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不求一身安
不求一身安上條博士の自筆サイン

「不求一身安」は、本学の創立者故上條秀介医学博士の座右の銘でした。戦前に上條博士の好んだ座右の銘は、「至誠一貫」であり、こちらの方は昭和医学専門学校初代校長でありました岡田和一郎も上條秀介と同様に、公に説いていました。至誠一貫を上條博士自身は「モットー」と言っていましたが、これが本学の校是となり建学の精神へと発展し、現在に至っております。

「不求一身安」は、“一身の安きを求めず”と読み、恐らくは上條博士の造語であったろうと推測されています。意味は、自分一人だけの保身や保全を求めてはならないということになります。この言葉は昭和27年に出版されました評伝『上條秀介』の見開きにも、博士の自署に添えて書かれており、戦後特に好んでサインしております。

「一身」の付く故事成語としては「一身是膽」“一身是れ胆(たん)”が中国の『三国志』に見られ、これは全身に胆力がみなぎり、どんな苦境や逆境にあっても大胆で勇気があることを意味する言葉として有名です。上條博士は漢学の素養もあり、「一身是膽」も当然のことながら知っていたに違いませんが、そのような勇ましい言葉を敢えて使わず、「不求一身安」を己れの信念とし、これを広めました。

昭和医専で精神医学を担当した植松七九郎教授(故人)は、上條博士のことを「静かな平穏な世界に、安楽椅子に、フンゾリ反っておれない性分だ。」と評しておりました。事実、上條博士は昭和医専の創立後も石井吉五郎教授、吾妻俊夫教授らと図り学校の整備充実はもとより、附属病院で医療の発展に力を注ぎました。

また、敗戦後はインフレと食料欠乏のため病人の食事の質と量を確保することが困難でしたが、博士は社団法人病院連合会を組織し、自ら先頭に立って築地魚市場に事務所を置き、病人のための魚類、野菜などに心を配りました。官公私立を含めての病院の全国組織「日本病院会」が創設されると請われて初代会長に就任いたしました。

公的な活躍の一方、上條博士は戦後の学制改革の中で昭和医専を昭和医科大学へ昇格させ、また、6年制医科大学へ移行することなどを計画し実行しました。しかし、その資金繰りや図書などの備品の確保には多くの方々の善意に助けられましたものの大変苦労したと伝えられております。

「不求一身安」は、そうした苦境に立った折りの、自分自身への励ましの言葉でありましたし、それは又、大学を支える職員一人一人への遺言でもありました。

上条博士02
校歌について

昭和大学校歌は、齋藤茂吉作詞、尾熊善次郎作曲により、昭和医学専門学校校歌として昭和4年に制定されました。制定までには、こういうエピソードがありました。
昭和3年6月に、第1回生の総意により校歌作成の要望が出され、アンケートの結果、圧倒的多数の支持により、歌人であり医学博士であった齋藤茂吉先生に作詞を依頼することが決定されました。精神医学の植松七九郎教授を通じて、茂吉先生に依頼したところ、快くお引き受け下さいました。

その頃の茂吉先生は、父君の経営する青山脳病院全焼に伴う再建での苦労、院長職を引き継いだ後の苦悩が重なっていた時期であったので、この校歌作詞の依頼には、逆に喜んで頂けたようです。校歌は9月中旬に作詞が完成し、茂吉先生のご紹介で尾熊先生に作曲を依頼し、こちらの方も同年10月には完成しました。その時には尾熊先生がわざわざ来校され、全生徒に歌唱の練習をして頂けたということです。

昭和13年は、昭和医専の創立10周年にあたるので、10周年記念祭を挙行するに際し記念歌を制定することになりました。詞は全生徒から募集し、応募された作品は医専教授であり俳人であった水原秋櫻子先生にお願いし、選を賜りました。その結果、2年生の牧野進君の作品が当選し、東京音楽学校の橋本國彦氏に曲をつけて貰うことになりました。

史料室に展示されているレコードにはその折の記念歌「吾等が誇り」と校歌の、二曲が吹き込まれています。時代を反映し軍歌調でありますが、本学の創成期に相応しい、活気ある歌となりました。
昭和医専校歌は、戦後一時歌われない時期もありましたが、やはり作品が良質であった為か、途絶えることなく現在は昭和大学校歌として親しまれています。

昭和医学専門学校

校歌


作詞:齋藤 茂吉  作曲:尾熊善次郎

一)
ここ城南(じょうなん)の旗ケ岡(はたがおか)
吾等(われら)が母校(ぼこう)の礎(いしずえ)かたし
康平寛治(こうへいかんじ)の名(な)も高(たか)き
古将(こしょう)の心(こころ)は吾等(われら)がこころ
雁(がん)のみだれに道理(どうり)知(し)る
見聞覚知(けんもんかくち)の正(ただ)しきねがい
いざや学(まな)ばん吾(わ)が友(とも)よ
二)
かがやく岡(おか)は旗ケ岡(はたがおか)
ここに一千健児(いっせんけんじ)がこもる
富士(ふじ)の高峰(たかね)をあおぎつつ
誓(ちか)うは抱負感激(ほうふかんげき)あらた
軽薄不安(けいはくふあん)の世(よ)にありて
常(つね)に動(うご)かぬ節操(みさお)を保(たも)ち
いざや奮(ふる)わん吾(わ)が友(とも)よ
三)
眺(なが)めは清(すが)し旗ケ岡(はたがおか)
自治(じち)の健児(けんじ)意気(いき)こそあがれ
けがれに染(し)まぬ益良夫(ますらお)が
真(しん)と善美(ぜんび)の久遠(くおん)の理想(りそう)
白衣(びゃくい)は吾等(われら)が象徴(しょうちょう)ぞ
弥(いや)あたらしき社会(しゃかい)の道(みち)を
いざや進(すす)まんもろともに

四)
そびえて高(たか)し旗ケ岡(はたがおか)
ここにいそしみ撓(たゆ)まぬ健児(けんじ)
青春(せいしゅん)の血(ち)の高鳴(たかな)りに
万有学(ばんゆうがく)のさきがけなして
あかね射(さ)しくるひんがしの
無辺(むへん)の空(そら)に轟(とどろ)きわたり
いざや讃(たた)えん吾(わ)が母校(ぼこう)

音声ファイルのダウンロード

昭和大学校歌(コーラス)
昭和大学校歌(伴奏のみ)

動画

校章の由来
校章


昭和大学の校章は「百合」です。

その由来は、本学の前身であった昭和医学専門学校が昭和21年(1946)に昭和医科大学へ昇格したことから始まります。昭和医科大学予科の記章制定のために学内公募が行われたのです。応募のあった中から選ばれたものがこの清楚で美しい百合の花。早速、新入生のバッジにデザインされ贈られました。

その後、昭和39年(1964)に本学は待望の薬学部を新設し、昭和医科大学の名称を現在の昭和大学に変更いたしましたが、その折に多少の修正を加え、以来、百合のデザインに大学名を入れたものを校章とすることに致しました。

現在では、附属の各学校に至るまで百合の校章で統一しています。建学の精神である「至誠一貫」と、百合のような清楚な美が、人間教育の中で見事に調和されることを本学は願っております。
制服・制帽

本学にはかつて制服があり、昭和3年(1928年)に本学の前身である昭和医学専門学校が創立されたと同時に決められました。

その頃の制服はサージの背広で、白のワイシャツ、黒のネクタイ、黒靴でした。帽子は黒のソフト、ボタンはエボナイト製の物で、背広は三つボタン、ボタンの表面には昭和医専のマークが刻印されていました。他に襟章として金属製の同型のマークをしていました。黒ずくめの制服、制帽はさすがに目立ちました。どこへ出かけても、誰もが、昭和医専の生徒と判るほど真っ黒でした。背広にソフト帽という服装を決めた理由は、「医学生は常に紳士であれ」という本学の理念に基づいています。

「学生時代に世人から嫌われる様な者は卒業して直ちに紳士となることはできないし、患者さんの信頼と尊敬を得ることは不可能である。」とは、創立者上條秀介博士の言葉です。それ故、本学の生徒に対しては紳士として遇すると同時に、紳士としての服装、態度の訓練をしました。

しかしながら、時代の流れと共に、この制服、制帽も変わっていきました。昭和12年に起きた日中戦争を契機として、日本は戦時色をさらに深めていきます。昭和13年には生徒の集団勤労奉仕が始まりました。15年には国策により享楽的飲食店への出入りが禁止されることになりました。さらに防空演習、退避演習が日常的となり、秋には全生徒五分丸刈りの断髪を本学でも実施するに至りました。
この頃、軍部から本学の学生の服装について厳しい批判があったようでしたが、上條博士は「紳士たれ」の方針を貫きます。しかしながら、時代の波は如何ともしがたく、昭和16年4月の新入生から臨時措置として従来の黒の背広とソフト帽を廃止し国民服(乙号)を着用させました。ただ、戦闘帽は拒否し、黒色角帽の着用を義務づけました。戦闘帽では学生であることが判別できないというのがその理由でした。

米国、英国に宣戦布告し太平洋戦争が始まると、医師の養成が急がれ、教育年限を短縮すると共に、昭和19年には入学定員を増員することが義務づけられました。角帽もいつしか戦闘帽となります。以後、本学で正常な教育が行われるようになるのは、敗戦後のことです。

この制服、制帽にはそのような歴史が刻まれています。
昭和医学専門学校創立時の制服1
昭和医学専門学校創立時の制服2
立会川と医専橋

立会川は、目黒区碑文谷の弁天池に発し、品川区大井まで流れ東京湾に注ぐ川である。両地はかつて「荏原」にあったので、以前は荏原川と称されていたという。
立会川の名称の由来には諸説があるが、在郷の芳根弥三郎氏(故人)の『荏原中延史』によれば、源平の合戦の際に、この川を前衛として源氏軍が兵備を築き平家の来襲に備え、この川に対陣すること長きに亘ったため、立会川と命名されたとしている。その後、本学の上の丘陵には武蔵平塚城が築かれた。応任2年(1468)には太田資持率いる上杉軍が平塚城主豊島泰明を攻めこれを破ったが、このように立会川は、しばしば戦乱に巻き込まれたという。

しかし、戦乱の収まった江戸時代以降、明治、大正の頃にかけて、立会川の清冽な水は「百花さき競ふ野面をうるほし、羊腸の土手には魚釣る子供等が点在して、のどかな風景がみられた」(『荏原中延史』)。鯉、鮒、鰻、鯰、はや、うぐいなどが立会川で沢山釣れ、鍋鶴、鴨も居た。
明治14年に作成された品川付近測図を見ると、当時の品川近傍は品川宿を除いては全くの農村地帯であり、荏原台地を流れる立会川・目黒川付近は水田として利用され、台地上はほとんど普通畑であったことが分かる。大正5年の品川図でも、立会川をはさみ水田があり、この平塚村付近はまだ農村部として残っている。
農作物は、米のほかに、明治時代中期は竹の子、胡瓜、茄子、しろ瓜、大根、西瓜、漬け菜、里芋などを作っており、明治後期になると、天王寺カブ、小松菜、大麦、じゃがいもが加わってくる。大正初めには、新しく小麦、西京菜、葱、冬瓜、ほうれんそう、薩摩いもなども作られるようになった。(旧中延村芳根家文書参考)

明治の初め頃、立会川には「蕃神橋」がかっていた。この橋は旧昭和大学病院正門前あたりにあったが、のちに「屋敷下橋」と言うようになった。この橋とは別に、昭和5年11月に鉄筋3階建ての本校舎(現在の病院入院棟の場所)が完成した頃、本校舎と伝染病棟(現中央棟敷地内)の前付近に「医専橋」がかかった。

当時を回顧して、総婦長であった故鈴木モヨ氏は、「昭和3年10月就職。田んぼの中にバラックがぽつり。これが今の旧外来玄関である。人家、商店もなく、今の上條講堂は鏑木坂と称し、古木の茂みの中に鏑木邸のみ見え、夜はフクロウの鳴き声が聞こえる。病院はその下、立会川もほとんど同じ地面にあり、周囲は葦(アシ、ヨシ)が人の背丈ほどのび、道端より蛇がニョロニョロと出る。」と記している。

医専橋はその後、他の橋と同様に川の汚染、下水道整備、交通渋滞の解消などのため立会川を暗渠化するに伴い、昭和46年3月までに撤去された。

昭和医専本校舎と立会川の雪景色昭和医専本校舎と立会川の雪景色
病院旧正面玄関前にあった屋敷下橋病院旧正面玄関前にあった屋敷下橋
戦前のクラブ活動

現在の学生諸君の学友会の前身は、昭和医学専門学校学友会で、同学友会は昭和3年5月に発足しました。学友会には総務部が置かれ、その下に学芸部と体育部がありました。これは現在の各学部学生会に文化部と体育部が置かれているのと全く同じです。当初学芸部には、図書部、編集部、音楽部、講演部があり、体育部には旅行部、蹴球部、剣道部、柔道部、水泳部、野球部、庭球部、卓球部、陸上競技部、籠球部がありました。

編集部は『学友会誌』の編集、音楽部は音楽会の開催、講演部は弁論大会の開催を行い、また、旅行部は登山、キャンプ、温泉旅行、スキー合宿などを実施していました。陸上競技部は校内マラソン大会、水泳部は校内水泳大会、野球部は校内野球大会、蹴球部が校内サッカー大会を開催するなど、極めて活発でした。

体育部の対外試合は岡田和一郎初代校長の教育理念により禁止されていましたが、徐々に解禁され、他校との交流が持たれました。部員数は、籠球部の部員は昭和6年当時19名を擁し、水泳部が8名程度、野球部は21名、蹴球部9名の記録があります。
その後、昭和7年に旅行部が廃止され、山岳部が発足。拳闘部(12名)、馬術部(35名)、モーター部、写真部が旗揚げし8年には弓道部、13年には空手部が発足しました。また、15年には俳句同好会が水原豊教授(俳人、秋櫻子)の指導の下に発足します。なお、山岳部内にあった山岳診療所は、当初19名の部員を有し、昭和8年から総務部内の診療部に属して、長野県の白馬診療所等での診療に従事しました。

-出版活動も盛ん-

戦前は、昭和医専第1回生が学友会として『学友会誌』を創刊するなど、出版活動は活発でした。『学友会誌』は言わば生徒諸活動の年鑑であり、クラブ活動の概況、その年の試合の結果、学校の日誌、学友会での審議事項、予算・決算などが記録されていました。
また、昭和10年創刊の『昭和医専学友新聞』(のち、『昭和医専新聞』と改題)もその編集、取材から発行事務まで生徒諸君がタッチし、独自の視点を取り入れ意欲的に長く刊行されました。
創設時の野球部創設時の野球部(1932年頃)

戦前のクラブ活動1

戦前のクラブ活動2