九転十起の女(31)

伊藤博文、西園寺公望、大隈重信ら重鎮に協力求める…失敗すべてかぶる覚悟で

明治38年、関連施設建設現場で評議員たち。前列右から西園寺公望、大隈重信。後列左から成瀬仁蔵、広岡浅子(日本女子大学提供)
明治38年、関連施設建設現場で評議員たち。前列右から西園寺公望、大隈重信。後列左から成瀬仁蔵、広岡浅子(日本女子大学提供)

 成瀬仁蔵の著書を読んで感動した浅子は、すぐに成瀬に面会し援助を申し出た。同時に資金集めのために精力的に動き始める。いったんこれ、と見定めると浅子の行動は早い。

 その一端が明治29(1896)年6月15日付で九州の炭鉱から成瀬に宛てた書簡で垣間見える。成瀬が浅子に初めて面会したのはその2カ月足らず前のはずだが、すでに2人の間には同志ともいうべき濃密な話し合いが続いていることが伺える。

 成瀬から、5月に上京して万事首尾良くいったとの報告があったことをまず喜び、発起人組織づくりを急ぎたいという成瀬の言葉にこう続ける。「すぐにでも帰阪して事に当たりたいが、あいにく着炭事業に重なり帰阪は6月末か7月初めになる。それまで待てるだろうか。もし差し支えあれば手紙が着き次第、スグキハンアリタシの電報を打ってほしい。すぐにまた折り返すことになるがいったん帰ることはできる」(「未発表資料浅子書簡」平成24年「成瀬記念館」収録)

 5月の上京は総理大臣・伊藤博文をはじめ文部大臣・西園寺公望、大隈重信ら実力者を訪問したもので、一連の面談の成功を報告したものとみえる。この機を逃してはならぬ。家業の多忙を縫って協力を申し出る浅子がたくましい。

 資金提供も惜しまなかった。軍資金として土倉庄三郎とともにそれぞれ5千円を提供。「もし事業が成就しない時はわれわれ2人がその費用を引き受けて他の発起人や寄付者には迷惑はかけない」と申し出て、成瀬を感激させた。

 「日本女子大学校創立事務所日誌」はその年の7月17日から書き起こされている。その最初の一行に浅子の名前が記されている。「成瀬広岡両氏神戸行」。

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