アイン・ランド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 04:53 UTC 版)
生涯
生い立ち
ランドは1905年2月2日にサンクトペテルブルクに住む中産階級の一家の、3人姉妹の長女として生まれた。父はジノヴィ・ザハーロヴィチ・ローゼンバウム、母はアンナ・ボリソヴナ(旧姓カプラン)で、2人はほぼ非順守派のユダヤ人であった。父ジノヴィ・ローゼンバウムは薬剤師として成功し、薬局一店舗とこの薬局が入るビルを所有するに至った[8]。ランドは学校には退屈し、彼女自身によれば8歳の時には映画の脚本を書き始め、10歳の時には小説を書き始めた[9]。ランドが12歳の時、二月革命(1917年)が起きた。この時はニコライ2世よりもアレクサンドル・ケレンスキーに好感を持っていた。
その後の十月革命と、ウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキの独裁確立により、ランドの一家はそれまでの快適な生活を破壊された。父の薬局事業は没収され、一家は転居を強制された。ランド一家はロシア内戦中白軍の支配下にあったクリミアに逃れた。ランドの回想によれば、ランドは高校時代に無神論の立場を取ることを決め、理性を他のあらゆる人間的価値の上位に置くことに決めた。ランドが16歳でクリミアの高校を卒業した後、一家はペトログラード(旧サンクトペテルブルク)に戻った。ペトログラードでの生活条件はひどく、時に飢餓寸前の状態に陥った[10][11]。
ロシア革命後、大学が女性に解放され、ランドはペトログラード大学に入学した最初の女性の一人になった[12]。ランドは、この大学の社会教育学部で歴史を専攻した[13]。大学ではアリストテレスおよびプラトンの著作に出会った[14]。アリストテレスには最大の影響を、プラトンには最大の反面教師としての影響を、それぞれ受けることになった[15]。アリストテレスとプラトンに次いでランドが熱心に著作を研究した思想家は、フリードリヒ・ニーチェであった[16]。フランス語、ドイツ語、ロシア語を読むことができたランドは、フョードル・ドストエフスキー、ヴィクトル・ユーゴー、エドモン・ロスタン、フリードリヒ・シラーなどの作家にも出会い、これらの作家の作品を長く愛読した[17]。
卒業直前、ランドは他の多くの「ブルジョア」学生と共に大学から追放された。しかし海外から訪れた科学者グループからの抗議を受け、追放された学生の多くは学業の修了と卒業を許可された[18]。ランドも1924年に大学を卒業した[19]。その後1年間レニングラードの国立映画専門学校で学んだ。学校の課題の一つとしてポーランド人女優ポーラ・ネグリに関する評論を書き、これがランドの最初の刊行作になった[20]。
この頃までに筆名としてアイン・ランドを名乗ることを決めていた[21]。名前の由来は諸説あるが、「ランド」は本名の姓Rosenbaumのキリル文字での短縮形[22]、「アイン」はフィンランド語での名前、もしくは「目」を意味するヘブライ語「 עין」(アイン)から取った[23]と言われる。
アメリカへの移住
1925年、ランドはアメリカの親類を訪問するビザを取得した。ニューヨーク港に着いたランドは、マンハッタンの摩天楼群が織りなすスカイラインに、感激のあまり「光輝の涙」を流したと後に回想している[24]。米国に留まり映画脚本家になることを決心していたランドは、最初にシカゴの親類を訪れた。親類の一人は映画館を1つ所有しており、彼女が数十の映画を無料で見ることを許した。数ヶ月の滞在後、ランドはシカゴの親類の家を後にし、カリフォルニア州ハリウッドへと出発した[25]。
当初ハリウッドでの生活は苦しく、生活費を稼ぐために雑多な仕事に従事した。著名映画監督セシル・B・デミル (Cecil B. DeMille) との面識を得て、彼の映画「キング・オブ・キングス」(The King of Kings)でのエキストラに採用され、その後も下級シナリオライターとしての仕事を獲得した[26]。「キング・オブ・キングス」での仕事中、若く野心的な俳優フランク・オコナー(Frank O'Connor)と出会い、1929年4月15日に結婚。1931年にはアメリカ市民権を取得した。1930年代、ランドは作家業の補助として様々な職業に就いた。その中には、当時の5大映画会社の一つ、RKOスタジオの衣装部門の責任者の仕事もあった[27]。両親と2人の妹を米国に呼び寄せようと何度か試みたが、彼らは移住許可を取得できなかった[28]。
初期のフィクション
ランドが作家として最初に成功した作品は、1932年に映画会社ユニバーサル・スタジオに買い取られた脚本「レッドポーン」(Red Pawn)であった。ただしこの脚本は結局映画化されなかった[29]。次に書かれた法廷ドラマ「1月16日の夜に」(Night of January 16th)は、まず1934年にハリウッドでエドワード・E・クライヴ (Edward E. Clive) によって映画化され、1935年にはブロードウェイで上演され成功を収めた。劇場版の「1月16日の夜に」では、毎晩観客の中から「陪審員」が選ばれ、陪審員の「評決」に応じ、2つ用意された別々の結末の一方が演じられた[30]。1941年には、映画会社パラマウント・ピクチャーがこの劇の映画版を制作した。ランドはこの映画の制作に参加せず、その結果に対しきわめて批判的だった[31]。
ランドの最初の小説は、1936年に出版された半自伝的作品『われら生きるもの』(We the Living)である。ソビエト政権下のロシアを舞台にしたこの小説は、個人と国家の対立に焦点を当てている。この小説の1959年版のまえがきでランドは、「(『われら生きるもの』は)私の小説の中で最も自伝に近い作品である。文字通りの意味での自伝ではないが、知的な意味での自伝とは言える。筋書きは創作だが、背景は創作ではない[‥‥]」[32]と述べている。出版当初の売れ行きは悪く、アメリカの出版社はこの作品を絶版にした[33]。ただしヨーロッパでは売れ続けた[34]。後に『水源』等がベストセラーになったことにより、ランドは1959年にこの小説の改訂版を出版できた。以来『われら生きるもの』の販売部数は300万部を超えている[35]。1942年にはイタリアでこの小説を元にした2部作の映画、『ノア・ビビ』(Noi vivi)および『アディオ・キラ』(Addio, Kira)が制作された。ランドはこの映画化について知らなかった。この2部作映画は1960年に再発見され、ランドの承認の下、1本の映画『われら生きるもの』(We the Living)に再編集され、1986年に発表された[36]。
次の大作『水源』(The Fountainhead)を書いた後の休み中には、短篇小説『アンセム』(Anthem)を書いている。『アンセム』には、全体主義的な集産主義が勝利した結果、「I(私)」という言葉さえ忘れ去られ「We(私たち)」という言葉に取って代わられた、ディストピア的な未来像が描かれている[37]。この小説は1938年にイングランドで出版されたが、アメリカでは当初この小説を出版してくれる出版社が見つからなかった。『われら生きるもの』の場合と同様、その後『水源』がベストセラーになったおかげで、ランドは1946年にこの小説の改訂版を出版できた。『アンセム』の販売部数は350万部を超えている[38]。
『水源』と積極的政治活動
1940年代、ランドは政治活動に積極的に関与するようになった。1940年の大統領選挙でランドは、夫と共に、共和党ウェンデル・L・ウィルキー (Wendell Lewis Willkie) 陣営のボランティア専従スタッフとして活動した。この活動の過程で、ランドは初めて公衆を前に演説する経験をした。ニューヨーク市では、ウィルキー支持のニュース映画を見たばかりの聴衆から、時に敵意をむき出しにした質問を受けることもあった。ランドはこうした敵意ある質問にも当意即妙に答えた。これはランドにとって非常に楽しい経験だった[39]。またこの活動により、自由市場資本主義を支持する知識人達との交流も生まれた。ジャーナリストのヘンリー・ハズリット (Henry Hazlitt) 夫妻と友人になり、ハズリットの紹介でオーストリア学派の経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (Ludwig von Mises) とも知り合った。ランドと彼らの間には思想的相違があったが、ランドはハズリットとミーゼスの著作を生涯にわたり支持し、彼らもランドへの賞賛を表明した。ミーゼスはランドのことを「the most courageous man in America(アメリカで最も勇敢な人)」と述べたことがある。この賛辞はランドを特に喜ばせた。ミーゼスがランドを「woman」ではなく「man」と呼んだからである[40]。ランドはリバタリアンの作家イザベル・パターソンとも友情を育んだ。二人は幾度となく会った。博識なパターソンに、ランドは夜遅くまでアメリカの歴史や政治について尋ねた。パターソン唯一のノンフィクション『The God of the Machine』には、ランドが与えたアイデアが反映されている[41]。
執筆に7年を費やし、1943年に出版されたロマンス思想小説『水源』(The Fountainhead)は、作家アイン・ランド初の大ヒット作となった[42]。この小説は、妥協しない若き建築家ハワード・ロークと、「second-hander(セコハン人間、受け売り人間)」との対立を中心に描かれている。セコハン人間とは、他人を自己より上位に置き、他人を通じて生きようとする人々である。『水源』はボブスメリル社 (Bobbs-Merrill Company) が出版を引き受ける前に、12の出版社から出版を拒否されている。ボブスメリル社が『水源』の出版引き受けを決めたのは、同社の編集者アーチボルド・オグデン (Archibald Ogden) が、『水源』を出版しなければ会社を辞める、と雇い主を脅したからである[43]。『水源』の仕上げにかかっている間、疲労と闘うため、ランドは「ベンゼドリン」という商品名のアンフェタミン(中枢神経刺激薬)の処方を受けていた[44]。この薬は原稿を締め切りに間に合わせるための長時間執筆に役立ったが、ランドは疲弊し切り、原稿完成時、医師から2週間の安静を命じられたほどであった[45]。この薬を約30年にわたり使用し続けたことが、後に彼女と付き合った人々から、気分の移り変わりが激しいと時に評される一因だった可能性がある[46]。
『水源』は最終的に世界的成功を収め、ランドに名声と経済的安寧をもたらした[47]。1943年、ランドはこの小説の映画化の権利をワーナー・ブラザース社に売却し、同映画の脚本を書くためハリウッドに戻った。『水源』映画版(邦題「摩天楼」)の脚本を完成させると、ランドは映画プロデューサーのハル・ウォリス (Hal Wallis) に、脚本家兼スクリプトドクターとして雇われた。ウォリスの下でランドが脚本を書いた映画には、アカデミー賞にノミネートされた「ラブ・レター」(Love Letters、1945年)や「大空に駈ける恋」(You Came Along、1945年)などがある[48]。この間、ランドには他のプロジェクトに関わる余裕ができた。こうしたプロジェクトの一つに、彼女の思想をノンフィクションの形で論じた『個人主義の道徳的基礎』(The Moral Basis of Individualism)の執筆計画があった。計画された本は完成しなかったが、この本の内容を要約した『明日への唯一つの道』(The Only Path to Tomorrow)というエッセイが、「リーダーズ・ダイジェスト」(Reader's Digest)誌の1944年1月号に発表された[49]。
ハリウッドで働く間、ランドは、自由市場を擁護し共産主義に反対する政治活動への関与を深めた。ハリウッドの反共産主義グループ「アメリカの理想を守るための映画同盟」 (Motion Picture Alliance for the Preservation of American Ideals) と関係を持つようになり、このグループの立場からの記事を複数書いた。反共産主義アメリカ作家協会 (the anti-Communist American Writers Association) の一員にもなった[50]。イザベル・パターソンがランド宅を訪れ、カリフォルニアに住むランドの盟友たちに会った時、パターソンは、ランドの大切な盟友たちに向かって無礼な(とランドが見なす)発言をした。パターソンとランドの不和はこの発言で決定的となった[51]。1947年、第二次赤狩りの間、ランドはアメリカ合衆国議会下院の非米活動委員会 (Un-American Activities Committee) で「友好的証人」(friendly witness) として証言台に立った。ランドは、ソ連での彼女の個人的経験と、映画「Song of Russia」(1944年)で描かれたソ連像がかけ離れていることを証言した[52]。ランドはこの映画が、ソ連での生活を実際よりもはるかに良好かつ幸福に描くことで、ソ連の状況を著しく歪めていると主張した[53]。ランドはまた、当時評判だった映画「我等の生涯の最良の年」(The Best Years of Our Lives、1946年)がビジネス界をネガティブに描いている(と彼女が解釈した)点の批判も希望したが、この点についての証言は許可されなかった[54]。聴聞の後、調査の有効性をどう思うか尋ねられたランドは、このプロセスは「無駄骨」(futile) だったと答えている[55]。
『水源』(The Fountainhead)の映画版(邦題「摩天楼」)は、数回の遅延の後、1949年に公開された。ランド自身による脚本をほぼそのまま使用した映画だったが、ランドはこの映画を「初めから終わりまで嫌い」で、編集、演技などさまざまな要素への不満を述べた[56]。
『肩をすくめるアトラス』とオブジェクティビズム
『水源』(The Fountainhead)出版後、ランドは数年にわたり読者から多数の手紙を受け取った。読者の中には、この小説から深い影響を受けた者もいた。1951年、ランドはロサンゼルスからニューヨークに転居した。ニューヨークでランドは、こうした崇拝者たちのグループを自分のそばに集めた。このグループは、社会主義国家における集産主義組織を意味する「The Collective」(集団)を(冗談で)自称した。このグループには、後の連邦準備制度理事会議長アラン・グリーンスパン (Alan Greenspan) や、若い心理学学生ネイサン・ブルメンタル(Nathan Blumenthal、後のナサニエル・ブランデンNathaniel Branden)とその妻バーバラ (Barbara) や、バーバラの従兄弟レナード・ピーコフもいた。当初このグループは、週末にランドのアパートを訪れ思想的な議論をする友人同士の、形式張らない集まりだった。その後ランドは、新しい小説『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)の原稿を書きながら、この小説の草案をこのグループに読ませるようになった。1954年には、年下のナサニエル・ブランデンとの親密な関係が愛人関係に発展した。この関係はランドとプランデンそれぞれの配偶者の同意に基づくものだった[57]。
1957年に出版された『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)はランドの最高傑作になった[58]。ランドはこの小説のテーマを「人間存在における精神の役割と、そこから導き出される新しい道徳思想、すなわち合理的利己の道徳の提示」と説明している[59]。『肩をすくめるアトラス』では、ランドのオブジェクティビズム思想の中心テーゼが唱道され、人間による達成に関する彼女の考えが表現されている。この小説では、ディストピア化したアメリカ合衆国で、トップレベルの創造性を持つ実業家、科学者、芸術家がストライキを決行し、山岳地の奥に密かに独立自由経済社会を建設する。この小説の主人公でストライキの指導者であるジョン・ゴールトは、このストライキを、国家の富と達成に最も貢献をしている人々の精神を引き揚げることにより、「世界のモーターを止める」ことと述べる。この架空のストライキを通じランドが表現しようとしたのは、合理的で生産的な人々の努力がなければ、経済は崩壊し社会は瓦解するということである。『肩をすくめるアトラス』は恋愛小説[60][61]、ミステリー、およびSF[62]の要素を含んでいる。主人公ジョン・ゴールトが行う長大な演説は、ランドの小説作品の中で、彼女のオブジェクティビズム思想を最も詳しく述べたものである。
多くの否定的なレビューにもかかわらず、『肩をすくめるアトラス』は国際的ベストセラーになった。ジャーナリストのマイク・ウォレス (Mike Wallace) によるインタビューの中で、ランドは自分自身を「存命する中で最も創造的な思想家」と表現している[63]。この小説を完成後、ランドは深刻な抑鬱症に陥った[64]。『肩をすくめるアトラス』はランドの最後のフィクション作品であり、彼女の人生の転換点であった。この作品をもってランドの小説家としてのキャリアは終わり、大衆的思想家としての役割が始まった[65]。
1958年、ナサニエル・ブランデンは、ランドの思想の普及を目的とする「ナサニエル・ブランデン・レクチャーズ」(Nathaniel Branden Lectures) を設立した。「ナサニエル・ブランデン・レクチャーズ」は、後に「NBI: ナサニエル・ブランデン研究所」 (Nathaniel Branden Institute) として法人化された。NBIのメンバーは、同研究所の講演会で講演し、ランドが編集する定期刊行誌に論文を寄稿した。ランドは後にこれらの論文のいくつかを書籍化して出版した。NBIの文化は知的馴れ合いであり、ランドへの阿諛追従であったと批判する者もいる。NBIの批判者には、NBIの元研究生や、ブランデン自身が含まれる。NBIやオブジェクティビズム運動自体が、カルトもしくは宗教であると述べる者もいる[66]。ランドは、文学や音楽から性、 髭に至るまで、幅広いトピックについて意見を表明した。ランドの追従者の中には、彼女の好みを模倣したり、彼女の小説の登場人物に合う服を着たり、彼女と同じような家具を買ったりする者もいた[67]。NBIの研究生の多くは、ランドの眼鏡に適わなかった[68]。ランドは研究生たちを厳格な基準に従わせた。自分に同意しない者には、冷たく対応したり、怒りを向けたりすることもあった[69]。ただし、かつてのNBI研究生たちの中には、これらの行動は誇張して伝えられており、問題があったのは、ニューヨークでランドと特に親しかった追従者との関係に限られていたと信じる者もいる[70]。
後半生
1960年代から1970年代にかけ、ランドはオブジェクティビズム思想の発展と普及のため、ノンフィクション作品の執筆や学生向けの講演を精力的に行った。ランドが講演した大学には、イェール大学、プリンストン大学、コロンビア大学[71]、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学[72]などが含まれる。1963年にはルイス & クラーク大学から名誉博士号を授与された[73]。フォード・ホール・フォーラム (Ford Hall Forum) で毎年講演するようにもなり、講演後は聴衆からの質問に応じた[74]。これらの講演や質疑応答で、ランドは当時の政治的・社会的問題について、しばしば議論の的になる立場を取った。たとえばランドは、人工妊娠中絶の権利を支持し[75]、ベトナム戦争と徴兵に反対し(ただし多くの徴兵忌避者を「クズ」(bum) と糾弾している)[76]、1973年の第四次中東戦争でパレスティナおよびアラブと闘うイスラエルを「野蛮人と闘う文明人」[77]と呼んで支持し、アメリカに入植したヨーロッパ人にはアメリカ先住民から土地を奪う権利があったと述べ[78]、同性愛は「不道徳」(immoral) で「胸が悪くなる」(disgusting) と述べながら、同性愛を規制するすべての法律の廃止を唱えた[79]。また、米国大統領選挙において何人かの共和党候補者を支持した。中でも最も強く支持したのは1964年の大統領選に出馬したバリー・ゴールドウォーターであった。ランドはゴールドウォーターの立候補を、刊行誌「ザ・オブジェクティビスト・ニューズレター」(The Objectivist Newsletter)で数回にわたり後押ししている[80]。
1964年、ナサニエル・ブランデンは若い女優パトリシア・スコット (Patrecia Scott) と愛人関係になった(後にブランデンは彼女と結婚した)。ナサニエル・ブランデンと妻バーバラはこの愛人関係をランドに隠し続けた。1968年にランドがこの愛人関係を知ったとき、ブランデンとの愛人関係は既に終わっていたが[81]、ランドはブランデンおよびバーバラと絶縁した。これによりNBIは終焉を迎えた[82]。ランドは「ザ・オブジェクティビスト」(The Objectivist)誌でナサニエル・ブランデンとの絶縁を発表した。絶縁の理由は、ナサニエル・ブランデンの不誠実、およびその他の「彼の個人的生活における非合理的な行動」[83]であるとした。ブランデンは後にあるインタビューで、「アイン・ランドの神秘性を永続化したこと」および「オブジェクティビズム運動に浸透したあの恐ろしい知的抑圧の雰囲気に寄与したこと」を、「すべてのオブジェクティビズム学徒」に対し謝罪している[84]。その後数年間で、ランドは複数の盟友と交際を絶っている[85]。
1974年、ランドは肺ガンの手術を受けた。ランドは数十年にわたるヘビー・スモーカーだった[86]。1976年にはニューズ・レターの執筆から退いた。またこの年、(社会保障および公的医療保障には当初反対していたにもかかわらず)周囲の説得に応じ、彼女の弁護士の所属事務所のコンサルタントであるエヴァ・プライアーが、社会保障および公的医療保障の利用を申請することを許した[87]。1970年代末にはオブジェクティビズム運動におけるランドの活動は徐々に沈滞し、特に1979年11月9日に夫が死去してからは沈滞が顕著になった[88]。ランドが最後に取り組んだプロジェクトの一つに『肩をすくめるアトラス』のテレビ化があったが、これは未完に終わった[89]。
1982年3月6日、ランドはニューヨーク市の自宅で心不全により死去した[90]。遺体はニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された[91]。ランドの葬儀にはアラン・グリーンスパンを含む複数の著名追従者が参列した。ランドの柩のそばには、ドルマークをかたどった高さ180センチのフラワーアレンジメントが添えられた[92]。遺言状で、ランドはレナード・ピーコフを遺産相続人に指名していた[93]。
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