アイルランド総督 (ロード・レフテナント)
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重要性
総督職は、徐々にその重要性を失って形骸化し、セント・ジェームズ宮殿 (Court of St. James's) や ウェストミンスターといった政治の中枢から外されたグレートブリテンの政治家を、体よく追い出す方便に使われるようになっていった。また、別の例では、総督職への就任が、その後の出世には躓き石となった。総督職を経験したハーティントン卿とポートランド公は、それぞれ1756年と1783年にグレートブリテン首相となり、ダブリン城からダウニング街10番地へとたどり着いた。
19世紀半ばには、総督職はもはや強力な政治的実権を失っており、アイルランドの行政を統治するのではなく、君臨するだけの、象徴的な疑似君主に過ぎなくなっていた。実権を握るようになったのはアイルランド担当次官であり、しばしば連合王国内閣にも、総督ではなく担当次官が、参画するようになった。
公邸
アイルランド総督の公邸は、ダブリン城内の副王公邸 (the Viceregal Apartments) であり、副王の宮廷もここが根拠地となっていた。アイルランド総督たち(ロード・レフテナントやロード・デピュティ)が夏の季節や、その他の機会に使用した公邸としては、ほかにもキンサレー (Kinsealey) のアベヴィル (Abbeville)、火災で被害を受けたダブリン城を建て直している期間に総督が移り住んだものの幽霊屋敷だとして退去したというチャペリゾッド・ハウス (Chapelizod House)、リークスリップ (Leixlip) のリークスリップ城、セルブリッジ (Celbridge) のセント・ウォルスタンズ (St. Wolstan's) があった[4]。ジェラルドの名をもち、いずれもアイルランド出身のロード・デピュティであった第8代キルデア伯爵 (8th Earl of Kildare) と第9代キルデア伯爵 (9th Earl of Kildare) は、キルデア県メイヌースにあった自らの城に居住していた。エセックス卿 (Lord Essex) は、ミース県ナヴァン近郊で、ミース教区 (Diocese of Meath) の主教の住まいであるアードブラカン・ハウス (Ardbraccan House) にも近い、ダラムスタウン城 (Durhamstown Castle) を所有していた。
総督がアイルランドに常駐するという方針の決定は、総督公邸のあり方にも変化を強いることになった。副王宮廷のみならず、副王一家が常住し、枢密院など様々な政府機関の事務所を備えるには、ダブリン城は十分な環境とはいえなくなった。1781年に、グレートブリテン政府はフェニックス・パークの旧御料林管理人住宅を買い上げ、総督公邸とした。この建物は建て直されて、副王宿舎 (the Viceregal Lodge) と名付けられた。しかし、1820年代に大規模な改修が行なわれるまで、この宿舎が副王によって定期的に使用されることはなかった[4]。この建物は現在では「アーレス・アン・ウフタラーン (Áras an Uachtaráin)」と呼ばれ、アイルランド共和国大統領官邸となっている。
19世紀半ばまで、総督がダブリン城に滞在するのは、1月初旬から3月17日の聖パトリックの祝日まで、舞踏会や交流会などの社交行事が盛んに行なわれるアイルランドにおける社交の季節 (Irish Social Season) だけであった。
総督に対するアイルランド人の態度
イギリスによるアイルランド統治そのものと同じように、総督職はナショナリスト (nationalist) には嫌われていたが、ユニオニスト (unionist) たちからは、程度の違いはいろいろあったものの、おしなべて支持されていた。総督たちの中には、個人的な才覚によって、ナショナリストたちからも人気を得た例もあった。19世紀のはじめから、総督職を廃止し、「アイルランド担当国務大臣 (Secretary of State for Ireland)」の設置を求める声が頻繁に起きるようになった。一度は、こうした制度改革に向けた法案が時の政権から提出されたこともあったが、結局のところ総督職は、(北アイルランドを除く)アイルランドの大部分についてイギリスの統治が終わるまで、存続し続けた。
アイルランドのナショナリストたちは、19世紀を通して、また20世紀はじめにおいて、アイルランドの自治を求めて運動を展開した。ダニエル・オコンネル (Daniel O'Connell) は、連合法 (1800年)の廃止とアイルランド王国の再建を求めたが、チャールズ・スチュワート・パーネルなど、その後のナショナリストたちは、より穏健な路線を採り、グレートブリテン及びアイルランド連合王国の枠組の中での自治 (home rule) を求めた。しかし、いずれにしても、アイルランドの統治機構再編に際し、総督職の廃止は当然のこととされていた。
4次に及んだアイルランド自治法案の最後のものとなったアイルランド統治法 (1920年) は、総督職の存続を組み込んでいた。統治法はアイルランドを北アイルランドと南アイルランドに分割し、連合王国内において統治権限を委譲された自治政体とした。南北アイルランドを結合させる機構として、やがて全アイルランドの議会として機能するようになることが期待されていたアイルランド評議会 (Council of Ireland) とともに、両政体の名目的な首長としてそれぞれの首相を任命し、それぞれの議会を解散させる役割を担う総督が置かれた。しかし実際には、北アイルランドは統治法にもとづいて機能したものの、南アイルランドは間もなくアイルランド自由国に置き換わった。総督がもつものとされた権限は、法改正により、新設された北アイルランド総督 (Governor of Northern Ireland) が代わって行なうことになったが、アイルランド自由国において王権を代表する役割は、新設されたアイルランド自由国総督 (Governor-General of the Irish Free State) が担うことになった。その結果、アイルランド総督(ロード・レフテナント)は廃止されるに至った。
伝統的に代々のアイルランド総督は、ダブリン城内のチャペル・ロイヤル (Chapel Royal) のどこかに、自身の紋章を残しており、ステンドグラスの窓に組み込まれたものや、椅子に彫刻されたものなどがある。ダブリンの人々によれば、最後の総督となったダーウェントのフィッツアラン卿の紋章が、最後まで残っていたスペースを占めているのだという。
注釈
- ^ Lieutenantは後置修飾語の扱いであり、複数形は Lords Lieutenant of Ireland となる。
- ^ 厳密には、1651年から1659年までのイングランド共和国の時期を除く。
- ^ 伯爵及び子爵の陛爵例に限っても、リズバーン伯爵、リゴニア伯爵、クランウィリアム伯爵、ヌージェント伯爵、グランドア伯爵、さらにアルドボロ子爵、カーロー子爵、サゼル子爵、ド・ヴィッシー子爵、エニスキレン子爵、クラーモント子爵、オーウェル子爵といった多さであった。なお、新規叙爵男爵は、クリフデン子爵、クロンモント男爵、ド・モンタルト男爵、ゴスフォード男爵、ケンジントン男爵、ルーカン男爵、マッカートニー男爵、マクドナルド男爵、マアス男爵、ニューボロ男爵、ニューヘイヴン男爵、オングリー男爵、ダナラル男爵、シュルダム男爵、テンプルタウン男爵、リトルトン男爵の計18例であった。[1]
- ^ 一般的に「Lord Justice」とは、「裁判官」を意味する。
出典
- ^ “No.11679”. The Gazett 29 June 1776. 2019年12月22日閲覧。
- ^ Barker, George Fisher Russell (1890). Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). 24. London: Smith, Elder & Co. pp. 325–326. . In
- ^ “No.11740”. The Gazette 28 January 1777. 2019年12月22日閲覧。
- ^ a b c Joseph Robins, '"Champagne and silver Buckles: The Viceregal Court at Dublin Castle 1700–1922 p.66.
- ^ Joseph Robins, '"Champagne and silver Buckles: The Viceregal Court at Dublin Castle 1700–1922 p.56.
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