からくり
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からくりは、
語源
語源については、「糸を引っ張って動かす」という意味の「からくる」という動詞の連用形の名詞化といわれ、16世紀後半頃から用例が確認されている[1]。
からくりの歴史
古代のからくり
日本における最古の記録は『日本書紀』で、斉明天皇4年(658年)の指南車[注釈 1]。
平安末期の『今昔物語集』巻第二十四には、桓武天皇の皇子高陽親王(賀陽親王)がからくり人形を作り、巻二十四第五には「飛騨工」(ひだのたくみ)[注釈 2]が絵師百済河成を驚かせるため、四方に扉がある堂を作り、いずれの扉の前に立っても目の前の扉は閉じて違う場所の扉が開く仕掛けを作ったと記載されている。唐代中国にいた韓志和という日本人も「飛騨工」の一人とされる。
からくりの文化的開花
戦国時代
17世紀頃の戦国時代には西洋技術(とくに機械時計に用いる歯車やカムなど)を応用したからくり人形が作られ始め、祭礼や縁日などに見世物として大衆の人気を呼ぶようになる。専門の職人による非常に精巧なものが作られるようになった。
江戸時代
元和6年(1620年)に尾張国名古屋の東照宮祭においてに牛若弁慶の「からくり人形を載せた祭礼の山車」[2]が中京圏を中心に普及する。
からくり人形の大衆化
寛文2年(1662年)に大坂の道頓堀で初代竹田近江がからくり芝居を興行。この興行は「竹田からくり」と称され、その後約百年にわたって代々続く一大ブランドとなった。
18世紀初めの享保年間には、彦根藩藩士の平石久平次時光が後の三輪自転車に相当する新製陸舟車を発明した。 寛政9年(1796年)には、細川半蔵の著書『機巧図彙』(からくりずい)が出版される[注釈 3]。
19世紀には、「筑波のからくり伊賀」こと飯塚伊賀七が人力飛行機や道を歩いて酒を買いに行くからくり人形を作ったとされる。
幕末の石川県には茶運び人形を流用したと見られる弁吉作という三番叟が確認されている[3]。また「加賀の平賀源内」こと大野弁吉が空気銃や蒸気船の模型、写真機を製作した。
現在のからくり
田中久重の「弓曳童子」や大野弁吉の「エレキテル」および「無尽灯」などを峰崎十五が修理復元[4]。九代目玉屋庄兵衛が「弓曳童子」や京都祇園祭の山である「蟷螂山」[5]を、東野進が「文字書き人形」を[6]、後藤大秀が大垣祭の「相生山」や大津祭の「竜門滝山」を復元している。
からくりの種類
- 座敷からくり
- 大名や豪商などが所有した座敷(屋内)で鑑賞するからくり。
- その多くは高価なもので、台の上に据えつけられた人形等が太鼓を叩いたり舞ったりする。茶や酒を注いだ盃を運ぶ茶運び人形のように移動するものもある。
- からくり玩具
- 民芸品や郷土玩具として、日本各地で古くからその地方独自の、様々な仕掛けを持つ玩具。
- 現在でもみやげ物として、販売される物も多い。一時期は日本の輸出産業を支えた「ブリキのおもちゃ」の仕掛けも絡繰玩具に由来する。
- からくり傘
- 和傘または唐傘(からかさ)。中国由来の天蓋に開閉式の仕掛けを施した唐繰傘。
- からくり家具
- からくり箪笥など。
- からくり的
- 市や縁日や温泉場で行われた弓矢や吹き矢の射的の的。当たった場所により板でできた書割りが動く。大正時代までは繁華街や温泉街の射的場に現存していたが、現在では「鬼泣かせ」という機械仕掛けの鬼の的に名残が見て取れる。
- 山車からくり
- 山車・車楽などにからくり人形を載せたもの。
- 山車内部に操作者が乗り込み、曳行時や宮入りの演奏に合わせて操作、披露・奉納する。大部分は第二次大戦の戦災で失われたが、戦災を免れた岐阜県高山市の高山祭、美濃市の美濃まつり、愛知県犬山市の犬山祭、津島市の尾張津島秋まつり、半田市の亀崎潮干祭などの周辺地域には多く残る。
- カマキリのからくりで有名な京都祇園祭の蟷螂山、江戸の山王祭・神田祭など[注釈 4]
- 元和5年(1619年)の名古屋東照宮祭以来、中京圏(主に愛知県と岐阜県)に特色ある祭礼文化を形成している。
- 享保15年(1730年)に7代尾張藩主になった徳川宗春は「民と共に世を楽しむ」政策を実行し、8代将軍徳川吉宗の質素倹約策で自粛されていた東照宮祭の豪華に復活させ、他の祭や遊興を盛大に行う事を奨励し、活動の場を失っていた京都の玉屋庄兵衛をはじめとする、全国のからくり人形師達を名古屋に招いてからくり人形師達が尾張地方に移住した事により、名古屋を中心とする中京圏で、からくり文化が発展し根付いた。
-
からくり披露(筒井町出来町天王祭・名古屋市)
- 舞台からくり
- 田楽返しや提灯抜け、葛籠抜けなど歌舞伎の舞台で使われるからくり。現在の人形浄瑠璃ではでは人形遣いが中心となっているが、近松門左衛門の浄瑠璃にはからくりが多用された。
- からくり屋敷
- 忍者屋敷などに見られる。
注釈
- ^ 車輪の差動を利用し、台車の上に立つ人形がどの方向に進んでも常に南を指し示すというもの。『三国志』にも同様の記述がある
- ^ 飛騨国は庸・調を免じられる代償として木工を京都に派遣する制度があり、制度廃絶後も飛騨工は木工・大工の名匠の通称となった。
- ^ 『機巧図彙』は3種の和時計と9種のからくり人形の構造、製作法について図入りで解説した首巻・上巻・下巻の三巻の書物。からくり人形の作り方を紹介する前に、その根本となる機械的仕組みが時計であることを示し、機械技術の啓蒙書としてまとめられている。この書物から実際に茶運び人形が復元された。 著者の細川半蔵(1749頃-96)は土佐藩出身の暦学・天文学者で、幕府の改暦事業に携わるかたわらこの『機巧図彙』を著した。半蔵というのは通称で名を頼直という。 他に写天儀(一種の天球儀と思われる)や行程儀(一種の万歩計)などの装置も製作した。
- ^ 山王祭で麹町より出されていた山車人形「太鼓打人形」(通称てけてん小僧)の頭部と手足等が、また神田祭の山車人形で神田連雀町より出されていた「熊坂」の頭部が伝存しており(現在見られる頭部以外の部分は関東大震災後の補作)、具体的な構造や操作については明らかではないが、「太鼓打人形」は太鼓を打つからくりが施されていたといわれ、「熊坂」は眼球が動くからくりが施されている。『広報千代田』NO.750(昭和63年4月20日発行)およびNO.1205(平成19年4月5日発行)参照。千代田区の文化財にも説明あり(太鼓打人形・熊坂)。
出典
- ^ 『日本国語大辞典』(第2版〔オンライン版〕、2007年)「からくり」の項より。他に語源説として、『嬉遊笑覧』、『大言海』の「絡み繰る」からという説、『言元梯』の「カハリクリ」(変転)の転とする説などが紹介されている。
- ^ 東海の山車祭り
- ^ 『からくり』(『ものと人間の文化史』)48頁以降。
- ^ 『弓曳童子の再生』6-12頁、46-47頁
- ^ [1][リンク切れ]
- ^ “アーカイブされたコピー”. 2013年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月2日閲覧。
- ^ 文化遺産オンライン。
- ^ 「よみがえる江戸からくり」峰崎十五 日本経済新聞 2004年3月5日文化面
- ^ 『弓曳童子の再生』35頁
- ^ 『弓曳童子の再生』6-8頁
- ^ 『完訳からくり図彙』26頁
- ^ 『完訳からくり図彙』27頁
- ^ Wooden robot in the 19th century (Karakuri Ningyo)
- ^ 「安城文字書き人形~その特徴と機構~」愛知工業大学 客員教授 末松良一
- ^ からくり人形、筆遣い鮮やか 愛知・安城、レプリカ披露 朝日新聞 2012年6月16日
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