アイルランドの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/10 19:46 UTC 版)
自由国と共和国(1922年 - 現在)
アイルランドを分断することになった条約が批准されると、アイルランド国内のナショナリストたちは条約賛成派と条約反対派に二分された。1922年から1923年にかけて両者の間にはアイルランド内戦が発生し多くの犠牲者を出した。この民族主義者間の分断は現在のアイルランドの政治にも影響を与えており、保守派はフィアナ・フォイル(共和党)とフィナ・ゲール(統一アイルランド党)に分裂している。しかし経済恐慌によりヨーロッパの多くの国で政治的な混乱が発生した際にもアイルランド自由国では民主主義が揺らぐことはなかった。内戦で多くの同胞を失ったエイモン・デ・ヴァレラの率いるフィオナ・フォイルは1932年の総選挙に勝利し政権を握った。このころのアイルランドは国家破産は免れたものの失業率と移民数は高い水準を維持していた。一方カトリック教会は政府、社会に対し影響力を保持し続けた。
1937年にはアイルランド憲法が公布され、国名をエールへ変更した。
アイルランドは第二次世界大戦の間イギリスやアメリカの再三にわたる連合国としての参戦要請を拒否して中立を維持したが、数万人の義勇兵が英軍に参加する一方でエオイン・オ・デュフィ率いる青シャツ隊による親枢軸派も盛んでスペイン内戦ではフランコらの反乱軍に義勇兵として参加している。大戦が延びるにつれ周辺国との貿易の停滞により、食料や燃料の供給事情は年々悪化していった。最近の研究によるとアイルランドの連合国への関与は従来思われていたよりも大きく、D-デイの決行を決定付けた天候情報はアイルランドから提供されたと判明している。一方でダブリンには終戦時まで日本大使館が設置され、中立国公館としての立場で、在欧邦人の支援を行った。
1949年には共和制国家アイルランドの成立が宣言され、イギリス連邦から離脱した。
1960年代にはアイルランドはショーン・リーマス首相とT.K. Whitakerの下で経済体制の転換を図った。
1968年には教育相ブライアン・レニハンにより高等教育が無料化された。
1960年代初期から政府は欧州経済共同体への参加を希望したが、イギリス経済への過度の依存を懸念され、アイルランドが加盟を果たしたのはイギリスの加盟が実現した1973年のことであった。
1970年代の不況はジャック・リンチ首相の経済政策のミスによるものと見られている。しかしその後の経済建て直しとアメリカ、ヨーロッパ各国からの投資の増大により1990年代のアイルランド経済は世界でも有数の成長を記録した。アイルランドの経済成長はケルトの虎と称されるようになり、2000年代に欧州連合への加盟を果たした旧東側諸国の経済成長モデルとして注目された。
従来カトリック教会の影響により保守的傾向が強かったアイルランド社会だが、リベラルな傾向も見られるようになっている。離婚が合法化され、ホモセクシャルが犯罪ではなくなった。最高裁の判決により限定的な状況における避妊も認められた。カトリック教会内部で発生した性的、経済的なスキャンダルにより宗教的権威が低下しており、毎週末のミサへの参加者は半数に減少した。
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