栃木県内の空襲
犠牲者785人以上
犠牲になったのは海を渡った将兵だけでない。県内各地の空に突然現れた爆撃機や戦闘機は、焼夷弾で街を焼き払い、爆弾で集落を破壊、機銃掃射で逃げ惑う市民を狙い撃った。下野新聞社の集計によると、県内の空襲による犠牲者は少なくとも785人。戦時下の日常を生き抜いていた県民に刻まれた衝撃、恐怖、悲しみは今も消えることはない。戦後70年の節目を迎えた今、体験者の記憶や思いを未来へとつなぐため、あらためて県内の空襲を掘り起こした。
(このサイトは2015年1月6日掲載の特集面を再構成したものです。年齢などは掲載時のものです)
年表でみる空襲
太平洋戦争と本県関係部隊、県内空襲をめぐる動き
県内初空襲
1機が国鉄(現JR)西那須野駅付近に爆弾を投下
足利(百頭空襲)[記事へ]
中島飛行機太田製作所(群馬県太田市)の空襲に合わせて、B29の一部が爆弾・焼夷弾を投下。民家70~80戸のほとんどが破壊され、焼失。負傷者多数
小山(城北地区)
艦載機の流れ弾により、家の中にいた14歳の少女が犠牲に
(3月10日に東京大空襲)
(6月に沖縄戦終結)
那須烏山 旭1・2丁目、上境
米軍機が焼夷弾を投下。民家8戸全半焼
宇都宮(市内各所)
艦載機数十機が清原地区の陸軍宇都宮飛行場や、上横田町周辺の宇都宮南飛行場、江曽島地区などに銃爆撃
高根沢(宝積寺駅)
5機で飛行していた米軍機のうち1機が列車停車中の国鉄(現JR)宝積寺駅に機銃掃射。4人負傷
那須塩原
艦載機数十機が陸軍の那須野飛行場周辺に銃爆撃
足利(川崎町)
艦載機が銃爆撃。2人負傷
栃木(新井町)
米軍機3機が爆弾3発を投下。畑にいた女性が犠牲に。数人負傷
宇都宮大空襲 [記事へ]
115機のB29が宇都宮周辺に飛来。午後11時19分から約2時間20分にわたり、焼夷弾1万2704個(約800トン)を投下。中央国民学校(現中央小)を爆撃の中心点として、当時の市域の65%を焼失。1128人以上負傷
鹿沼(泉町、戸張町、文化橋町)
宇都宮大空襲に合わせて、B29の一部が焼夷弾を投下。民家256戸焼失、18人負傷
真岡(中心部)
宇都宮大空襲に合わせて、B29の一部が、芳賀病院(現芳賀赤十字病院)周辺に焼夷弾を投下。9歳の少年が犠牲に。民家30~40戸焼失
栃木(泉町)
米軍機が現在の万町交番付近などに爆弾数発を投下。警防団員が犠牲に
那須(芦野)
艦載機数機がロケット弾を発射し、機銃掃射。駐在所の防空壕で2人が犠牲に。2人負傷
宇都宮(宇都宮駅周辺 28日)
P51戦闘機が国鉄(現JR)宇都宮駅周辺で機銃掃射。日清製粉宇都宮工場で金属回収作業をしていた下野中(現作新学院高)生徒5人も犠牲に
宇都宮(市内各所 30日)
艦載機が栃木師範学校(現宇都宮中央女子高)や城山村南国民学校(現明保小)などに銃爆撃
小金井空襲[記事へ]
戦闘機が国鉄(現JR)小金井駅に向かう上り列車に機銃掃射。到着した列車と、戦没者の遺骨を出迎えるために駅前に集まっていた人々にも銃撃した。70~80人ほど負傷
小山(小山駅)
小金井駅を襲ったとみられる戦闘機が国鉄(現JR)小山駅水戸線ホームを機銃掃射。十数人負傷
高根沢(宝積寺駅)
艦載機3機が列車停車中の駅に機銃掃射。2人負傷
(8月6日 広島に原爆投下、9日 長崎に原爆投下)
宇都宮(市内各所)
艦載機が宇都宮飛行場や宇都宮南飛行場、中心市街地に銃爆撃
大田原(北金丸)
艦載機数十機が陸軍の金丸原飛行場や、中島飛行機宇都宮製作所大田原分工場周辺に銃爆撃
那須(黒田原地区)
金丸原飛行場を襲ったとみられる艦載機がロケット弾を発射。破片で乳幼児が犠牲に
足利(本城1・2丁目、西砂原後町)
B29が焼夷弾を投下。十数戸が焼ける。数人負傷
(8月15日 昭和天皇、戦争終結の詔書をラジオ放送)
終戦直後の県都
宇都宮大空襲
街包む炎、苦しみ消えず
揺れる背中と、飛び交う火の粉が脳裏に焼き付いている。
1945年7月12日午後11時19分。小雨の宇都宮市上空に飛来した米軍爆撃機B29は、県都を焼き尽くし市民の戦意をくじこうと、無差別爆撃を始めた。
「空襲警報だ」。県庁近くの大叔父の家に預けられていた当時5歳の山田文子さん(74)=同市南大通り4丁目=は、大叔父の声で目を覚ました。背中に背負われ、家を飛び出た。
外は一面、火の海。街も空も赤焦げていた。
何とか八幡山の防空壕にたどり着いた。中は避難者でいっぱい。入り口近くで燃えていた家が「ゴォー」と音を上げて崩れ落ちた。壕の中が悲鳴に包まれた。
同じ頃、降り注ぐ焼夷弾は、自宅にいた3人の“きょうだい”を襲った。両親がおらず、母代わりだった祖母から後に伝えられた。
「簗瀬の田んぼに逃げなさい」。空襲が始まると、祖母と孫3人は玄関から一斉に駆けだした。だが祖母は「先祖の位牌だけは」と一度、仏間に戻った。
再び外に出ると、近くに姉方子さんと、いとこの中さんが倒れていた。焼夷弾の直撃だった。2人の黒い遺体には手も足もなかった。
兄の力さんは翌日、救護所で見つかった。全身やけどの姿で祖母に尋ねた。「おねえちゃんと中ちゃんは?」。答えられなかった。水を飲ませてあげることもできないまま、力尽きた。
「中、力、方子」。小さな孫の死を受け入れられなかった祖母。空襲後も夕方になると、いるはずのない3人の名前を呼びながら、焼け野原をさまよった。
「空襲でみんないなくなっちゃった」。祖母と「生き残った申し訳なさ」に苦しみ抜いた。
思い出すたび、胸が張り裂けそうになる。それでも伝えたい。「元気だった家族が一瞬で炎に焼かれ、真っ黒焦げ。そんなひどい時代だったんです」
百頭空襲
予期せぬ爆撃、集落壊滅
陽光を浴びた銀翼がキラキラと輝く。冬の青空の下、米軍爆撃機B29は編隊を組んで悠然と進んでいた。
1945年2月10日午後。足利市と群馬県境周辺の上空。日本軍は高射砲を撃つが、全く届かない。
「きれいなものだ」。中島飛行機小泉製作所(群馬県大泉町)の航空学院1年生だった三田剛さん(86)は、遠くを巡航する敵機に感心すらしていた。
この時期、米軍の空襲は軍事関係の施設に限られていた。編隊が飛ぶ方向から、狙いは中島飛行機太田製作所(群馬県太田市)だと思った。自宅がある足利市百頭町は70~80戸の集落。爆弾の雨が降るとは夢にも思わなかった。
「百頭が全滅だ」。少しして先生が急報を告げた。自宅にいる両親と妹たちの顔を思い浮かべた。すぐに校舎を飛び出した。
B29の一部は百頭町に、250キロ爆弾83発と無数の焼夷弾を落としていった。
急いで戻った三田さんは言葉を失った。点在する家は爆弾で倒壊し、焼夷弾によりあちこちから火の手が上がっている。
診療所に続く砂利道は負傷者の血で赤く染まった。近くの地蔵院に犠牲者を集めた。腕や脚、首がない遺体もあった。家族の無事だけが救いだった。
なぜ県境近くの小さな集落が狙われたのか。三田さんは空襲の前年、周辺を測量する技師を目撃していた。「地下軍事工場を造ると聞いた。米軍は基地が完成していると思い込み、爆弾で破壊しようとしたんだ」
地域には爆弾の跡に雨が降ってできた無数の“爆弾池”と、深い心の傷が残された。
小金井空襲
笑う銃口、駅赤く染める
低空で飛ぶ米軍機のパイロットの口元には笑みが浮かんでいた。
1945年7月28日正午ごろ。福島発上野行き上り列車が旧国鉄小金井駅に到着する少し前だった。
茨城県筑西市にある妙西寺東堂の横井千春さん(84)は、学徒動員先の宇都宮市から実家に帰省中だった。列車をなめ回すかのように追い越していく敵機を窓外に見つけ、戦慄した。
「バリバリバリバリ」
機銃掃射の轟音とともに、米軍戦闘機3機の殺戮が始まった。急停車した満員の車内は阿鼻叫喚。乗客が出入り口に殺到し、身動きがとれない。
「神様、仏様-」。列車から脱出すると、人が見えた駅の西口へ無意識のうちに駆け出した。ちょうど戦没者の遺骨を出迎えるため、遺族らが集まっていた。
空からの銃口は、その悲しみに沈む人々も狙った。戦闘機が旋回するたびに、血しぶきが上がり、肉片が飛んだ。横井さんは石炭小屋を見つけ、夢中で体を押し込んだ。
どれほどの時間だったか。銃撃音がやんだ後、呆然としながら駅前を見渡した。「血の海どころじゃない。人間がとろけてしまったようだった」。飛び散った遺体の一部は電線にまで引っかかっていた。
しばらくすると憲兵がやって来て一帯を封鎖した。損傷が激しい一部の遺体は「関係者がまとめて袋に入れていた。犠牲者の本当の数はもっと多いはずだ」
憲兵から「この話はするな」と口止めされていた。15歳の少年の血塗られた記憶。50年以上、家族にも話せなかった。