第ニ章 歴史年表その2(明治・大正)

黒字=教育制度と小学校の歴史、紫字=国と地方制度の歴史緑字=殿ニ校区の歴史赤字=災害と防災の歴史

明治2(1869)年1月

 明治維新により、河内国の政府直轄地に「河内県」設置される。

2(1869)年6月17日

 版籍奉還(新暦では7月25日)

2(1869)年8月2日

 「河内県」が「堺県」に編入される。

4(1871)年4月

 戸籍の編成を命じる太政官布告が出され、この年に堺県で最初の戸籍簿が作られる。

4(1871)年7月14日

 廃藩置県(新暦では8月29日)、文部省の設置。律令制以来の「国」と「郡」が制度上、廃止される。

4(1871)年11月22日

 第一次府県統合により、河内国と和泉国の全域が「堺県」に編入される。堺県の区域を大きく分ける区分として、河内国(河州)・和泉国(泉州)の名称が引き続き使用される。

5(1871)年2月

 区画制が実施され、堺県では河内国(河州)を29区、和泉国(泉州)を25区に分けられる。坂村、宇山村、養父村、招提村、上島村、下島村は、渚村、船橋村、楠葉村、中宮村、禁野村とともに堺県河内国第七区とされる。(計11か村、人口約8,700人)

5(1872)年3月

 堺県では、学制に先立って各区毎に「郷学校」を1校と、必要に応じて分校を設置することとする。堺県の郷学校は、強力な行政指導によって設立されたことが特徴的で、県は寺子屋・私塾などの廃止を命じ、その師匠を吸収することから始めたとされる。

5(1872)年5月

 堺県河内国第七区郷学校が片埜神社に設けられる。これが、校区における「小学校」の創立となる。現在の枚方市域では、この第七区郷学校が最も早く開校しており、翌6月に第六区郷学校(現在の津田小学校)、第八区郷学校(現在の蹉だ小学校)が開校している。

5(1871)年8月

 「学制」が公布される。(新暦では9月5日)全国を8大学区に分け大学校、大学区を32中学区に分け中学校、中学区を210小学区に分けて小学校1校をそれぞれ置くこととした。大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、堺県、和歌山県、飾磨県、豊岡県、高知県、名東県、香川県、岡山県、滋賀県が第四大区(大学区)とされる。小学校は人口600人を標準とする小学区に各1校設立するとし、下等(尋常)、上等(高等)各4年から成る尋常小学校のほか、村落小学校などを置くこととされる。

5(1872)年9月1日

 堺県河内国第七区郷学校の出張所(分校)が招提村敬応寺に設けられる。(校区は招提村のみ)この分校の設立をもって、現在の殿二小学校の創立とされている。現在の殿山第二小学校の創立記念日は、新暦と制定当時の祝祭日を考慮して10月11日と定められている。

 第七区郷学校とその出張所(市史4巻348頁101表)

校名 設立年月 場所 学区
本校 5年5月 坂村片埜神社 第七区11か村
(招提)出張所 5年9月 招提村敬応寺 招提
(中宮)出張所 5年 中宮村 中宮、禁野、渚
(楠葉)出張所 6年6月 楠葉村南組合所 楠葉、船橋

5(1871)年9月

 大阪府が道路定則を定める。京街道は、「東海道街道(野田村ヨリ今市村ヲ經テ河内枚方二到)道幅三間(約5.5m)」とされる。

5(1872)年12月3日

 旧暦(太陰太陽暦)を廃止して新暦(太陽暦)を採用、明治6年1月1日となる。24時間制や7曜制も同時に実施される。なお、官庁の日曜休日は9年頃から実施される。

6(1873)年4月1日

 8大学区が7大学区に改められ、第四大区は第三大学区となる。

6(1873)年4月13日

 堺県において学制が実施される。54の郷学校を小学校に切り替えるとともに翌5月には新規に64校を開設して118校体制とする。これにより、第七区郷学校招提出張所を堺県河州(河内国)第六十五番小学校に改称するとともに、校区に坂村、宇山村、養父村、上島村、下島村を加える。中宮出張所が第六十四番、楠葉出張所が第六十六番になっており、坂村の本校はこの時までに廃校になったと考えられる。

 学制実施時における第七区周辺の小学校(市史4巻350頁102表)

学校名 所在地 学区
第六十四番小学(校) 中宮村

中宮、禁野本郷・分郷、渚、小倉、甲斐田、片鉾、田口

第六十五番小学(校) 招提村

招提、宇山、養父、坂、上島、下島、長尾分郷(高野道)

第六十六番小学(校) 楠葉村

楠葉、船橋

6(1873)年4月

 坂(阪)村の交野神社が河内国第7区の郷社に指定される。

6(1873)年7月

 地租改正条例が公布される。堺県で小学校が50校増設される。この時に、第百五十五番小学校が開校(後の渚小学校、現在の殿山第一小学校が創立)したと考えられ、その後、宇山小学校も開校している。

7(1874)年1月22日

 堺県において大小区制実施、河内国を3大区15小区、和泉国を3大区14小区に区画する。校区周辺は堺県河内国第三大区四小区となる。

7(1874)年4月

 堺県の小区内の数村を合わせて石高1500石内外を目途として「組合村」を定め番号を付ける。各大区に大区長、小区に小区長、組合町村に戸長、町村に副戸長が置かれる。坂村、宇山村、養父村と上島村、下島村は堺県河内国第三大区四小区三番組となり、楠葉村と船橋村は四番組、招提村は単独で五番組とされる。

8(1875)年4月

 大区長を区長に、小区長を副区長に改める。

8(1875)年5月25日

 堺県布達により、番号校名を所在地名に改めることとされ、第六十五番小学校を招提小学校、第百五十五番小学校を渚小学校に改称する。この時までに招提小学校の校区は招提村のみになっている。殿二沿革誌では4月と記載しているが誤りと考えられる。(4月学年開始の制度化は明治33年8月の小学校令改正による。)

8(1875)年

 明治8年の校区と小学校の状況(市史3巻773頁228表)

学校名 就学児童数 村名 村の人口
男子 女子 合計
招提校 57 25 82 招提村 1134 1134
宇山校 57 32 89 宇山村 90 588
養父村 175
上島村 192
下島村 132
渚校 101 51 152 坂村 394 1645
渚村 762
小倉村 219
磯島村 270

 堺県の小学校数288校、就学率は約44%(男子約60%、女子約28%)、全国の小学校数約24,500校、児童数は約195万人、就学率は約35%(男子約50%、女子約19%)

7(1874)年~10(1877)年

 明治初期の児童数と教員数、教場(教室)数(市史4巻352頁103表)

学校名 7年 8年 9年 10年
教員数 教場数 卒業数
招提校 56 24 57 25 68 37 68 27 3 3 3
宇山校 63 38 57 32 50 20 49 20 2 2  
渚校 91 50 101 51 74 37 74 41 3 3  

9(1876)年4月18日

 堺県に、奈良県(大和国)を編入する。

9(1876)年10月

 河内、和泉、大和の区画を見直し、堺県全管内を10大区に改める。

10(1877)年

 大阪でコレラが流行する。コレラは、明治時代に最も恐れられた伝染病で、12年、14年、19年、23年、24年、28年にも大流行する。明治19年にはチフス、天然痘も大流行したほか、赤痢の流行もある。

9(1876)年12月28日

 番組の廃止、小区に属する町村名を発布する。

11(1878)年5月15日

 デレーケらによる淀川修築工事の一環として、穂谷川流末の付け替え工事に着手する。穂谷川の河口を上流向きから下流向きに付け替えることになる。

11(1878)年7月

 郡区町村編成法により、大小区制を廃止することとされる。

11(1878)年11月

 堺県における地租改正が完了する。

11(1878)年12月23日

 穂谷川流末の付け替え工事が竣工し、坂村地内に幅約10間、長さ200間余の新川が開削される。

12(1879)年9月

 「教育令」が制定され、「学制」が廃止される。修学年数を16か月まで短縮できることにするとともに学区制が廃止される。

12(1879)年12月

 招提小学校が招提村1398番地の2ほかの新校舎に移転、校区に宇山村、養父村を附属する…この時に宇山小学校が廃校になるとともに、阪村小学校が設けられたと考えられる。

13(1880)年4月14日

 郡区制が実施され、堺県に1区9郡が置かれる。(郡の復活)交野、茨田、讃良の3郡を管轄する枚方郡役所(後に茨田・交野・讃良郡役所に改称)が置かれる。

13(1880)年4月23日

 堺県の大小区制を廃止、聯合町村制を採用、聯合町村に戸長を置く。区画制による旧七区の全域に加えて、第六区(津田村や穂谷村から小倉村)の大半(春日村を除く)と磯島村(明治7年まで大阪府摂津国島上郡第二区に属していた)が堺県(河内国)交野郡第五聯合とされる。

13(1880)年12月

 「教育令」が改正され、小学校の年限が3年以上6年以下になる。

14(1881)年2月7日

 堺県が大阪府に編入される。

14(1881)年3月5日

 旧堺県の聯合町村制が原則廃止となる。

14(1881)年5月

 教育令改正に伴い「小学校教則綱領」が制定される。小学校の課程が初等科(3年)、中等科(3年)、高等科(2年)の計8年になる。初等科では修身、読書、習字、算術、(唱歌)、体操を科目とし、中等科では地理、歴史、博物、物理、裁縫(女子)、高等科ではさらに化学、生理、幾何、経済(女子は家事経済)などを加えることとした。唱歌は教授法が整うのを待って設置することとされた。

14(1881)年7月7日

 大阪府が、郡区町村単位で「教育会」を置き、学事について調査研究にあたることとする。

14(1881)年9月

 第六学聯合小学校取調による校区周辺の状況(市史11巻632頁-)

学校名 村名 戸数 人口 戸数計 人口計
招提小学校 招提村 274 1223 340 1485
宇山村 21 85
養父村 45 177
阪小学校 坂村 97 414 170 754
上島村 42 197
下島村 31 143
渚小学校 渚村 182 828 290 1336
小倉村 47 235
磯島村 61 273

14(1881)年11月26日

 大阪府が小学区を制定、河内を33学区、摂津41、和泉30、大和114の計218学区制とする。これにより、招提小学校、阪小学校、渚小学校は他校とともに河内国交野郡第二学区に属することになる。

15(1882)年2月6日

 小学校教則綱領を受けて、大阪府が小学校教則を改正する。

小学校教則(府布令集3巻333頁-)

第1条 小学科を分けて初等・中等・高等の三等とする。

第2条 小学初等科は修身、読書、習字、算術の初歩及び体操とする。

第3条 小学中等科は修身、読書、習字、算術、地理、歴史、図画、博物、物理の初歩及び体操とし、特に女子のためには裁縫の初歩、容儀を授けるものとする。

第4条 小学高等科は修身、読書、習字、算術、地理、図書、博物、化学、生理、幾何、経済の初歩及び体操とする、特に女子のためには経済に換え家事経済及び裁縫、容儀を授けるものとする。

第5条 学期は初等科及び中等科を各三か年とし、高等科を二か年とし各等科通じて八年とする。

第6条 初等科及び中等科を各六級に分かち、高等科を四級に分かつ、各等科毎級の授等を六か月とする。

第7条 各等科は卒業試験を経て進等せしめるものとする。

第8条 各等科試験合格の者へは、卒業証を授与すべし。

第9条 各等科毎級の生徒はもちろん、同時に試験を要するといえども、特別進歩のものは臨時試験を施し、昇級せしむるべし。

第10条 年中授業日数は、おおよそ二百六十日とする。

第11条 授業時間は、一日五時間、一週二十八時間とする。
ただし、初等科第六級に限り、一日四時間、一週二十三時間とする。

第12条 年中授業時限、左のごとし。
九月十一日より十月十日に至る 午前八時始業 午後二時終業
十月十一日より翌年四月三十日に至る 午前九時始業 午後三時終業
五月一日より六月三十日に至る 午前八時始業 午後二時終業
七月一日より九月十日に至る 午前七時始業 正午十二時終業
ただし、土地の情況により始終時限を変更せんとするときは、府庁の認可を得るものとする。

第13条 年中休業は、日曜日・土曜日(二時間)祭日・祝日、夏期八月一日より同二十一日に至る、冬期十二月二十五日より翌年一月十日に至る。
ただし、夏期休業前後十五日間は、午前三時間の授業とする。

以下略(原文は旧仮名遣い)

15(1882)年2月9日

 大阪府が、町村立小学校職員の準官等名称月俸表を制定する。施行は同年5月15日。

町村立小学校職員準官等名称月俸表(府布令集3巻337頁)

準官等 11等以下13等以上  
小学校  
準官等 11等 12等 13等 14等 15等 16等 17等
名称 一等訓導 二等訓導 三等訓導 四等訓導 五等訓導 六等訓導 七等同
俸額 25円 22円 20円 17円 15円 12円 10円
  同準訓導  
名称 一等準訓導 二等同 三等同  
俸額 9円 8円 7円  
  同補助員  
名称 一等助教 二等同 三等同  四等同  
俸額 8円 7円 6円 5円  

15(1882)年4月7日

 大阪府が、小学校生徒心得を制定する。

大阪府小学校生徒心得(府布令集3巻360頁-)

第1条 生徒は常に行状を正しくし、かつ礼儀を守り、総て教師の指示に従うべし

第2条 上校(登校)は始業時限の十分前たるべし

第3条 上校下校とも必ず父母あるいは長上に告げ、敬礼をなすべし

第4条 受業(授業)用品は遺忘なく持参すべし

第5条 受業中教師の許可なくして、みだりにその席を離れるべからず

第6条 受業中耳語雑談をなすべからず

第7条 書籍・筆・紙・墨など受与はもちろん、貸借をなすべからず、もしやむを得ざる場合においては、教師の許可を受くべし

第8条 書籍・器械は汚損せざるよう丁寧に取り扱うべし

第9条 教師の許可なくして、校内備え付けの器具に手を触れるべからず

第10条 校中の建具壁などを汚し、又は植物を採伐すべからず

第11条 校内並びに上校下校の途中とも、疾走大呼あるいは悪戯危険なことをなすべからず

第12条 校内へ雨天衣を着、または首巻をまとい、あるいは冠帽のまま入るべからず

第13条 上校の節、各自履傘などを整置し、みだりに他人の物を借用すべからず

(原文は旧仮名遣い)

15(1882)年4月20日

 大阪府が、小学区の位置等の調査を求める。

15(1882)年8月22日

 大阪府が、小学校試験規則を定める。

小学校試験規則(府布令集3巻473頁-)

第1条 試験を分かち、月例、定期、卒業の三種とする。

第2条 月例試験は、毎月末一か月中修めしところの学力を試み、座次を進退するものとする。

第3条 定期試験は、一か年に二回とし、毎一期(すなわち六か月)修めしところの学力を試み階級を定むるものとする。
ただし、生徒の進歩により臨時試験を要するときは、郡区長の認可を受け施行するものとする。

第4条 卒業試験は、初等・中等若しくは高等科の全級を終うる毎に、該等科の学力を試み卒業の当否を判ずるものとする。

第5条 月例及び定期試験は、その校受持ち教員これを担当するものとする。
ただし、数校連合して試験を行うときは、各校受持ち教員協議の上その担当を定むべし。

第6条 卒業試験は、師範学校教員これを担当するものとする。
ただし、時宜により小学校教員をして補助せしむることあるべし。
⇒明治16年5月5日改正
卒業試験は、その時々郡区長において小学教員中より委員を指名し、これが担当せしむるものとする。

第7条 定期試験は、期日を定め前もって所轄郡区役所へ届出づべし。

第8条 卒業試験は、その等科及び受験者の族籍姓名年齢を詳記し府庁へ願出つべし。
⇒明治16年5月5日改正
卒業試験は、その等科及び受験者の族籍・姓名・年齢を詳記し、郡区役所へ伺出べし。

以下略(原文は旧仮名遣い)

※ 規則の書式によると卒業証書には、「大阪府何郡区第何学区公私立何々小学校」と記すこととされている。

17(1884)年5月6日

 大阪府が、「学校沿革誌、日誌調製基準条項」を定め、沿革誌3通を作成し、1通を学校に残る2通を郡役所と府に提出することを求める。現在、殿山第二小学校に残る沿革誌は「招提尋常小学校」の用紙に記入されており、この時点で作成された「沿革誌」は現存していないものと考えられる。

17(1884)年7月1日

 大阪府が、戸長役場管理区域を設定する。坂村は禁野村、磯島村、渚村、小倉村とともに第27戸長役場、宇山村と養父村は招提村、上島村、下島村とともに第28戸長役場の管内となる。

17(1884)年11月15日

 大阪府が、「学区併合促進の件」を通知し、諸経費を節減して教員の充実を図るなどのために学校の統廃合を促す。

18(1885)年2月24日

 内務省が國道(国道)表を告示する。壹號(一号)は「東京ヨリ横濱ニ達スル路線」、貳號(二号)は壹號の「神奈川」から分岐して「大阪港ニ達スル路線」とされ、京街道(上島村から現在の京阪電車沿いに南下、明治橋を渡り阪今池公園の西側を通って三栗方面へ向かう道)は貳號の一部となる。

18(1885)年4月

 招提小学校の校区に上島村と下島村が加わる。学区併合促進を受けて、阪(村)小学校が廃止されて、招提小学校と渚小学校に吸収されたと考えられる。

18(1885)年7月

 梅雨の長雨により6月18日に淀川の伊加賀堤防が決壊、7月に再度決壊するとともに、船橋川、穂谷川、天野川などの支川も決壊する。

18(1885)年12月20日

 内閣制度が創設され、文部卿を廃止して文部大臣任命される。

19(1886)年

 前年の大洪水の経験から、大阪府茨田讃良郡八十個町村水利土功会がつくられ、関係町村を10区域に分けて堤防の防禦にあたることになる。(市史4巻277頁)交野郡では、楠葉村山城界から上島村境が第1区、坂村境までが第2区、茨田郡岡新町村境までが第3区とされる。

19(1886)年4月9日

 「教育令」に代えて「小学校令」が制定される。小学校の課程は尋常・高等各4年の2段階制となる。ただし、実際には3年制の尋常小学校も並存する。

19(1886)年5月25日

 小学校令制定を受けて、「小学校ノ学科及其程度」が制定される。尋常科の学科を修身、読書、作文、習字、算術、体操とし、状況によって図画と唱歌を加えることができ、高等科では地理、歴史、理科、裁縫(女子)を加え、状況によって英語、農業、手工、商業を加えることができるとされた。作文が読書から独立、自然関係科目が理科に統合、英語が加わったことなどが特徴。

20(1887)年4月

 小学校令により、尋常小学校と高等小学校が設けられる。坂、宇山、養父、招提、上島、下島の各村と楠葉、船橋、田口、片鉾、甲斐田、中宮、渚、禁野、小倉、磯島の計16か村の組合により、坂村の片埜神社に交北高等小学校が設立される。この「交北」は、交野郡北部を意味するもの。

校区周辺の尋常小学校(市史4巻358頁104表)

学校名 所在地 学区
招提尋常小学校 招提村 招提、宇山、養父、上島、下島
牧野尋常小学校 渚村 坂、渚、小倉、磯島、禁野

20(1887)年11月4日

 大阪府から大和地方を分離して、奈良県を再置する。

21(1888)年1月

 津田高等小学校と平松高等小学校が廃校になり、交北高等小学校に統合される。これに伴い、校地を同じ坂村の清岸寺に移転する。

21(1888)年5月

 交北高等小学校が出口村に新築移転する。

22(1889)年3月31日

 市制町村制施行前行政区画図(府史7巻付図)
 町村制施行により、赤字の9村が合併して牧野村となる。


22(1889)年4月1日

 町村制が施行される。招提村は単独で交野郡招提村となり、招提村を除く第27、28戸長役場の区域が交野郡牧野村となる。招提村役場は当初、招提小学校内に置かれ、牧野村役場は渚院跡に置かれる。旧村名は大字となるが、「坂」村は大字「阪」となる。大坂が大阪に変わったように、明治期からは既に「阪」村の標記も使われるようになっていた。また、「楠」葉村と船橋村が合併して「樟」葉村となる。

22(1889)年8月

 豪雨により、淀川の渚堤防(牧野村大字渚字的場)が27間6分(約50m)にわたって決壊するなど各地で洪水となる。牧野村では、学校をはじめ数軒の人家が流失する。(市史4巻189頁-)朝日新聞によると、「鵲橋上位の堤防は、東側にて三十間許り破壊し、牧野村の学校外六戸流失したれど、人畜は死傷なし」としており、学校の流失の原因は渚堤防の決壊によるものではなく、また、位置関係被害規模等から牧野尋常小学校以外の学校と思われるが、詳細は不明。

23(1890)年5月

 府県制、郡制が公布される。地域によって施行時期が異なる。

23(1890)年10月

 教育ニ関スル勅語(教育勅語)が発布される。

23(1890)年10月6日

 第二次小学校令が公布される。実施は明治25年4月から。小学校の基本的性格が確立する。「小学校ハ児童身体ノ発達二留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活二必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」

26(1893)年4月

 招提尋常小学校の校区が招提村のみとなる。町村制を受けて、宇山、養父、上島、下島が牧野尋常小学校の校区になったと考えられる。

28(1895)年6月

 招提村、山田村、津田村、菅原村の4村が共同で伝染病対策のための「避病院」を菅原村藤阪に建設する。後の長尾病院・京阪奈病院、現在の枚方公済病院と考えられる。

28(1895)年12月23日

 大阪府茨田讃良郡八十個町村水利土功会が、淀川茨田堤防水害予防組合に改組される。樟葉村と牧野村は組合に参加しなかったと思われる。

29(1896)年4月

 交野郡と茨田郡、讃良郡が合併して、北河内郡となる。

29(1896)年5月

 政府が前年に成立した河川法により淀川改良工事に着手する。

29(1896)年9月11日 午前8時55分

 淀川の渚堤防が20間(約36m)にわたって決壊、牧野村渚、磯島、坂(阪)、養父、禁野の家屋280戸余、田畑256町歩(約254ha)が浸水、死者は無いものの940人が救助を受ける。朝日新聞にも同様の記述があるが、渚堤防が決壊して養父が浸水することは考えられないので、小倉の誤りと考えられる。牧野村では、湛水を天野川に排出するために天野川北岸の堤防5箇所を切って放水するが、その影響で南岸4箇所の堤防が決壊し、牧野村禁野や枚方町の田畑や人家が浸水、争いとなる。(市史4巻300頁-)

30(1897)年頃

 この頃から「一ノ宮」を「片埜神社」と改める。

31(1898)年6月1日

 郡制が施行され、北河内郡が行政区画から地方自治体になる。

32(1899)年7月1日

 府県制が施行され、大阪府が行政区画から地方自治体になる。

33(1900)年8月

 第三次小学校令が公布される。尋常小学科が4年制に統一され、義務教育化される。また、小学校令施行規則により、4月学年開始が制度化、読書、作文、習字の3科目が国語に統合される。

34(1901)年9月

 交北小学校を設置する組合から牧野村が離脱し、牧野尋常小学校に高等部を設置して、牧野尋常高等小学校となる。

38(1905)年11月

 樟葉村楠葉、牧野村上島、下島、養父、宇山が穂谷川樋普通水利組合を結成する。楠葉の悪水を船橋川、穂谷川をくぐって牧野村で淀川に放流するための組合。船橋川をくぐる樋管は樋ノ上樋と呼ばれ、内部に逆流防止のための門扉を有していた。(樋ノ上の地名の由来)また、穂谷川をくぐる樋管は六軒樋と呼ばれている。

40(1907)年3月

 小学校令が改正される。実施は、明治41年4月から。尋常小学科の修業年限を2年延長し、義務教育6年制が確立される。

41(1908)年

 牧野村に60万馬力の蒸気ポンプによる排水施設が建設される。自然流下に頼ってきた水利慣行を変える契機となる。

41(1908)年9月1日

 修業年限の延長に伴い、招提尋常小学校が招提村日置1329番地ほかの新校舎に移転する。現在の招提公民館付近。

42(1909)年4月25日

 久須々美神社や粟倉神社など10社が片埜神社に合祀される。(朝日新聞明治42年4月27日)「府下北河内郡牧野村は郷社一、村社十ありしが、今般内務省訓令の趣旨に基き、大字渚御殿山神社を除く九村社を、大字阪鎮座式内郷社片埜神社へ合社し、二十五日盛大なる遷宮式を挙げ、此の地方近来の賑ひなりき。因に、同社は今回京阪電鉄の開通を機とし、周囲数町歩に神園を設け、大に神社の繁栄を計るとなり。」久須々美神社は式内無格社で、村社とは別に合祀される。(3月31日)

43(1910)年4月15日

 京阪電鉄が開通し、牧野停留所(駅)が開業する。大阪(天満橋)まで20銭、京都(五条)まで25銭。

43(1910)年

 淀川改良工事が竣工する。明治29年以来のこの工事により、南郷や毛馬に洗堰が設けられたほか、三川合流点の付け替え、巨椋池の宇治川からの分離、新淀川の掘削などが行われる。

43(1910)年9月

 牧野村で小学校卒業者を対象にした青年夜学会が設けられる。北地区は清岸寺、中地区は牧野校、南地区は正光寺で授業を行う。招提村でも青年会に付設される。

45(1912)年1月14日

 大阪歯科医学校(現在の大阪歯科大学)が大阪市内(西野田)で開校する。

45(1912)年4月1日

 交北高等小学校の廃止に伴い、招提尋常小学校に高等部を設置し、招提尋常高等小学校となる。

大正5(1916)年10月

 牧野村の青年夜学会をまとめて、牧野尋常高等小学校に農業の実業補習学校が付設される。(殿一誌、ただし大正3年とする資料もある。)招提尋常高等小学校に実業補習学校が設けられたかどうかは不明。

6(1917)年10月1日

 暴風雨で牧野村上島の船橋川が140間(約255m)にわたって決壊、牧野村では200戸が浸水する。(市史4巻482頁)10日夜に再浸水して上島、下島、養父の数十戸が浸水、京阪電車は18日まで枚方~三条が不通になる。

7(1918)年11月3日

 スペイン風邪(急性インフルエンザ)の大流行により、招提尋常高等小学校でも教員3名、生徒73名が罹患、3日から5日間の休校となる。(朝日新聞大正7年11月4日)

8(1919)年11月8日

 大正6年の淀川洪水(大塚切れ)を受けて、淀川左岸水防組合が結成され、淀川茨田堤防水害予防組合と樟葉村、牧野村の水防用具や施設が引き継がれる。(半額を寄付、半額を買収)牧野村の阪、上島、下島、宇山、養父は、船橋川境橋上流210間(約382m)の所から小寺堤までの1,921間(約3.5km)を担当する上牧野水防区に属することになる。(市史4巻280頁87表)

9(1920)年4月1日

 内務省が「國道ノ路線」を告示する。一號は「東京市ヨリ神宮(伊勢神宮)ニ達スル路線」、二號は一號の「三重県三重郡日永村(現在の四日市市)」から分岐して「鹿兒島縣廳(鹿児島県庁)所在地ニ達スル路線」とされ、京街道は二號の一部となる。

12(1923)年4月

 郡制廃止法が施行され、郡は行政区画に戻る。(郡役所は大正15(1926)年6月30日まで存続)

12(1923)年

 京阪自動車株式会社(現在の京阪バス)が設立され、営業を開始する。

5(1926)年7月1日

 牧野尋常高等小学校の実業補習学校を青年訓練所に改める。