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紀里谷和明

僕の中の戦争(7/8)

 きりや・かずあき 1968年4月20日、熊本県生まれ、41歳。15歳で渡米、マサチューセッツのケンブリッジ高校から、パーソンズ大学環境デザイン科に進学。94年からニューヨークをベースにカメラマンとして活躍。2004年、「CASSHERN」で映画監督デビュー、09年公開の第2作「GOEMON」は観客動員数100万人を突破。
 読書の原点は小学生時代に読んだビジネス書。その影響から堤義明氏や盛田昭夫氏に憧れ、孫正義氏のようなビジネスマンになりたかった、とも。20歳の時、母に勧められて改名。熊本県内最大のパチンコ店チェーンを経営する実家の苗字からもリセットした。「戦国時代は名前を変えて新しい人生を歩む人もいたしね。40歳でも変えるつもりでしたから、またその時期が来ているのかもしれません」。歌手の宇多田ヒカルと02年に結婚、07年離婚。
紀里谷和明

【いろいろなものを作ってきたが、こんなに難しいものはなかった】

 人間と新造人間による近未来戦争を描いた映画「CASSHERN(キャシャーン)」に、新解釈で天下の大泥棒を描いた「GOEMON」。いずれも斬新なCG映像で見せる華麗なバトルシーンの一方、戦いが人の心に残す爪痕の深さに独自の世界観が漂う。そのわかりにくさを指摘されることもあるが、このたび書き上げた初の小説「トラとカラスと絢子の夢」(幻冬舎)を読むと、紀里谷ワールドの通奏低音が聞こえてくる。

 「いろいろなものを作ってきましたが、こんなに難しいものはなかった。発声練習を毎日している人がうまく歌えるように、小説を書くことは文章を毎日書くというトレーニングの上に成り立つ。それもないまま書いても太刀打ちできないことを思い知らされました」

【家族の実話もとに】

 ストーリーは実話。太平洋戦争末期、当時7歳だった母方の伯母、絢子さんの目を通して、その父で帝国陸軍歩兵第112連隊を率いてビルマのインパール作戦を戦った陸軍大佐・棚橋真作氏が戦後、自決するまでを描いた。その経緯は高木俊朗著「戦死・インパール牽制作戦」(文芸春秋)にも詳しいが、この小説では父を思う幼い女の子の心象風景が主に描かれる。

 「GOEMON」の製作と同時進行で丸2年かけて書き上げた。あまりの忙しさに「自分が何をやっているのかわからなくなった」が、書かずにはいられなかった。

 「身近な人たちの、祖父を失った苦しみを垣間見て育ったせいか、僕の中には戦争が色濃くある。同世代の人にはこれほどのトラウマはないと思いますが、それをずっと抱えてきた以上、いつかは書かなければならないと思っていました」

 父から「おまえは知っておいたほうがいい」と、物心ついたころから祖父(父にとっては義父)の話を繰り返し聞かされた。幼心には強烈で、「切腹とは何なのか。どのくらい痛いんだろう」と、教えられた作法に則りボールペンを握りしめたこともあった。

【今の日本人にはわかってもらえないかも】

 作品の冒頭、「棚橋かほるに捧ぐ」と記されている。「祖母は武家の娘ですから三つ指ついて自決する祖父を黙って送り出した。東京の山の手言葉が死ぬまで抜けないお嬢さん育ちだったけど、いつもニコニコして娘が嫁いだ先の熊本の旅館で腰が曲がっても皿洗いをしていました」

 悲しみを言挙げせず黙々と働く祖母の姿に人間の強さを見た。

 「いまの日本人にはわかってもらえないかもしれない。実際、この作品を読んだ若い子には『悲しいけど、本当にはわからない』と言われました。それは僕にとって興味深いことで、CASSHERNでも感じた“理解されない雰囲気”とは、そういうことなんだと素直に思いました」

【「日本人とは、自分とは、人間とは何か」を考え続け】

 自分と世間との温度差はずっと感じてきた。学校では自分の思いを否定する先生に反発、中学校2年で中退し、15歳の誕生日の翌日に渡米した。義務教育放棄だったため父が文部省と交渉、米国で日本語学校に行くことで卒業資格を得た。渡米後は、得意の絵で言葉の壁を越えたコミュニケーションがあることを知る一方、人種差別にも直面した。以来、「日本人とは、自分とは、人間とは何か」を考え続けている。

 「そこに決着が見いだせない限り、恋愛作品を作ろうという気にはなれない。だって、(いまの世の中は)家が火事なのに『今日の夕飯、何にする?』なんて言ってるみたいだから。世間では恋愛が最重要課題みたいだけど、僕にできることは作品を通して『みなさん火がついてますよ』と言うことなんですね」

 写真家、映像ディレクター、映画監督と、さまざまな分野を手がけてきた。「そりゃ、笑われますよ。技術もないのに今度は小説か、ってね。でも、戦争でやりたいこともできずに亡くなった人の分まで必死に生きなければという思いが常にある。僕の考えは特殊かもしれないが、人がどう思おうが怖がることはない。映画を撮りたければ撮ればいい、留学したければすればいい、人を好きになったら告白すればいいんです」

 飲めずに死んでいった人たちの分まで酒も必死に飲む。それはそれはヘビーな議論酒になるという。