【ダンプ松本の壮絶人生「極悪と呼ばれて」:連載4】高校は大宮開成高を選んだ。「プールが新設されて水泳部ができる」と聞いたからだ。今は中高一貫の共学高になったが、当時は女子高。入学すると「変質者がウロウロすると困る」とか何だかよく分からない理由でプール建設は中止。新設されたのは体育館だった。何だそりゃ。水泳をやろうと思っていた私はいきなり挫折した。

 この時期になると母は内職を辞め、熊谷市内のピストン加工会社に勤め収入も安定していた。父親は相変わらず働いていない。私はもうアパートの一部屋を自室に使っていたので、このころを最後に、父とは45年も会話を交わさなくなる。憎悪は消えるわけもない。このことは後にまた話そう。

 運動神経には自信があった。でもバレーボールやソフトボールを始めようと思っても、中学からやっていた人間にかなわない。3年間、補欠でいるよりは、一から始めて最後にレギュラーになれる部を選ぼうと考えた。となるとゴルフかアーチェリーしかなかった。いずれも貧乏人とは縁のないお金持ちのスポーツだよな。今思えばゴルフを選んでいれば大金持ちになってたかもしれないな…。「腕の運動だけでいいから水泳よりは楽かな」とアーチェリー部を選んでしまった。

 開成高はアーチェリーの名門校だった。練習は早朝、放課後、合宿と厳しい。道具は学校にあるので矢だけ自前。それでも母に負担をかけてしまった。私は補欠だったが1年と2年の時にはインターハイまで進んだ。2004年アテネ五輪の時、この学校の先生(山本博=57。当時は開成高校教員、現日体大教授)が銀メダルを取って「中年の星」と話題になった。私は「こんな先生いたっけ?」と驚いてたら、妹が「何言ってるの。お姉ちゃんより年下だよ」って。そりゃそうだ。

 3年時には部長になり体育委員にもなった。一瞬に全神経を集中させる競技は充実感があり、人をまとめるのも楽しかった。多くの先輩が日体大に進まれていたので「体育の先生になるのもいいかな」と考えた時期もあったけど、肝心の勉強がまるでダメだった。それより女子プロレスという最優先させるべき夢があった。

 マッハさんの時代は終わり、1976年からはビューティーペア(ジャッキー佐藤、マキ上田)が空前のブームを巻き起こしていた。私のプロレス熱は一気にドカーンと火を噴く。高校の同級生5人とビューティーペアの親衛隊を作ると、厳しい部活の合い間を縫って応援に行った。全員お揃いのオーバーオール、母に縫ってもらったはっぴ…。松永会長に「お前ら、また来たのか!」とあきられたほど通った。お客さんに言うセリフか(笑)。電車通学で知り合った男子に告白され「ごめん、私はジャッキーさんが好きなの!」と断ったこともあった。

 観戦費用は毎朝4時に起きて牛乳配達のアルバイトでまかなった。高2の時はオーディションには落ちたんだけど、今考えると底知らずのエネルギーだ。高校卒業後は川口市内のベーカリーに住み込みで就職も決まっていたのだが、79年4月1日、ついにオーディションに合格する。就職を1週間後に控えたギリギリで、夢だった女子プロレスへの一歩を踏み出した。だが道は平坦ではなく、デビューまで約1年半も要することになる。練習生として耐える日々が始まった。

☆だんぷ・まつもと=本名・松本香。1960年11月11日、埼玉・熊谷市出身。1980年8月8日、全日本女子プロレス・田園コロシアムの新国純子戦でデビュー。84年にヒール軍団・極悪同盟を結成してダンプ松本に改名。長与千種、ライオネス飛鳥のクラッシュギャルズとの抗争で全国に女子プロ大ブームを巻き起こす。85年と86年に長与と行った髪切りマッチはあまりに有名。86年には米国WWF(現WWE)参戦。88年に現役引退。タレント活動を経て03年に現役復帰。現在は自主興行「極悪祭り」を開催。163センチ、96キロ。

(構成・平塚雅人)