が自営農民として生活することは事実上困難となった。
  6. ^ ただしその発達は、黒人に対する搾取によるものであった。
  7. ^ 黒人の熟練建築労働者が、就業可能な地域を制限する法律。
  8. ^ 黒人労働者のストライキを禁止する法律。
  9. ^ 異人種間共同の労働組合を新規に結成することを禁止する法律。既存の異人種間共同の労働組合も人種別組合に分割させた上で、労働組合幹部は白人に限定させた。
  10. ^ 面積にして、南アフリカ全土のおよそ10%にも満たない程度。
  11. ^ 日本人などは名誉白人などとよばれ、白人居住区に居住した。
  12. ^ ただし、外交や国防、治安についての実権はない。
  13. ^ 拘留期限の更新が認められていたため、実際には60日を越えての拘留も可能だった。
  14. ^ “参議院会議録情報 第112回国会 決算委員会 第6号”. 議事録 (国立国会図書館). https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=111214103X00619880523。日本政府の対応については外務省の当該答弁を参照。 
  15. ^ 「人道に対する犯罪」とは、文民たる住民に対する攻撃であって、次のいずれかの行為をいう。(a)殺人。(b)絶滅させる行為。(c)奴隷化。(d)住民の追放又は強制移送。(e)国際法の基本的な規則に違反する拘禁その他の身体的な自由の著しいはく奪。(f)拷問。(g)強姦、性的な奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続、強制断種その他あらゆる形態の性的暴力。(h)政治的、人種的、国民的、民族的、文化的又は宗教的な理由、性に係る理由その他国際法の下で許容されないことが普遍的に認められている理由に基づく特定の集団又は共同体に対する迫害。(j)人の強制失踪。(j)アパルトヘイト犯罪。その他の同様の性質を有する非人道的な行為であって、身体又は心身の健康に対して故意に重い苦痛を与え、又は重大な傷害を加えるもの[26]

出典

  1. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 329)
  2. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 342)
  3. ^ レナード・トンプソン (1995, pp. 344–345)
  4. ^ 伊藤正孝 (1992, p. 27)
  5. ^ 伊藤正孝 (1992, pp. 27, 59)
  6. ^ 峯陽一 (1996, pp. 225–226)
  7. ^ 吉田一郎 (2010, p. 247)
  8. ^ South Africa: Honorary Whites, TIME, 19 January 1962
  9. ^ A Matter of Honour: Being Chinese in South Africa, Yoon Jung Park, Lexington Books, 2008 page 159
  10. ^ 峯陽一 (1996, p. 135)
  11. ^ a b 峯陽一 (2010, pp. 40–41)
  12. ^ 峯陽一 (1996, pp. 21–22)
  13. ^ 「南アフリカ共和国・レソト・スワジランド」『週刊朝日百科世界の地理109』、朝日新聞社、1985年11月24日、 11-231頁。
  14. ^ 勝俣誠 (1991, p. 173)
  15. ^ 勝俣誠 (1991, pp. 173–174)
  16. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 296)
  17. ^ a b レナード・トンプソン (1995, p. 299)
  18. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 331)
  19. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 330)
  20. ^ レナード・トンプソン (1995, pp. 360–361)
  21. ^ 『スティグリッツ教授の経済教室』、100頁。 
  22. ^ 平野克己 (2009, pp. 128–129)
  23. ^ レナード・トンプソン (1995, pp. 373–374)
  24. ^ レナード・トンプソン (1995, p. 462)
  25. ^ 『スティグリッツ教授の経済教室』、101頁。 
  26. ^ [第2部 管轄権、受理許容性及び適用される法] 第7条 人道に対する犯罪”. 国際刑事裁判所ローマ規程. はてなダイアリー (2004年6月9日). 2007年8月20日閲覧。
  27. ^ What do the Palestinians want from the international community?”. MEMO Middle East Monitor. 2021年3月23日閲覧。
  28. ^ • Is Israel not an apartheid state?” (英語). 外務省_(イスラエル) (2010年11月10日). 2021年5月17日閲覧。
  29. ^ Raoul Wootliff (2018年7月19日). “Israel passes Jewish state law, enshrining ‘national home of the Jewish people’”. The Times of Israel. https://www.timesofisrael.com/knesset-votes-contentious-jewish-nation-state-bill-into-law/ 2021年5月17日閲覧。 
  30. ^ 渡辺丘 (2018年7月20日). “「ユダヤ人国家」法、イスラエル国会が可決 批判相次ぐ”. 朝日新聞. https://www.asahi.com/articles/ASL7N24HVL7NUHBI004.html 2021年5月17日閲覧。 
  31. ^ A regime of Jewish supremacy from the Jordan River to the Mediterranean Sea: This is apartheid” (英語). B'Tselem (2021年1月12日). 2021年5月17日閲覧。
  32. ^ イスラエル政府の人権侵害政策、アパルトヘイトと迫害の罪に該当”. ヒューマン・ライツ・ウォッチ (2021年4月27日). 2021年5月17日閲覧。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アパルトヘイト」の関連用語

アパルトヘイトのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アパルトヘイトのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアパルトヘイト (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS