満州文化物語(2)

「世界のミフネ」育てた写真館 「昔の面影すらないじゃないかっ」…変わり果てた街に絶句

【満州文化物語(2)】「世界のミフネ」育てた写真館 「昔の面影すらないじゃないかっ」…変わり果てた街に絶句
【満州文化物語(2)】「世界のミフネ」育てた写真館 「昔の面影すらないじゃないかっ」…変わり果てた街に絶句
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面影消えた思い出の地

三船敏郎は不機嫌さ丸出しに、帰りの飛行機の中でずっと怒鳴り続けていた。

「あの変わりようは何だ。昔の面影すらなかったじゃないかっ」

三船が戦後初めて大連(だいれん)を再訪したのは、昭和62(1987)年のことである。日中国交正常化(72年)から15年を記念した映画祭への出席が目的だったが、三船は公式行事以外、ホテルから出ようとしない。ようやく同行者らに促され、訪ねたのが父、徳造(とくぞう)が経営していた「スター写真館」の跡地であった。

父の写真館は、小規模ながら、昭和4(1929)年に開業した当時最先端のショッピングモール「連鎖商店街」の2階にあった。13年の大連の電話帳には、《スター写真館(三船徳造) 栄町》の名前で登録されている。

ところが、「内地にも例をみない」と謳(うた)われた、名店や遊技施設が並ぶテーマパークのような話題の新名所も、戦後は小売店や問屋などが混在する雑居ビルと化し、すっかり様変わりしてしまう。重い腰を上げて写真館の跡地を見に行った三船は面影すらない思い出の場所に失望を隠せなかったに違いない。

大連での再チャレンジ

徳造は秋田・鳥海山麓にあった裕福な家の次男だった。三船の長男、史郎(しろう)(64)=三船プロ代表取締役=によれば、「祖父(徳造)は次男だから跡を継げないし、おそらく新天地で一旗揚げようとしたんでしょうね。『秋香(しゅうこう)』の号を好んで使い、写真館経営のかたわら、従軍カメラマンのような仕事もやっていたらしい。日露戦役記念や満州の名所を撮って販売した写真帳が残っています」

その写真帳は、大連「スター写真館」の前、中国の青島(チンタオ)と営口(えいこう)にあった「三船写真館」時代のものだ。大連へ移ってきたのは青島で生まれた(大正9=1920年)三船が9歳の春。きっかけは、仕事の不振だったらしい。三船はこう書き残している。

「父は第一次大戦後の好景気に恵まれ(略)市中でも飛ぶ鳥落とす程の勢いであった。しかし、私がほぼ物心のつき始める頃には、その勢いも衰えて、父は苦境にあった。(略)新しい地、大連の街に安住の場所を求めて船の甲板上の人となったのである」(昭和23年発刊の「映画スター自叙伝集」より)

大連・連鎖街店街の「スター写真館」の開業は、経済的苦境に陥った徳造にとって新規まき直し、再チャレンジだったのだろう。

最初の志望はカメラマン

大連で過ごした少年時代、「家計は楽ではなかった」(同)というが、夏は海水浴や野球、冬はスケート遊びに夢中になる。三船少年が通ったのは大連放送局(JOAQ=ラジオ局)に近い、新興住宅地の聖徳(しょうとく)小学校、6回生に三船の名があった。

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