【球談徒然】幻のスクープ「ロッテ監督カネやん辞任」

2010.08.02


担当記者に話題と笑いを振りまきながらも、ニュースは1社に抜かせない−が信条だった金田監督。左端が筆者【拡大】

 1991年晩秋、公式戦終了直後のある夜、東京駅でロッテの金田監督を待っていた。通算400勝投手の金田正一氏だ。この日、同監督は岩手県雫石でゴルフを楽しみ、新幹線で帰京することになっていた。

 このとき、すでにロッテは来季から本拠地を川崎から千葉へ移転させることを正式に決定。翌日には金田監督が東京・西新宿のロッテ本社を訪れ、重光オーナーにシーズン終了の報告をする予定になっていた。

 当然、これまでの取材経緯から金田監督がこの席で来季の監督辞任を伝えることを確信していた。「きょう、カネやん辞任」のタイトルの予定稿をデスクに預け、1年間、お世話になったお礼と裏取りのため、監督に会いに東京駅に出向いたのだった。

 東京駅八重洲口前の駐車場。記者の顔を見つけた金田監督の顔に一瞬、驚きが走った。というのも、この日の監督の行動は極秘扱いだったため。が、すぐにその顔にはいつもの笑みが浮かび、こんな夜に何事かとばかり言葉をかけてきた。

 「おっ、どうした?」

 「いや、ちょっと監督と2人でお話を…」

 「おう、そうか。ワシもお前に話があったんや。これから自宅へ来い」

 午後10時半過ぎ、東京・目黒の監督の自宅に。

 「監督、きょうは“悪さ”をするので、お断りに参りました。あす付の紙面で監督の辞任を書きます。今夜うかがったのは、1年間お世話になったことへの自分の精いっぱいの誠意です」

 「ちょっと待て。ワシはお前を人として信用しとるから、今夜はお別れの杯を重ねようと思って自宅へ入れたんや。絶対に書くな」

 この年のロッテといえば、千葉移転の正式決定と金田監督の去就がニュースの2本柱。担当記者としては、この1年間の集大成ともいえるニュースを絶対に譲るわけにはいかない。

 「書きます!」「書くな!」の押し問答の後は異様な沈黙が…。締め切り時間が刻々と迫る中、午後11時過ぎ、ついに監督自ら当紙のデスクに電話を入れて直接交渉。「カネやん辞任」の文字が躍ったのは、それから2日後の朝。球団から共同発表されてからだった。王貞治氏もそうだったように、金田監督も自分に関するニュースは絶対に1社には抜かせない−。信条なのである。

 すべてが終わった夜、社内や上司の、まるで大事なニュースを抜かれたような冷たい視線を避けるように、前ロッテ担当記者と2人で会社近くの居酒屋へ。

 「勝ちは勝ちですよ」

 「いや、紙面にならなきゃ…」

 「でも、すごいじゃないですか。大の嫌煙家の監督の居間で、たばこをスパスパやったんですから」

 「そういえば、あの夜相当酒が入っていたのに、玄関まで見送ってくれた監督が笑って言ってたなあ。ワシの家でたばこを吸ったのは、お前が初めてや。しかも5本も吸いやがってって」

 氷山の氷は海面に出ているのは20%。残りの80%は海面の下にある、といわれる。氷山のように、新聞も紙面に躍るのは取材した事象の、ほんの一部なのです。

 ■龍川 裕(りゅうかわ・ゆたか) 福島県会津若松市生まれ、59歳。中学時代からとんと勉強とは無縁の生活で、ひたすら白球を追う毎日。会津高では早大OBの渋川博監督(故人)の特訓に耐えて、右翼手で8番打者。法大を経て1975年にスポーツニッポン新聞社入社。大相撲、アマ野球、プロ野球を担当。郷里の福島支局長も務めた。東京相撲記者クラブ会友。東京運動記者クラブ会友。

 

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