大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

この時代の工事 昭和54年~昭和57年ころ

新たなエネルギーを求めて

相次ぐLNG基地の建設

わが国におけるLNG(液化天然ガス)の本格導入は、東京ガスと東京電力が昭和44年(1969)11月から開始したのに始まる。

LNGは石油危機後に石油代替エネルギーとしてとくに注目されるに至ったが、その供給量は50年度には506万tであったものが53年度には1,172万tと倍増し、59年度には2,676万tとじつに50年度の約5倍に増加した。LNGと同様に50年以降急速に増加したものに原子力があり、50年度に251億㎾hだったものが59年度には1,343億㎾hとこちらも約5倍の供給量の増加であった。これらを50年度と59年度のエネルギー供給構成比率でみると、LNGは2.5%から9.2%に、原子力は1.5%から7.5%に上昇している。これに対し水力、石油は下降傾向をたどり、石炭は微増にとどまった。

当社が最初に行ったLNG基地建設工事は、46年3月、大阪ガス泉北工場(現・泉北製造所第一工場)に完成した地上式タンク3基の基礎工事であった。それから20年、数多くの地上式、地下式タンクを設計・施工で受注し、国内において地上式タンク91基のうち48基(PC外槽式LNGタンク{注1}を含む)、地下式タンク54基のうち8基(ピットイン式{注2}を含む)のシェアを占め、海外においても台湾で地下式タンクを3基建設するなど、LNG基地建設の分野において指導的な地位を確立した(右図参照)。また、多くの実績をもとに技術開発を積極的に行い、新しい型式のPC外槽式LNGタンクおよびピットイン式地下タンクの開発、実用化にも成功した。

なお、LNGタンクの建設技術については本文450ページに記述している。当社初のLPG(液化石油ガス)基地である岩谷産業堺LPGターミナルも54年3月完成した。

当社のLNGタンク建設実績(平成4年9月現在)
当社のLNGタンク建設実績(平成4年9月現在)

注1 PC外槽式LNGタンク:従来のLNG地上式タンク(金属二重殻タンク)にプレストレストコンクリート製防液堤を限りなく近づけて一体化した新しい型式のタンク。

注2 ピットイン式地下タンク:従来のLNG地上式タンクを、防液堤とともに、最高液面が地表面以下になるように地盤に埋設した新しい型式のタンク。基礎および側壁・タンク間の空間部を利用した空気層の断熱により、地盤凍結防止管理を行う。

日本海エル・エヌ・ジー新潟基地(1次)第2工区(JV)
<新潟県>昭和57年5月竣工
発注 日本海エル・エヌ・ジー
設計 東北電力、当社
日本海エル・エヌ・ジー新潟基地(1次)第2工区(JV)
<新潟県>昭和57年5月竣工
発注 日本海エル・エヌ・ジー
設計 東北電力、当社
知多エル・エヌ・ジー知多基地
<愛知県>昭和58年1月竣工
発注 中部電力、東邦ガス
設計 中部電力、東邦ガス、当社
知多エル・エヌ・ジー知多基地
<愛知県>昭和58年1月竣工
発注 中部電力、東邦ガス
設計 中部電力、東邦ガス、当社

大阪ガス泉北製造所第一工場・第二工場

大阪ガスでは時代の要求に応えて新しいエネルギー、LNGの導入を決定し、LNG受入れ基地の建設、転換のための切替え作業を開始した。当社は昭和43年(1968)からこの計画に協力し、土木本部設計部、技術研究所など全社を挙げてLNG貯蔵施設の建設に必要な設計・施工技術の研究開発に取り組むことになった。

-164℃という未経験の極低温液化ガスを貯蔵する構造物を建設するにあたっては、コンクリートや鉄筋などの使用材料の低温特性、冷熱による地盤の凍結や温度応力など、それまでの一般構造物では考慮されることのなかった問題を明らかにする必要があった。これら技術課題を一つ一つ解決し、設計・施工法の十分な検討を行って、泉北第一工場のLNG地上式タンクは、地盤が凍結しタンクが浮き上がるのを防ぐために高床式の基礎を採用し、また、タンクからの万一の漏液に備える防液堤は3重壁構造とした。着工は45年3月である。こうして地上式タンク(4.5万㎘)3基が47年3月完成し、47年12月には第1船がブルネイより入港し、近畿におけるLNG時代がスタートした。

続いて第4号タンクの建設を開始することとなった。このタンクは前3基と異なり地下式であった。そこで、建設地と同様の土質構成をもつ堺の埋立地の一角に大阪ガスと共同で実験用タンク(70㎘)を設け実験を行ったが、この当時、計測に使用する低温用計測器もなく、当社技術研究所を中心として開発を進めながら実験にあたった。

こうして設計・施工法を確立し、47年11月より、新たにソレタンシュ社から導入したケリー60M掘削機で地下54mへの掘削を開始し、1万㎡に及ぶOWS工法による地中連続壁は精度、各パネルの剛結、超音波測定器による異物の判別を含む各種の新技術を生み出し、50年8月に地下式タンク(4.5万㎘)は完成した。

その後49年9月、泉北第二工場の建設が本格的に開始され、当社は6基のLNG地上式タンク(1基7.5万㎘)の基礎工事をはじめとしてLNG受入れ基地の主要設備を受注、第1期工事が52年6月をもって竣工した。45年3月から52年6月までの請負金は泉北第一工場、第二工場合わせて189億6,000万円、所長は大村満男(土木工事)と今川邦夫(建築工事)であった。その後現在までに泉北第二工場で当社はさらに6基のLNG地上式タンク基礎を施工し、1基を平成4年9月現在建設中である。

泉北第二工場/7万5,000㎘LNG地上式タンク6基、気化用放水設備一式、LNG受入れ棧橋(13万5,000t用)一式、LPG受入れ棧橋(5,000t用)一式、事務棟、管理棟、PRセンターなど

大阪ガス泉北製造所第一工場・第二工場
<大阪府>昭和52年6月竣工(第1期)
発注 大阪ガス
設計 大阪ガス、当社
工事概要 泉北第一工場/4万5,000㎘LNG地上式タンク3基、同4万5,000㎘地下式タンク1基、気化用取水・放水設備一式、LNG受入れ用桟橋(7万4,000t用)一式、気化設備・圧送設備一式、ICIガス発生炉6基、事務棟、管理センターほか
(写真は平成3年撮影)
大阪ガス泉北製造所第一工場・第二工場
<大阪府>昭和52年6月竣工(第1期)
発注 大阪ガス
設計 大阪ガス、当社
工事概要 泉北第一工場/4万5,000㎘LNG地上式タンク3基、同4万5,000㎘地下式タンク1基、気化用取水・放水設備一式、LNG受入れ用桟橋(7万4,000t用)一式、気化設備・圧送設備一式、ICIガス発生炉6基、事務棟、管理センターほか
(写真は平成3年撮影)

東京電力東扇島LNG基地第3、6、9号地下式貯槽(第9号のみJV)

東京電力の東扇島LNGセンターは27㏊の広大な敷地に9基(1基6万㎘)の地下式タンクがあり、当社はそのうちの第3号、第6号および第9号(JV)を施工した。

第1弾として昭和55年(1980)6月に第1、第2、第3号を3社が各々ほぼ同時に着手し、6カ月遅れて第4、第5、第6号を同3社で着工、文字どおり3社競演の工事開始となった。地震時における地盤の液状化防止工事であるサンドコンパクションパイルによる地盤改良から工事は始まったが、当社は最大15機に及ぶ打設機を投入してこれにあたった。

地中連続壁工事では、最深GL-86.5mまで掘削するため、ハイドロフレーズ掘削機を当現場用に新たに2台製作し、在来のケリー機と併用した。このハイドロフレーズ掘削機は予想以上の高精度(垂直精度1/2,000)を発揮し、止水性の高い連壁を構築した。続いて掘削、側壁工事を6ロットに分けて逆巻き工法で行ったが、コンクリート打設量はタンク1基当たりで連壁を除いて約1万8,000㎥に及んだ。その施工では、鉄筋のプレハブ化や、新たに開発した鉄筋取付機による現場組立作業、さらに足場付大型鋼製パネルによるスライディング方式の型枠工など機械化、省力化した施工システムを採用した。続いてタンクの底版に約3,000tの鉄筋を使用し、厚さ7mのマスコンクリートを打設した。これら一連の工程では、連壁、側壁、底版および周辺地盤の変形、内部応力、作用外力等についてコンピュータを駆使した大規模な計測管理を行い、オンライン処理により随時工事の安全性や品質を定量的に把握し、計測結果をリアルタイムで次段階の施工に反映させる情報化施工法をとった。

また、当工事では、土木構築物の施工に加えて、LNG地下式タンク供用後の冷熱による周辺地盤の凍結を防止するため、タンク底部および側壁外周部に設置されるヒーター設備工事も行い、その計画、設計、施工および運転管理計画のいっさいを担当した。

こうして、第3号、第6号タンクとも予定の26カ月で完成し、その後16カ月のタンク内装等の設備工事へ引き渡し、59年9月、2基の工事が完了した。引き続き第9号タンクも三井建設とのJV(当社が幹事会社)で施工し、62年9月完成した。タンクは3基とも内径50.3m、深さ30.7mで、1基当たりの本体掘削は約10万㎥であった。請負金は第3号、第6号合わせて147億5,086万円、所長は大井賢太郎である。また、第9号は請負金47億6,165万円、所長は加藤譲嗣から丹羽正俊に引き継がれた。

東京電力東扇島LNG基地第3、6、9号地下式貯槽(第9号のみJV)
<神奈川県>昭和59年9月竣工(第3、第6号) 昭和62年9月竣工(第9号)
発注 東京電力
設計 当社
工事概要 6万㎘LNG地下式タンク3基、内径50.3m、壁厚2.5m、壁高33.9m、地中連続壁4万9,674㎡、コンクリート量10万364㎥、掘削土量28万9,800㎥
(左写真の点線部分が当社担当工区、左下写真は第9号タンクの内部メンブレン)
東京電力東扇島LNG基地第3、6、9号地下式貯槽(第9号のみJV)
<神奈川県>昭和59年9月竣工(第3、第6号) 昭和62年9月竣工(第9号)
発注 東京電力
設計 当社
工事概要 6万㎘LNG地下式タンク3基、内径50.3m、壁厚2.5m、壁高33.9m、地中連続壁4万9,674㎡、コンクリート量10万364㎥、掘削土量28万9,800㎥
(左写真の点線部分が当社担当工区、左下写真は第9号タンクの内部メンブレン)

東京ガス袖ケ浦工場C-3LNG地下式貯槽

東京ガス袖ケ浦工場にはすでに11基のLNG地下式タンクが建設されていたが、この時期、3基の地下式タンクを建設することとなり、当社はそのうちC-3タンクを昭和55年(1980)6月着工した。当タンクは同社から受注した初のLNG地下式タンクで、容量13万㎘、内径64.5m、深さ40.4mであり、これは当時世界最大のものであった。

当タンク建設は日本鋼管が一括受注し、うち土木工事を当社が設計から施工まで一貫して担当し、とくに設計および技術開発では社内にLNG地下タンクプロジェクト・チームを組織してあたった。

地盤改良後の地中連続壁工事では、連壁の深さが98mと当時日本最深のものであったため、着工前に性能確認試験工事を実施し、止水性、強度、精度などの確認およびハイドロフレーズ掘削機の性能、能率、運転法などの調査・検討やそれに基づくカッター、ポンプ、精度制御機構の改良を行い、本工事に生かした。連壁工事完了後の掘削、側壁工事では逆巻き工法を採用し、約17万㎥の掘削土量を8サイクル(各6m)で掘削しては側壁(厚さ3m)を構築した。こうして最下底に到達後、約3,300tの鉄筋と2万4,200㎥のコンクリートを使用して厚さ7mの底版打設を行った。

施工の機械化、省力化のために導入した数々の改良機やコンピュータを駆使した情報化施工法は、東京電力東扇島LNG地下式タンクと同様であったが、側壁、底版完成後、当タンクでは大規模な復水試験を行ったのが大きな特徴であった。この復水試験はディープウェルにより低下させていた地下水を復水させ、底版に設計揚圧力を作用させ、底版の耐力機構について検証することを目的としたもので、地下50mまでの側壁、底版に50t/㎡の水圧をかけ、タンクの挙動、耐力および止水性などを確認した。このような大型構造物の実物試験は日本では大変珍しい事例であり、地下式タンクの設計・施工に資する貴重なデータを残した。主たる土木工事は57年10月完了し、屋根工事、機械・内装工事、各種試験・検査を日本鋼管が行い、59年4月全工事は完成した。請負金は75億7,338万円、所長は増田知行である。

東京ガス袖ケ浦工場C-3LNG地下式貯槽
<千葉県>昭和59年4月竣工
発注 東京ガス、日本鋼管
設計 日本鋼管、当社
工事概要 13万㎘LNG地下式タンク1基、内径64.5m、壁厚3m、壁高42.3m、地中連続壁2万1,578㎡、コンクリート量2万4,200㎥、掘削土量17万3,600㎥
東京ガス袖ケ浦工場C-3LNG地下式貯槽
<千葉県>昭和59年4月竣工
発注 東京ガス、日本鋼管
設計 日本鋼管、当社
工事概要 13万㎘LNG地下式タンク1基、内径64.5m、壁厚3m、壁高42.3m、地中連続壁2万1,578㎡、コンクリート量2万4,200㎥、掘削土量17万3,600㎥

中國石油LNG地下式貯槽

LNGの備蓄基地を建設することになった台湾は、その設計・施工技術を国外に求め、国際入札に付した。このプロジェクトでは、単なる工事施工ではなく、施設の機能保証を前提とした責任設計・施工が求められ、価格面での審査とあわせて、日本鋼管と当社のグループの実績と技術力が評価されて受注に成功した。

建設現場は台湾の南端、台湾第一の工業都市である高雄市の北方約30㎞の海岸埋立地で、埋立て直後の超軟弱地盤に、内径約65m、深さ約35m、容量10万㎘のLNG地下式タンクを3基同時に施工するという難工事であった。

工事は1986年(昭和61)1月にスタートし、地盤改良工事(サンドコンパクションパイル)、地中連続壁工事(OWS工法)の後、掘削と側壁構築(厚さ2.7m)を交互に繰り返す逆巻き工法で土留めの安定を保ちながら床付けを行い、底版(厚さ7.4m)を施工し、最後に側壁頂部のPC工事をもって土木工事は完了した。

当社は戦前に台湾で銀行などの建築工事やダム、発電所などを施工したが、当工事は事実上約45年ぶりの当地での請負工事であり、当工事を通じたハードの技術移転はもとより、現場の管理手法など現地建設業にもたらしたインパクトも少なくなかった。たとえば、台湾は毎年10回以上の猛烈な台風が接近または上陸し、ときには防波堤をも打ち砕かんほどの荒波が20m以上の高さに及び、1晩でタンク内外が一面海のように冠水する豪雨にも見舞われたが、こうした事態に対しても事前の計画的な対応措置に加えて、不測の事態には当社職員の陣頭指揮で防護復旧作業を行い、その被害を最小限に食い止めた。こうして全工期労働延時間約230万時間を通じ無災害の輝かしい記録を樹立し、台湾における土木工事現場の安全管理にも一石を投じた。

タンクの完成は1989年3月であり、請負金は72億4,686万円、所長は大井賢太郎であった。なお、当工事におけるノウハウは、その後の台北地下鉄の受注へと生かされていった。

中國石油LNG地下式貯槽
<台湾・高雄市>1989年3月竣工
発注 中國石油股有限公司
設計 当社
工事概要 10万㎘LNG地下式タンク3基、内径64.5m、壁厚2.7m、壁高36.8m、地中連続壁3万6,000㎡、コンクリート量4万3,200㎥、掘削土量46万4,410㎥
中國石油LNG地下式貯槽
<台湾・高雄市>1989年3月竣工
発注 中國石油股有限公司
設計 当社
工事概要 10万㎘LNG地下式タンク3基、内径64.5m、壁厚2.7m、壁高36.8m、地中連続壁3万6,000㎡、コンクリート量4万3,200㎥、掘削土量46万4,410㎥

大都市圏の水

わが国の水道整備事業は戦後飛躍的に伸び、昭和30年(1955)には32.2%にすぎなかった全国の水道普及率は、農村地域への普及に伴って52年3月には88.6%に達した。一方、大都市圏での需要量の増大によって新たな水源開発が急がれていたなか、53年5月ころから夏季にかけて西日本一帯が異常渇水に見舞われた。この渇水は首都圏にも及び1都399市町村の各地で断水となり、これは39年の関東地方の大渇水、42年の北部九州、関東の大渇水以来のことであった。そこで新たな「水道法」が53年6月に施行され、早急な水源対策とともに需給の不均衡を解決する広域的水道整備計画が策定されることとなった。

56年の水道普及率は90.3%とようやく9割台へ到達したが、生活水準の向上、生活環境の改善などで、水使用量は増加の一途をたどり、安定した給水を確保するための水資源開発事業は新たな展開を求められていった。

東京の水道は多摩川水系を主としているが、戦前から利根川の水を求めていた。ようやく38年、矢木沢、下久保ダム(ともに他社施工)によってそれが実現、40年代に入って朝霞、武蔵両人工水路によって利根川の水が東京を潤すことになった。同水系水道拡張事業として朝霞浄水場も完成し、さらに47年度から実施している第4次利根川水系水道拡張事業の基幹施設として、三郷浄水場の建設が52年に着手され、以来7年有余の年月を経て第1期工事が完成した。

当社はこの朝霞浄水場や三郷浄水場(JV)の建設に携わり、三郷浄水場建設では、地下50mに及ぶ超軟弱地盤を克服した施工管理技術に関して土木学会技術賞が授与された。50年代に首都圏での上水道に関する施設として当社が施工した代表的なものは、このほかに、東京都本郷給水所、水資源公団房総導水路横芝工区、東京都荒川区荒川8丁目町屋2丁目地先工業用水道送水管、北千葉広域水道企業団北千葉浄水場、千葉県松戸給水場などがあった。これに先立ち、神奈川県広域水道企業団導水路トンネル第6工区の大規模な工事も48年6月に完成している。

近畿圏では、宝塚市川下川貯水施設および取水導水施設(川下川ダム)(JV)、大阪府営水道送水管第12の2工区、第23の2工区、19工区(JV)、兵庫県猪名川広域水道送水隧道川西工区、大阪府村野階層浄水場2号棟(JV)、阪神水道企業団大道導水路第1工区(JV)などがあり、中京圏では愛知県西三河水道幸田浄水場、名張市富貴ケ丘浄水場がその代表的な工事であった。

このほかに岡山県御津町、和歌山県那智勝浦町、栃木県藤原町鬼怒川温泉の各上水道施設や札幌市白川浄水場(JV)も大きな工事であった。時期を同じくして海外ではタイのバンコックでタープラ、ルンピニ両ポンプステーション、バンケン浄水場やバンコック送水トンネル工事を、サウジアラビアではワシア上水道施設工事を行っている。

藤原町鬼怒川温泉上水道第4次拡張(JV)
<栃木県>昭和58年5月竣工
発注 栃木県藤原町
設計 東京設計事務所
藤原町鬼怒川温泉上水道第4次拡張(JV)
<栃木県>昭和58年5月竣工
発注 栃木県藤原町
設計 東京設計事務所

大阪府村野階層浄水場2号棟(JV)

大阪府営水道第6次拡張事業の主要施設である当浄水場は、新型式である階層浄水場2棟から構成されている。1号棟は他社JV施工ですでに昭和52年(1977)から営業運転を開始しており、当社は2号棟を竹中工務店、鹿島建設、鴻池組、大日本土木との5社JVで52年10月~56年3月に施工した。

階層浄水場は、従来、広大な敷地に平面的に配置されていた沈澱池、急速砂ろ過池、浄水池などの浄水施設を立体的に積み重ねて一つの構造物としたもので、当浄水場の浄水処理能力は1棟で1日30万tである。2号棟は72.3m×88.8mの平面で、地上高さ31.1m、地下深さ14.8m、水槽66槽を含み、本体コンクリート量9万㎥とRC構造物としては国内有数の規模であった。

この建設にあたって厳密な耐震性と完全な水密性が要求されたが、それは完成後に常時5万t以上の水を貯留するためであった。耐震性については、大型振動台で1/50模型による振動実験が行われ、これが構造設計に反映されたほか、水の振動を考慮した応答解析によって地震時の安全性の確認が行われた。水密性についても、使用コンクリートに温度ひび割れを防ぎ乾燥収縮を低減することを目的とした中庸熱ポルトランドセメントが用いられ、また浄水場の両側の水槽部外壁にはひび割れによる漏水防止のためにプレストレスが導入された。なお、外装のタイル打ち込みPC板製作には当社の京都PC工場などが全面的に協力した。請負金は18億1,778万円(設備工事は別途)、所長は三木克己であった。

大阪府村野階層浄水場2号棟(JV)
<大阪府>昭和56年3月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府
工事概要 RC造、B2、7F、PH付、延4万6,173㎡
大阪府村野階層浄水場2号棟(JV)
<大阪府>昭和56年3月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府
工事概要 RC造、B2、7F、PH付、延4万6,173㎡

東京都三郷浄水場2号工事(JV)

最終的には1日最大給水量220万tという世界最大級の規模を誇る三郷浄水場(埼玉県)は、第4次利根川水系水道拡張工事の基幹施設である。敷地は約30万㎡と甲子園球場が八つも入る広大さで、その第1期工事だけでも昭和52年(1977)10月着工以来、じつに7年にわたった。工区は3工区に分けられ、当社・鹿島建設JV工区(2号工事)が最も大きい約16万㎡の敷地であった。

当現場の地盤は全般にわたり地下水位の高い沖積軟弱地盤のため、着工と同時に地震時の液状化対策としてサンドコンパクションパイルによる地盤改良工事を行い、続いて杭打ち工事では、平均45mの長さの杭を総数1万2,000本打設した。最盛期には20台近い杭打機が並び、杭工事だけで請負金の約40%にのぼった。

掘削が開始されると、その大規模かつ急速な地下水の汲上げによって近隣に地盤変状が起こり、急遽その対策が求められた。そこで、一部工事を中止して現場周囲に止水壁を築造することとなり、当JV工事では当社のOWS工法による泥水固化壁(SG工法)を計3万1,685㎡施工した。

当JV工事の主な施設は薬品沈澱池、ダクト、薬品統合管理所、管理本館、排水ポンプ所、排水処理所、排泥濃縮槽、着水井などであったが、複数の土木、建築工事が錯綜し、さらに各JV工事が混然一体となって同時進行したため、きわめて複雑なものであった。なお、当工事では止水壁のSG工法のほかに、管理本館には当社の免震床、ダイナミック・フロア185㎡も採用された。

第1期工事が59年9月終了し、60年6月、日量55万tの通水が開始されたが、その後も日量110万tの浄水能力を目指す第2期工事が平成2年まで続き、当社は沈澱池の工事などに携わった。第1期工事の請負金は143億円、所長は柳瀬五郎であった。

東京都三郷浄水場2号工事(JV)
<埼玉県>昭和59年9月竣工
発注 東京都
設計 東京都
工事概要 薬品沈澱池8池、ダクト(原水渠・排水渠延2,069m、分水井2池)、排泥濃縮槽2池、着水井(RC造、1池)、薬品貯蔵槽基礎1池、管理本館(SRC造、B1、4F、延6,519㎡)、薬品統合管理所(SRC造、B2、2F、延2万102㎡)、掘削工29万3,092㎥、地盤改良工事(サンドコンパクションパイル3万859m)、杭打工(鋼管杭3,407本、高強度PC杭2,895本、鋼管コンクリート複合杭6,279本)ほか
東京都三郷浄水場2号工事(JV)
<埼玉県>昭和59年9月竣工
発注 東京都
設計 東京都
工事概要 薬品沈澱池8池、ダクト(原水渠・排水渠延2,069m、分水井2池)、排泥濃縮槽2池、着水井(RC造、1池)、薬品貯蔵槽基礎1池、管理本館(SRC造、B1、4F、延6,519㎡)、薬品統合管理所(SRC造、B2、2F、延2万102㎡)、掘削工29万3,092㎥、地盤改良工事(サンドコンパクションパイル3万859m)、杭打工(鋼管杭3,407本、高強度PC杭2,895本、鋼管コンクリート複合杭6,279本)ほか

ダム施工技術の進展

代表的な大型土木構造物であるダムは、建設地点の立地条件が厳しさを加えていくなかで、これに対応した技術の高度化が要請され、諸外国には例をみない複雑な地盤条件に対する基礎処理技術の開発や設計技術の向上により、従来建設が困難であった地盤条件の不良な場所でも建設が可能となった。その施工においても、経済性の向上や工期短縮、生産工程の合理化等を目標に新技術の開発が進み、コンクリートダムの施工を大きく変貌させたRCD工法(Roller Compacted Dam-concrete)の開発など、わが国のダム技術は国際的にもトップクラスの水準に達した。なお、昭和50年代竣工の当社の主なダム工事の実績は下表のとおりである。

大雪ダム(JV)
<北海道>昭和50年9月竣工
発注 北海道開発庁
設計 北海道開発庁
大雪ダム(JV)
<北海道>昭和50年9月竣工
発注 北海道開発庁
設計 北海道開発庁
鹿ノ子ダム(JV)
<北海道>昭和58年3月竣工
発注 北海道開発庁
設計 北海道開発庁
鹿ノ子ダム(JV)
<北海道>昭和58年3月竣工
発注 北海道開発庁
設計 北海道開発庁
東山ダム
<福島県>昭和57年3月竣工
発注 福島県
設計 福島県
東山ダム
<福島県>昭和57年3月竣工
発注 福島県
設計 福島県
屋嘉ダム(JV)
<沖縄県>昭和58年3月竣工
発注 沖縄県金武町
設計 建設技術研究所
屋嘉ダム(JV)
<沖縄県>昭和58年3月竣工
発注 沖縄県金武町
設計 建設技術研究所
一庫ダム(JV)
<兵庫県>昭和57年3月竣工
発注 水資源開発公団
設計 水資源開発公団
一庫ダム(JV)
<兵庫県>昭和57年3月竣工
発注 水資源開発公団
設計 水資源開発公団

島地川ダム(JV)

建設省発注の重力式コンクリートダムである島地川ダム(山口県)は、その堤体施工に日本初のRCD工法が採用された。RCD工法は、超硬練りコンクリート(スランプ0㎝)を打設現場にダンプカーで直接持ち込み、振動ローラーで転圧する工法で、従来のケーブルクレーン等によるバケット打設に比べて、多くの汎用機械を利用でき、生産性の向上も可能になる重力式コンクリートダムの合理化施工法である。当時、米国、ソ連、ヨーロッパ等の世界各国で研究が進められ、実工事への適用も試みられつつあったが、わが国では、建設省の大川ダムの上流仮締切ダムおよび当島地川ダム貯水池内のテストピットでの現場試験施工が行われていた。

このような状況のなかで、昭和53年(1978)秋、島地川ダム本体の打設を開始した。本工事は、従来のコンクリートダムの施工法の概念を一変するものであったために、ダムコンクリートの最適な配合、製造方法、打設方法、施工機械、品質管理方法等のいずれをとっても、過去に経験のない1ページを書き起こすような技術開発の連続であり、発注者と施工者が一体となった努力が積み重ねられた。

こうして55年7月、31万7,000㎥のコンクリート打設が完了し、現在重力式コンクリートダムの標準工法の一つとなったRCD工法の技術的素地を確立した。この島地川ダムの成果は、ロンドン、ブラジルと2年続けて国際大ダム会議(ICOLD)で報告され国際的な注目を浴び、また国内においても、55年度土木学会技術賞および全建賞(全国建設技術協会主催)が授与された。請負金は66億3,292万円、当社(幹事会社)と大本組とのJVで、所長は飛田仁彦から仏石 進に引き継がれた。

島地川ダム(JV)
<山口県>昭和56年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省
工事概要 重力式コンクリートダム、堤高89m、堤頂長240m、堤体積31万7,000㎥ (左写真はRCD工法で施工中の現場)
島地川ダム(JV)
<山口県>昭和56年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省
工事概要 重力式コンクリートダム、堤高89m、堤頂長240m、堤体積31万7,000㎥ (左写真はRCD工法で施工中の現場)

新たな交通需要を呼ぶ都市高速道路網

首都高速道路では、昭和53年(1978)にスタートした第8次道路整備5カ年計画にあわせて、中央環状線の一部や都市間高速道路と接続する放射線あるいは高速湾岸線などが、この時期、重点的に整備された。前章で述べた東京港(沈埋)トンネル、荒川湾岸橋を含む高速湾岸線(1期、2期)は、その供用によって東関東自動車道と接続され、東京~千葉間は臨海部で結ばれた。この高速湾岸線とともに55年には一般有料道路である京葉道路(当社は大森工区・JVなどを担当)が全線開通し、都心と成田空港を結ぶルートは2本になり、重要な役割を担う路線となった。また、55年6月、湾岸埋立地への交通体系整備の一環として東京港第二航路海底トンネル(JV)が完成している。

当社はこのころ中央環状線と常磐自動車道を結ぶ足立三郷線で綾瀬川付近の高架橋工事(JV)を行っているが、首都高速道路は59年に供用延長を160.8㎞とし、こうした高速道路網の拡充は新たな交通需要を呼び、交通量はさらに増大を続けるという皮肉な事態に陥っていった。

一方、万博後、供用延長の伸び率が低下していた阪神高速道路は、51年以降、公共投資の拡大や、また反対運動への粘り強い交渉などによって、55年には供用総延長を100㎞にのせることができた。一部開通していたもののその後供用が遅れていた大阪西宮線も、56年の「ポートピア'81」の開催中に供用に付され、以後、大阪と神戸間は阪神高速道路一本で行けるようになった。当社は前章で述べた大和川橋梁(大阪湾岸線)下部工(JV)とともに大規模な斜張橋であった安治川橋梁(同線3期)の下部工(JV)を施工し、同公団初の長大トンネルとして注目された藍那トンネル(JV)も担当した。

阪神高速道路藍那トンネル(JV)

阪神高速道路の神戸市道高速道路北神戸線は神戸市域の中央部~六甲山系丘陵地をほぼ東西に走る27.5㎞の高速道路であり、付近の西神戸、北神戸一帯の開発が進むに伴って計画されたものであった。

藍那トンネルは、同線のほぼ中央に位置し、阪神高速道路公団初の本格的山岳トンネル工事として注目された。トンネル延長は2,339m、上下2本の分離トンネルで、工事は当社(幹事会社)と奥村組のJVにより昭和53年(1978)3月スタートした。

工法は最もオーソドックスな底設導坑先進上部半断面工法とし、風化のひどい東西両坑口付近のみ側壁導坑先進工法(サイロット工法)で対処した。

当社が施工した日生鈴蘭台ニュータウンの下60mを発破工法で掘進するため、工事は、家が建つ前に完成を目指して開始されたが、いちばん近い住宅はトンネル真上から水平距離で80mと近く、150軒にわたる綿密な事前調査とともに1,000mにも及ぶ防音壁を設けるなど、典型的な山岳トンネルながら都市土木並みの近隣対策をとった。また、地形が険しくかつ農業用施設が近接しているため、工事中も完成後も降雨による濁水、土砂の流出、法面崩壊に対する措置として、排水施設や防災調整池の整備に万全を期した。請負金は40億2,256万円、所長は村上晴男であった。

阪神高速道路藍那トンネル(JV)
<兵庫県>昭和57年11月竣工
発注 阪神高速道路
設計 阪神高速道路
工事概要 延長2,339m(西行線1,169m、東行線1,170m)、掘削土量20万4,539㎥
(写真は工事中の坑口〈左〉と坑内〈左下〉)
阪神高速道路藍那トンネル(JV)
<兵庫県>昭和57年11月竣工
発注 阪神高速道路
設計 阪神高速道路
工事概要 延長2,339m(西行線1,169m、東行線1,170m)、掘削土量20万4,539㎥
(写真は工事中の坑口〈左〉と坑内〈左下〉)

海上都市の建設

ポートアイランド・六甲アイランド

天然の良港として栄えた神戸にも、昭和30年代から日本経済の急速な発展と世界的な物流増大の波が押し寄せ、必然的に神戸港における取扱い貨物量の増大をもたらした。また、船舶の大型化と輸送方法の革新は、従来の港湾施設に大きな変化を要求することとなった。

一方、神戸市の人口は30年(1955)に98万人であったが、41年には122万人へと増加し、しかもその人口の90%が全市域のわずか10%にすぎない六甲山系の南側に集中していた。このような状況のなかで、政治・経済・文化などの都市機能を受けもつ新しい都市空間の創造が強く求められ、海上都市・ポートアイランドの建設が計画された。

この事業の第1期は42年4月に着手され、約15年の歳月と事業費2,300億円をかけて55年3月に南北約2㎞、東西約3㎞、埋立面積436㏊、埋立土量8,300万㎥として完成した。

当社はこの埋立てのための土砂搬送工事とともに、そこへの足となった新交通システム、また新しい街づくりの提案をした住宅、ポートピアプラザほか多数の工事をこの人工島で行っている。なお、現在、第2期工事として62年3月から平成9年3月までの期間をかけて、390㏊の拡張工事が行われている。

ポートアイランドに続いて47年12月から第2の人工島・六甲アイランド(580㏊)の建設が始まり、現在、平成5年3月完成を目指して埋立工事が続いている。こちらでも当社は次々工事を手がけており、両島での当社の代表的な工事は以下のとおりである。

<ポートアイランド>

ポートアイランド用土砂採掘および運搬、神戸市立中央市民病院(JV)〈現在増築中〉、ポートピア'81関連施設[①パビリオン(ポートピアみどり館、神鋼ポートラマ館、大阪ガスワンダーランド、神戸ポートピアサンヨーソーラリアム)②周辺施設(市民広場、ポートピア'81エキゾチックタウンサービス施設)]、ポートピアプラザ(KPI)A~H棟、ポートアイランド第2期コンテナバース岸壁基礎、神戸新交通ポートアイランド線三宮駅〈島外工事〉

<六甲アイランド>

六甲アイランド岸壁ケーソン製作・埋立(JV)、神戸新交通六甲アイランド線魚崎駅〈島外工事〉、六甲アイランドリバーモール〈現在第2期施工中〉、ドンク六甲アイランド工場、日本通運神戸海運支店六甲アイランド2号上屋(JV)、アオイア(JV)〈水辺をテーマとしたテーマパークでプールは施工済み、アミューズメント施設・アトラクション設備は施工中、ホテルは建設予定〉、駿台ホテル観光事業専門学校・芦屋芸術情報専門学校、イーストコート2番街

写真手前がポートアイランド、奥が六甲アイランド
写真手前がポートアイランド、奥が六甲アイランド

神戸市立中央市民病院(JV)

神戸港沖に埋立造成された人工島・ポートアイランドのほぼ中央に建つ当病院は、昭和53年(1978)7月に着工した。着工当初は島の西部でコンテナ埠頭が稼働しているだけで、東部の一部ではまだ埋立工事が続いており、島の各所で地盤改良工事が行われていた。また、道路はまだなく、電力、電話、水等も遠くコンテナ埠頭側から引き込んでくるという状況であった。

建物は、地下40mの杭に支えられた地下1階、地上12階、平面は縦横対称形で、地上部分は鉄骨大スパン方式を採用している。敷地には2年前から圧密促進のための載荷盛土(高さ10m)があり、それを排土することから着手した。

施工に際し、揚重計画では各階に水平運搬用の台車を配置し、揚重用ロングエレベータと結ぶステージを設けて、荷が容易に台車に移動できるようにした。

55年になると島内で催されるポートピア'81に向けパビリオン等の建設も本格化し、島内で事業を行う建設業者の数は200社を超えた。当工事も仕上げ工事の最盛期にあったが、行き届いた段取りにより、とくに作業員不足に悩まされることもなく工事は順調に進んだ。

当社(幹事会社)、戸田建設、東急建設の3社JVの施工で、請負金は37億6,577万円(設備工事は別途)、鉄骨、鋼管杭は支給であった。所長は中川一郎である。

56年3月病院オープン以来、屋上にヘリポートも備えた1,000床のベッド数をもつこの最先端の医療施設には見学者が多数訪れ、57年BCS賞も受賞した。

神戸市立中央市民病院(JV)
<兵庫県>昭和55年11月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市、伊藤喜三郎建築研究所、日建設計
工事概要 S造およびSRC造、B1、12F、PH付、延6万8,504㎡、ベッド数1,000床
神戸市立中央市民病院(JV)
<兵庫県>昭和55年11月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市、伊藤喜三郎建築研究所、日建設計
工事概要 S造およびSRC造、B1、12F、PH付、延6万8,504㎡、ベッド数1,000床

ポートピアプラザ

ポートアイランドの一角で昭和56年(1981)開催された博覧会「ポートピア'81」の跡地利用として、神戸市によって54年に行われたポートアイランド高層住宅用地コンペに、当社、三菱地所、三菱商事、川鉄商事の4事業主で応募、みごと当選を果たした。

この当選案に沿って57年4月からスタートした第1期工事では、高層棟2、中層棟1、施設棟1(店舗等)を59年8月にかけ建設した。ほぼ同時期に始まった第2期工事では、高層棟2、中層棟1、施設棟1(室内プール)のほか公園や駐車場が計画されたが、途中、第1期の住戸販売状況の不振などの理由から、販売促進のためG棟(室内プール)のみを完成させただけで、他は工事を一時中断した。

その後、第2期工事は61年9月から再スタートし、平成元年8月、7年余をかけた大事業はようやく完成した。この間、全工期250万時間無事故無災害を達成して平成元年労働大臣優良賞を受賞、全戸(856戸)完売も果たした。請負金は197億5,477万円、所長は第1期が内田昭雄、第2期が木村雅一であった。

ポートピアプラザ
<兵庫県>昭和59年8月竣工(第1期) 平成元年8月竣工(第2期)
発注 当社、三菱地所、三菱商事、川鉄商事
設計 三菱地所
工事概要 A・B・C・D棟/SRC造、B1、25F、PH付 E・F棟/RC造、8F、PH付 G・H棟/RC造、2F 総延10万2,185㎡
ポートピアプラザ
<兵庫県>昭和59年8月竣工(第1期) 平成元年8月竣工(第2期)
発注 当社、三菱地所、三菱商事、川鉄商事
設計 三菱地所
工事概要 A・B・C・D棟/SRC造、B1、25F、PH付 E・F棟/RC造、8F、PH付 G・H棟/RC造、2F 総延10万2,185㎡

急がれる廃棄物処理施設

人口増に伴う一般廃棄物の増加と高度経済成長で膨張する産業廃棄物の処理が深刻な社会問題となり、昭和44年(1969)から8年ごしの東京・杉並清掃工場建設問題から“ゴミ戦争”という言葉まで登場するようになった。そうしたなか、45年、従来の「清掃法」が全面改訂され、生活環境の保全と公衆衛生の向上を目的とした「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」が制定され、ここに一般廃棄物と産業廃棄物を区別し、その処理体制がようやく整備された。

安定成長期に入り排出廃棄物量の上昇率はスローダウンしたものの、全国の産業廃棄物は、50年度に2億3,650万tであったものが60年度は3億1,230万tと30%の増加、一般廃棄物は、50年度の3,200万tから60年度は4,350万tと35%増加した。廃棄物処分については、各地方自治体がこれに当たるが、人口増加の著しい大都市圏では事態は深刻で、これに対応すべく広域的な最終処分場を自治体が共同して造るいわゆる「フェニックス計画」が策定された。しかし、この計画も平成3年末現在、大阪ではスタートしたものの、東京ではまだスタートが切られていない。

38年度に発足した国の廃棄物処理5カ年計画は、51年度に第4次計画が始まり、当計画ではとくにゴミ・し尿処理施設や産業廃棄物処分施設の整備に重点がおかれ、その投資総額は1兆4,000億円にものぼった。また、56年度からの第5次計画では、廃棄物の再利用や資源化、大都市で年々増大するゴミの処分場確保を柱として2兆円以上が投資された。廃棄物最終処分量を第5次計画の最終年度である60年度でみると、産業廃棄物3億1,227万tのうち中間処理(44%)から出てくる残渣を含めて最終的処分量は年間9,000万t、また一般廃棄物では、年間排出総量4,345万tのうち焼却の残渣を含めて1,600万tにのぼり、年間で合計1億600万tが最終的に埋め立てるなどして処分された。

当社が50年代に施工した代表的な廃棄物最終処分場(海上型)、ゴミ焼却場は以下のとおりであるが、60年代以降もこの種の施設建設は増加傾向をたどっている。

●廃棄物最終処分場(海上型)

大阪市北港廃棄物処分地護岸、兵庫県廃棄物埋立護岸、東京都中央防波堤外側廃棄物処理場護岸(JV)、千葉港廃棄物埋立護岸、広島県大竹地区廃棄物埋立護岸(JV)(62年3月竣工)

●ゴミ焼却場

東京都大井清掃工場、神戸市環境局東工場、青森市梨の木清掃工場、名古屋市環境事業局南陽工場、大阪市環境事業局港工場、東京都砂町処理場汚泥焼却炉煙突、埼玉県東部清掃組合第二工場ごみ処理施設(JV)

なお、50年代後半(一部60、61年竣工)の当社施工の代表的な下水処理施設には以下のものがあった。

●下水処理施設

<関東圏>

東京都柳瀬処理場(一部JV)、埼玉県荒川左岸南部流域下水道荒川終末処理場4号水処理施設、横浜市神奈川下水処理場水処理施設第2期・第3期(JV)、湯河原町浄水センター

<近畿圏>

豊中市猪名川流域下水道原田終末処理場第3系列2/8水処理施設、神戸市新垂水処理場水処理施設、大阪市今津貯留池(その4)(その5)、明石市朝霧環境センター、和歌山市中央終末処理場処理施設、大阪府渚処理場水処理施設(JV)、大阪市市岡処理場沈砂池並びにポンプ室他、大阪府摂津ポンプ場ポンプ室その他(JV)

<その他>

名古屋市鳴海下水処理場処理施設(増設)、日本下水道事業団中野浄化管理センター(JV)(長野)、同事業団(一部広島県発注)太田川流域下水道西部浄化センター(その5)ほか(JV)、同事業団中讃流域下水道大束川浄化センター(JV)(香川)、金沢市公共下水道西部処理場水処理施設(JV)

青森市梨の木清掃工場
<青森県>昭和51年6月竣工
発注 青森市
設計 川崎重工業
青森市梨の木清掃工場
<青森県>昭和51年6月竣工
発注 青森市
設計 川崎重工業
明石市朝霧処理場処理施設(朝霧環境センター)
<兵庫県>昭和59年10月竣工(土木工事) 昭和60年4月竣工(建築工事)
発注 明石市
設計 明石市
明石市朝霧処理場処理施設(朝霧環境センター)
<兵庫県>昭和59年10月竣工(土木工事) 昭和60年4月竣工(建築工事)
発注 明石市
設計 明石市
名古屋市環境事業局南陽工場
<愛知県>昭和52年6月竣工
発注 名古屋市
設計 名古屋市、大建設計
名古屋市環境事業局南陽工場
<愛知県>昭和52年6月竣工
発注 名古屋市
設計 名古屋市、大建設計
太田川流域下水道西部浄化センター(JV)
<広島県>昭和56年9月竣工(第1期) 昭和60年9月竣工(第2期)
発注 日本下水道事業団(第1期)、広島県(第2期)
設計 日本下水道事業団、日本水工設計(第1期) 広島県、日本水工設計(第2期)
太田川流域下水道西部浄化センター(JV)
<広島県>昭和56年9月竣工(第1期) 昭和60年9月竣工(第2期)
発注 日本下水道事業団(第1期)、広島県(第2期)
設計 日本下水道事業団、日本水工設計(第1期) 広島県、日本水工設計(第2期)
荒川左岸南部流域下水道荒川終末処理場4号水処理施設
<埼玉県>昭和59年3月竣工
発注 埼玉県
設計 埼玉県
荒川左岸南部流域下水道荒川終末処理場4号水処理施設
<埼玉県>昭和59年3月竣工
発注 埼玉県
設計 埼玉県

東北・上越新幹線が開通

昭和44年(1969)4月に策定された新全国総合開発計画に基づく国土開発の骨格形成のため全国新幹線網の整備が目標とされ、45年5月に新幹線建設のための法律「全国新幹線鉄道整備法」が公布された。これによって東北新幹線と上越新幹線の整備計画が決定された。

46年11月、両線同時に数カ所で起工式が行われ、順次工事に着手した。そして東北新幹線は57年6月、大宮~盛岡間470㎞が暫定開業され、根強い住民の建設反対にあって遅れていた上野~大宮間28㎞もようやく57年度から工事に着手し、60年3月営業開始となった。その後、上野~東京間は平成3年6月開業された。

一方、上越新幹線は57年11月開業となったが、ルートの大半が豪雪地帯を通過するため、雪害に対する本格的な対策が施された。また、延長5㎞以上の長大トンネルが7カ所もあり、高崎~長岡間は136㎞のうち約78%がトンネルであったため難工事の末の開業であった。

なお、東北・上越新幹線における当社の主な工事は右図のとおりである。

東北新幹線・上越新幹線での当社の主な担当工事 ※発注者は日本鉄道建設公団または日本国有鉄道
東北新幹線・上越新幹線での当社の主な担当工事 ※発注者は日本鉄道建設公団または日本国有鉄道
上越新幹線魚沼隧道(南)
<新潟県>昭和51年9月竣工
発注 日本鉄道建設公団
設計 日本鉄道建設公団
上越新幹線魚沼隧道(南)
<新潟県>昭和51年9月竣工
発注 日本鉄道建設公団
設計 日本鉄道建設公団
東北新幹線那須南高架橋
<栃木県>昭和55年10月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
東北新幹線那須南高架橋
<栃木県>昭和55年10月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道

新仙台駅

東北新幹線の開通を目指し、仙台駅も新装されることになり、昭和47年(1972)8月、西口駅前広場の一角に仮駅舎を建設、旧駅舎を解体することから工事はスタートした。

まず在来線を東側に移動・敷設し、旧駅舎部を含めたその跡地に、長さ約313m、幅40mの新駅舎の建設を48年3月に着手、在来線ホームとの間には地中連続壁を設け掘削を開始した。

新駅舎はSRC造、地下1階、地上4階で、地上約17mの4階部分が新幹線ホームとなり、屋上は駐車場、2階と3階がコンコースとなっている。

一方、盛岡側で仙台駅に大きくカーブして入線してくる東北本線とのクロス部分ではS造の高架橋を構築した。その基礎工事では深礎の上の鉄骨建方を、深夜、仙台を通過する列車をすべて東側の貨物線を使って迂回輸送し、その時間帯に合計4台のクレーンで複雑に入り組んだ架線をまたぐようなかたちで集中的に行った。

こうして高架橋の床版および駅舎部分の鉄骨建方も開始したが、石油危機後の政府の総需要抑制策の影響を受け、工事進捗はスローダウンを余儀なくされた。

ようやく51年12月建築仕上げ工事が始まり、同時に駅舎に隣接してターミナルデパート「エスパル」の工事もスタートした。また、2階コンコースから西口広場を大きくまたぎ、各周辺建物や道路へタコ足のようにのびるペデストリアンデッキの工事にも着手した。さらに高架橋部に接続して道路をまたぐ部分50mに合成桁も架設し、こうして新仙台駅、またそれに続く高架橋およびターミナルビル「エスパル」など主たる工事は53年3月竣工した。その後、西口駅前広場整備が56年3月まで続き、57年6月東北新幹線盛岡~大宮間暫定開業を迎えた。請負金は土木工事が50億908万円、建築工事は51億2,540万円、所長は土木工事が飛田仁彦から上原 忠、土屋義次に引き継がれ、建築工事は阪上晴夫であった。

新仙台駅
<宮城県>昭和53年3月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 駅舎/SRC造、B1、4F、PH2F、延4万8,136㎡
プラットホーム/島式、2面、延長410m
新仙台駅
<宮城県>昭和53年3月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 駅舎/SRC造、B1、4F、PH2F、延4万8,136㎡
プラットホーム/島式、2面、延長410m

上越新幹線新潟駅

上越新幹線新潟駅は昭和49年(1974)から実に7年半の歳月と約250億円の巨費を投じた工事であった。

当駅は在来線国鉄新潟駅と操車場の線路間に島状に構築されたものであり、当社工区はこのうち大宮側全長650mで、駅舎高架橋部400mと営業線とクロスする高架橋部250mである。幅員12.5~40m、RC造、2~3層ラーメン構造13スパン、橋台3基、橋脚2基、プラットホーム2面、そしてこの上に延5,600㎡のS造2層の駅舎の建築工事があった。

なかでも大宮側で営業線の上をまたぐ作業は最も困難な工事であった。1日170本の列車、電車が通過または留置される5本の電化線の真上にRCラーメンを構築しようとするもので、その基礎から柱までの施工はすべて列車運転上の安全空間(建築限界という)を限界ぎりぎりまで縮小し、さらに上部躯体施工では架空活線から約50㎝の接近となった。また、営業線路、架線、留置電車に囲まれた中で4万3,000㎥のコンクリートを打設するための資材搬入にも苦慮した。このような厳しい条件下にもかかわらず155万時間無事故無災害の記録を達成、56年労働大臣進歩賞、業種別無災害最長記録賞(橋梁高架橋部門)等々の栄誉ある賞を受けた。

57年11月開業後も工事は63年まで続き、請負金は土木、建築工事合計で65億4,000万円、所長は土木工事は近藤信行、大橋進也、松村 孝から中村輝夫に引き継がれ、建築工事は植村武夫であった。

上越新幹線新潟駅
<新潟県>昭和57年9月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 延長650m、幅員12.5~40m、2~3層RCラーメン構造、島式プラットホーム2面、コンクリート量4万3,000㎥、駅舎(S造、2層、延5,600㎡)ほか
上越新幹線新潟駅
<新潟県>昭和57年9月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 延長650m、幅員12.5~40m、2~3層RCラーメン構造、島式プラットホーム2面、コンクリート量4万3,000㎥、駅舎(S造、2層、延5,600㎡)ほか

上越新幹線中山トンネル高山工区

中山トンネルは子持、小野両山の鞍部の地下200~400mを貫く長さ1万4,857mの長大トンネルである。当初6工区に分け、200mの横坑、800mの斜坑各1本と、鉄道トンネルではそれまで例のない深さ300m級の立坑3本をそれぞれ作業坑として着手したが、大宮側から2番目の工区で湧水が多く斜坑が水没して復旧不能となったため、この工区を廃止し、改めて5工区に分け直して工事を行った。当社工区はちょうどこの真ん中の工区2,827mであった。

工事は295mの大深度立坑工事から難航した。深さ51m付近から急速に地山が悪化し、大量の湧水に苦しんだ。少々の地盤凝固剤では歯が立たず、8本のディープウェルで毎分24tの水を汲み上げて工事は続いた。この地下水の汲上げで近隣の農地が涸れてしまい、渇水対策として現場湧水処理プラントを急遽設け、約1.5㎞に及ぶ農業用水路を敷設し給水するという思わぬ事態も発生した。

立坑の掘削スピードは月5m、1日わずか20㎝。これ以上の工期の遅れを食い止めるためソレタンシュ社の工法による大規模な薬液注入と掘削が繰り返され、ようやく昭和51年(1976)6月、4年近い歳月をかけた立坑掘削が完了した。この間、難工事に奔走して病に倒れた米永賢次所長が不帰の客となった。

52年5月いよいよ本坑掘削を開始、大量の水を含む超悪地盤・八木沢層との戦いが始まった。途中、3度の大崩壊、水没があったが再起、ようやく56年4月新潟側導坑が貫通し、9月大宮側も貫通した。524、525ページは、『マンスリー大林』(57年1月号)に掲載された本坑工事の感動的な記録である。こうして57年3月(付帯工事は58年3月まで)、当初請負金の12倍余もの356億円、当初3年9カ月の予定であった工期も10年10カ月となった世紀の難工事はここに幕を閉じたのであった。所長は米永賢次から土谷 覚に引き継がれた。

上越新幹線中山トンネル高山工区
<群馬県>昭和58年3月竣工
発注 日本鉄道建設公団
設計 日本鉄道建設公団
工事概要 トンネル延長2,827m、立坑深さ295m、掘削土量29万3,400㎥、コンクリート量7万2,500㎥
上越新幹線中山トンネル高山工区
<群馬県>昭和58年3月竣工
発注 日本鉄道建設公団
設計 日本鉄道建設公団
工事概要 トンネル延長2,827m、立坑深さ295m、掘削土量29万3,400㎥、コンクリート量7万2,500㎥

東北・上越新幹線王子南部高架橋

東北新幹線上野~大宮間工事は、昭和47年(1972)11月に着工したものの用地問題などにより遅れて、ようやく60年3月に完成した。このうち当社工区は、京浜東北線の東側に沿い、さらに並行する区道と都電荒川線双方の上空におおいかぶさるような形の約400mの高架区間であった。また、施工区域にはこれを横切る地下鉄7号線、首都高速王子線、電電シールド等の将来計画があり、工事終点付近で明治通りや石神井川バイパス等の上空を横断するため、その基礎位置は著しく限定され、各橋脚(6基)の支間は45~74mの長大スパンとなった。工事用地が狭隘で基礎をコンパクトにしなくてはならないうえ、工事の騒音や振動を防止することが要請され、基礎工事には当社の本格的な連壁剛体基礎(459ページ参照)を採用し、57年4月の着工後わずか半年という短期間で連壁剛体基礎6基を完成させた。

高架橋上部工は、幅員11.3m、最大支間74mの6径間を合成桁でつなぐもので、鋼材量は1連最大728t、6連で計3,565tにも及ぶ当時わが国で最大級の鉄道高架橋であった。

架設方法は桁下の交通に支障を与えない手延べ送出し工法{}を採用し、使用する手延べ桁も長さ75.6mというかつて例をみない大規模なものであった。

また、架設箇所の新幹線ルートは、平面的にはR=2,000mの曲線、縦断的には7%の勾配という複雑な線形であり、架設中の桁の方向やたわみの制御など高度な管理技術を要した施工であった。そのうえ、通常の交通運行が行われている上空での作業であるため、ちょっとしたミスが大事故につながる危険性があり、またこの間、震度4の地震や降雪などもあって緊張の日々が続いたが、60年3月、工事は無事完了した。請負金は17億9,468万円、所長は大橋進也であった。

注 手延べ送出し工法:本設の合成桁の鼻先に手延べ桁という桁を取り付け、それを送り出して順次1スパンずつ桁を架設する工法。

東北・上越新幹線王子南部高架橋
<東京都>昭和60年3月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 連壁剛体基礎6基(平均断面5.5m×6.0m×深さ約20m)、合成桁架設6連(スパン延長45~74m、鋼材量3,565t)、床版・路盤コンクリート量2,500㎥
東北・上越新幹線王子南部高架橋
<東京都>昭和60年3月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 連壁剛体基礎6基(平均断面5.5m×6.0m×深さ約20m)、合成桁架設6連(スパン延長45~74m、鋼材量3,565t)、床版・路盤コンクリート量2,500㎥

湧水隧道、10年の闘い

●3度の大崩壊をくぐって

本坑掘削はまず新潟側で行き詰まった。当社担当工区中間の高山立坑から新潟側へ約240m掘り進んだ地点で八木沢層に突入。導坑掘進は難航。ショートベンチ法、LW凝固剤注入、水抜き坑掘削等の努力が重ねられた。しかし地山は極度に悪い。

52年10月18日、左導坑崩壊。崩壊土砂400㎥。更にLWを注入して掘進。

11月17日、左導坑2次崩壊。崩壊土砂600㎥。一時は立坑付近まで水が迫り、掘進不能。「オレが責任を預かる現場だから」と最後まで残った土谷所長は、崩壊土砂流の中を四つんばいで押し流されるように退避。

本坑部に開発間もない無機系注入薬液シリカライザーを大量注入。並行して悪地盤前方への迂回を図る。しかしこれも難航。右へ、左へ迂回路を求め、メッセル工法に切り換えての前進が続いた。53年5月、左迂回坑崩壊。同坑の半分近くが600㎥の土砂に埋まる被害を受けながら更に迂回を図る。

このころ、大宮側も問題の八木沢層に接近していた。

●崩壊、水没、そして再起

高山立坑から大宮側へ約2㎞のうち、1.1㎞ほどはなんとか順調に進んだ。しかしこの付近から地山が悪化、八木沢層へ突入。導坑は立往生。

大規模薬液注入開始。並行してまず右の迂回を求めたが、100m少々入った所で調査ボーリングの結果、高圧湧水を伴うルーズな層の分布を確認、掘進断念。左へ迂回を試みる。地山を探り、水抜きをしながら慎重に進む。54年1月、迂回に成功。直ちに大宮側隣工区(四方木工区)と八木沢層に向けて同時に掘進を開始。その2カ月後、四方木工区が同工区八木沢層のえじきとなって水没。

翌55年1月には新潟側で、3度の大崩壊をもたらした八木沢層を突破。難工事にもひとときの光がさした。

そして55年3月7日、大宮側で悪夢のような巨大な崩壊が始まった。同日23時30分、迂回先から八木沢層を攻めていた右導坑で、矢板のきしみ、変状が起こり、天端から毎分200~300ℓの湧水が始まった。左導坑でも一部矢板の異状を確認。

翌8日0時35分。ついに湧水が濁りだし支保工も変化し始める。鋼管、H鋼を投じての補強を急いだが、湧水は濁りを増して見る見る急増。アッという間に手のつけられない状態となった。支保工接続部のボルトが次々と飛ばされ、支保工がはらみ、山鳴りが続き、切羽先端に黒い影が落ちた。崩壊だ! 全員一時退避。出水量はすでに毎分50t。水位は深い所で1.2mに達した。各ポンプ室への湧水の導水、セメント袋を積み上げての止水堰の構築、コンクリート止水堰の打設、臨時ポンプ場の設営が夜を徹して行われた。翌朝水没は一時まぬがれたかにみえた。

3月9日16時20分、湧水の色がにわかに暗褐色となり水量が瞬時に激増。未曾有の大出水が起こった。17時過ぎ、各ポンプ室が次々と水没。激しい水勢に、天井まで積み上げコンクリート補強までした止水堰も相次いで突破された。湧水量は毎分120~130t。

3月10日3時35分、全員坑外へ脱出。同日7時再入坑して最後の抵抗を試みたが、水は立坑の所まで押し寄せ、ついにすべての作業を断念。再入坑者92名の脱出を最後に、7年半もかけてやっとここまでたどりついた苦労は、わずか2日余りで水没してしまった。

土谷「水没を前にしたときの気持はとても一言では……。情なくて、悔しくて、大の男に涙が流れた」

水没は立坑深さ100mあたりにまで及んだ。出水地点直上のゴルフ場からの深さ350mのボーリングと止水モルタル、凝固剤の坑外注入が決定され、全国各地からボーリング業者を呼び集めた。50基を超えるやぐらが林立し、300カ所以上の注入坑のボーリングが昼夜兼行で始まった。

まず8,000㎥を超すモルタルを2週間ぶっ通しで注入。出水箇所坑道の閉塞を図る。また周辺八木沢層へはその後約10カ月にわたり10万㎥に迫る薬液が注入された。

8月に入りようやく水が止まり排水開始。8月25日、復旧第1陣入坑。モルタルで埋まる坑内。ヘドロがぶ厚く堆積する。56年2月までその被災処理。それからがまた大変だった。

四方木工区の地層の都合でルート変更。約600mの本坑を新規に掘り直すことになった。大宮側にはまだ八木沢層が。そして57年3月までに竣工との指示。職員、作業員の大動員が始まる。職員数は60名を超え、作業員も800名を数えるに至った。もはや経済性も何もかも度外視した、当社の威信をかけての大突貫が開始された。

56年4月17日、新潟側隣工区との導坑貫通。9月24日、大宮側八木沢層を貫通。ついに1本の本坑に結ばれた。測量班は皆泣いた。

当地で生まれた子もすでに小学校高学年になろうとしていた。

下図に続く

55年3月の大出水。必死の遮水堰構築が続けられる
55年3月の大出水。必死の遮水堰構築が続けられる
抵抗むなしく、水没間近の坑内
抵抗むなしく、水没間近の坑内

景気回復策を担った電力投資

第1次石油危機で国内電力需要は一気に冷え込んだが、昭和52年度(1977年度)の電力業界の設備投資計画(工事ベース)は、電力9社の合計で2兆3,615億円と前年に比べ22%の大幅増となり、53年度には電力9社と電源開発の合計で3兆円の大台に乗った。この時期、設備投資が大きく伸びたのは、景気回復策の一つとして政府が電力業界に電源開発の設備投資拡大を要請したからであった。とくに、石油に過度に依存してきた従来の姿勢を見直す意味で原子力発電の建設促進が求められ、一方、LNGや石炭などの代替エネルギーに目を向ける動きが高まっていった。しかし、50年代後半に入ると、これらの発電所が運転を開始したにもかかわらず肝腎の電力需要が低迷し、設備投資も下降線をたどり、計画延期のプロジェクトも出始めた。

このように石油危機を境にして電気事業をめぐる環境は大きく変わったが、電源立地難は相変わらずであった。発電所の建設について地域の同意が得られない大きな理由の一つは、安全性への不安や環境破壊への危惧であり、もう一つは地域経済へのメリットが少ないと地元側が受けとめているということであった。これに対して、出力15万㎾以上の火力および原子力発電所は環境調査の結果を環境審査顧問会が審査することとしたり、49年には電源立地促進の決定打ともいうべき電源3法{}を成立させ、これらに対応したのであった。

原子力発電所については別項で述べているが、火力発電所では、石炭の見直しによって海外炭による大規模な発電所が建設されるようになり、当社はその一つである電源開発松島火力発電所1・2号機本館(JV)を建設した。また、四国電力西条発電所で石炭サイロの新システムを開発、建設し、苫東コールセンターでは浜厚真事業所貯炭場(JV)を建設した。さらに関西電力御坊発電所1~3号機本館(JV)は、人工島の超若齢地盤という立地で、その施工は各方面から大いに注目された。水力発電については、43年を境に電力需給が逼迫し、また電力需要のピークが夏場に移行するなかで登場した揚水式発電所の大規模なものや地下発電所の建設にも携わった。

大都市への人口集中に応じて大容量変電所の建設も行われ、その代表的なものには東京電力横浜西口変電所(JV)、東北電力五ツ橋変電所(JV)、東京電力上野変電所(JV)(61年3月竣工)などがあった。また、当社初の地熱発電所である北海道電力森発電所本館(JV)、インドネシアのマニンジョウ水力発電所(JV)の建設もこのころであった。

さらに60年代に入り中部電力碧南火力発電所灰捨地護岸(JV)、そして請負金が40億円近くにものぼった関西電力旧尼崎第一・第二発電所の大規模な解体撤去工事という珍しい工事もあった。

注 電源3法:「電源開発促進税法」「電源開発促進対策特別会計法」「発電用施設周辺地域整備法」の三つの法律のこと。

奥清津発電所第一工区(JV)
<新潟県>昭和53年10月竣工
発注 電源開発
設計 電源開発
(写真は取水口とゲート室)
奥清津発電所第一工区(JV)
<新潟県>昭和53年10月竣工
発注 電源開発
設計 電源開発
(写真は取水口とゲート室)
松島火力発電所1・2号機本館(JV)
<長崎県>昭和56年8月竣工
発注 電源開発
設計 電源開発、開発設計
松島火力発電所1・2号機本館(JV)
<長崎県>昭和56年8月竣工
発注 電源開発
設計 電源開発、開発設計
松浦火力発電所1号機本館(JV)
<長崎県>平成2年5月竣工
発注 電源開発
設計 電源開発、開発設計
松浦火力発電所1号機本館(JV)
<長崎県>平成2年5月竣工
発注 電源開発
設計 電源開発、開発設計

四国電力西条発電所石炭サイロ

四国電力では、電源多様化の一環として西条発電所1・2号機の燃料石炭転換工事に着手、そのための大型貯炭サイロ3基(1基1万3,000t)の建設を計画した。完成すれば大型貯炭サイロとしてはわが国初のものであった。当社は、日立製作所と共同で開発した新型払出し装置(Wコニカルシステム)を中心とした大型貯炭サイロの技術を高く評価され、この四国電力初の工事を手がけることとなった。

発電所向けの大型石炭サイロは、当社が他社に先がけて開発に着手し、この受注でその成果がようやく実ることになった新しい技術であった。また、幾つかの土木建築技術の組合せに加えて、機械・電気などの技術も一体となったシステムのトータルエンジニアリングであり、わが国の建設業に新しい足跡を記したといえる。

工事は昭和56年(1981)11月に開始されたが、杭基礎は上部構造にマッチした設計が可能という理由からウォール ファウンデーション工法を採用した。初めてプレストレスを導入したHPシェルの筒体は、新たに開発したアンボンドPCケーブル押し込み装置を搭載したスウェトー工法で施工した。

また、Wコニカルシステムのホッパーは、石炭のスムーズな流動を確保するために円錐型を組み合わせた形状をしており、一部にプレストレスを導入した鉄筋コンクリート製で、その表面にはステンレスのライニングを打ち込むこととなっていた。この難解さに加えて、複雑な形状となる筒体との接合部などをいかに施工するかが問題であった。請負金は15億3,782万円(設備工事は別途)、所長は曽根隆之であった。

四国電力西条発電所石炭サイロ
<愛媛県>昭和58年6月竣工
発注 四国電力(1次)、日立製作所(2次)
設計 当社、日立製作所
工事概要 石炭サイロ3基(1基貯炭能力1万3,000t、RC造、下部外径31.1m、上部外径26.6m、筒体高さ33.4m)
四国電力西条発電所石炭サイロ
<愛媛県>昭和58年6月竣工
発注 四国電力(1次)、日立製作所(2次)
設計 当社、日立製作所
工事概要 石炭サイロ3基(1基貯炭能力1万3,000t、RC造、下部外径31.1m、上部外径26.6m、筒体高さ33.4m)

関西電力御坊発電所1~3号機本館(JV)

出力180万㎾の重原油混焼大型火力発電所である関西電力御坊発電所は、和歌山県御坊市の沖合約200mの海域に約35万㎡の広大な人工島を築造し、この上に発電設備、重原油備蓄施設、変電設備等いっさいを備えた、わが国初の海上発電所である。

当社(幹事会社)、間組、西松建設、佐藤工業の4社JVで施工し、タービン建屋、ボイラー、超高煙突などの最重要構造物の基礎工事にはOWS工法によるウォール ファウンデーションを大規模に採用、耐震壁を含む本体地中壁および基礎杭として延約5万㎡を施工した。このような大規模発電施設の基礎にウォールファウンデーションが全面的に採用されたのはわが国初のことであった。従来数多く施工された地中壁は、天然地盤か、もしくは埋立地盤であっても掘削土砂等で構成され、埋立て後長期間の圧密が完了した地盤におけるものであった。ところが、この人工島を形成する埋立地盤は、そのほとんどは岩石を人工的に破砕して作った砕石を主とし、しかも埋立てが終了した後、圧密期間をおくことなく、ただちに基礎工事に取りかかるという、過去に全く経験しなかった施工条件であった。そこで本工事開始に先立ち、当社技術陣は大規模な施工実験を行った。そして、この若齢人工礫地盤に自硬性安定液という特殊な地盤安定液を浸透・固化させて、天然地盤に近い状態に変えた後、地中壁掘削に取りかかるという二段構えの工法を採用した。

さらに、水道水が得られない場所であったため安定液に海水を使用することを可能にする方法の開発、大量の安定液確保のための自動安定液作成供給システムの開発、また硬い支持地盤の掘削をハイドロフレーズ掘削機で克服するなど、OWS工法のあらゆる技法を駆使した。

さまざまな開発成果をもとにウォール ファウンデーションと地盤改良工事は昭和57年(1982)1月~11月という短工期で完了した。このため、ハイドロフレーズ掘削機5台、ケリー掘削機7台が同時に稼働し、一時、現場は重機が林立する一大機械展示場のような様相を呈し、内外見学者を驚かせたものであった。

地中壁工事に続く上部建築工事もその勢いに乗って順調に進捗し、大幅な工期短縮の成果のうちにすべての工事は59年12月完成した。本館の請負金は65億6,445万円(設備工事は別途)、鉄筋、セメント、鉄骨などは支給であった。所長は太田進一である。

関西電力御坊発電所1~3号機本館(JV)
<和歌山県>昭和59年12月竣工
発注 関西電力
設計 関西電力
工事概要 RC造およびS造、B1、6F、延3万1,466㎡
関西電力御坊発電所1~3号機本館(JV)
<和歌山県>昭和59年12月竣工
発注 関西電力
設計 関西電力
工事概要 RC造およびS造、B1、6F、延3万1,466㎡

中国電力俣野川発電所導水路隧道(JV)

中国山脈の大山から南方12㎞地点の山奥にある当発電所は、1,650億円を投じて建設されたわが国最大級の純揚水式発電所である。昭和55年(1980)3月着工当時は、工事用道路もなく大型ヘリコプターで2~3万tの機械・資材を空輸し、職員や作業員は険しい山道を登り降りしなければならなかった。

当発電所は上池ダムから約4㎞の導水路トンネルを流れてくる水が落差420mの2本の立坑を一気に落下して発電機を回し、最大出力120万㎾(30万㎾×4台)の電力を作り出す。一方、電力需要の減ったときには今度はタービンを回して下池の水を同じルートで逆流させて上池に戻すというものである。

当社と飛島建設のJVは、この発電所の導水路トンネル(内径7.8m)のうち延長2,507m部分、高さ134mのサージタンク(内径4.4~20.0m)、131mの斜坑や過去最深の420m立坑を含む水圧管路(内径4.2~5.0m)を2本、延長1,836mなど、作業坑を含め5㎞近いトンネル工事を担当した。斜坑や立坑では国内で初めて導入した立坑専用の掘削・ズリ積機が威力を発揮し、さらに地底から立坑を掘進するためのエレベータ式作業台、油圧ジャンボ、NATMでのコンクリート吹付けロボットなど次々と最新鋭マシンを駆使して60年12月工事は完了した。請負金は工事用道路を含めて74億円にのぼった。所長は扇 啓祐から山本宏司に引き継がれた。

中国電力俣野川発電所導水路隧道(JV)
<鳥取県>昭和60年12月竣工
発注 中国電力
設計 中国電力
工事概要 導水路トンネル/内径7.8m、延長2,507m
サージタンク/内径4.4~20.0m、高さ134m
水圧管路/内径4.2~5.0m、2本、延長1,836m
中国電力俣野川発電所導水路隧道(JV)
<鳥取県>昭和60年12月竣工
発注 中国電力
設計 中国電力
工事概要 導水路トンネル/内径7.8m、延長2,507m
サージタンク/内径4.4~20.0m、高さ134m
水圧管路/内径4.2~5.0m、2本、延長1,836m

歴史的建造物の保存と再生

日本における文化財建造物の国による保存・修理の制度は明治30年(1897)の「古社寺保存法」によって本格的にスタートし、昭和25年の「文化財保護法」により近代的な制度として確立した。当初は木造の古社寺が指定の主要な対象であったが、戦後は民家、さらに幕末・明治以降の近代建築(洋風建築)も積極的に加えられるようになった。63年4月現在で国宝および重要文化財の建造物は3,252棟で、うち洋風建築は117棟である。

わが国の伝統的な木造建造物の保存・修理の技術は世界最高の水準にあり、51年から57年にかけて行われた桂離宮御殿整備工事はその代表的な例であり、一方、旧赤坂離宮を迎賓館として再利用するための工事(JV)(49年3月竣工)は、いわゆる近代建築の保存再利用事業の代表的な例となっている。

今日、洋風建築の保存は、建物の外観を修復・保存して内部改造をする、いわゆるファサード保存の方式が主流となっている。この代表的なものが京都中京郵便局庁舎や日本銀行大阪支店営業所本館(JV)であった。

わが国の代表的なこれら保存・修復工事のいずれをも当社は手がけたが、ほかに60件ほどの同様の事例がある。次表に戦後の当社の主たる保存・再生工事を示す。このほかに、旧建物の一部を新ビルの一部にデザイン処理して移構した東海銀行日本橋東海ビル(JV)や朝日生命日比谷ビル(JV)、古い材料はいっさい使用しないでイメージを保存した白鹿記念酒造博物館(58年BCS賞、第9回吉田五十八賞特別賞などを受賞)などがある。

豊平館保存修理
<北海道>昭和61年4月竣工
発注 札幌市
設計 文化財建造物保存技術協会
豊平館保存修理
<北海道>昭和61年4月竣工
発注 札幌市
設計 文化財建造物保存技術協会
旧東京音楽学校奏楽堂復原移築
<東京都>昭和62年3月竣工 発注 台東区
設計 台東区、文化財建造物保存技術協会
旧東京音楽学校奏楽堂復原移築
<東京都>昭和62年3月竣工 発注 台東区
設計 台東区、文化財建造物保存技術協会
彦根城博物館(JV)
<滋賀県>昭和61年5月竣工
発注 彦根市
設計 早川正夫建築設計事務所
彦根城博物館(JV)
<滋賀県>昭和61年5月竣工
発注 彦根市
設計 早川正夫建築設計事務所
毛越寺本堂
<岩手県>平成元年4月竣工
発注 毛越寺
設計 藤島亥治郎東京大学名誉教授、当社
毛越寺本堂
<岩手県>平成元年4月竣工
発注 毛越寺
設計 藤島亥治郎東京大学名誉教授、当社

京都中京郵便局庁舎

中京郵便局庁舎は明治35年(1902)に建てられたルネッサンス様式、半地下、2階建、木造トラス、天然スレート葺きの煉瓦造で、明治時代の逓信省建築のなかでも粋を凝らした名建築であった。その煉瓦外壁を保存し、郵便局業務の諸機能を果たす新館と一体化する工事が昭和51年3月スタートした。付近は明治の面影を伝える京都独特の都市景観を醸し出している特別な地域であった。

工事のハイライトは煉瓦外壁を保存しながらいかに旧庁舎を解体するかということであったが、壁の自立は困難で煉瓦外壁だけを残しての解体は不可能であった。

そこで煉瓦外壁が工事中倒壊しないように煉瓦壁内側にOWS壁と連続柱列杭を基礎とする仮設鉄骨架構を組み、煉瓦壁とボルトで緊結する方法をとった。こうして旧庁舎は保存部分の煉瓦壁を補強用鉄骨で自立させて内部を全部解体し、続いて煉瓦壁を型枠として新しい鉄筋コンクリートの壁を内側に造り、あらかじめ保存煉瓦壁の内側にエポキシ樹脂でセットされたアンカー鉄筋で緊結し、仮設鉄骨を解体した。こうした後、延9,700㎡の新庁舎を構築し、53年3月すべての工事が完了した。

請負金は9億6,620万円(設備工事は別途)、所長は小林正貴であった。なお、当工事は54年BCS賞特別賞を受賞した。

京都中京郵便局庁舎
<京都府>昭和53年3月竣工
発注 郵政省
設計 郵政省
工事概要 RC造およびSRC造、B1、3F、延9,700㎡
京都中京郵便局庁舎
<京都府>昭和53年3月竣工
発注 郵政省
設計 郵政省
工事概要 RC造およびSRC造、B1、3F、延9,700㎡

桂離宮御殿整備

桂離宮は京都の西南に位置し、桂川河畔にある。敷地は約7万㎡で、中央に古書院、中書院、新御殿の書院群があり、庭池を隔てて、お待合や茶屋が点在している。これらの名建築群と風情ゆたかな庭園とのすぐれた調和は、日本の美の極致として広く知られている。

工事は昭和51年(1976)6月から延4万人の人員を動員し、5年9カ月の歳月をかけて行った。

一般に歴史的木造建造物の修理周期は、50年単位で屋根の葺替えなど小規模な修理が、100年単位で半解体程度の中規模な修理が行われる。そして当解体修理は300年周期に行われる最も大規模な全解体修理工事であった。

工事は、京都御所を中心に営々と技術を伝承してきた少数の名工、名匠たちによって施工され、一方では、合成樹脂や防虫、防黴剤など現代技術を駆使して、昭和大修理ならではの工事内容となった。

まず、写真撮影に引き続いて実測調査を行った。これは現在大きく変形している建物の当初寸法を把握し、実施寸法を決定するためのとくに重要な作業であった。

また、実測調査は歴史調査資料としても重要で、解体中も続行し、野帳(状況を図面に写しとったもの)の枚数は1,500枚に達した。室内の実測調査と並行して、工事期間中建物を風雨から守るための素屋根架設も開始した。

こうして建物の解体に取りかかったが、一時に解体するのではなく詳細な調査を並行して行い、解体した部材は傷つけないよう養生を施して解体材格納庫へ整理収納した。解体した部材は全部で5万ピースを超えた。収納した部材は、一本一本について履歴書(部材調査表)を作成し、埋木の跡、圧痕、仕口穴、釘穴や折損箇所、虫害、腐朽の各箇所を記録し、専門家の指導を受け修理方法を決定した。修理技法の考え方は、伝統技法による「木は木で修理する」を基本にし、有機高分子樹脂による方法も併用した。

基礎工事と部材修理が終わると木軸の再組立てを開始した。組立方法は創建時と同じ手法で行ったが、三百数十年にわたる経年変化による部材の劣化はいかんともしがたく、一般的に行われる火打梁や筋違で補強するとともに、ステンレス製ボルトやワイヤーで仕口、継手部分の強化を図った。

次いで、屋根葺き工事と内部の造作工事に移った。屋根葺き材は、御殿が杮葺き、下屋や付属建屋が桟瓦葺きである。そして古書院、中書院、楽器の間および新御殿の屋根はやわらかな女性的曲線を配した起り屋根である。杮葺きは、椹や杉の赤味柾材を使用し、村上社寺工芸社の吉川昌治(第7回吉田五十八賞特別賞受賞)グループが当たった。

桂離宮の壁には、左官用消石灰を使った白い壁の「パラリ壁」と、錆土を使った赤い壁の「大阪土切り返し水ごね仕上げ壁」とがあるが、中書院と新御殿の内壁には創建当初に施工されたと思われる赤い壁の古代壁が残存していた。そこで中書院の壁はいったん取り外して木軸組立て時に再度取り付ける「大ばらし工法」を採用した。このような大規模な壁の「大ばらし工法」は過去に例がなく、今回工事における代表的な工法であった。このほかの内壁や外壁は、明治20年代の修理で塗り替えられており、今回は京都の名工である小川久吉氏(第7回吉田五十八賞特別賞受賞)が新しく塗り替えることとなった。

続いて、内装材の取付けが行われた。襖、杉戸等の建具類や障壁の唐紙、水墨画、大小趣向を凝らした棚、畳は桂離宮御殿群の造営の歴史を物語るものである。しかし、これらの内装材も後の修理で徐々に改変されており、今回の修理ではできるだけ創建当時の姿にするために、多岐にわたる調査、試作を行って復元した。その多くは材料制作を無形文化財保持者の手で、施工を京都御所を中心に技術を伝承してきた宮内庁御用の職人たちが行った。

こうして桂離宮御殿整備工事は約6年の歳月を費やして無事故無災害で完成した。請負金は8億6,313万円、所長は水本豊弘であった。

所長は自身の書き残した手記の中で、「今後、桂離宮が管理者の手厚い保護のもとに無事維持され、次の大修理サイクルである300年先の技術者や職人たちに昭和大修理の技術的評価を受けたいものである」と記している。無事重責を果たした安堵感と自信がこの言葉に表れている。なお、当工事は58年BCS賞特別賞を受賞した。

桂離宮御殿整備
<京都府>昭和57年3月竣工
発注 宮内庁
設計 宮内庁
工事概要 第一回工事/素屋根架け(面積615㎡)、解体材格納庫(延372㎡)、古書院・中書院・楽器の間・高塀の解体および調査(延345㎡)
第二回工事/全解体修理(古書院・中書院・旧役所)、半解体修理(新御殿)、三分解体修理(臣下控所)、延1,010㎡
(左下写真は新御殿一の間・桂棚、左下段写真は中書院一の間・違棚)
桂離宮御殿整備
<京都府>昭和57年3月竣工
発注 宮内庁
設計 宮内庁
工事概要 第一回工事/素屋根架け(面積615㎡)、解体材格納庫(延372㎡)、古書院・中書院・楽器の間・高塀の解体および調査(延345㎡)
第二回工事/全解体修理(古書院・中書院・旧役所)、半解体修理(新御殿)、三分解体修理(臣下控所)、延1,010㎡
(左下写真は新御殿一の間・桂棚、左下段写真は中書院一の間・違棚)

拡がる建築技術

アンボンドPRCフラットスラブ構法とジャッキシステムの活用

2度の石油危機から安定成長に移行する昭和50年代に入ると、超高層建築は特別な工事ではなく一般化していった。わが国は近代建築を導入してわずか100年余で超高層建築を実現する技術を獲得したのであった。建築技術の次の開発目標はさまざまな方向に向かい、エネルギー関連技術や他産業の先端技術などから求められる複雑で困難な条件に柔軟に対応する技術の開発も進められた。

その代表的なものが、免震・除振・制振技術、省エネ技術、クリーンルーム技術等々であったが(452~458ページ参照)、省力化、コストダウン、工期短縮など日常的に要求される条件や目的に即した技術も、この時期、さまざまに開発された。

その一例がアンボンドPRCフラットスラブ構法のローコストショッピングセンターであり、ジャッキシステムによって大屋根を横に引いたり吊り上げたりする横引き工法やリフトアップ工法であった。ローコストショッピングセンターには、松江ショッピングプラザ・アピア(JV)、プラーナ(安来ショッピングセンター)、レイクピアウスイ(臼井ショッピングセンター)が50年代後半に相次いで建設された。また、ジャッキシステムによる大屋根施工の代表的な例には、万国博お祭り広場(JV)や新東京国際空港旅客ターミナル北棟(JV)があったが、50年代、60年代にその多くが集中している。

●ジャッキシステムによる代表的な大屋根施工実績

棚倉総合体育館アリーナ棟、横須賀市総合体育館(JV)、上野学園綜合体育館、TBS緑山スタジオ、狭山市民総合体育館(JV)、仙台市民体育館(JV)、日野市民会館(JV)、城西大学総合体育館アリーナ棟、草加市立東部温水プール、名古屋市総合体育館(JV)、大阪府立体育会館(JV)、全日本空輸整備本部成田工場(成田第一号格納庫)(JV)、東京都中央卸売市場大田市場(青果棟)(JV)、日本コンベンションセンター・幕張イベントホール(JV)(平成元年9月竣工)

松江ショッピングプラザ・アピア(JV)

スーパー業界は年間3,000億円の工事量といわれる大市場であった。しかし、消費低迷の折、スーパー業界は激烈な競争を繰り広げており、その店舗建設にも低コストが求められた。そこで当社は技術陣の総力を挙げてコスト低減のための技術開発を急いだ。松江ショッピングプラザは、その成果であるローコストショッピングセンターの第1号工事である。規模は、RC造、2階建、延1万3,876㎡で屋上が250台収容できる駐車場となっており、工事は昭和56年(1981)5月、当社(幹事会社)と松江土建、まるなか建設の3社JVでスタートした。

ここで採用したPRCフラットスラブ構法は、大スパンを可能にするアンボンドPRC構法と、梁のないフラットスラブ構法を組み合わせたもので、スペースの有効利用とともにコストダウンと工期短縮をねらいとしたものである。梁のない広い床版の施工には簡単に転用できる移動式床型枠「フライングショア(FS)」を、スラブの配筋には工場生産の格子鉄筋を使用し、これら一連の躯体工事作業は熟練度を要さない作業の繰返しで、省力化と効率アップがもたらされた。さらにはフラットスラブの採用による設備工事省力化効果も大きく、こうした数々の利点が組み合わされ、その効果が相乗的に増大する点が、この構法の何よりの特長であった。請負金は19億900万円、所長は田中定則であった。

松江ショッピングプラザ・アピア(JV)
<島根県>昭和56年11月竣工
発注 協同組合松江ショッピングプラザ
設計 創設計コンサルタント事務所
工事概要 RC造、2F、屋上駐車場、延1万3,876㎡
松江ショッピングプラザ・アピア(JV)
<島根県>昭和56年11月竣工
発注 協同組合松江ショッピングプラザ
設計 創設計コンサルタント事務所
工事概要 RC造、2F、屋上駐車場、延1万3,876㎡

仙台市民体育館(JV)

当体育館工事のハイライトは総重量1,260tの大屋根をリフトアップ工法で吊り上げたことであった。リフトアップ工法とは、あらかじめ地上で組み立てた平面的な構造物全体を、吊上げ用ジャッキ装置を用いて所定の位置まで一気に吊り上げ架設する工法である。当工事ではリフトアップに先立ち、大屋根を吊り上げる際の反力をとる仮設柱を四隅に建てたが、1,300t近い大屋根重量を支える重要な仮設物であり、建方の精度や溶接の品質は慎重を要した。

全長94.02m、全幅69.42mの鉄骨屋根を地上で組み立て、これを先の仮設柱に設けた総数8台の油圧ジャッキで毎分6㎝ずつ上昇させた。この大がかりな作業を円滑に進めるため、時々刻々と変化する鋼棒の張力、大屋根の位置や姿勢をリアルタイムで表示するパソコンを用いた自動計測システムを採用した。リフトアップは最初鉄骨屋根を地上1.7mまで吊り上げ、この状態で約3カ月、天井の仕上げ工事と設備工事を施し、その後、第2回目のリフトアップを行った。こうして大屋根を定位置(最高部23.9m)に無事吊り上げ、この下で天候に左右されることなく床、柱、壁などを順次完成させ、体育館は昭和59年(1984)3月竣工した。途中、第2回目のリフトアップのさなか、日本海中部地震があったが、大屋根には全く異常は発生せず、工事は続行し、当工事最大の山場を乗り越えた。この珍しい工事の見学者はマスコミはじめとして1,500人を数えた。施工は当社(幹事会社)と大木建設のJVで、請負金は23億9,894万円(設備工事は別途)、所長は阪上晴夫であった。

仙台市民体育館(JV)
<宮城県>昭和59年3月竣工
発注 仙台市
設計 日建設計
工事概要 RC造一部S造、3F、延1万820
仙台市民体育館(JV)
<宮城県>昭和59年3月竣工
発注 仙台市
設計 日建設計
工事概要 RC造一部S造、3F、延1万820

地方の時代(1)

デラックス化する地方庁舎

高度成長期に激しさを増した東京への一極集中への反省もあって、昭和53年(1978)ごろから“地方の時代”が提唱され始めた。こうした論議を背景に、50年代に相次いで完成した県市町村庁舎は、より一層その土地に密着した姿勢を明確にしたものが多く、たとえば当社が施工した上山市庁舎や館林市庁舎(JV)は、市の公園や文化スポーツ施設など市民広場の中心に庁舎を設け、市民のコミュニケーションセンターの役割をもたせようと意図した代表例であった。

また、このころからわが国の経済の伸長に伴った庁舎のデラックス化が評判を呼び、当社施工の北海道中標津町町役場や佐賀県の玄海町庁舎(JV)もその例であった。倉敷市庁舎(JV)は本格的美術建築であり、大阪市庁舎(当社は第1期)(JV)や山口県庁舎本館棟(JV)もその豪華さが大いに人目を引いた。一方、省エネ時代を反映して外断熱工法を採用した北海道の上磯町役場庁舎(JV)など、機能を誇る庁舎も多い。また、環境にマッチするようデザインに最大限の配慮がなされたり、旧建物を一部保存したりするなど環境との調和がテーマとなった庁舎も多かった。熊本市役所新庁舎(JV)や先の大阪市庁舎(JV)、山口県庁舎本館棟(JV)もその一例であった。

ほかに、この時期に当社が施工した代表的市庁舎としては、西条市庁舎、大竹市庁舎、宝塚市役所庁舎(JV)、函館市庁舎(JV)、南陽市庁舎、戸田市庁舎があり、60年6月には広島市庁舎(JV)、同12月に埼玉県浦和地方庁舎(JV)、61年8月に鹿児島市庁舎東館(JV)が完成した。県庁舎としては愛媛県庁第1別館、福岡県庁舎行政棟(JV)、徳島県庁舎(JV)(61年5月竣工)(63年BCS賞受賞)が、区役所として福岡市中央区役所・高速鉄道建設局合同庁舎、名古屋市北区総合庁舎があった。

また、農業協同組合がデラックスな会館を建設し始めたのも50年代に入ってからで、その代表的なものが全国農業協同組合札幌支所、郡山市農協会館、福井県農業会館(JV)であり、61年10月には福島県農協会館も完成している。

広島市庁舎(JV)
<広島県>昭和60年6月竣工
発注 広島市
設計 安井建築設計事務所
広島市庁舎(JV)
<広島県>昭和60年6月竣工
発注 広島市
設計 安井建築設計事務所
倉敷市庁舎(JV)
<岡山県>昭和55年5月竣工
発注 倉敷市
設計 浦辺建築事務所
倉敷市庁舎(JV)
<岡山県>昭和55年5月竣工
発注 倉敷市
設計 浦辺建築事務所
福岡県庁舎行政棟(JV)
<福岡県>昭和56年12月竣工
発注 福岡県
設計 黒川紀章建築都市設計事務所
福岡県庁舎行政棟(JV)
<福岡県>昭和56年12月竣工
発注 福岡県
設計 黒川紀章建築都市設計事務所
愛媛県庁第1別館
<愛媛県>昭和55年7月竣工
発注 愛媛県
設計 愛媛県
愛媛県庁第1別館
<愛媛県>昭和55年7月竣工
発注 愛媛県
設計 愛媛県
徳島県庁舎(JV)
<徳島県>昭和61年5月竣工
発注 徳島県
設計 徳島県、日本設計事務所
徳島県庁舎(JV)
<徳島県>昭和61年5月竣工
発注 徳島県
設計 徳島県、日本設計事務所
福岡市中央区役所・高速鉄道建設局合同庁舎
<福岡県>昭和55年4月竣工
発注 福岡市
設計 林田設計事務所
福岡市中央区役所・高速鉄道建設局合同庁舎
<福岡県>昭和55年4月竣工
発注 福岡市
設計 林田設計事務所
宝塚市役所庁舎(JV)
<兵庫県>昭和55年6月竣工
発注 宝塚市
設計 村野・森建築事務所
宝塚市役所庁舎(JV)
<兵庫県>昭和55年6月竣工
発注 宝塚市
設計 村野・森建築事務所

大阪市庁舎(第1期)(JV)

築後60余年を経て老朽化の激しかった大阪市庁舎が建て替えられることとなり、市政90周年を迎えた昭和54年(1979)から取壊しが開始された。

新庁舎は、53年5月にデザインコンペが実施され、採用された日建設計案に竹腰健造、村野藤吾両氏の協力を得て重厚な風格あるデザインとなっている。また、場所柄どこから見ても均整のとれた形が目指された。工事は第1期工事として工期29カ月で東側約6割部分を施工し、続いて移転、旧庁舎の解体後、第2期工事として残りが施工され、当社はこの第1期工事を鴻池組とのJV(当社が幹事会社)で担当した。

地下工事は、同じ中之島にある日本銀行での経験を生かして、OWS壁とパイルコラム工法による逆打ち工法を採用し、天満層の被圧水と連壁ジョイント部からの漏水の対策に万全を期して掘削を行った。外装工事は、花崗石打込みプレキャストコンクリート版を型枠にして躯体コンクリートを打設するGPC-W工法を採用した。

新庁舎はデザイン的には旧庁舎のイメージを発展させ、旧庁舎のメモリーを随所に生かす工夫がされていたが、一方では屋上に緊急用ヘリポートを設けるなど機能面への配慮も十分なされ、風量調整による室温制御方式および熱回収システムの採用など省エネルギー対策なども万全で、重厚ななかにも近代性を採り入れた庁舎となっている。請負金は73億2,872万円(設備工事は別途)、所長は満田 裕であった。なお、同庁舎は62年BCS賞を受賞した。

大阪市庁舎(第1期)(JV)
<大阪府>昭和57年1月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市、日建設計 工事概要 SRC造、B4、8F、PH3F、延4万5,443㎡
(写真は第2期工事完成後撮影。建物右側部分が第1期)
大阪市庁舎(第1期)(JV)
<大阪府>昭和57年1月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市、日建設計 工事概要 SRC造、B4、8F、PH3F、延4万5,443㎡
(写真は第2期工事完成後撮影。建物右側部分が第1期)

山口県庁舎本館棟(JV)

総額250億円が投じられた山口県庁舎本館棟はその設計の基本を、県民に開かれた庁舎として周辺環境との調和、高度な機能、省エネルギーにおき、周辺には人工の大滝、小滝、川がつくられ、前庭には地元出身芸術家の澄川喜一氏作のモニュメント「鷺舞の譜」がそびえ立っている。当社は昭和50年(1975)に県議会棟を施工しており、さらに当工事に続いて、同一敷地内で平成2年3月、県警察本部庁舎(JV)も施工した。

重要文化財の山口藩庁正門、旧議会棟、国宝の瑠璃光寺、香山および鴻の峯の山並に囲まれた12万4,850㎡の敷地は、県庁舎敷地としては全国1、2位を争う広さと恵まれた環境をもっている。中央部に高さ70m(15階)の高層棟(執務ゾーン)、前後に低層棟(県民・知事ゾーン)、厚生棟が並び、総延7万2,000㎡は、当時、大阪以西の最大級の工事であった。施工は56年7月から59年5月まで丸3年かけ、当社(幹事会社)、鹿島建設、竹中工務店、間組、鴻池組の5社JVが行った。

この高さでSRC造のため、そのコンクリートの品質と、高層棟外壁1万㎡の打込みタイルの品質にはとくに気を配って施工にあたった。請負金は53億3,246万円(設備工事は別途)、所長は川村 渉であった。なお、当庁舎は61年BCS賞を受賞した。

山口県庁舎本館棟(JV)
<山口県>昭和59年5月竣工
発注 山口県
設計 山口県、日建設計
工事概要 高層棟/SRC造、B1、15F、PH付、延5万1,944㎡、ほか2棟、総延7万2,000㎡
(左写真は平成2年12月撮影。左手前の建物は山口県警察本部庁舎。左下写真はエントランスホール)
山口県庁舎本館棟(JV)
<山口県>昭和59年5月竣工
発注 山口県
設計 山口県、日建設計
工事概要 高層棟/SRC造、B1、15F、PH付、延5万1,944㎡、ほか2棟、総延7万2,000㎡
(左写真は平成2年12月撮影。左手前の建物は山口県警察本部庁舎。左下写真はエントランスホール)

地方の時代(2)

充実する文化・音楽・スポーツ・レジャー施設

“地方の時代”の論議は、昭和54年(1979)、55年には一段と活気を呈した。現実に地方政治に携わっている行政担当者の側からの多くの発言も加わり、地域開発に文化・教育・福祉・雇用などを盛り込んだ、住みよいふるさと、あすの郷土づくりを目指す“地方の時代”の論議となっていった。このような情勢を反映して、多目的ホールなどの施設が各地の地方公共団体によって建設されていった。こうしたもののなかには魅力ある建物も多く、それらのうち当社施工の大規模なものとしては、狭山市市民会館、備前市民センター(JV)、四日市総合文化会館(JV)、熊本県民文化センター(JV)があげられる。秋田県仙北郡にできた角館町樺細工伝承館・ふるさとセンターはそのユニークさで、また宮城県の小さな町にできた小さなホール、中新田町文化会館・バッハホール(JV)(56年2月竣工)はその音響のすばらしさなどで、地方の時代の象徴的な建物として全国から注目された。また、これより少し前の51年5月に完成した芦屋市民センター別館は小さいながら、53年BCS賞の受賞作品となったものであった。

このほか、各地に建設された博物館も多く、当社は、千葉県佐倉市に国立歴史民俗博物館収蔵庫、さらに白鹿記念酒造博物館、横須賀市人文博物館(JV)、阿蘇火山博物館(JV)などをこの時期施工した。

スポーツ施設では、まず栃木市総合体育館、狭山市民総合体育館(JV)、岩出町民総合体育館などがあげられるが、弘前克雪トレーニングセンター(JV)はそうしたなかでも大変ユニークなものであった。54年BCS賞を受賞した横浜スタジアム(JV)は53年3月に、さらに西脇馬事公苑、青森市競輪場、京都競馬場スタンド(改築)(JV)なども国民のレジャーの多様化に応えてこの時期に完成している。美浦トレーニングセンター(北馬場、第一区廐務員宿舎など)(JV)はサラブレッドの調教センターという珍しい施設であった。

また、企業も社員の健康と福祉の増強のために大規模なスポーツ施設を計画、その代表的なものが大阪ガス今津総合スポーツ施設であった。

角館町樺細工伝承館・ふるさとセンター
<秋田県>昭和53年11月竣工
発注 角館町
設計 大江宏建築事務所
角館町樺細工伝承館・ふるさとセンター
<秋田県>昭和53年11月竣工
発注 角館町
設計 大江宏建築事務所
横浜スタジアム(JV)
<神奈川県>昭和53年3月竣工
発注 横浜スタジアム
設計 創和設計
横浜スタジアム(JV)
<神奈川県>昭和53年3月竣工
発注 横浜スタジアム
設計 創和設計
国立歴史民俗博物館収蔵庫
<千葉県>昭和57年6月竣工
発注 建設省
設計 芦原建築設計研究所
(当社担当工区は一番高い建物)
国立歴史民俗博物館収蔵庫
<千葉県>昭和57年6月竣工
発注 建設省
設計 芦原建築設計研究所
(当社担当工区は一番高い建物)
大阪ガス今津総合グラウンド(野球場、総合体育館及びクラブハウス増改築)
<兵庫県>昭和56年4月竣工(野球場)
昭和56年10月竣工(総合体育館及びクラブハウス増改築)
発注 大阪ガス
設計 安井建築設計事務所、当社
大阪ガス今津総合グラウンド(野球場、総合体育館及びクラブハウス増改築)
<兵庫県>昭和56年4月竣工(野球場)
昭和56年10月竣工(総合体育館及びクラブハウス増改築)
発注 大阪ガス
設計 安井建築設計事務所、当社

青森市競輪場

正面に八甲田連峰が、左に津軽海峡が見下ろせる丘陵地67万㎡で工事がスタートしたのは昭和53年(1978)7月で、競輪場の敷地面積は22万㎡であった。土木工事は、堤高14.9mの調整池堰堤をはじめ80万㎥の切盛土による敷地造成、1,680mの取付道路、そして400m走路工事などがあり、一方、建築工事は走路に面するメインスタンド棟など9棟、延2万5,000㎡であった。

当地の土質は水シラスやモンモリロナイトが含まれており、前者は触っただけでヘドロ化し、後者は水を含むと体積が10倍にも膨らむ代物であった。また、青森特有の日本海気候と太平洋気候が入り混じる天候不順、さらに積雪で1~3月の工事中断があるなど、年間8カ月しか作業ができない土地での工事であった。

土木工事の最盛期には新鋭重機を数多く投入し、水シラスと戦いながら冬場の遅れを夏場に取り戻し、工程どおり建築工事が着手できるよう総力を挙げた。しかし第2次石油危機のあおりで資材価格が高騰し、とくに型枠材および鉄筋材の打撃が大きかった。そのためスライド条項適用を申し出、55年から特定15品目(鉄筋、生コンクリート、骨材など)に限り救済措置がとられた。3度目の越冬後、ようやくメインスタンドの大屋根の鉄骨工事(1トラス長さ30m、重量約16t、はね出し5m)から仕上げ工事、外構工事、駐車場工事(収容台数4,000台)を施工し、56年10月工事は完成した。請負金は土木、建築工事合わせて69億1,623万円、所長は阿部潤次郎であった。

青森市競輪場
<青森県>昭和56年10月竣工
発注 青森市
設計 石本建築事務所
工事概要 土木工事/造成面積22万㎡、切盛土量80万㎥、道路6万5,000㎡、駐車場7万㎡、走路400m
建築工事/メインスタンド棟(RC造一部S造、B1、8F)、ほか8棟、総延2万5,000㎡、収容観客数1万5,000人
青森市競輪場
<青森県>昭和56年10月竣工
発注 青森市
設計 石本建築事務所
工事概要 土木工事/造成面積22万㎡、切盛土量80万㎥、道路6万5,000㎡、駐車場7万㎡、走路400m
建築工事/メインスタンド棟(RC造一部S造、B1、8F)、ほか8棟、総延2万5,000㎡、収容観客数1万5,000人

弘前克雪トレーニングセンター(JV)

当施設は、国土庁が主唱する人口の地方定住を目指す田園都市構想モデルの第1号事業で、ゆとりと活力のある地域を形成するための中核的な施設として建設された。「冬でも土を踏みながら遊びやスポーツを」という願いのもとに、面積4,128㎡、高さ18mの当体育館床は土間で、主練習場は保温効果をねらって周囲の地盤から1m低くしてある。

主グラウンドは通常の野球場のホームベースからセンター定位置までの広さ(53m×50m)をもち、天井までの高さは打撃練習も十分できるようになっている。また、野球のほかにサッカー、ラグビー、アーチェリー、ゲートボールもでき、ナイター照明も完備している。室内暖房や融雪には温泉熱を利用し、給湯・シャワーには太陽熱を利用するなど省エネルギー化も図っている。さらに屋根はステンレス瓦棒葺きで、陸屋根に近いくらい勾配は緩いが、これは積もった雪を岩木山から吹きつける強い風で吹き飛ばすなど自然の力を巧みに利用する試みであった。

昭和57年(1982)2月、弘前市郊外の総合運動公園の一角で多量の雪を排除して工事を開始した。鉄骨工事では屋根に積もった雪が確実に風に飛ばされるようトラスのたわみ防止に苦心したり、外壁全面型板ガラス張りのカーテンウォール工事では、内部土間への散水や暖房による結露と凍結でサッシュ枠やガラスの破損が考えられたため、さまざまな工夫も施した。施工は当社(幹事会社)と南建設のJVで、請負金は4億8,720万円(設備工事は別途)、所長は高橋丈夫であった。

弘前克雪トレーニングセンター(JV)
<青森県>昭和57年11月竣工
発注 弘前市
設計 佐藤武夫設計事務所
工事概要 RC造一部S造、平家、4,128㎡
弘前克雪トレーニングセンター(JV)
<青森県>昭和57年11月竣工
発注 弘前市
設計 佐藤武夫設計事務所
工事概要 RC造一部S造、平家、4,128㎡

質的向上を目指す官庁施設

昭和30年代から40年代にかけて官公庁施設の不燃化や集約・合同化が強力に進められた。そして50年代に入り、こうした方向とともに公衆の利便および公務の効率向上を一層図るよう施設の充実が求められていった。その一つが、東京・霞が関に見られるような官公庁施設を一定地区に適正な規模の一団地として集中配置し、他の各種都市施設の整備と相まって都市の健全な発展と秩序ある整備を図ろうという方策であった。また、地震などに対する防災性能の強化あるいは省エネ化の推進など、官公庁施設の質的向上をねらった建替えが、50年代後半(一部60年竣工)、着実に進んでいった。霞が関の整備として通商産業省総合庁舎(JV)の大規模な建替工事(第3期)があり、地方では広島地方貯金局庁舎(JV)、福岡法務合同庁舎(JV)、近畿郵政局庁舎増築(第2期)、法務省名古屋拘置所(第1期)(JV)、名古屋第3地方合同庁舎、神戸第二地方合同庁舎(JV)がその代表的な工事であった。

54年度(1979年度)に初めて郵便が150億通/年を突破し、増大する郵便物に対処して郵便局の建替えもこの時期盛んで、京都中京郵便局庁舎、東京・世田谷郵便局、京都中央郵便局庁舎増築(JV)、広島中央郵便局庁舎(JV)(60年7月竣工)などを施工した。

名古屋拘置所(第1期)(JV)
<愛知県>昭和58年3月竣工
発注 法務省
設計 法務省
名古屋拘置所(第1期)(JV)
<愛知県>昭和58年3月竣工
発注 法務省
設計 法務省
京都中央郵便局庁舎増築(JV)
<京都府>昭和58年3月竣工
発注 郵政省
設計 郵政省
京都中央郵便局庁舎増築(JV)
<京都府>昭和58年3月竣工
発注 郵政省
設計 郵政省

通商産業省総合庁舎第3期(JV)

霞が関官庁街の整備計画の一環であった当建物の工事は、大蔵、外務、郵政、旧通産(当社施工)各省庁の建物に囲まれ、安全にはことのほか気を配った。

当庁舎の建つ敷地の一部には当社の手で昭和31年(1956)3月に竣工した防衛庁庁舎の一部が現存しており、これを解体することから工事はスタートした。地下3階、地上18階の高層棟、地下2階の車庫・厚生棟から構成される新庁舎は官庁初のソーラーシステム、調光システムをはじめ近代的設備をフル装備し、鉄骨工事では1階の柱鉄骨に板厚65㎜のものが使用された。また、当工事は全国の公共建築工事の指針である『建築工事共通仕様書』のS造についての仕様を新たに補うための正確なデータを提出することになっており、これも重要な仕事であった。

施工は当社(幹事会社)、奥村組、浅沼組の3社JVが当たり、51カ月、約311万時間の無事故無災害記録を打ち立て、59年6月の竣工に際しては60年労働大臣進歩賞ほか各方面から表彰状が寄せられた。請負金は59億8,329万円(設備工事は別途)、所長は須藤賢司であった。

通商産業省総合庁舎第3期(JV)
<東京都>昭和59年6月竣工
発注 建設省
設計 建設省
工事概要 SRC造およびRC造一部S造、B3、18F、延5万2,933㎡
通商産業省総合庁舎第3期(JV)
<東京都>昭和59年6月竣工
発注 建設省
設計 建設省
工事概要 SRC造およびRC造一部S造、B3、18F、延5万2,933㎡

研究開発の新たな展開

GNPに対する研究開発費は、かつては西独が群を抜いて高かった。しかし、わが国の研究開発費も昭和53年(1978)あたりから飛躍的に増大していった。

54年度になると日本も西独並みにGNPに占める研究開発費の割合が2%を超え、56年度には5兆9,824億円と10年前の約4倍となった。先端技術ブームを反映して民間企業、公社・公団、事業団のいわゆる「会社等」の研究開発費が著しく増加し、57年度にはわが国全体の研究開発費の6割を超えた。わが国の特徴である研究開発の民間依存は、応用開発研究偏重という指摘を招き、58年ころからこれを見直し、基礎研究にも力を入れるため、政府研究費の増大が図られ始めた。

50年代後半(一部53、54年および60年竣工)、当社が施工した公的研究施設としては、原子力工学試験センター多渡津工学試験所大型高性能振動台建家(JV)、筑波研究学園都市での工業技術院化学技術研究所(JV)や高エネルギー物理学研究所の衝突型加速器施設(JV)、日本原子力研究所東海研究所高温構造機器試験棟や核融合研究所JT-60制御棟(JV)、さらには京都大学理学部付属飛騨天文台(ドームレス太陽望遠鏡棟)や同大学超高層電波研究センター敷地造成の工事、そして神戸市環境保健研究所などがあった。

民間では、自動車のトヨタ自動車工業豊田中央研究所事務棟および大型機械材料棟や日産自動車テクニカルセンター101・102号棟(JV)、801・802号棟、医薬の日本新薬中央研究所や日本レダリー新薬理研究棟がその代表的なものであった。そのほかに大阪ガス導管技術センターや電力中央研究所第四実験棟、ローム半導体研究センターなどをこの時期に建設した。ちなみに当社技術研究所本館も57年4月完成をみたのであった。

工業技術院化学技術研究所(JV)
<茨城県>昭和55年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省、日本設計・板倉建築研究所・第一工房設計監理共同企業体
工業技術院化学技術研究所(JV)
<茨城県>昭和55年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省、日本設計・板倉建築研究所・第一工房設計監理共同企業体
日産自動車テクニカルセンター101・102号棟(JV
<神奈川県>昭和56年12月竣工
発注 日産自動車
設計 日本設計事務所
日産自動車テクニカルセンター101・102号棟(JV
<神奈川県>昭和56年12月竣工
発注 日産自動車
設計 日本設計事務所
トヨタ自動車工業豊田中央研究所
<愛知県>昭和55年9月竣工
発注 トヨタ自動車工業 設計 トヨタ自動車工業
トヨタ自動車工業豊田中央研究所
<愛知県>昭和55年9月竣工
発注 トヨタ自動車工業 設計 トヨタ自動車工業
ローム半導体研究センター
<京都府>昭和57年5月竣工
発注 ローム
設計 当社
ローム半導体研究センター
<京都府>昭和57年5月竣工
発注 ローム
設計 当社

日本新薬中央研究所

京都市南区にある当研究所は昭和60年(1985)に日本でも施行されたGLP(Good Laboratory Practice、医薬品の安全性試験の実施に関する基準)に完全に合致する研究所として計画されたものであった。このGLPでは、これら研究設備でのトラブルデータも要求されており、実験動物に、ある反応が出た場合、実験研究物質によるものか環境因子によるものかを明確にしなければならない。したがって、動物を取りまく環境を適正な条件のもとでコンスタントに連続的なものにするための器づくりが当工事のポイントであった。

床面積の3分の1を占める実験動物を収容する飼育室では、長いもので10年も継続研究が行われ、無菌、無塵、恒温恒湿の状態を研究期間中保持しなければならず、この間、建物設備にトラブルがあってはならなかった。さらに、建物の仕上げ材料は各種の消毒剤、洗剤と高温の湯にさらされるという苛酷な条件下に置かれる。

設備工事は請負金の55%を占め、その作業量には膨大なものがあったため、建築と関連する工程については十分な配慮を行った。当工事の着工(55年2月)当初から当社でもクリーンルームに注目し医療薬品関係建築設備技術研究会を組織していたが、この研究会へ現場職員が参加することにより建築と設備の調整に効果をあげることができた。請負金は48億7,963万円、所長は吉田喜代司であった。

日本新薬中央研究所
<京都府>昭和56年12月竣工
発注 日本新薬
設計 三菱地所
工事概要 SRC造、B1、7F、PH付、延1万3,059㎡
日本新薬中央研究所
<京都府>昭和56年12月竣工
発注 日本新薬
設計 三菱地所
工事概要 SRC造、B1、7F、PH付、延1万3,059㎡

増大する医療需要

昭和45年(1970)からの医科大学新設の効果で医師の不足は解消したが、一方で病院の増設が医療需要に追いつかないという状況で、大規模な病院の建設が50年代後半に相次いだ。当社施工の代表的なものは兵庫県立姫路循環器病センター、日本生命済生会付属日生病院(JV)、愛知医科大学付属病院中央棟、市立吹田市民病院、静岡県立総合病院(JV)、県立今治病院(JV)、鶴岡協立病院、山口県済生会山口総合病院(増改築)などであり、59年3月に完成した獨協医科大学越谷病院はそのなかでも最も大規模なものであった。

日本生命済生会付属日生病院(JV)
<大阪府>昭和57年1月竣工
発注 日本生命済生会
設計 日建設計
日本生命済生会付属日生病院(JV)
<大阪府>昭和57年1月竣工
発注 日本生命済生会
設計 日建設計
静岡県立総合病院(JV)
<静岡県>昭和57年10月竣工
発注 静岡県
設計 内藤建築事務所
静岡県立総合病院(JV)
<静岡県>昭和57年10月竣工
発注 静岡県
設計 内藤建築事務所
愛知医科大学付属病院中央棟
<愛知県>昭和57年3月竣工
発注 愛知医科大学
設計 黒川建築事務所
愛知医科大学付属病院中央棟
<愛知県>昭和57年3月竣工
発注 愛知医科大学
設計 黒川建築事務所
県立今治病院(JV)
<愛媛県>昭和58年2月竣工
発注 愛媛県
設計 佐藤武夫設計事務所
県立今治病院(JV)
<愛媛県>昭和58年2月竣工
発注 愛媛県
設計 佐藤武夫設計事務所
市立吹田市民病院
<大阪府>昭和57年6月竣工
発注 吹田市
設計 日建設計
市立吹田市民病院
<大阪府>昭和57年6月竣工
発注 吹田市
設計 日建設計

獨協医科大学越谷病院

埼玉県草加市の獨協大学を皮切りに、当社は、栃木県壬生町の獨協医科大学及び同病院ほか獨協大学中央棟、獨協埼玉高等学校など昭和40年代から獨協学園関係工事をすべて特命で施工してきたが、57年(1982)2月、埼玉県越谷市で獨協医科大学越谷病院を設計・施工で着手した。

同病院は、外来診療棟、中央病棟、東病棟の3棟、延3万2,400㎡にベッド数計637床の総合病院で、現在でも当社病院建築の代表作といえる作品である。

着工にあたっては、地盤沈下を心配する住民370世帯全戸の現状の撮影と工事完成後と比較する資料を作り、一方、土留めには土の変位・移動を極力少なくするためOWS壁を採用するなど軟弱地盤対策には最大の注意を払った。なお、杭には振動を考慮してウォール ファウンデーションを採用した。

工事着工後8カ月たった時点で、ベッド数変更の要請があり、設計担当者および現場は苦慮したが、決められた面積の中でできるだけ患者のためのスペースをとり、かつベッド数を増やすという難題に設計・施工ならではのチームワークで応えた。

病院建築は一般ビルと比べ付帯設備が多く、それらは一層の精巧な機能が要求されるが、当病院は、ビル総合管理制御システムとして当社開発のBILCON-∑、各種の省エネ技術、および排水を再利用する中水利用設備など新システムを積極的に導入している。請負金は103億5,432万円、所長は渋木昭一、設計は由利忠雄であった。

獨協医科大学越谷病院
<埼玉県>昭和59年3月竣工
発注 獨恊学園
設計 当社
工事概要 外来診療棟/RC造、3F、延7,229㎡
中央病棟/SRC造、B2、8F、PH2F、延2万2,316㎡ 東病棟/RC造、3F、延2,852㎡
ほか付属棟、総延3万2,400㎡、ベッド数637床
獨協医科大学越谷病院
<埼玉県>昭和59年3月竣工
発注 獨恊学園
設計 当社
工事概要 外来診療棟/RC造、3F、延7,229㎡
中央病棟/SRC造、B2、8F、PH2F、延2万2,316㎡ 東病棟/RC造、3F、延2,852㎡
ほか付属棟、総延3万2,400㎡、ベッド数637床

魅力ある集合住宅を目指して

昭和48年(1973)や53年のマンションブームを経て、低層、中層、高層と集合住宅の型は出尽くした感があった。しかし、50年代後半に入り、マンション不況のなかにありながら、無味乾燥に陥りがちな集合住宅を潤いのあるものにしようとする試みや悪条件の立地や超高層住宅に挑もうとする試みなど、さまざまな模索がなされた。一方、需要者も集合住宅に広さとともにグレードを一層求めるようになってきた。また、この時期は、その後ブームとなるワンルームマンションやリゾートマンションのはしりのころでもあった。

当社はこれまでも多種多様な集合住宅を手がけてきたが、この時期注目されたのが、都が再開発による防災拠点として建設した都営白鬚東アパート7・8・9号棟(JV)であり、もう一つは大使館員家族の宿舎として建設された米国大使館三井山宿舎であった。また、大規模なマンションにはこのほかに新大阪ファイナンス(1期・2期)、藤井寺グリーンハイツ、相武台グリーンパーク、シャンボール広交、苦楽園ヒルズ、茨木南春日丘プライムタウン、コープ野村南流山壱番街・弐番街があった。このうち、藤井寺グリーンハイツやコープ野村南流山壱・弐番街は、当社の技術開発の成果であるORC-3Hシステムを導入した工事であった。

藤井寺グリーンハイツ
<大阪府>昭和55年7月竣工
発注 東洋不動産
設計 当社
藤井寺グリーンハイツ
<大阪府>昭和55年7月竣工
発注 東洋不動産
設計 当社
苦楽園ヒルズ
<兵庫県>昭和57年4月竣工
発注 野村不動産、大林不動産
設計 当社
苦楽園ヒルズ
<兵庫県>昭和57年4月竣工
発注 野村不動産、大林不動産
設計 当社
相武台グリーンパーク
<神奈川県>昭和54年9月竣工(土木工事)、昭和54年2月竣工(1期)、昭和55年2月竣工(2期)、昭和55年12月竣工(3期)
発注 住友不動産
設計 当社、住友不動産
相武台グリーンパーク
<神奈川県>昭和54年9月竣工(土木工事)、昭和54年2月竣工(1期)、昭和55年2月竣工(2期)、昭和55年12月竣工(3期)
発注 住友不動産
設計 当社、住友不動産
茨木南春日丘プライムタウン
<大阪府>昭和57年6月竣工
発注 三陽
設計 当社
茨木南春日丘プライムタウン
<大阪府>昭和57年6月竣工
発注 三陽
設計 当社
シャンボール広交
<広島県>昭和57年3月竣工
発注 広島交通、大蔵屋
設計 都市建築研究所、当社
シャンボール広交
<広島県>昭和57年3月竣工
発注 広島交通、大蔵屋
設計 都市建築研究所、当社
コープ野村南流山壱番街・弐番街
<千葉県>昭和57年9月竣工(壱番街)
昭和58年1月竣工(弐番街)
発注 野村不動産
設計 当社
(写真奥の3棟が壱番街、手前工事中の2棟が弐番街)
コープ野村南流山壱番街・弐番街
<千葉県>昭和57年9月竣工(壱番街)
昭和58年1月竣工(弐番街)
発注 野村不動産
設計 当社
(写真奥の3棟が壱番街、手前工事中の2棟が弐番街)

都営白鬚東アパート7・8・9号棟(JV)

当建物は、大地震発生時の危険度が都内で最も高いとされていた江東デルタ地帯を災害に強い街に生まれ変わらせるための「江東地区再開発基本構想」(昭和44年)から生まれたものであった。そのなかで最も緊急の整備が必要とされた白鬚東地区がそのモデル地区として先行、大規模な防災拠点づくりがスタートを切った。全体計画面積38㏊、高さ40mの高層住棟が延長1.2㎞にわたって連続的に配置され、この建物が大地震火災時には“防災壁”として大きな役割を果たすという計画であった。平常時には8,000人が日常生活を営み、災害時には住棟の内側に設けられた避難広場に8万人の避難民を収容することができる。そのため建物自体がもつすぐれた耐震性もさることながら、火災時には水のカーテンで建物全体をおおうドレンチャー設備、防火シャッターなど一級の防災機能を備えていた。そのほか病院、防災センター、学校、店舗、工場などが配置されている。

当社(幹事会社)、鴻池組、多田建設、協和営造の4社JV担当部分は54年(1979)5月着工し、住棟3棟、延7万3,507㎡、戸数427戸で、保育園を併設し、前面には公園が配された。工事着手にあたり防災拠点ビルの建設ということで構造材料の品質管理には細心の注意を払い、防災拠点としての施設は全国で初めてであり、しかも大型プロジェクトとあって注目を集めていた現場だけに、安全・労務管理には一段と力を入れて施工に当たった。地下水槽工事におけるシート防水では有機溶剤による中毒事故防止対策を実施し、そのとき考案した換気量計算図表(換気装置の規模などを各種データから簡単に割り出せる図表)は特許を取得した。また社内提案でも1等を獲得し、56年度全建賞(全日本建設技術協会主催)も受賞した。請負金は29億897万円(設備工事は別途)、所長は須藤昭であった。

都営白鬚東アパート7・8・9号棟(JV)
<東京都>昭和56年10月竣工
発注 東京都
設計 東京都、日本設計
工事概要 住宅棟/SRC造、B1、13F、PH3F
段状住棟/SRC造、B1、4F
付属棟/SRC造、B1、3F 保育所/SRC造、B1、2F 住居3DK~4DK427戸、総延7万3,507㎡
都営白鬚東アパート7・8・9号棟(JV)
<東京都>昭和56年10月竣工
発注 東京都
設計 東京都、日本設計
工事概要 住宅棟/SRC造、B1、13F、PH3F
段状住棟/SRC造、B1、4F
付属棟/SRC造、B1、3F 保育所/SRC造、B1、2F 住居3DK~4DK427戸、総延7万3,507㎡

米国大使館三井山宿舎

昭和58年(1983)3月、都心の六本木界隈では貴重ともいえる緑の残る一角に米国大使館三井山宿舎が竣工した。白壁を黒いエキスパンションジョイントで大胆に区切ったユニークな外観、内には静かな日本庭園、いかにも日米合作と呼ぶにふさわしい装いであった。

A.レーモンド氏設計の旧三井山宿舎も当社施工で、旧ペリー、ハリス、グルー各棟は当時としては斬新なデザインの建物として有名であった。

新築の宿舎は意匠設計がHarry Weese & Associates、構造担当が木村俊彦構造設計事務所、設備担当が森村協同設計事務所で、当社は設計協力を行い、4万3,800㎡に及ぶ広大な敷地にタウンハウス2棟、タワー3棟、マリンガードクォーター1棟など住居185戸、スーパーマーケット、美容室、保育所等の共同施設、体育館、プール等のレクリエーション施設を建設した。

解体工事の着手(55年5月)にあたり、既存の建物に入居している百数十所帯の大使館員の家族に、当社で六本木界隈に手当てした仮住居に一時移転してもらい、新宿舎の完成後に再び入居してもらう方法をとったため、建設部門のみならず不動産ほか関連部門を挙げてのプロジェクトとなった。プロジェクト・チームは、最も経済的な引越し計画と仮住居費を算出するプログラムを作成し、コンピュータによって多数の引越し計画案を比較検討し、最適な工事着手順序および工期を割り出して実施計画を決定した。

主要仕上げ材、主要設備機器についてはアメリカ製品を使用することが義務づけられていたが、「品質は工程でつくり込む」とのQCの基本を現場の末端まで周知徹底させることによって厳しい検査に対応、高精度、高品質の建物が完成した。請負金は175億9,776万円で、所長は岸 隆司であった。

米国大使館三井山宿舎
<東京都>昭和58年3月竣工
発注 米国国務省
設計 基本設計/Harry Weese & Associates(意匠設計)、木村俊彦構造設計事務所(構造設計)、森村協同設計事務所(設備設計)、実施設計/当社
工事概要 S造、B2、14F、3棟ほか、総延6万1,708㎡
米国大使館三井山宿舎
<東京都>昭和58年3月竣工
発注 米国国務省
設計 基本設計/Harry Weese & Associates(意匠設計)、木村俊彦構造設計事務所(構造設計)、森村協同設計事務所(設備設計)、実施設計/当社
工事概要 S造、B2、14F、3棟ほか、総延6万1,708㎡

保険会社のビル投資が増加

昭和50年代中ごろは、わが国に生命保険会社、損害保険会社が登場してからちょうど100年を迎える時期であった。この間、とくに戦後において保険会社は飛躍的な前進を示し、ことに50年代後半からの10年間の急成長ぶりは著しいものがあった。こうした業績の伸長を反映して、各社は自社ビルのほか、その豊富な資金を運用して全国各都市に賃貸用オフィスビルを次々建設した。

50年代後半~60年代に竣工した生保・損保発注の代表的な当社施工のオフィスビルは、東京では、日本生命新宿西口ビル、太陽生命東池袋ビル、五反田NNビル(JV)、大正海上火災本社ビル(JV)、芝東京海上ビルディング、朝日生命日比谷ビル(JV)、大和生命ビル(JV)、AIU麴町ビル、東京海上ビルディング新館(JV)があった。大阪では、安田火災海上大阪ビル、日本生命堺筋本町ビル(JV)、太陽生命難波ビル、日本生命今橋ビル、日本生命上本町ビル(JV)、新大阪イトーキ日生共同ビル、明治生命堺筋本町ビル(JV)があった。

そのほかの都市では、太陽生命熊本第2ビル、日本生命広島光町ビル(JV)、名古屋大同生命ビル(JV)、安田火災海上福岡ビル(JV)、住友生命川崎阿倍野ビル、日本生命福山ビル(JV)、横浜西口KNビル(JV)、興亜火災海上日吉センター(JV)、三井日生神戸ビル(JV)、第百生命高松ビル、日本生命大宮アネックス、太陽生命岡山柳町ビル、大同生命郡山ビル(JV)があった。これらに先立ち、日本生命博多駅前ビル、仙台東京海上ビル、野村不動産京都ビル、仙台興和ビルなど地方都市での大規模オフィスビルは、生保・損保そして金融・証券会社発注のものが多かった。

太陽生命難波ビル
<大阪府>昭和57年10月竣工
発注 太陽生命
設計 当社
太陽生命難波ビル
<大阪府>昭和57年10月竣工
発注 太陽生命
設計 当社
大正海上火災本社ビル(JV)
<東京都>昭和59年3月竣工
発注 大正海上火災
設計 日建設計
大正海上火災本社ビル(JV)
<東京都>昭和59年3月竣工
発注 大正海上火災
設計 日建設計
芝東京海上ビルディング
<東京都>昭和59年3月竣工
発注 東京海上火災
設計 三菱地所
芝東京海上ビルディング
<東京都>昭和59年3月竣工
発注 東京海上火災
設計 三菱地所
新大阪イトーキ日生共同ビル
<大阪府>昭和60年11月竣工
発注 日本生命、イトーキ、山田百合子、伊藤文子
設計 当社
新大阪イトーキ日生共同ビル
<大阪府>昭和60年11月竣工
発注 日本生命、イトーキ、山田百合子、伊藤文子
設計 当社
朝日生命日比谷ビル(JV)
<東京都>昭和59年5月竣工
発注 朝日生命
設計 日建設計
朝日生命日比谷ビル(JV)
<東京都>昭和59年5月竣工
発注 朝日生命
設計 日建設計
安田火災海上福岡ビル(JV)
<福岡県>昭和59年6月竣工
発注 安田火災海上
設計 黒川紀章建築都市設計事務所
安田火災海上福岡ビル(JV)
<福岡県>昭和59年6月竣工
発注 安田火災海上
設計 黒川紀章建築都市設計事務所
AIU麴町ビル
<東京都>昭和59年10月竣工
発注 アメリカンインターナショナル アンダーライターズ ジャパン インコンポーテッド、アメリカンライフインシュアランス カンパニー
設計 久米建築事務所
AIU麴町ビル
<東京都>昭和59年10月竣工
発注 アメリカンインターナショナル アンダーライターズ ジャパン インコンポーテッド、アメリカンライフインシュアランス カンパニー
設計 久米建築事務所
横浜西口KNビル(JV)
<神奈川県>昭和61年3月竣工
発注 北見木材、日本生命
設計 当社
横浜西口KNビル(JV)
<神奈川県>昭和61年3月竣工
発注 北見木材、日本生命
設計 当社

安田火災海上大阪ビル

長く当社が保有し市内現場の資材置場、詰所等に利用していた大阪市東区瓦町5丁目の土地を安田火災海上に譲渡し、ここに同社の西日本の拠点となる大阪ビルが建設された。

昭和54年(1979)9月工事がスタート、地下工事にはOWS工法を採用、地上躯体工事では12階以上をコンクリート2段打ちで行ったが、最も特徴的なことは、低層部の外壁石貼りを乾式工法で施工した点であった。当時は乾式工法が採用され始めた初期のころであったため十分な検討を経て施工に当たったが、ファスナーをオールステンレスにして発錆トラブルの絶滅を期するなどの工夫を行った。万一天災に遭遇しても損保会社として最後まで残る建物であってほしいという希望から、防災の権威である故星野昌一、松下清夫両博士の基本設計、工事監理のもとに施工し、とくに主筋の圧接などではその品質管理を厳格にしたほか、PC板等も当社技術研究所において振動実験を繰り返し万全を期した。請負金は70億1,550万円、所長は小栗武男であった。

安田火災海上大阪ビル
<大阪府>昭和57年2月竣工
発注 安田火災海上
設計 星野研究室、松下研究室、当社
工事概要 SRC造、B3、12F、PH2F、延2万4,923㎡
安田火災海上大阪ビル
<大阪府>昭和57年2月竣工
発注 安田火災海上
設計 星野研究室、松下研究室、当社
工事概要 SRC造、B3、12F、PH2F、延2万4,923㎡

太陽生命東池袋ビル

当ビルの敷地は以前大林不動産が駐車場として使用していたが、これを太陽生命に売却し、同社が当初から賃貸ビルとして計画したものであった。一括テナントは日本信販で、同社の専用計算センターとして使用され、地下の一部は東京電力の変電所となっている。このように当ビルは日本信販の中枢機能を担うため、耐震性はもちろん、防災・防犯設備にも十分な配慮がされており、玄関ホールから奥へは二重扉で、磁気カードがなければこの入口や主要各室の出入りもできないようになっている。また、定電圧定周波制御装置(CVCF)をもち、バッテリーと組み合わせた無停電システム、コンピュータ室の上階床の防水、電気・空調制御のための当社開発のBILCON-∑など、その設備はどのようなアクシデントにも対応できるものとなっている。

外観は大部分コンクリート打放し吹付けタイル仕上げのため、クラック防止の工夫も施し、また主要壁や天井には断熱材を打ち込み、結露防止策とした。

昭和56年(1981)3月に着工したが、池袋サンシャインシティに近いため地域冷暖房の指定区域となっており、サンシャインシティ内の東京電力の地下変電所につながる洞道工事および地域冷暖房への洞道工事も並行して行った。請負金は43億8,863万円、所長は山本 一であった。

太陽生命東池袋ビル
<東京都>昭和57年10月竣工
発注 太陽生命
設計 当社
工事概要 SRC造、B2、8F、PH付、延1万3,798㎡
太陽生命東池袋ビル
<東京都>昭和57年10月竣工
発注 太陽生命
設計 当社
工事概要 SRC造、B2、8F、PH付、延1万3,798㎡

日本生命今橋ビル

当建物は、大阪のビジネス街の真っただ中に立地しながら、北側に緒方洪庵の開設した「適塾」、西側に大阪市最古の木造幼稚園である愛珠幼稚園に隣接している。そのため、これらの環境に十分マッチした建物であることが要求され、総合設計制度を適用した当社の設計は、公開空地を広くとり、適塾の西側は市民の憩いの公園とし、さらにサンクンガーデンも設け、外壁もこうした環境に十分配慮したものとなっている。

昭和58年(1983)9月着工、施工にあたっては、人手不足の折、できるだけ現場作業を少なくする工法を採用し、外壁は大型磁器タイル打込みPC板、内装は極力乾式工法を採り入れた。また土留めにはOWS壁を採用したが、周辺の交通事情から生コンの連続打設が困難であり、また場所柄、十分な止水性が必要であったため、止水壁である根入れの深い自硬性安定液の硬化体部分と、地下の外壁となるPC板部分との組合せで合理的な計画ができるプレキャストベースメント工法(PB工法)を採用した。止水性、精度、強度とも十分な結果が得られ、構造体としても利用したため敷地を有効利用でき、肌が美しいのでそのまま地下室の内壁とし、工費の節約にも貢献した。PB工法による地中連続壁をこのようなかたちで利用したのは初めての試みであった。請負金は44億6,022万円、所長は高田利明、設計は藤繩正俊である。

なお、当建物は62年大阪都市景観建築賞「まちなみ賞」大阪市長賞を受賞、また63年には緑化庭園として大阪市より表彰された。

日本生命今橋ビル
<大阪府>昭和60年9月竣工
発注 日本生命
設計 当社
工事概要 S造およびSRC造、B1、14F、PH2F、延1万6,802㎡
日本生命今橋ビル
<大阪府>昭和60年9月竣工
発注 日本生命
設計 当社
工事概要 S造およびSRC造、B1、14F、PH2F、延1万6,802㎡

多様化・高度化する物流ニーズに応えて

わが国の国内貨物輸送量は、昭和55年(1980)に59億8,500万tと最高を示したが、高度成長時代のような激増傾向は影をひそめ、50年代は時としてマイナス成長を示すこともあった。しかし、国内貨物輸送に占める自動車の分担率は伸び続け、57年ついに90%を超えるに至った。

消費の伸びの鈍化と生活様式や嗜好の多様化、個性化の傾向に対応して、供給側は多品種少量の生産・販売を進め、その結果、物流にも多品目少量、小口高頻度、迅速配送が求められた。こうした多様化、高度化する物流ニーズに応えて、輸送、保管、包装、荷役から在庫管理、流通加工に至るまですべてを総合化、システム化した一貫物流サービスを提供する総合物流業が台頭し、自動化された物流センターや倉庫が数多く建設された。また、乳製品、食肉、野菜など生鮮食料品の安定供給など高度化した物流ニーズに応えるため、各地での卸売市場の整備や冷凍倉庫の建設も、この時期、相次いで進められた。「宅配便」が登場し急速に発展したのもこの50年代のことであった。

50年代に建設された代表的な倉庫・物流センターとしては、日産自動車茅ヶ崎(輸出車輌)出荷センター六層保管棟、東京団地倉庫足立倉庫・同南棟(JV)、東京水産ターミナル大井埠頭冷蔵上屋および倉庫(3号棟)、大阪玩具流通センター、食糧庁大阪食糧事務所茨木倉庫(第1期・第2期)、三星堂兵庫物流センター、丸紅冷蔵大阪南港埠頭工場、中京佐川急便配送センター、日本食肉流通センター部分肉流通センター(JV)、関東郵船運輸大森平和島倉庫、スリーエム物流倉庫愛川物流センター(JV)、大阪アパレルファッションセンター、武田薬品工業大阪物流センターなどがあげられる。そして、世界有数の規模の冷蔵倉庫であった東京水産ターミナルの大井埠頭冷蔵倉庫4号棟もこの時期完成した。

生鮮食料品の卸売市場としては、京都市中央卸売市場第一市場青果1・2号棟(JV)、松山市中央卸売市場(水産市場)、岡山市新中央卸売市場(青果卸売棟・水産物卸売棟・地場そ莱棟)(JV)、川崎市中央卸売市場北部市場水産棟、大阪市中央卸売市場食肉市場本館(大阪市ミートセンター本館)がこの時期に完成をみた。

物流の末端・小売業では個人消費が低迷を続け、百貨店、スーパーともに苦戦を強いられていたが、百貨店はリニューアルなど、スーパーは合併などさまざまな経営努力が払われていた時期でもあった。50年代後半に完成した店舗のうち代表的なものは、ひめじ花の北モールA棟(にしのまち)・B棟(ダイエー花北店)、本城ショッピングセンター、松竹大船ショッピングセンター(JV)、松江ショッピングプラザ・アピア(JV)、仙台駅前開発ビル(ams西武仙台)(JV)、京都ファミリー(JV)、アメ横センタービル第1期(JV)、大阪ターミナルビル「アクティ大阪」(JV)、もと千日デパートで火災から再建されたエスカールビルそしてレイクピアウスイ(臼井ショッピングセンター)などがある。

松山市中央卸売市場(水産市場)
<愛媛県>昭和56年3月竣工
発注 松山市
設計 梓設計
松山市中央卸売市場(水産市場)
<愛媛県>昭和56年3月竣工
発注 松山市
設計 梓設計
ひめじ花の北モールA棟(にしのまち)・B棟(ダイエー花北店)
<兵庫県>昭和56年3月竣工(花の北モールにしのまち)
昭和57年11月竣工(ダイエー花北店)
発注 花北モール開発
設計 RIA建築綜合研究所 (左写真がダイエー花北店、左下写真が花の北モールにしのまち)
ひめじ花の北モールA棟(にしのまち)・B棟(ダイエー花北店)
<兵庫県>昭和56年3月竣工(花の北モールにしのまち)
昭和57年11月竣工(ダイエー花北店)
発注 花北モール開発
設計 RIA建築綜合研究所 (左写真がダイエー花北店、左下写真が花の北モールにしのまち)
エスカールビル
<大阪府>昭和58年9月竣工
発注 日本ドリーム観光
設計 大建設計
エスカールビル
<大阪府>昭和58年9月竣工
発注 日本ドリーム観光
設計 大建設計
大阪市中央卸売市場食肉市場本館 (大阪市ミートセンター本館)
<大阪府>昭和58年10月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
大阪市中央卸売市場食肉市場本館 (大阪市ミートセンター本館)
<大阪府>昭和58年10月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
レイクピアウスイ(臼井ショッピングセンター)
<千葉県>昭和59年2月竣工
発注 臼井ショッピングセンター協同組合、ジャスコ
設計 当社
レイクピアウスイ(臼井ショッピングセンター)
<千葉県>昭和59年2月竣工
発注 臼井ショッピングセンター協同組合、ジャスコ
設計 当社
松竹大船ショッピングセンター(JV)
<神奈川県>昭和56年5月竣工
発注 松竹
設計 I.N.A.新建築研究所
松竹大船ショッピングセンター(JV)
<神奈川県>昭和56年5月竣工
発注 松竹
設計 I.N.A.新建築研究所
仙台駅前開発ビル(ams西武仙台)(JV)
<宮城県>昭和57年1月竣工
発注 中央一丁目第一地区市街地再開発組合
設計 久米建築事務所
仙台駅前開発ビル(ams西武仙台)(JV)
<宮城県>昭和57年1月竣工
発注 中央一丁目第一地区市街地再開発組合
設計 久米建築事務所
アメ横センタービル第1期(JV)
<東京都>昭和57年11月竣工
発注 上野振興、上野ストアー協同組合
設計 構造計画研究所、荒木建築事務所
アメ横センタービル第1期(JV)
<東京都>昭和57年11月竣工
発注 上野振興、上野ストアー協同組合
設計 構造計画研究所、荒木建築事務所

東京水産ターミナル大井埠頭冷蔵倉庫4号棟

東京港はわが国の輸入水産物の約40%を陸揚げする水産物流通の拠点港である。この時期、港湾の整備は専門埠頭方式によって効率化、合理化が進められていたが、東京都では大井埠頭南端に水産物専門埠頭を計画し、これに呼応して東京水産ターミナルが設立され、大規模冷蔵倉庫を中心とする一大施設がここに建設されることとなった。

第1期工事として昭和49年(1974)~53年に内容量4万tの冷蔵倉庫3棟を建設し(当社は3号棟を施工)、第2期工事として当4号棟を55年2月当社単独で着手したのであった。幅53m×長さ184m×高さ30mの5階建の倉庫で、内容量は6万5,000tに達し、これは多層階冷蔵倉庫としては世界一の規模であった。

杭工事では、直径550~770㎜、長さ55~65mの鋼管杭を703セット、総重量約1万tを打ち込んだ。基礎部分のオープン掘削では予想以上に湧水量が多く、また記録的な降雨量で難航した。当工事の特徴である延5万㎡に及ぶ大規模RC造の躯体工事では、床積載荷重が大きく、約6mという階高の高い建物であるため在来のRC工法では型枠、鉄筋工事の作業性が悪く、安全性、精度、品質、工期の点で問題があった。そこでVH分離工法を基幹とするシステムを採用した(当社開発の同システム、OVH工法については前章406ページを参照)。

当冷蔵倉庫は、夏季では内外温度差は60~65℃に達するため建物外壁外側に断熱層をつくる外防熱方式がとられた。冷蔵倉庫の性能を左右する最大のポイントはこの防湿防熱工事であるため品質管理には一段と力を入れるとともに、使用材料がすべて可燃性、引火性の強い材料で、その使用量も多量であるため防火管理には最大の注意を払った。請負金は48億1,200万円(設備工事は別途)、所長は佐藤和男であった。

東京水産ターミナル大井埠頭冷蔵倉庫4号棟
<東京都>昭和56年7月竣工
発注 東京水産ターミナル
設計 梓設計
工事概要 冷蔵庫棟/RC造、5F、延5万㎡
事務所棟/S造、2F、延1,330㎡
(一番長い建物が4号棟)
東京水産ターミナル大井埠頭冷蔵倉庫4号棟
<東京都>昭和56年7月竣工
発注 東京水産ターミナル
設計 梓設計
工事概要 冷蔵庫棟/RC造、5F、延5万㎡
事務所棟/S造、2F、延1,330㎡
(一番長い建物が4号棟)

加工組立型産業の工場建設

製造業のうち自動車や家電などの加工組立型産業は、2度にわたる石油危機による不況から比較的早く立ち直り、昭和50年代前半から成長を続けた。コストインフレに対処するための合理化や技術革新を積極的に進めてきたことが実を結んだのである。これを背景として有力企業の新規工場建設、設備更新投資が相次いだ。

自動車産業ではトヨタ自動車工業が新しく衣浦工場と田原工場を建設し、当社もその建設に携わった。40年代に第1工場(請負金36億5,600万円、設備工事は別途)などを建設した下山工場ではこの時期拡充工事を行い、ここでは当社は第3工場(請負金45億9,290万円、設備工事は別途)の工事に携わった。

日産自動車では、40年代にも栃木工場、座間工場などで当社は多くの工場棟を建設したが、50年代に入り、同社の大規模工事として、相模原部品センター5・6号棟、九州工場圧造工場、横浜工場久里浜分工場機械工場・同工場第2期第1次・第2次増築、追浜三地区工機工場などの工事に携わった。

このほか50年代に施工した代表的な自動車工場としては、ダイハツ工業の滋賀(竜王)工場第3機械工場・第4機械工場、同第二用地プレス板金工場があり、同社ではこれらに先立ち40年代後半に京都工場プレス工場第2期工事を行っている。富士重工業では矢島工場第2塗装工場・第2艤装工場、また、いすゞ自動車では藤沢工場設備試作工場・同工場プレス工場およびパネルストア(増築)を施工した。さらに自動車関連工業として日本電装第二安城212工場、ブリヂストン・ベカルト・スチールコード佐賀工場新設および第2F棟の工事にもこのころ携わった。

50年代(一部60年、61年竣工)の代表的なその他の機械工業の工場建設としては、OA機器やカメラなどで発展するキヤノンの各工場があった。取手(茨城)、宇都宮、福島、上野(三重)、長浜、平塚(神奈川)、小杉(神奈川)、大分キヤノンの各工場やコンポーネント開発センター、さらに下丸子(神奈川)本社各棟などで当社は相次いで工事を行った。

同様にOA機器メーカーの富士ゼロックスでは竹松工場で多くの工場棟を施工、VTR、音響機器関係では松下電器産業ビデオ事業部北門真工場、日本マランツ本社工場(音響機器)、電気機械工場では三洋電機北条製造事業部鎮岩工場(扇風機)の工場建設があった。ほかに日立製作所中条工場製缶工場変圧器工場(49年10月竣工)、三菱重工業神戸造船所二見大型機器工場(JV)、三菱長崎機工深堀工場K棟他(JV)、サンクス本社工場(各種センサー)、さらに島津製作所ではN1号館、E27号館、E2号館、計測新工場(JV)ほかの工場建設を、エヌ・テー・エヌ東洋ベアリングでは岡山製作所・長野製作所・磐田製作所・宝塚工場の各棟もこのころ完成している。

機械以外の工場としてこのころ当社が施工した代表的なものは、日東紡績泊工場、日本パルプ工業日南工場8号抄紙機建家、高瀬染工場、小野田セメント藤原工場・津久見工場各棟、トーモク館林(ダンボール)、武田薬品工業光工場各棟、日本商事岡山製薬工場、カネボウ・エヌエスシー新工場および第2期(JV)(コーキング材)、麒麟麦酒滋賀工場2期・3期増設、アデランス工芸アデランス文化の森、ダイアホイル山東工場各棟(磁気テープ)、北東北くみあい飼料新工場、帝人宇都宮工場UP(ビデオテープ)、東北金属工業白石工場、サントリー梓の森プラント1期・2期各棟、春本鐡工所和歌山工場(JV)、宮地鐡工所千葉工場第1期などの各工場がある。(なお半導体産業については次章で述べる。)

ダイハツ工業滋賀(竜王)工場第4機械工場
<滋賀県>昭和55年2月竣工
発注 ダイハツ工業
設計 当社
ダイハツ工業滋賀(竜王)工場第4機械工場
<滋賀県>昭和55年2月竣工
発注 ダイハツ工業
設計 当社
大分キヤノン81A第1期(管理棟・A棟)
<大分県>昭和57年10月竣工
発注 キヤノン
設計 当社
大分キヤノン81A第1期(管理棟・A棟)
<大分県>昭和57年10月竣工
発注 キヤノン
設計 当社
島津製作所E27号館
<京都府>昭和56年5月竣工
発注 島津製作所
設計 当社
島津製作所E27号館
<京都府>昭和56年5月竣工
発注 島津製作所
設計 当社
エヌ・テー・エヌ東洋ベアリング長野製作所(第1期)
<長野県>昭和60年2月竣工
発注 エヌ・テー・エヌ東洋ベアリング
設計 日建設計
エヌ・テー・エヌ東洋ベアリング長野製作所(第1期)
<長野県>昭和60年2月竣工
発注 エヌ・テー・エヌ東洋ベアリング
設計 日建設計
東北金属工業白石工場
<宮城県>昭和60年4月竣工
発注 東北金属工業
設計 I.N.A.新建築研究所
東北金属工業白石工場
<宮城県>昭和60年4月竣工
発注 東北金属工業
設計 I.N.A.新建築研究所

トヨタ自動車工業衣浦工場機械工場・粗型材工場および田原工場第3組立塗装工場

衣浦工場は愛知県碧南市の衣浦臨海工業地帯の埋立地33万㎡に立地し、同社初の臨海工場でもあった。そのため潮風や地盤沈下等に対する対策を十分配慮したグレードの高い仕様となっている。

当社は粗型材工場と機械工場を建設し、その施工に際しては、建設資材等の陸路搬入が大幅に制限されたため、鋼管基礎杭(長さ26m)1,050本は海上輸送となり、これらを直打ち施工したが、こうした悪条件は逆に工期短縮、コスト低減にプラスの要因となった。昭和52年(1977)3月着工以来わずか1年、53年2月工事は完成、同年8月には新工場がオープンした。請負金は土木、建築工事合わせて53億8,451万円(設備工事は別途)、所長は石井 明であった。なお、61年には第4工場ほか(請負金55億9,369万円、出口光蔵所長)を増設した。

一方、組立工場として計画された田原工場は、愛知県東三河臨海工業地帯に同県企業局が造成中の敷地約300万㎡に立地している。同社としては、完成車の組立工場として初めて豊田市の本社工場を離れた工場であった。53年2月第1期工事(第1組立塗装工場・他社施工)に続き、第2期工事がスタート、当社はこのうち第3組立塗装工場を施工した。新工場は、45年に稼働した堤工場以来の乗用車一貫工場であって、これまで培ってきた生産技術の粋を集め、平家ながら延6万㎡余の大工場であった。また、当工事に伴う土木工事(土間、機械基礎ほか)も行い、56年1月工事は完了した。請負金は土木、建築工事ともで46億7,970万円、所長は田辺清司である。

また、これらに先立ち、52年11月~53年4月に14万8,000㎡の敷地の地盤改良工事(請負金5億8,000万円)、53年6月~54年1月の原動力ゾーン(2A)新設工事も行った。さらに、54年10月から56年6月の間、田原工場従業員のための独身寮も相次いで建設した。

田原工場ではその後60年代に入り、第2車体工場(請負金43億4,393万円)、第2車体工場プレスピットおよび土間工事(請負金38億9,095万円)など大規模な拡充工事を行っている。

トヨタ自動車工業衣浦工場機械工場・粗型材工場
<愛知県>昭和53年2月竣工
発注 トヨタ自動車工業
設計 トヨタ自動車工業
工事概要 機械工場/S造、平家、6万2,435㎡
粗型材工場/S造、平家、2万2,388㎡
トヨタ自動車工業衣浦工場機械工場・粗型材工場
<愛知県>昭和53年2月竣工
発注 トヨタ自動車工業
設計 トヨタ自動車工業
工事概要 機械工場/S造、平家、6万2,435㎡
粗型材工場/S造、平家、2万2,388㎡
トヨタ自動車工業田原工場第3組立塗装工場
<愛知県>昭和56年1月竣工
発注 トヨタ自動車工業
設計 トヨタ自動車工業
工事概要 S造、平家一部中2階、延6万3,541㎡
トヨタ自動車工業田原工場第3組立塗装工場
<愛知県>昭和56年1月竣工
発注 トヨタ自動車工業
設計 トヨタ自動車工業
工事概要 S造、平家一部中2階、延6万3,541㎡

日産自動車横浜工場久里浜分工場機械工場

同社は、乗用車の小型化戦略の一環として前輪駆動車用エンジンの主力工場とすべく、昭和56年(1981)4月、久里浜の敷地16万5,000㎡にエンジン工場の新設を行った。

当地はもと沼地で地盤が極度に悪く、地盤沈下が進行しており、さらに同工場は床の積載荷重が大きいうえ、省力化、無人化のため機械自体も大型化しており、軟弱地盤対策が強く求められた。そこですべての構造物は、1階土間および地下埋設配管等も含め、地下36mまでの支持杭で支えることとした。このためPC杭3本継ぎを約2,000本打設し、建築面積2万1,000㎡の建物を支持した。付帯設備建家を含め約3万3,000㎡の工場は着工以来8カ月で完成した。その後、第2期工事にも着手し、総請負金は71億2,660万円にのぼった。所長は神前文夫である。

日産自動車横浜工場久里浜分工場機械工場
<神奈川県>昭和56年11月竣工
発注 日産自動車
設計 当社
工事概要 機械工場/S造、2F、延3万182㎡
エンジンテスト工場/S造、平家、2,981㎡
日産自動車横浜工場久里浜分工場機械工場
<神奈川県>昭和56年11月竣工
発注 日産自動車
設計 当社
工事概要 機械工場/S造、2F、延3万182㎡
エンジンテスト工場/S造、平家、2,981㎡

大型化する海外工事

日本の建設業の海外受注実績は1973年(昭和48)以降着実に増加してきており、その上昇カーブは、1980年9月のイラン・イラク戦争の影響で一時ダウンしたが、その後再び上昇をみせ始めた。とくにアジアでの伸びは堅調で、1979年度には全体の6割をアジアでの受注が占めていた。そして1979年度でみると受注件数が減少したものの受注高は前年度を上回っており、これは工事の大型化が進んでいること、また日本の高度な建設技術がこうした大型工事の受注に大いに寄与したことをうかがわせるものであった。

この時期、タイでバンコック銀行本店ビルを、シンガポールで東部海岸埋立第6・第7期(JV)を施工しているが、前者は現在でもタイ大林の工事実績のなかで最大のものであり、後者は300億円を超える大型工事であった。ほかに現地法人SJCC社が施工したサウジアラビア・リヤド大学各種施設も140億円近い大規模な工事であった。また、インドネシアではアサハン・アルミニウム製錬工場焼成工場が1981年9月に完成した。

シンガポールではこのころチャンギー国際空港の工事が進んでおり、このコントロールタワー工事ではリフトアップ工法が、前述の東部海岸埋立工事では連続埋立土工システムが、またバンコック銀行本店ビルではタイ国初のOWS工法が、というように当社の誇る技術が海外工事でも大いに威力を発揮した。日本のゼネコンとして初めての米国における公共土木工事の受注となったサンフランシスコ市下水道工事(JV)でも、土圧バランス式シールド工法で軟弱地盤に挑んだのであった。

リヤド大学(SJCC)
<サウジアラビア・リヤド市>1980年8月竣工
発注 リヤド大学
設計 Hellmuth, Obata & Kassabaum(土木工事) COMTEC(伊)(建築工事)
(写真は構内道路・体育施設)
リヤド大学(SJCC)
<サウジアラビア・リヤド市>1980年8月竣工
発注 リヤド大学
設計 Hellmuth, Obata & Kassabaum(土木工事) COMTEC(伊)(建築工事)
(写真は構内道路・体育施設)
チャンギー国際空港(地盤改良工事のみJV)
<シンガポール>1980年3月竣工(地盤改良)、1980年11月竣工(駐機場舗装)、1981年1月竣工(コントロールタワー)、1981年8月竣工(貨物ターミナルビル)
発注 シンガポール政府公共事業省、シンガポール空港サービス(貨物ターミナルビルのみ)
設計 シンガポール政府公共事業省(地盤改良工事については当社・不動建設JVと共同設計、コントロールタワーについてはチャンギー空港開発省と共同設計)
チャンギー国際空港(地盤改良工事のみJV)
<シンガポール>1980年3月竣工(地盤改良)、1980年11月竣工(駐機場舗装)、1981年1月竣工(コントロールタワー)、1981年8月竣工(貨物ターミナルビル)
発注 シンガポール政府公共事業省、シンガポール空港サービス(貨物ターミナルビルのみ)
設計 シンガポール政府公共事業省(地盤改良工事については当社・不動建設JVと共同設計、コントロールタワーについてはチャンギー空港開発省と共同設計)
アサハン・アルミニウム製錬工場焼成工場
<インドネシア・北スマトラ州>1981年9月竣工
発注 P. T. Indonesia Asahan Aluminium
設計 P. T. Indonesia Asahan Aluminium、当社
アサハン・アルミニウム製錬工場焼成工場
<インドネシア・北スマトラ州>1981年9月竣工
発注 P. T. Indonesia Asahan Aluminium
設計 P. T. Indonesia Asahan Aluminium、当社

バンコック銀行本店ビル

バンコック銀行は東南アジアの民間銀行として最大規模のもので、拡大する業務に対応して、その本店をバンコック市の新しいビジネス街シーロム通りに建設することとなった。規模は地下1階、地上32階、軒高125m、延12万2,600㎡という巨大なRC造で、メコンデルタシルト層に建設されるタイ国最高、そして最大規模の高層建築物であり、最新式の近代施設を完備したバンコック市のランドマークとなる建物であった。

工事は1977年(昭和52)3月から39カ月の予定でスタートしたが、チャオプラヤ河の河口に位置するバンコック市の地盤は軟弱な厚い粘土の堆積で、どこまで掘っても泥といった難物であった。したがって、それまでの多くの建物の基礎は摩擦杭によって支持するものであり、また掘削の困難さから深く大きな地下階をもつ建物は造れなかった。当工事では総重量15万t余の高層ビルの支持杭としてウォール ファウンデーション工法を、山留めとして地中連続壁をOWS工法で実施することによってこれに挑んだ。当地初の工法ということで発注者、設計者の理解を得るまでに時間がかかったが、5年の工事を通じて、OWS工法がこの地の地盤に十分適合することを実証した。

工事着手1年後から2年間にわたる第2次石油危機による建設諸資材の値上がりは異常なもので、たとえば、労務費は2倍半、型枠用木材は3倍、セメントおよび骨材は2倍近い値上がりとなった。この工事のコンクリート量が9万3,000㎥、型枠面積が40万㎡余、鉄筋鉄骨量が1万2,000tという規模であったことから、この値上がりは、地盤に対する技術的問題とともに大いに現場を苦しめた。請負金は6億8,929バーツ(邦貨約68億9,289万円)、所長は中野 裕であった。

バンコック銀行本店ビル(タイ大林)
<タイ・バンコック市>1982年2月竣工
発注 バンコック銀行
設計 CASA(意匠設計)、Dr.Rachot Kanjanivanit and Consulting Engineers(構造設計)、Unorn and Associates(設備設計)
工事概要 RC造およびSRC造、B1、32F、延12万2,600㎡
(左下写真は営業室)
バンコック銀行本店ビル(タイ大林)
<タイ・バンコック市>1982年2月竣工
発注 バンコック銀行
設計 CASA(意匠設計)、Dr.Rachot Kanjanivanit and Consulting Engineers(構造設計)、Unorn and Associates(設備設計)
工事概要 RC造およびSRC造、B1、32F、延12万2,600㎡
(左下写真は営業室)

シンガポール東部海岸埋立(第3期)(第5期)(第6・第7期)(JV)

シンガポール東部海岸埋立工事は、1965年(昭和40)の第1期工事以来、第8期工事まで、第4期と第8期を除いてすべて当社が単独あるいはJVで施工している。こうした豊富な経験を生かし、1992年には新たに「チャンギー東埋立工事第1期A工区」を受注し、1992年現在、埋立面積490㏊、埋立土量6,000万㎥の過去最大の埋立工事を行っている。

1971年3月から1975年12月にかけて施工した第3期工事は、第1・第2期(1971年3月竣工、福田邦雄所長)が直営方式であったのと異なり、現地業者との下請契約による施工であった。埋立面積67㏊、埋立土量484万9,416㎥などで、埋立地は高速道路の用地とともにホテル、デパート等を中心とした商業地域として開発されつつある。第3期工事の請負金は2,208万9,535シンガポールドル(邦貨約25億円)、所長は片岡 勇から近藤慎一に引き継がれた。

一方、第5期工事は1974年3月から1977年12月に施工し、埋立面積154㏊、埋立土量1,600万㎥で当社と五洋建設のJVで施工し、当社の担当は捨石量34万5,700㎥の捨石護岸工事であった。「明けても暮れてもバージで積んで運んできた大小さまざまの石を海中に投入し整形する工事だったのですが、シンガポール自体には石が少なく、毎日“石よ石よ”と夢にまで出てくる始末」(所長談)という状況下で、マレーシア、インドネシアに石集めに奔走した。請負金は2,552万4,907シンガポールドル(邦貨約29億9,000万円)、所長は君嶋暁であった。

そして1978年、当時東南アジアで日本のゼネコンが受注した工事としては最大の埋立工事第6・第7期工事を当社とりんかい建設とのJV(当社が幹事会社)で受注し、第5期工事終了後間もない1979年1月、工事はスタートした。約1年かけて土取場の整地と全長6㎞に及ぶベルトコンベア設置を進め、その後約5年間、1日24時間、1年365日休むことなく約4,000万㎥の土を切り、運び、埋立面積430㏊の土地を造成した。

工法は当社が開発した連続埋立土工システムであり、当システムは、土砂の掘削から積出し、転圧に至るまで、そのすべての作業を機械化した一貫システムであった。採用した機械の代表的なものは、連続して掘削することが可能な大型バケットホイールエキスカベータ(BWE=SH630型)で、第6・第7期用にそれまでのうちの最大のもの(全長45m、重量325t)を2台西独より購入し、当地の土質に最適な連続埋立土工システムに設計し直し改良して使用した。こうした機械をいかにして運転を止めず、稼働率を上げ、生産性を向上させるか厳しい運転管理体制がとられ、コンピュータによる掘削データの情報管理システムや中央管理室における集中連絡管理、日本人オペレータによる熟練運転工の育成など少しでも出土量を増やす工夫が絶え間なく続けられ、6年という歳月をかけたこの超大型工事は1985年1月完成した。請負金は4億1,400万シンガポールドル(邦貨約330億8,413万円)にのぼり、所長は花嶋晴道であった。

なお、こうした機械化一貫システムは、その後、関西国際空港空港島へ埋立土砂を送り出した阪南丘陵土砂採取工事(JV)でも大いに生かされた。

シンガポール東部海岸埋立(第3期)(第5期)(第6・第7期)(JV)
<シンガポール>1975年12月竣工(第3期)、1977年12月竣工(第5期)、1985年1月竣工(第6・第7期)
発注 シンガポール政府住宅開発局
設計 シンガポール政府住宅開発局
工事概要 第3期/埋立面積67㏊、埋立土量484万9,416㎥ 第5期/埋立面積154㏊、埋立土量1,600万㎥、捨石護岸工事(捨石量34万5,700㎥)延長7㎞ 第6・第7期/埋立面積430㏊、埋立土量4,000万㎥
(左下段写真は第1~第3期埋立地に完成した街並み、左写真および左下写真は第6・第7期工事中)
シンガポール東部海岸埋立(第3期)(第5期)(第6・第7期)(JV)
<シンガポール>1975年12月竣工(第3期)、1977年12月竣工(第5期)、1985年1月竣工(第6・第7期)
発注 シンガポール政府住宅開発局
設計 シンガポール政府住宅開発局
工事概要 第3期/埋立面積67㏊、埋立土量484万9,416㎥ 第5期/埋立面積154㏊、埋立土量1,600万㎥、捨石護岸工事(捨石量34万5,700㎥)延長7㎞ 第6・第7期/埋立面積430㏊、埋立土量4,000万㎥
(左下段写真は第1~第3期埋立地に完成した街並み、左写真および左下写真は第6・第7期工事中)
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