たたら製鉄
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たたら製鉄の歴史
概略
古代における国内製鉄に関しては未だ詳しくわかっていないことも多い。
最古級の遺跡に、弥生時代中期頃の奴国に比定される福岡県の赤井手遺跡があるが、この遺跡は製鉄を行った遺跡ではなく、鉄素材を加工して鉄器を製作した鍛冶遺跡であった。
古典的には、弥生時代に、朝鮮半島から持ち込まれた原料を用いた製鉄が始まったと考えられてきた[23]。ただしこの説の根拠とされる遺跡の炭素年代の検討には疑義があり、確たる説と認められるには至っていない[24]。文献学的な見地で見た場合、記紀における内容や「多多良」という姓氏、和名の発生時期などから、すでに5世紀前後には国内製鉄が行われていた可能性も指摘されている[25]。
考古学的に信頼できる確かな証拠としては、6世紀半ばの吉備地方に遡る[24]。ここでは、最初期には磁鉄鉱、6世紀後半からは砂鉄を原料として使用していた[24]。国内で調達が容易な砂鉄を原料とすることで、製鉄法は吉備地方から日本各地へ伝播したとみられる[26]。また、日本の製鉄法は、大陸や朝鮮半島、あるいは世界各地の製鉄法と比較して、炉の形状が特異である[26]。大陸や朝鮮半島での製鉄では円筒形で高さのある炉が用いられているのに対し、吉備地方から伝わった製鉄法では箱型で高さの低い炉が用いられた[24]。なぜこのような独特の技法が編み出されたのかは解明されていない[24]。
なお、近年の発掘、研究の進展によって、福岡県福岡市の博多遺跡群や、長崎県壱岐のカラカミ遺跡などでは、弥生時代の製鉄遺跡と思われる痕跡が相次いで見つかっている[27]。
当初は自然風のみを利用した方法であったため、「鉄滓(のろ)」と呼ばれる不純物を多く含んだスポンジ状の海綿鉄ができ、それを再度加熱した上、ノロと余分な炭素を叩き出すことで錬鉄や鋼に加工した。間もなくしてフイゴが使われるようになると、その後の技術の改良や進歩によってたたら製鉄は徐々に規模を拡大し始める。
続く奈良・平安期頃にはどういった鉄が生産されていたのか不明であるが、遺跡の発掘によって中国地方の山陰、東北地方の南部では砂鉄が、山陽では鉄鉱石が多く原料に使われたことが分かっている[28]。すでに初歩的な地下構造が出現し、炉も大型化が進んだ[29]。
中世以降のたたら製鉄には間接製鋼法である「銑押し(ずくおし)」と直接製鋼法である「鉧押し(けらおし)」とが存在した。前者は中世から[30]近代の半ばにかけて全国で広く行われた方法であり[31]、対して後者は16世紀初頭になって登場した播磨国の「千種鋼(ちぐさはがね)」を始まりとする[注釈 3]。
また年代ごとの方式の変遷として、古代・中世における露天型の「野だたら」から、近世中期以降の屋根を備えた固定型の「永代たたら」への移行といった流れがある。
このような長い変遷を経たのち、たたら製鉄が成熟し完成の域に達するのは18世紀に入ってからのことである[33]。
銑押し(ずくおし)法
「銑押し(ずくおし)」は、まずたたら炉で炭素濃度の高い銑鉄を作り、それを「大鍛冶場(おおかじば)」と呼ばれる別の作業場において脱炭精錬して錬鉄や鋼にする方法である。
おおむね2つの手順を踏むために間接製鉄法に分類され、その操業日数から「四日押し」とも呼ばれる。不純物を多く含むものの、粒が細かいため還元が速く、銑鉄になりやすい赤目砂鉄(あこめさてつ)をおもな原料とした[3]。
大鍛冶場は「左下場(さげば)」と「本場(ほんば)」とに分かれており、左下場では銑鉄を再度加熱して半溶融させ、その時フイゴで送った空気に含まれる酸素と反応させることで炭素量を減らす。それを本場においてもう一度加熱、脱炭した後、鍛錬して不純物を取り除く。そうして出来上がった錬鉄は「割鉄(わりてつ)」[注釈 4]、鋼は「左下鉄(さげがね)」と呼ばれ、脱炭の度合いによって各種の鉄を作り分けることができた[31]。
たたら製鉄は鎌倉期以降、このズク押しが主流であり[35][30]、中国地方を中心として日本各地で錬鉄や鋼、銑鉄が生産され、それらを用いて生活必需品や武器、農工具などさまざまな物が製造された。なお、近世後期には錬鉄は鋼の約2倍の価格で売買されており[36]、当時のたたら製鉄の生産の中心は鋼ではなく、汎用性に優れた錬鉄の方だった。
鉧押し(けらおし)法
いちど銑鉄を作ってからそれを錬鉄や鋼に卸すズク押しに対し、「鉧押し(けらおし)」は砂鉄から直に鋼を作りだす直接製鋼法に分類される。ただし、後述するようにケラ押しでは通常、鋼の他にそれを超える量の銑鉄や不均質鋼などができ、それらは主に錬鉄に仕上げられるため[31]、厳密には「直接製鋼法兼間接製鉄法」である。
天文年間(1532 - 1554年)には播磨国で「千種鋼」の生産が始まっているが[32]、より大規模なものになるのは近世になってからである[37]。近世のケラ押しは「三日押し」とも呼ばれるが、それはズク押しよりも日数を短縮することで、錬鉄よりも原価の低い鋼が出来る割合を増やし、操業を合理化したことによる[38]。
ケラ押しの主原料である真砂砂鉄(まささてつ)は不純物が少なく[3]、また粒が大きく還元の進む速度が遅いため[39]、銑鉄と共により炭素量の低い「鉧(けら)」と呼ばれる大きな鉄塊が炉の底に生成される特性をもつ[40]。ケラはさまざまな性質の鉄が混在する塊であり、その中には純度の極めて高い鋼(後に「玉鋼(たまはがね)」と呼ばれる)が含まれている。なお、炉から引き出されたケラの冷却方法の違いにより、大きな池に浸けて急冷する「水鋼(みずはがね)」と、そのまま放置して徐冷する「火鋼(ひはがね)」とに区分されるが、いずれの方法でも鋼そのものの品質に差異は出ない[41]。
1750年代にケラを大ドウ[注釈 5]と呼ばれる巨大な装置で割って鉄を各種類に選別する技術が開発されたことや[40]、1790年代の錬鉄価格の暴落を背景とし[38]、19世紀初頭には出雲国を中心にズク押しと並行して盛んに操業されるようになった。ズク(銑鉄)の多くは錬鉄に仕上げられ、ケラの中の鋼はそのままで商品として出荷されたが、当時のケラ押しによって生産される錬鉄と鋼の比率は約3:1であった[36]。
このケラ押しは、ズク押しに較べ操業された地域や時代は限定されていたものの[42]、直接製鋼法としては世界的に見ても珍しい形で発展を遂げた。
鞴(ふいご)の進化
国内製鉄においてフイゴが使われだしたのは遅くとも6世紀後半から7世紀初頭と見られているが[43]、初期に使われたのは鹿の皮を袋状にした「吹皮(ふきかわ)」と見られ、十分な火力を生むことができなかった[24]。
そこで8世紀には東北地方南部や関東地方において、板の両端を数人ずつで交互に踏んで送風するシーソー式の「踏み鞴(ふみふいご)」が出現する[29]。中世になると、手動でピストンを往復させて空気を送る箱型の「吹差し鞴(ふきさしふいご)」が使われだした。
1691年の出雲国における「天秤鞴(てんびんふいご)」の開発は、たたら製鉄の効率を大きく上げることとなる[44]。両端に支点のある2つの踏み板を真ん中に立つ1人ないし2人の番子(鞴を踏む作業員)が交互に踏む方式で、送風量の増加と番子の負担軽減をもたらした[30]。
その後、近代に入るとフイゴを水車を使って稼働させる方法が広く採用された[38]。
近世永代たたらの完成
17世紀初頭より始まった「鉄穴流し(かんなながし)」による砂鉄の大規模採取の実現[18]は、フイゴの改良と相俟って鉄の増産を可能にした。
また、たたら場の施設全体にも大きな変化があった。近世中期の「永代たたら」への移行である。それまでの「野だたら」は砂鉄や木炭用の森林資源を求めて移動を繰り返す必要があったが、良馬の繁殖の成功によって運搬力が増強された結果[44]、それら原材料の輸送が容易になったことで、たたら場全体を「高殿(たかどの)」と呼ばれる建物で覆って固定化できるようになり、操業の全天候化の他、地下構造を含めた施設全体の拡大やそれに伴う増産が可能になった。[45]
近代以降
たたら製鉄は19世紀の初めには成熟期を迎え、幕末から明治中期にかけても依然として国内製鉄の中心だった[46]。しかし明治30年代、関税自主権を持たないことにもよる安価な輸入鋼材の流入、および国内での洋式製鉄の伸張により急速に衰退[3]。1923年(大正12年)に商業生産を終えた[33]。
その間にズク押しは失伝してしまうが[47]、ケラ押しの方は1933年(昭和8年)より始まる「靖国たたら」により生き残ることになる[3]。軍刀用の玉鋼生産のためという用途が限定された操業であったため、それまでのケラ押しとは異なり鋼の生産を第一の目的とし、1945年(昭和20年)の大戦末期まで作刀用鋼材を供給し続けた。その後の敗戦による武装解除によってもはや需要は見込めない状況となり、再びたたらの火は消える。活動を再開した数少ない刀匠たちは靖国たたらの在庫等を使って作刀を続けた。
1977年(昭和52年)、日本美術刀剣保存協会や日立金属など刀剣関係者の努力が実り、島根県仁多郡横田町(現:奥出雲町)において、靖国たたらの遺構を利用する形で「日刀保たたら」として復元に成功した[48][49]。2017年(平成29年)現在においても、18世紀末に完成した「永代たたらによるケラ押し」を継承し続けている[50]。
奥出雲町には1993年(平成5年)に「奥出雲たたらと刀剣館」が開館した。 2016年(平成28年)には、文化庁により日本遺産として「出雲國たたら風土記~鉄づくり千年が生んだ物語~」が認定され、島根県と奥出雲町、安来市、雲南市が観光客誘致を図っている[51][52]。
たたら製鉄に関する現存の公開施設
- 菅谷たたら山内(島根県雲南市吉田町):たたら製鉄に従事した人々の職場や居住地が山内(さんない)。高殿や生活伝承館などがある。
- 鉄の歴史博物館、鉄の未来科学館(島根県雲南市吉田町)
- 奥出雲 たたらと刀剣館(島根県仁多郡奥出雲町)
- 絲原記念館(島根県仁多郡奥出雲町):絲原家は、松江藩の鉄師頭取の家柄で、その邸宅と庭園、文化財を展示している。
- 和鋼博物館(島根県安来市)
- 金屋子神社、金屋子神話民俗館(島根県安来市)
- 広島県立みよし風土記の丘(広島県三次市)
- 大野六ヶ鉄山(岩手県指定史跡)
- ^ 「古事記」には神武天皇の后として「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)」の名が記述されている[5]。また、「日本書紀」では「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」となっている[6]。
- ^ 20世紀前半期の冶金学者である俵国一は「古来穏健なる発達を遂げて一種独特の点がある」と評している[8]。
- ^ 江戸後期に公儀御用人を務めた山田浅右衛門吉睦の著書『古今鍛冶備考』(1819年頃)の記述による。一方、同じ江戸後期に活動した刀工、水心子正秀が著した『剣工秘伝誌』(1821年)では、ケラ押しの発生時期を千種鋼の登場より100年以上前の応永年間(1394 - 1427年)としている。[32]
- ^ 明治期以降にはその形から「包丁鉄(ほうちょうてつ)」とも呼ばれる[34]。
- ^ 金偏に胴。
- ^ ただし玉鋼のみ。
- ^ a b ただしケラに含まれる分のみ。
- ^ ただしケラ塊。
- ^ ただし、日本刀のうち慶長年間より前に作られたもの、すなわち「古刀」にまで遡ると、その材料や製法は伝承されておらず、使われた鋼がたたら製鉄によるものなのか否かは判断できない[69]。
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