アイヌ料理 アイヌ料理の概要

アイヌ料理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 04:18 UTC 版)

概説

アイヌ民族の食文化は漁撈狩猟で得られた鹿、山野の採集で得られたオオウバユリ鱗茎ドングリ山菜で栽培された雑穀ジャガイモ[1][2]などを素材とする。特徴としては、油脂をふんだんに使った味付けが挙げられる[3][4]

調味料はのほか、や獣の脂肪タライワシニシンサメアザラシエゾシカヒグマなどからとる)を用いた[5]。近世以降は味噌も使用された[6]。また、コンブや動物の骨、魚の焼き干しを使って出汁をとる文化をもっていた[7]香辛料としては、ギョウジャニンニクキハダの実、タネツケバナを利用した[4]

食材の調達

狩猟

ユㇰ(エゾシカ)

狩猟は盛夏〜晩夏を除いて1年の大半の時期に行われ、ユㇰ(yuk エゾシカ)、キムンカムイ(kimun kamuy ヒグマ)、イソポカムイ(isopo kamuy ウサギ)、モユㇰ(moyuk エゾタヌキ)、チロンヌㇷ゚(cironnup キタキツネ)、ホイヌ(hoinu テン)、ルオㇷ゚(ruop シマリス)などの、フミルイ(humiruy エゾライチョウ)、クスイェㇷ゚(kusuyep キジバト)、コペチャ(kopeca マガモ)、パラケウ(parkew カケス)、アマメチリ(amameciri スズメ)などの鳥類を狩った[8]

このうちではシカが最も主要な獲物であった[9]。往時の北海道には想像を絶するほどの数のシカが生息しており[note 1]、「鍋を火にかけてから狩りに行く」という言葉もあったほど簡単に得ることが出来た[10]。クマやタヌキなどの「狩猟の対象となる動物」をアイヌは「カムイ(神)が人間のために毛皮と肉を土産に持ち、この世に現れた姿」と解釈していたが、シカに関しては「天空にユㇰ(鹿)を司る神『ユㇰアッテカムイ』(yuk atte kamuy)がいて、大きな袋から人間のために投げ下ろしている」と理解し、それ自体に神格は存在しないものとしていた。あまりの数の多さゆえ、ありがたみが薄れたものらしい[11][note 2]。北海道東部・本別町足寄町白糠町の境にまたがる標高745mのウコタキヌプリは土地のアイヌからユㇰランケヌプリ(鹿が下る山)と呼ばれ、山上で雷鳴が轟く際は天から神が鹿の入った袋を投げおろしているとの伝承があった。周辺の住民は、この山にイナウを捧げて猟運を祈った[12]

イナウで飾られたヒグマの頭骨。人間に狩られることで毛皮と肉の恵みを齎すヒグマは、キムンカムイ(山野の神)として尊崇された。神が天界で蘇ることを願い、鼻先の部分は皮をはぎ取らない[13]

クマは春先に冬眠から覚めたところを狙い、こもる穴の入り口を塞いでから槍で突く。夏場には、を塗った仕掛けアマッポ」を獣道に仕掛けて捕らえる。仕掛け弓から発射される矢にはスㇽク(surku トリカブトの根)の毒が塗られているが、矢が刺さった箇所の肉を握りこぶしの量ほど抉り取って捨てれば、他は食べることができた [14]。アイヌがキムンカムイ(山の神)として尊崇する熊の肉は、他の獣肉とは別格とされた。アイヌ語で肉は「カㇺ」だが、熊肉に限っては「カムイハル」(神の食べ物)と呼ぶ。調理の際は「女に調理させない」「他の獣肉と一緒に煮ない」「煮る際、鍋に蓋をしない」などの戒律が守られる。中華料理の「熊の掌」のように、ウレハル(足裏の肉)は特に珍味とされた[15]

シカは毒矢猟の外、崖から追い落として捕らえることも行われた[16]

漁撈

クマ(kuma 乾し棚)で干物を作る

海に丸木舟を漕ぎ出し、離頭でタンヌㇷ゚(tannup イルカ)、エタㇱペ(etaspe トド)、トゥカㇻ(tukar アザラシ)、ウネウ(unew オットセイ)などの海獣やシリカㇷ゚(sirkap メカジキ)、キナポ(kinapo マンボウ)、サメ(same)などの大型魚類を捕らえ、網や釣竿でヘロキ(heroki ニシン)、サマンペ(samampe カレイ)、イワシ(iwasi)、エレクㇱ(erekus タラ)、チマカニ(cimakani カジカ)、コマイ(komay)、トキカㇻ(tokikar チカ)、ウッタㇷ゚(uttap カスベ)などの小型魚類をとった[8]

アザラシ。樺太アイヌはその脂肪を料理に多用した。

巨大なフンペ(humpe )は丸木舟で仕留めることが難しいため、海岸に漂着する「寄り鯨」は大変な自然の恵みだった。白老から日高支庁にかけての地域には、盲目の老婆が寄り鯨を見つけて村人と喜びつつ分け合う様を表現した寸劇「鯨踊り」が伝わる[17] ほか、北海道各地に伝説がある。

  • 沖に横たわる大きな岩を「寄り鯨」だと思い込み、焚火をしながら浜に打ち上げられるのを待っていた。しかし一向に打ち上げられるはずも無いまま薪も乏しくなり、大切なイタンキ(itanki 椀)までも火にくべてしまい、やがてそのまま全員が餓死してしまった。(室蘭市イタンキ浜の地名伝承[18]
  • 砦に立てこもった敵をおびき出そうとして、一計を思いついた。海辺に砂を盛り上げ、大きな鯨の形を作っておく。それのあちこちに海藻や魚を差し込んでおけば、鳥が寄り付いて騒ぎ、まるで「寄り鯨」が打ち上げられたよう。案の定、敵は騙されて砦から飛び出す。そこを迷わず討ち取った。(浦幌町厚内の砂鯨伝説[19]

上記の例を見ても、寄り鯨の恵みが窺える。ただ、波の静かな噴火湾では古くからトリカブトの毒を塗った銛による捕鯨が行われていた[20]

沿岸部のコタン(kotan)は海の恵みで潤っていたが、やがて場所請負制によって住民は和人商人が経営する漁場に隷属されることとなり、困窮の道を歩む例が多かった[21][22]

川漁では釣り漁、「ウライ」(uray )、」「ラオマㇷ゚」(raomap )などの方法でカムイチェㇷ゚(kamuycep サケ)、イチャニウ(icaniw マス)、スプン(supun ウグイ)、トゥクシㇱ(tuksis アメマス)、チライ(ciray イトウ)、ユペ(yupe チョウザメ)、スサㇺ(susam シシャモ)、イチャンコッ(icankot ヤマメ)、チポロケソ(ciporkeso イワナ)、ランパラ(rampara フナ)などの魚類を捕獲した[8]

北海道固有のイワナの一種・オショロコマ

川の漁で得られる恵みでは、秋になれば川を遡るサケ(鮭)が最も重要な資源だった[23]。アイヌは鮭を「カムイチェㇷ゚」(神の魚)、あるいは「シペ」(本来の食物)と呼び、漁期が近づけば天空の天の川を見上げて「天の石狩川」「天の天塩川」など、その地一番の大河になぞらえ、どこが一番濃く見えるかで漁の豊凶を占った[24]白老登別では春先にコブシが下向きの花を付け、漁期に頭がハゲた「パㇱクㇽ」(カラス)を見れば、豊漁の兆しとして喜んだ[25]。豊漁祈願として川の神を祀る祭礼「ペッカムイノミ」(川神への祈祷)を催し、鮭が登りやすいように川の周辺から苦い樹液の樹木を取り除く[25]。やがて最初に上って来た鮭を「マレㇷ゚」(回転式の銛)で丁寧に捕獲し、それを神に捧げる「アシリチェップノミ」(asircepnomi 新たなる鮭の祈祷)を行い、「イナウ」(inaw)と「トノト」(tonoto どぶろく)と共にアペフチ(火の女神)に捧げて祈った[23][25]

鮭漁に用いる銛「マレㇰ」

鮭は回転式の「マレㇰ」で突くか、「ウライ」()で捕らえ、水量のあるところでは2艘の丸木舟の間に網を張って漕ぎ、鮭を追い込む「ヤーシ漁」(網漁)を用いた[25]。天空のW字型をしたカシオペヤ座は2艘の舟と網に似ていることから、アイヌは「ヤーシ・ノカ」(網曳き形の星)と呼ぶ[26]。暴れる鮭はそれ専用に作られた神聖な棍棒「イサパキㇰニ」(isapakikni)で打って止めをさす。これには活け締めと同等の効果があるとされる[27]。鎌などで引っ掛けることは神を冒涜するものとされた。漁期には物忌みが守られ、生理中の女性は川に近づくことを許されなかった[25]。サケは河口のコタンで独り占めはせず、上流部へも行き渡る様に節度を持って獲る。そしてチポㇿ(筋子)やウㇷ゚(白子)を持った美味い鮭を狙うのではなく、産卵を終えて弱った鮭「ホッチャレ」を重点的に獲った[8]。これは翌年以降の鮭の個体数を保つためという理由もあったが、脂肪が抜けきった「ホッチャレ」のほうが保存に向くという事情も大きい。

白老町アイヌ民族博物館での、サッチェㇷ゚(乾し鮭)作り

こうして獲られた鮭は、一部を当座の食用に回す他は全て保存食に加工した。腹を割いて内臓を取り除き、戸外の物干し棚にかけて乾燥(干物)させる。屋内の囲炉裏の上に吊り下げて燻製にする。あるいはの中に埋めて凍らせる[28]。乾燥サケを「サッ・チェㇷ゚」(satcep 乾いた魚)、もしくは「アタッ」(atat)と呼ぶ。食べる際は水で戻し、魚油を加えて旨味を足しながら煮込む[29]。 凍らせた鮭が、現在の北海道で郷土料理として有名な「ルイベ」(ruype)である。食べる際は「マキリ」(makiri 小刀)で大まかに切り分け、ヤナギの串に刺してから火にあぶって解かし、少量の塩で味をつけて食べる[6]は交易でのみ得られる貴重品なので、保存料として大量には使えなかった。アイヌの伝統的な食文化に、塩引き鮭、新巻鮭は存在しない[6]

北海道各地に「熊牛」「熊石」などの地名があるが、これらはアイヌ語の「クマ・ウㇱ」(干場があるところ)に漢字をあてたものである。往時は豊漁の地で、住民が干魚作りにいそしんでいた様が窺える[10]

海浜採集でホタテアサリホッキナマココンブワカメなど、魚介類海藻類が採集された。特に昆布やナマコは長崎貿易で日本側が俵物として清国に輸出する貴重な物産であり、和人との交易品として重要だった。しかし17世紀半ば以降の交易は不平等なもので、乾し鮭100尾が米一升、背負いきれないほどの昆布が冷や飯一椀、という例すらあった[21]

山菜・果実採集

ギョウジャニンニクの芽生え
汁物の具として好まれるニリンソウ。葉の形は毒草のトリカブトと似ているため、採集には注意を要する

狩りや川漁が男性の大切な仕事ならば、山野での山菜、果実採集はアットゥシ織り、子育て、農業とともに女性の大切な仕事だった。雪が解けて木の芽が芽吹くや、女性は「サラニㇷ゚」(saranip シナノキの繊維で編んだ袋)と「メノコマキリ」(menoko makiri 女性の小刀)、「イタニ」(掘り棒)、「シッタㇷ゚」(鹿の角で作った小型の鶴嘴)を手に山野へ繰り出した[30]

春一番でエハ(eha ヤブマメの実)、プクサ(pukusa ギョウジャニンニク)、オハウキナ(ohaw kina ニリンソウ)、アンチャミ(ancami アザミ)、ピットㇰ(pittok オオハナウド)、ノヤ(noya ヨモギ)、マカヨ(makayo フキノトウ)、ソㇿマ(sorma クサソテツ)、シケㇾペキナ(sikerpe kina ヒメザゼンソウ)、コㇽコニ(korkoni アキタブキ)、メンピロ(mempiro ノビルの鱗茎)、ムㇰ(muk バアソブの根)、トㇷ゚ムㇰ(topmuk ツルニンジンの根)、プイ(pui エゾノリュウキンカの根)を採集し、初夏になれば保存食として重要なトゥレプ(turep オオウバユリの鱗茎)を大量に採集する。

マウ(ハマナスの実)。アイヌ語では旧暦7月をモマウタチュㇷ゚(少しばかりハマナスの実を採る月)、8月をシマウタチュㇷ゚(本格的にハマナスの実を取る月)と呼ぶ[31]
アイヌ語ではユクカルシ、カムイカルシと呼ばれるマイタケ。和人との交易品として重要なので、日本語名・マイタケも早くから広まった。

秋に至れば木の実がなる。マウ(maw ハマナスの実)、ペロ(pero ナラになるドングリ)やニセウ(nisew カシワになるドングリ)、ヤㇺ()、ネシコ(クルミ)、ハッ(hat ヤマブドウの実)、クッチ(kutci サルナシの実)などである[8]。さらにカルㇱ(karus キノコ)の類も重要な食料だった。特にユㇰカルㇱ(yuk karus マイタケ)は味も良く、和人との交易に出せば優位な取引が出来る[32]。そのため発見した際は、その周りで踊ったのちにオンカミ(onkami 拝礼)しながら採ったという[33]

ペカンペ(菱)の大産地として有名な塘路湖。菱の実の争奪戦が行われたとの伝説も伝わる。

湖沼の沿岸に営まれるコタン(kotan)では、に似た味のペカンペ(pekampe の実)も重要な産物である。秋になると湖上になる実は、ラタㇱケㇷ゚(rataskep 後述、ここでは煮物)の具、神への供物となる上等な食物である。特に釧路川流域の塘路湖はペカンペの大産地として知られ、沿岸にはその恵みゆえに戸数の多いコタンが存在した。昭和中期まで、この地では秋になるとペカンペの恵みに感謝する神事ペカンペカムイノミ(pekampe kamuy nomi)が厳かに執り行われ、これが済んでから収穫を行っていた。狩猟漁撈民族であるアイヌが植物のために行う神事は北海道でもここだけで、大変珍しい例である[34]。しかし豊富な菱の恵みは収奪の的でもあり、湖畔には「ペカンペの争奪戦に備えた」と伝えられるチャシ(砦)が存在する[35]

山菜類は茹で上げてアクを抜き、オハウ(ohaw 汁物)の具やラタㇱケㇷ゚(ここでは山菜と脂の和え物のような料理)とする。そして最も大事なのは、乾燥加工だった。一年の半分を雪に覆われる北海道では、冬季は必然的に青物不足をきたす。それは脚気壊血病に繋がり、死を招きかねない。そのため春から夏にかけ大量に採取された山菜類は、大鍋で茹で上げた後にゴザに広げて天日乾燥し、「ポロサラニㇷ゚」(poro saranip 大きな袋)に納めて「プー」(pu 高床倉庫)に保存した[25][36]

江戸時代後期、ロシアの侵攻に備えた沿岸警備のため北海道で越冬した和人は、米と味噌を中心とした和食に固執したため多くの者が脚気による浮腫に斃れた。1807年オホーツク海沿岸の斜里郡で発生した津軽藩士殉難事件では、在住の津軽藩士100余名のうち72名が数か月のうちに死亡している。しかしアイヌは乾燥保存した植物や冷凍保存した獣肉、魚肉を食べてビタミンを摂取し、過酷な冬を乗り切っていた。

ドングリ類は茹でてアクを抜き、シト(sito 団子)やラタㇱケㇷ゚(ここでは和え物)に加工する[37]

スズランの実。食用にならないため、チロンヌㇷ゚・フレㇷ゚(狐の苺)と呼ばれる。

山菜類の中で最も重要なのはプクサ(ギョウジャニンニク)だった。冬枯れの中で一番に緑濃い茎を出し、食欲をそそるニンニク臭を漂わせる。それはまさに春の喜びであり、女性達は山野に繰り出して採集する。採集の際、問題となるのがセタプクサ(seta pukusa スズラン)の存在である。スズランの芽生えはギョウジャニンニクと酷似しているが、毒草である。したがってアイヌ民族はスズランの芽生えをセタ・プクサ(犬のプクサ)、スズランの実をチロンヌㇷ゚・フレㇷ゚()と呼んで忌み嫌う[38]。毒草をより分けながら採集されたプクサは茹で上げ、獣脂や塩で和えて食べたり汁の実にする。炊いた際の湯気には薬効があるとされ、風邪の際は蒸気を浴びた[39]。 さらに特有のニンニク臭は魔物を寄せ付けないとされ、天然痘などの伝染病が流行した際は、村の入り口に掲げ、病魔の退散を願った[40]。西洋の吸血鬼除けにニンニクを使う風習と、相通じるものがある。日本語の北海道方言でプクサを「アイヌネギ」というが、その名はまさに「アイヌ民族の」から来ているのである[41]

日本本土ではほとんど利用されないタネツケバナは、鮭と相性が良いとしてシペキナ(鮭の草)の名で鮭料理の香辛料にされた[42]。北海道弁では「アイヌ山葵」と呼ばれる[43]

そして、トゥレㇷ゚(オオウバユリ)の球根、そしてそれから抽出される澱粉である。これに関しては後述する。

農耕

メンクㇽ(黍)
木製の踏み鋤で耕す。1937年絵はがき用に再現して撮影された写真。
穀物の精白、製粉に使われた臼。上にはムイ()が伏せられている。(北海道博物館
穀物を収める高床式倉庫「プー」。明治時代初期に北海道を訪れたイギリス人の旅行家・イザベラ・バードのスケッチより。

アイヌ時代の前段階である10世紀頃の擦文時代、さらにそれ以前の続縄文時代から、既に北海道でも農耕が行われていた。札幌市サクシュコトニ川流域や、浦幌町十勝太で発見された11世紀の擦文遺跡からはヒエアワキビなどの雑穀類が出土し、コムギオオムギも確認されている[44]。さらにオホーツク海沿岸地方で同時期に栄えたオホーツク文化においても、アワ、ヒエ、オオムギの栽培が確認できる[45]。しかし12世紀から始まるアイヌ時代に至って、農耕は縮小する傾向にあった。これは寒冷な気候ゆえに農耕を諦めたというより、本州との交易用の干魚や毛皮調達のため、狩猟、漁撈に重きを置いた結果らしい[46]。さらに17世紀後半のシャクシャインの乱以降、アイヌとの交易を自身の都合よく進めたい松前藩は、アイヌが農業で自活しないよう、など鉄製農具の流通を制限していたことも理由として上げられる[47][48]

アイヌ語で農業を「トイタ」と呼ぶ。江戸時代後期の和人の紀行文や明治期の学者によるアイヌへの聞き取り調査によれば、農業は女の仕事であり、片手間に行われるようなものだった[49]。 まず川の沿岸で樹木や雑草の少ない土地を見定める。その地に所有権を主張する意味で十文字に組んだ木「クイタㇰペ」を立て、数日のうちに開墾・整地すれば、一年限りで土地の所有権が認められる[50]。開墾は樹木を伐採して焼き払う焼畑ではなく、「トイタイヨッペ」という刃を湾曲させたで草地をなぎ払い、土ごと刈り払って整地する簡単なものである[49]。一戸当たりの耕地面積は、安政年間のトカチ場所(十勝郡)やモンベツ場所(紋別郡)で30坪ほど、気候が温暖な日高地方でも4反ほどだった[51]

畑にはピヤパ()、メンクㇽ()、ムンチロ()、ソバ、アタネ(カブ)を蒔きつける。時代が下ってからは類、さらにジャガイモ南瓜など新大陸原産の作物も栽培されるようになった[52]。雑穀類にはアイヌ語名がついているが、マメ、ジャガイモ、南瓜はアイヌ語でもそれぞれ「マメ」「イモ、エモ」「カンボチャ」であり、時代が古くないことがわかる。記録によれば、寛政年間に最上徳内が蝦夷地に種芋を持ち込み、虻田郡のアイヌに栽培させたのが北海道におけるジャガイモ栽培の起源だという[1]。一方、千島や樺太のアイヌはジャガイモを「ヌチャトマ」(ロシアエゾエンゴサク[note 3])と呼ぶことから、アイヌ世界におけるジャガイモの伝播には北方(ロシア帝国)と南方(日本)、2つのルートが存在したことが窺える[1]

一年の耕作の中で豊作を祈る予祝芸能などの儀礼は行われないが、播種の際には種を野鳥のに浸してから蒔く。これは、野鳥の生命力にあやかって作物の生育を祈る信仰である。また、カッコウの巣、の抜け殻を保持していれば豊作に恵まれるとの伝承もあった[53]。実際の農作業ではを切らず、肥料下肥は言うまでも無く、腐葉土の類まで「大地を穢す」と見なされて施されなかった。除草もそれほど行われなかったため、秋の収穫量は大した物にはならなかった[53]

ただ、広大な北海道は地方によって気候にも差がある。温暖な道南日高地方はアイヌ文化圏において最も耕作が盛んな地域であり、幕末期にこの地を旅した松浦武四郎は著書『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』に鵡川の長が3年分の穀物を蓄え、穂別の長が年に35俵の雑穀を収穫し、厚真では一般の家庭でも稗や粟を年に10俵以上収穫していたことを記している[54]。さらに日高地方では畑の隅のを捨てる場所(ムルクタヌサ)が神聖な場所とされていたなど、農耕神の存在も窺える[47]。反対に寒冷で農耕に適さず、外界との交流も少ない道北の内陸に住むアイヌは、農業の基本すら知らなかったらしい。明治中期、役人がこの地域のアイヌに農業の普及を図り、「これを土に埋めれば美味しいものが増える」と、馬鈴薯(ジャガイモ)の種芋が詰まった俵を渡し、簡単な説明をして帰った。ところが秋になって再訪してみると、「シャモ(和人)に騙された!」と酷く機嫌が悪い。よく聞き合わせてみると、種芋は俵ごと土に埋めたので全て腐ってしまったという[55]

秋に至って稔った穀物は、「ピパ」と呼ばれるカワシンジュガイ貝殻から作った道具で一つ一つ穂首刈りにされる。この収穫法は、弥生時代本州などで石包丁を使って行われたの収穫と酷似している[49]。このようにして収穫された穀物は乾燥されたのち「プー」(高床式倉庫)に納められ、必要に応じて「ニス」()で精白、製粉し、サヨ()やシト(団子)、トノト(酒)に加工される。や馬鈴薯、南瓜は汁の具、ラタㇱケㇷ゚(後述)の材料となった。さらに馬鈴薯は冬の寒さを利用し、ポッチェイモという保存食品に加工した[49]

稲作は行われていなかったが、擦文時代から交易で入って来ていた。北海道各地で発見されている青森県五所川原産の須恵器は、米を移出する際の容器として使われた物と考えられている[56]。アイヌ語で米は「真の穀物」を意味する「シアマㇺ」の語で呼ばれ、大変に贅沢な食品とされた。江戸時代前期、徳川光圀が蝦夷地に遣わした快風丸の乗組員は、石狩川流域のアイヌとの交易で生鮭100匹に対し米1斗2升を差し出している。しかし時代が下がるにつれ交易はアイヌ側に不利となった。寛政年間には「蝦夷俵」(えぞだわら)と呼ばれる8升入りの俵1個を得るためにアイヌ側が出す物品は、干し鮭なら100尾、ニシンならば1200尾だった[57][58]

葱は江戸時代後期から栽培され、汁物や刺身の薬味に使われた。

時代が下るにつれて、和人の営む漁場を通じて野菜類も順次北海道に伝来した。安政3年(1856年)に北海道の日本海側から樺太、オホーツク海の沿岸地域を跋渉した探検家・松浦武四郎は、道南地方の沿岸は言うに及ばずアバシリ(網走郡)、トコロ(常呂郡)、アッケシ(厚岸郡)など気候寒冷なオホーツク海沿岸の地域に至るまで粟、稗など雑穀、さらに馬鈴薯、大根インゲンマメ胡瓜カボチャなど各種の作物が小規模ながら栽培されているさまを記している[59]。食用植物以外にも、繊維用のや、嗜好用の煙草が栽培されることもあった[60]

調理法

アペオイ(囲炉裏)で全ての調理が行われた。(北海道博物館

7世紀から12世紀頃にかけて栄えた擦文時代竪穴建物は家の中央部に囲炉裏が切られるとともに、壁際には煙道が備えられたが設けられ、煮炊きの一翼を担っていた。しかし12世紀頃を起源とするアイヌ文化時代に至るや、なぜか竈は廃れた[46]。この理由はよくわからない。が貴重な寒冷地ゆえ、その浪費を避けるために、家の中心の炉に暖房・照明・調理を集約したためかも知れない。

アイヌの住居チセ(cise)は、地面を踏み固めた上に藁やゴザ、毛皮を敷いて床とした平地建物で、その中央に木尻席を欠いた大きな囲炉裏が設けられていた。この囲炉裏に数個の「シュワッ」(自在鉤)が下げられ、そこに和人との交易で得られた大小の「シュー」()がかけられている。

マキリ(小刀)。山菜の採集や魚の処理、調理に使われる。

アイヌは和人やニヴフと同様生食を好み、素材の新鮮さを最大限に生かした刺身や肉・魚のたたきが大変に好まれていた[61]。加熱調理については、炉の直火と鍋のみで可能な調理法、すなわち「あぶる」「焼く」「煮る」「ゆでる」「の中での蒸し焼き」である[62]。場所請負制などでアイヌが和人の食文化に接する例もあったが、彼らが蒸篭など新たな調理具を取り入れることはなかった[63]

アイヌ文化ではオオウバユリの搾りかすから作った保存食品オントゥレㇷ゚(後述)やトノトどぶろく)を除いて発酵文化が発達しなかった。しかし和人から購入した味噌や日本酒醤油は自らの食文化に取り入れていた。近代以降は、アイヌ自身が味噌を醸造し、山菜の味噌和えなどに用いていた例もある[64]


  1. ^ 松浦武四郎は自著『東蝦夷日誌第四編』に、安政5年(1858年)夏に日高国での体験として、「静内新冠の分水嶺となる山中の草原を見下ろせば、三丁四方が赤く染まっていた。同行の土人(ママ)に尋ねたところ、彼はすぐさま弓矢を携えて駆け出していく。途端に赤い集まりは八方に四散した。赤い枯草の連なりと見たのは、鹿の群れだったのだ。その数は万に及ぶだろう」と書き残している。
  2. ^ 平成19年、厚真町のニタップナイ遺跡の発掘調査で、江戸時代初期の地層からエゾシカの頭骨が25頭分、雄と雌に分別した上で4-5段に積み上げられた状態で出土した。これは「送り儀礼」に関わる頭骨の安置場所と推定されることから、エゾシカにおける「神格」の有無は時代により変化したとの見方もある。(『アイヌ史を問い直す』p75-77より。)
  3. ^ エゾエンゴサク(アイヌ語名:トマ)は、アイヌが古くから食用としてきた山菜である。芋状にふくれた根を煮て、獣脂や魚油をつけて味わう。
  4. ^ アイヌ語では心臓を「サンペ」と呼ぶ。鮭の心臓はじめ内臓を入れた「サンペの汁物」が、「三平」の語源、三平汁の起源である、との説がある。
  5. ^ 『分類アイヌ語辞典 植物編』p135より。気候が寒冷な北海道ではクスノキは生育しない。しかし海岸に打ち上げられる木片の中に特別に香気に優れた物を見出すことで、クスノキという植物の存在は知られていた。クスノキのアイヌ語名「チㇷ゚ラス」は、直訳すれば「船の削り屑」である。松浦武四郎は『後方羊蹄日記』に「札幌岳の山頂に奇妙な木が生えていた。文化年間にあるアイヌがその枝葉を持ち帰ったことで、クスノキだということが判明した。神が内地から持ち帰って植えた物だろうとのことだ。」との伝説を書き残している
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