不器用な晩年…竹脇無我さん“会いてえ”と号泣した相手

2011.08.23


TBS系「おやじのひげ16」で、森繁さん(中央)と収録にのぞむ竹脇さん(右隣)=1994年2月【拡大】

 クールな二枚目俳優として活躍した竹脇無我(たけわき・むが)さんが21日午後2時5分、小脳出血のため死去した。67歳だった。“森繁ファミリー”の秘蔵っ子として愛されながら、森繁久彌さん亡きあとは、生真面目すぎる性格から、不器用な晩年をおくっていた。

 1944年、千葉県生まれ。名アナウンサーとして知られた故竹脇昌作さんの3男で、青山学院高等部に在学中の60年に映画デビュー。渋い二枚目役として、映画「人生劇場」などで一躍スターになった。父譲りの美声で女性ファンの支持を集めた。

 テレビドラマでは、とくに森繁さんにかわいがられた。「だいこんの花」「おやじのヒゲ」シリーズなどでは森繁さんと親子役を演じた。

 「松山英太郎さんが“長男”なら、無我さんは“次男坊”。『オヤジ、オヤジ』と慕っていました」(プロダクション関係者)

 ところが、91年に松山さんが食道がんで他界。加えて、ドラマの演技が一部から「ワンパターン」と揶揄され、49歳で自殺した父親の年齢に近づくと、プレッシャーから鬱病を患った。97年には2人の娘をもうけた妻と離婚。2000年に糖尿病と鬱病治療のため入院し、退院後も仕事を1年休養した。

 03年に鬱病との闘いをつづった初著書『凄絶な生還 うつ病になってよかった』を出版したのを機にカムバック。このとき単独取材したリポーターの武藤まき子さんが振り返る。

 「まだ滑舌がおぼつかなかったですが、ゆっくりと、大丈夫ですからとお話しいただいた。それまでプライベートを語る方ではなかったのが、離婚には直接触れなかったものの『娘たちがよくしてくれている』と絆を明かし、『映画もドラマもやりたい』と話していました」

 しかし、09年11月に“父”森繁さんが96歳で亡くなったことで、再び落ち込みが激しくなった。武藤さんが続ける。

 「斎場で声をかけると、『う〜ん』と下を向いたまま。コメントを求めると、『うん、分かった』と言ったあと、人目をはばからず泣きながら、『もう一度、会いてえ』と振り絞るように。役者さんには珍しくカメラの正面を見ず、横向きのままで、痩せていました」

 晩年は必ずしも俳優としては恵まれなかった。関係者が明かす。

 「鬱病から復帰したときに、やめたはずの酒を最近、口にするようになっていました。皆、心配していたが、親しい人を遠ざける素振りもあった。芯はナイーブな人。信念のためには“我”を通すこともあった。生き抜くために役柄を“いい加減”に妥協することができない生真面目な人だったんです」

 “無我”という名前に縛られていたのかもしれない。

 ■「信じられない思い」俳優、加藤剛(73)

 無我ちゃんと30年間親友役を務めてきました。時代劇「大岡越前」で私が町奉行、無我ちゃんが小石川養生所の医師、榊原伊織役。最後に会ったのは今年の5月22日。私の舞台公演が行われていた新宿紀伊国屋ホール(東京)です。

 中村屋のおまんじゅうを持ってきてくれ「子供のころ、おやじがよくこれを買ってくれたんだよ」と言いながら、私にではなく、この芝居の主演を私と分け合っていた私の次男(俳優座・頼三四郎)にくれました。

 「な、おやじっていいもンだろう」って言いながら、「おい、三四郎、おまえの芝居が好きなんだ、ファンだよー。おまえの後援会長になってやるよ」と言ってくれたのに−。天下の名医、榊原伊織が、自らを助けることなく世を去るとは信じられない思いです。

 

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