くるみ割り人形
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くるみ割り人形 Щелкунчик | |
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『くるみ割り人形』第1幕より | |
イワノフ版 | |
構成 | 2幕3場[1] |
振付 | L・イワノフ |
作曲 | P・チャイコフスキー |
台本 | M・プティパ |
美術 | K・イワノフ、M・I・ボチャローフ[2][3] |
衣装 | I・フセヴォロシスキー[3] |
初演 |
1892年12月18日 (ロシア旧暦12月6日) マリインスキー劇場 |
主な初演者 |
【金平糖の精】A・デルエラ 【コクルーシュ王子】P・ゲルト 【クララ】S・べリンスカヤ 【くるみ割り人形】S・レガート |
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音楽・音声外部リンク | |
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バレエ『くるみ割り人形』全幕 | |
バレエ『くるみ割り人形』(全幕) |
本作は、クリスマス・イヴにくるみ割り人形を贈られた少女が、人形と共に夢の世界を旅するという物語である。原作は、ドイツのE.T.A.ホフマンによる童話『くるみ割り人形とねずみの王様』を、アレクサンドル・デュマ・ペールがフランス語に翻案した『はしばみ割り物語』である[5][6]。
クリスマスにちなんだ作品であることから毎年クリスマス・シーズンには世界中で盛んに上演される[7]。クラシック・バレエを代表する作品の一つであり、同じくチャイコフスキーが作曲した『白鳥の湖』『眠れる森の美女』と共に「3大バレエ」とも呼ばれている[8]。
上演史
創作の経緯
1890年1月、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で、チャイコフスキー作曲によるバレエ『眠れる森の美女』が上演され、成功を収めた[5]。これに満足した劇場支配人のイワン・フセヴォロシスキーは、同年2月ごろに早速チャイコフスキーに次回作を依頼し、オペラとバレエを2本立てで上演したいと提案した[5][9]。この上演形式は当時のパリ・オペラ座に倣ったもので、オペラを公演の中心とし、その後に余興のような位置づけでバレエを上演するというものであった[5][10]。1890年の末に最終的な話し合いが行われ、オペラの演目は、チャイコフスキー自身の提案により『イオランタ』に決まった[5][11]。バレエの題材はフセヴォロシスキーが選び、E.T.A.ホフマンの童話 『くるみ割り人形とねずみの王様』 をアレクサンドル・デュマ・ペールが翻案した『はしばみ割り物語』を原作とすることになった[5]。バレエの台本は、マリインスキー劇場のバレエマスターであるマリウス・プティパが手掛けた[注釈 1][5]。
チャイコフスキーはこのバレエの題材をあまり気に入っていなかったが、振付家のプティパから最初の指示書きを受け取り、1891年2月には作曲に着手した[5][12]。チャイコフスキーは外国での演奏旅行の合間に作曲を進めたが、1891年4月にはフセヴォロジスキー宛ての手紙で、作曲が難航しており、締切を延期してほしい旨を訴えている[13]。それでも同年6月ごろには下書きを完成させ、翌1892年3月ごろに管弦楽配置を仕上げた[14]。
本作の振付は、当初プティパが担当する予定だったが、1892年の夏に稽古が始まったころから病に倒れてしまい、部下である副バレエ・マスターのレフ・イワノフが代行することとなった[3]。プティパがイワノフに引き継ぐ前にどこまで振付を完成させていたのかは明らかになっていないが、初演時のポスターには、台本はプティパ、振付はイワノフと記載されている[15]。
初演
1892年12月18日(ロシア旧暦12月6日)、マリインスキー劇場において、オペラ『イオランタ』と共に、バレエ『くるみ割り人形』が初演された[3]。初日の主要キャストは、金平糖の精(ドラジェの精)がアントニエッタ・デルエラ、コクルーシュ王子(オルジャ王子)がパーヴェル・ゲルトであった[注釈 2][3][6]。クララ役のスタニスラワ・ベリンスカヤと、くるみ割り人形役のセルゲイ・レガートはいずれも舞踊学校の生徒で、べリンスカヤは当時12歳であった[6][16]。
この公演は、観客には好評であったものの、新聞評では不評であった[3]。批判を受けた点は、第一に、主演バレリーナが演じる金平糖の精が第2幕になるまで登場せず、見せ場が少なかったことである[3]。また、物語上の欠点としては、クララがお菓子の国へ行ったところで幕が下りてしまうので、その後クララがどうなるのかわからず、観客の納得のいく形で話が完結していないという点も批判された[3][17]。
『くるみ割り人形』は、1893年1月までの間に『イオランタ』と共に11回上演され、その後も何度か上演されたが、1895年10月から1900年4月までの約4年半の間はマリインスキー劇場のレパートリーから外されていた[18]。1900年4月に久々に再演され、1909年にもニコライ・セルゲエフによる改訂版が上演されたが、この時は初演版の演出に大きな変更が加えられることはなかった[18]。
改訂演出
前述のとおり、『くるみ割り人形』は初演時から台本の不備が指摘されており、主演ダンサーの見せ場が少ないことや、物語の帰結が曖昧であることが批判されていた[17]。このような台本の欠点を補うべく、後年の改訂演出では様々な試みが行われた[3]。以下、いくつかの改訂演出とその特徴を挙げる(括弧内は初演年および初演バレエ団)[注釈 3]。
- P・ライト版(1984年、英国ロイヤル・バレエ団)
- P・ライト新版(1990年、バーミンガム・ロイヤル・バレエ団[25])
この他に著名な演出としては、ジョージ・バランシン版(1954年、ニューヨーク・シティ・バレエ団)、ユーリー・グリゴローヴィチ版(1966年、ボリショイ・バレエ)、ルドルフ・ヌレエフ版(1967年、スウェーデン王立バレエ団)などがある[29]。
また、初演版から踏襲されてきた物語設定を大きく変更し、現代的に再解釈した演出もある。バレリーナに憧れる少女が夢の中でバレエの舞台裏を垣間見るという設定のジョン・ノイマイヤー版(1971年)、孤児院を舞台にしたマシュー・ボーン版(1992年)、振付家自身の少年時代を題材とした自伝的作品であるモーリス・ベジャール版(1998年)などが挙げられる[30][31]。
物語
原作
バレエ『くるみ割り人形』の原作は、アレクサンドル・デュマ・ペールによる童話『はしばみ割り物語』(仏: Histoire d’un casse-noisette、1844年)である[注釈 6][32]。この童話は、ドイツのE.T.A.ホフマンによる『くるみ割り人形とねずみの王様』(独: Nußknacker und Mausekönig、1816年)を、デュマがフランス語に翻案した作品であり、あらすじは以下の通りである[注釈 7][32][33]。
舞台はドイツのニュルンベルク。7歳半の少女マリーは、クリスマス・プレゼントにくるみ割り人形をもらうが、兄のフリッツが人形の顎を壊してしまう。マリーはくるみ割り人形を優しく看病する。その夜、マリーの部屋にネズミの大群が現われ、人形たちと戦争を始める。マリーはくるみ割り人形に加勢するが、怪我をして気を失う。翌朝ベッドで目覚めたマリーは、昨晩の出来事を家族に話すが信じてもらえない。
そんなマリーに対し、伯父のドロッセルマイヤーは『堅いくるみとピルリパータ王女の物語』を話して聞かせる。美しい王女ピルリパータは、ネズミの呪いで醜い姿に変えられた。王に呪いを解くよう命じられた職人ドロッセルマイヤーは、甥のナタニエルが割った堅いくるみを王女に食べさせ、王女を元の姿に戻すことに成功するが、代わりにナタニエルが醜い姿になる。ナタニエルの呪いが解けるのは、彼がネズミの王様を倒した上で、美しい女性から愛されたときだけである。この話を聞いたマリーは、あのくるみ割り人形こそがナタニエルなのだと確信する。
その後、マリーの部屋に再びネズミが現れるようになる。するとくるみ割り人形は、自分に剣を授けてほしいとマリーに頼み、その剣でネズミの王様を倒す。くるみ割り人形は、自分が治めるおもちゃの国にマリーを招待する。2人は氷砂糖の野原やクリスマスの森、オレンジエードの川などを通り過ぎてケーキの宮殿へと辿り着き、くるみ割り人形の妹である王女たちの歓待を受けるが、それはマリーの見た夢にすぎなかった。現実の世界に戻ってしばらく経ったある時、マリーはくるみ割り人形に「あなたを心から愛している」と話しかける。その途端マリーは気を失い、目覚めると、ドロッセルマイヤーが甥の少年を連れてきていた。少年はマリーに対し、自分はナタニエルであり、マリーのおかげで呪いが解けたのだと告げて求婚する。2人は再びお菓子でできた国へと向かい、結婚式を挙げる。
主な登場人物
- クララ(またはマーシャ、マリー[22])- 主人公の少女。
- ドロッセルマイヤー - クララの名付け親。
- くるみ割り人形 - ドロッセルマイヤーがクララに贈った人形。
- 金平糖の精(またはドラジェの精、シュガープラムの精[注釈 2]) - お菓子の国の女王。
あらすじ
演出によって物語の展開に相違があるが、あらすじは概ね次のような内容である[31][34][35]。
第1幕第1場
主人公クララのいるシュタールバウム家では、友人たちを招いてクリスマス・イヴのパーティーが開かれている。招待客の中には、クララの名付け親のドロッセルマイヤーもいる。ドロッセルマイヤーは、子供たちに手品や人形芝居を見せて驚かせた後、不格好なくるみ割り人形を取り出す。クララはなぜかその人形が気に入り、ドロッセルマイヤーに頼んでプレゼントしてもらう。クララの弟(兄)のフリッツが人形を横取りして壊してしまうが、ドロッセルマイヤーが修理する。やがてパーティーは終わりとなり、客たちは家路につく。
真夜中、くるみ割り人形のことが気になったクララは、人形が置かれている大広間のクリスマスツリーの元へと降りていく。その時、時計が12時を打ち、クララの体がみるみる縮んでいく(舞台ではクリスマスツリーが大きくなることで表現される)。そこへねずみの大群が押し寄せ、くるみ割り人形の指揮する兵隊人形たちと戦争を始める。戦いはくるみ割り人形とねずみの王様の一騎討ちとなり、くるみ割り人形は窮地に陥るが、クララがとっさに投げつけたスリッパがねずみの王様に命中する。その隙にくるみ割り人形はねずみの王様を倒し、ねずみ軍は退散する。クララは倒れたくるみ割り人形を心配するが、起き上がったくるみ割り人形は、凛々しい王子の姿に変わっていた。
第1幕第2場
くるみ割り人形は自分を救ってくれたクララに感謝し、その礼にお菓子の国へと招待する。2人は雪が舞う森を抜けて、お菓子の国へと向かう。
第2幕
お菓子の国に到着した2人は、女王である金平糖の精に迎えられる。クララを歓迎するため、チョコレート、コーヒー、お茶、キャンディなどのお菓子の精たちが次々と踊りを繰り広げ、最後は金平糖の精と王子がグラン・パ・ド・ドゥを披露する[注釈 8]。しかし、楽しい夢はやがて終わりを迎える。朝が訪れ、自分の家で目を覚ましたクララは、傍らのくるみ割り人形を優しく抱きしめる。
演出による違い
『くるみ割り人形』の演出は、クララと金平糖の精の扱いによって、概ね2系統に分けることができる[31]。一つは、クララを子役が演じ、金平糖の精を大人のダンサーが踊るもの(イワノフ版など)であり、上述のあらすじはこのケースである[31]。もう一つは、クララを大人のダンサーが演じるもの(ワイノーネン版など)であり、この場合、第2幕のグラン・パ・ド・ドゥは、金平糖の精に姿を変えたクララと、くるみ割り人形の王子によって踊られる[22][31][36]。前者の変形として、クララと金平糖の精を別々の大人のダンサーが演じる場合(ライト版など)もある[24][27][31]。両者を別々の大人が演じる場合も、物語上の主役であるクララには若手が、金平糖の精にプリマが当てられるケースが多い。
注釈
- ^ 『くるみ割り人形』の台本作者は一般にプティパとされているが、本作について検討した平林正司は、台本作者はフセヴォロジスキーか、少なくとも台本には彼の意向が反映していると考えるべきである、と述べている。ただし、バレエの台本は複数人で合作する場合が多かったことから、フセヴォロジスキーが唯一の作者であるとまでは断定できないとしている(平林正司 1998, p.126)。
- ^ a b 「金平糖の精」は、原語では「ドラジェの精」である。金平糖とドラジェはどちらもコンフィットの一種であり、日本では「金平糖」の訳語が定着している(森田稔 1999, p.226)。また、英語圏では「シュガープラムの精」とも呼ばれる(“The Nutcracker”. 英国ロイヤル・バレエ団. 2021年5月3日閲覧。、“The Nutcracker”. ニューヨーク・シティ・バレエ団. 2021年5月3日閲覧。)。
- ^ 『くるみ割り人形』の演出の変遷については、英語版記事(『くるみ割り人形』の演出一覧)に詳しい。
- ^ マリインスキー劇場は、1917年のロシア革命後は「国立マリインスキー劇場」と呼ばれ、さらにその後「国立アカデミー・オペラ及びバレエ劇場(略称GATOB)」と改称された(デブラ・クレイン、ジュディス・マックレル 2010, p.140)。
- ^ 主人公の名前は、1929年のロプホーフ版でクララからマーシャに変更されており、ワイノーネン版もこの設定を踏襲している(渡辺真弓 2014, p.57)。
- ^ 出版年については、1845年という説もある(平林正司 1998, p.6)。
- ^ ホフマンの原題にある「くるみ割り(Nußknacker)」という語は、デュマの翻案では「はしばみ割り(casse-noisette)」と訳された。これは、ドイツ語のNußknackerがクルミやハシバミなどの堅果を割る道具全般を指すのに対し、フランス語の同義語には「casse-noix(くるみ割り)」と「casse-noisette(はしばみ割り。くるみ割りよりもやや小型の道具を指す)」の2つがあり、デュマが後者の訳語を採用したためである(平林正司 1998, pp.4-5)。ただし、以下に記す『はしばみ割り物語』のあらすじでは、出典とした日本語訳書(小倉重夫訳)がcasse-noisetteを「くるみ割り」と訳出していることから、それに従った記載とする。
- ^ グラン・パ・ド・ドゥは、初演版では金平糖の精とコクルーシュ王子が踊ったが、改訂演出では、金平糖の精とくるみ割り人形の王子が踊り、コクルーシュ王子の役は削除されることが多い(小倉重夫 1989, p.239)。
出典
- ^ 森田稔 1999, p. 322.
- ^ デブラ・クレイン、ジュディス・マックレル 2010, p. 159.
- ^ a b c d e f g h i 渡辺真弓 2014, p. 54.
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- ^ a b c d e f g h i 渡辺真弓 2014, p. 53.
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- ^ ダンスマガジン編集部 1999, p. 34.
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- ^ a b c 森田稔 1999, pp. 233–234.
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- ^ a b c d 渡辺真弓 2014, p. 57.
- ^ a b c ダンスマガジン編集部 1998, p. 43.
- ^ 赤尾雄人 2010, pp. 64–66.
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- ^ a b c d 渡辺真弓 2014, p. 59.
- ^ 平林正司 1998, pp. 219–220.
- ^ a b c 岸夕夏 2020.
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- ^ ダンスマガジン編集部 1998, p. 45.
- ^ a b c d e f ダンスマガジン 2008, pp. 56–57.
- ^ a b 平林正司 1998, pp. 3–6.
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- ^ 長野由紀 2003, p. 199.
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- ^ "The Nutcracker, Complete Ballet in Full Score", Dover Publications, 2004 ISBN 0-486-43836-8 による。
- ^ a b c d e 音楽之友社 1993, p. 102.
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- ^ 音楽之友社 1993, pp. 100–101.
- ^ 小松佑子 2017, pp. 384–385.
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- ^ 小倉重夫 1989, p. 238.
- ^ 小倉重夫 1989, pp. 238–239.
- ^ 小倉重夫 1989, p. 239.
- ^ スタブ・ジブ「Life/style 『くるみ割り人形』の冬が来た!」『NewsWeek日本語版』50号(通巻1527号)CCCメディアハウス、2016年12月27日、58-59頁。
- ^ “ベルリン国立バレエ団『くるみ割り人形』を公演から除外…「東洋人種差別の要素がある」”. 中央日報 (2021年11月29日). 2021年11月29日閲覧。
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