アゴスティニョ・ネト アゴスティニョ・ネトの概要

アゴスティニョ・ネト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/01 00:22 UTC 版)

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アントニオ・アゴスティニョ・ネト
António Agostinho Neto


任期 1975年11月11日1979年9月10日

出生 1922年9月17日
ポルトガル領アンゴラ、ベンゴ州カテテ
死去 (1979-09-10) 1979年9月10日(56歳没)
ソビエト連邦モスクワ
政党 アンゴラ解放人民運動(MPLA)
配偶者 マリア・エウジェニア・ダ・シルヴァ

生涯

ベンゴ州のカテテ町でメソジストの牧師の息子として生まれた。

ルアンダの高校に通った後、ポルトガル統治時代の1940年代、アンゴラの伝統文化復興運動の中で頭角を現す。民族主義運動を行う一方、リスボンに留学し、リスボン大学医学を学んだ。1958年にポルトガル人女性のマリア・エウジェニア・ダ・シルヴァと結婚し、同年中に卒業した。1959年に帰国した。帰国後は1960年6月8日に独立運動によって植民地当局に逮捕され、彼の両親や支持者は釈放を求めてカテテからベンゴへ行進したが、ポルトガル兵によって30人が殺害され、200人が負傷した(ロコ・イ・ベンゴの虐殺)。彼はポルトガル政府によってカーボベルデに追放され、リスボンで拘留された。政府は国際的な圧力のためにネトを自宅軟禁に置いたが、脱走してまずモロッコに、次いでザイール亡命し、国外から反ポルトガル闘争を続けた。

1962年にアメリカ合衆国ワシントンD.C.を訪れ、ジョン・F・ケネディに彼の目的を訴えたが、既にホールデン・ロベルト率いる反共アンゴラ国民解放戦線(FNLA)の支持を決めていたアメリカは、これを拒否した。

ネトはコンゴ動乱チェ・ゲバラ率いるキューバ軍が派遣された際にはゲバラと会談し、キューバの支援を取り付けた。幾度もハバナを訪れ、彼とフィデル・カストロはイデオロギー的な視点を分かち合った。

アンゴラ解放人民運動(MPLA)を率いてアンゴラ独立戦争を指導し、ポルトガル撤退後、他の勢力との権力闘争を勝ち抜き、1975年11月11日の正式独立に伴って初代大統領に就任した。職責に就いた後、ネトはソ連など共産圏に接近し、アンゴラが東側陣営に属するきっかけをつくった。また、キューバフィデル・カストロと強い親交があり、内戦時代にキューバからの大規模な支援を受けた。一方、MPLAと対立したFNLAやアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)をアメリカと連携[1]して支援していた中国とは対立し、ネトは中越戦争の際に中国を非難した[2]

1979年9月にソビエト連邦のモスクワで死去し、ジョゼ・エドゥアルド・ドスサントスが後を継いだ。

脚注

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