産経抄

7月17日

 物理学者の寺田寅彦に『海水浴』と題した随筆がある。明治14年の夏、父親に連れられて愛知県の海辺の町大野で過ごす場面で始まる。数え年4歳の寅彦は体が弱く、医師の勧めによるものだ。

 ▼まだ「海水浴」という言葉は一般的ではなかった。丸裸で海につかり体を鍛える民間療法は、「塩湯治」と呼ばれた。もっとも寅彦は、海を怖がって泣き叫ぶばかりだ。仕方なく宿で海水を沸かした風呂を仕立ててもらった。ひと夏の湯治ですっかり体が丈夫になった。

 ▼海水浴の歴史にくわしい畔柳(くろやなぎ)昭雄さんによると、当時愛知県病院長を務めていたのが、後に満鉄総裁や外相を歴任する後藤新平だった。病気の治療より予防に関心があった新平も、大野の塩湯治に目を付けていた。15年には、ドイツの医学書などを踏まえて『海水功用論 附海浜療法』を発表する。海水浴場として大野の発展にも力を尽くした(『海水浴と日本人』)。

 ▼もともと国民の健康を向上させるのが目的だった海水浴は、次第にレジャーの色合いが強まっていき現在に至る。「海の日」の昨日、日本列島各地は、軒並み30度を超える猛暑に見舞われた。いよいよ本格的な海水浴シーズンの幕開けである。

 ▼実は国内の海水浴客は、昭和60年をピークに減り続けている。レジャーの多様化が主な原因らしい。海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う。海の日の意義からも、海と親しむ機会を大事にしたい。波打ち際でスイカ割りに興じ、はしゃぐ子供の歓声をもっと聞きたい。

 ▼ただし、水の事故にはくれぐれも気をつけていただきたい。警察庁のまとめによると昨年、全国の海や川、プールなどで発生した水難事故による死者、行方不明者は679人にのぼっている。

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